【プロローグ】布が置かれた日
その紅型は、
「触れること」すら禁じられていた。
理由を知る者は、誰もいない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
——その布は、人間の運命を変える。
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沖縄の朝は、今日も静かだった。
潮の匂いが工房の縁側まで届き、
乾かしかけの布が、風にわずかに揺れる。
「……これで、いい」
美咲は、そう呟いて筆を置いた。
完成したばかりの紅型を、そっと畳む。
誰に見せるでもない。
売る予定もない。
ただ――そこに在ることが目的の布だった。
「師匠、今日の予定ですけど」
工房の若い弟子が声をかける。
美咲は微笑み、いつもの調子で答えた。
「いつも通りよ。
布は嘘をつかない。
人間が焦るだけ」
弟子は意味が分からないまま頷き、
また自分の作業に戻っていった。
美咲は一人になると、
工房の奥、鍵のかかった収納を一瞥する。
そこに、“見せてはいけない布”があることを、
彼女は誰にも語らなかった。
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その頃、遠く離れた東京では、
別の「布」が、
全く違う役割を与えられていた。
それは芸術でも、衣服でもない。
道具だった。
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1945年。
長いテーブルを挟み、
男たちが座っている。
彼らは歴史に名を残す人物であり、
世界の行方を決める立場にあった。
だが、その日の中心にあったのは――
彼らではない。
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誰も、その布を
「主役」とは呼ばなかった。
会話は淡々と進み、
書類に署名がされ、
男たちは席を立つ。
だが、布は残った。
折り畳まれることもなく、
片付けられることもなく、
ただ、そこに在り続けた。
――まるで、
人間の決断を待っているかのように。
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その日のことを、
美咲は知らない。
弟子たちも知らない。
まだ生まれていない者たちは、なおさらだ。
けれど。
後になって、
人々はこう語ることになる。
「あの日、主役は人間ではなかった」
「最初から、布のほうが上座にいた」
それが何を意味するのか。
なぜ、ただの紅型が恐れられるのか。
――この時点では、
誰も知らない。
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これは、
売られなかった命の物語だ。
(第一話・了)




