第48羽
カチャリという小さな音が寝室に響く。
普段はその程度の些細な音で目が覚めるほど、俺の神経は繊細じゃあない。
だがこの日ばかりはちょっと違ったようだ。同じ屋根の下、たった二枚のドアを挟んだ向こうに女の子がふたり眠っているという状況が、俺の眠りを普段よりも浅くしたらしい。
あたりはまだ暗いままである。窓の外に見えるのは月明かりと街灯にぼんやり浮かび上がる街並みだ。東の空が白みはじめてもいないことから、おそらく深夜なのだろう。
音がしたのは部屋の入口。ドアが開いた音だ。
窓から差し込む月明かりがかろうじてその様子を照らしていた。
息を潜めてその様子をうかがっていた俺の目に、部屋へと忍び入る人物の姿が映る。
上下に分かれたツーピースのパジャマ。すらりとしたシルエットの中で妙に強調される胸のふくらみ。ショートカットの髪型は色を判別することが出来ないが、おそらく桃色に違いない。
客間で寝ているはずのパルノだった。
パルノは倒れかかるようにドアに体を預けて閉め終えると、おぼつかない足取りでフラフラとこちらに向かって歩いてきた。
「ん? ……パルノか?」
声をかけても反応がない。寝ぼけているのだろうか?
俺が見守る中、ほとんど目を閉じた状態のパルノはベッドの側までやってくると、何の躊躇もなく布団の端を持ちあげる。
「お、おい……」
そのまま俺の寝ている左側に身を滑り込ませると、布団をかぶって眠り始めた。
「寝ぼけてんのか……」
布団に潜り込んだパルノの顔をのぞいて声をかけてみるが、反応がない。まぶたを閉じたままスヤスヤと寝息を立てていた。
目の前三十センチの距離にあるパルノの顔は、あどけなさこそ残ってはいるものの、長いまつげや綺麗な鼻筋が非常に印象的である。きっと黙ってさえいれば一部の男からは非常に好評を博すであろう顔立ちだった。
細い髪質のショートカットからは女の子特有の甘い香りが漂ってくる。
ああ、いかんいかん。少女の髪を嗅ぐとか、これでは変態のおっさんではないか。
「おい、パルノ……、ここは客間じゃないぞ。はやく戻れよ」
眠っているルイを起こさないように小声でパルノに話しかける。
「う、う……んん」
寝言っぽい生返事をするパルノは、そのまま手近にあった俺の左腕を抱き枕のようにギュッと抱きしめた。
「のっ! おい!」
平均よりもやや大きめのふくらみが俺の左腕に押しつけられる。
ちょ、これは……! なんと……! 嬉しいような……! まずいような……!
あわせてパルノの顔がさっきよりも近くなる。目測約二十センチといったところだ。
何という嬉しいシチュエーション!
だがしかし、これはまずいぞ。
何がまずいって、この状態でパルノが目を覚ましでもしてみろ。あたりに悲鳴が響きわたったあと、俺の頬にモミジの形をした赤い模様が残される未来しか見えない。
例えそうならなくても、一緒に寝てるはずのティアに気付かれでもしたら……。
ああ……、その場合は赤モミジだけで済む気がしない。もっと恐ろしいことになりそうだ。それだけは避けたい。
どうしたものだろう。
眠ってるパルノを抱えて客間へ……、って眠ってるティアのところへ忍び込むようなもんだな、それは。却下だ。
ここでパルノを起こして……、いや、悲鳴でも上げられたら途端に俺がピンチに追い込まれる。却下。
よし、あれだ。マンガとかラノベでもよくあるじゃん。このままパルノをベッドに寝かせておいて、俺はリビングのソファーで眠れば良いんだ。
よし、これが一番アンパイだろう。マンガやアニメのテンプレも、それなりに理由があってテンプレになってるって事だな。
自分が見てる時は「なんで逃げるんだよ! そんなおいしいシチュエーション、俺だったらもっと堪能するのに!」とか主人公の弱腰っぷりに文句を言っていたけど、実際自分がその立場になるとそんな余裕ふっとぶな。ホント。
主人公達の選択は決して間違っていない。今の俺ならそう断言できる。
偉大なる先人達の知恵と選択に敬意を込めて! 俺は先達の足跡へ自分の歩みを重ねていくのだ! 決してティアのお説教が怖いとか、世間の評判が気になるとかではない!
そう結論付けた俺は、とりあえずパルノに捕まったままの左腕を解放してもらおうと、腕をゆっくりと抜きにかかった。
ところが俺の動きに呼応するかのごとく、途端にパルノが抱えていた腕をさらにきつく抱きしめる。
慌てて俺も力を入れて腕を抜こうとするが、そうするとさらにパルノの抱きつく力が強くなる始末だ。
もぞもぞと腕を動かしながら抜こうとする俺と、それを無意識のうちに捕まえて放さないパルノ。
そんな気は毛頭ないのだが、結果として俺の腕とパルノの胸がくんずほぐれつのアメージングバトルを繰り広げることになった。
うわあ、……柔らけえ。
左腕に押しつけられる感触に、俺は一瞬我を忘れかける。
って、おい。そうじゃねえだろ!
このままじゃ、俺の明日はお世辞にも愉快な未来とは言えなくなる。というかソファーに正座する未来しか見えない。
「パルノ、手を放せ。おい、パルノ」
「……ん。……ないで。……パパ、行かないで……」
ガッチリと俺の腕をつかんで放さないパルノが、うわごとのようにつぶやく。
どうやら寝言のようだ。閉じられたまぶたの端にはうっすらと涙が浮かんでいた。
パパ……?
パルノ自身の口からは「両親は元気」と聞いていたが……、もしかするとなんか事情があるのかもしれないな……。
困ったな。『涙目でしがみついてくる少女を振り払って逃げる』と言葉にすればずいぶんひどい話だ。しかしこの状態で朝を迎えれば、むしろ俺の明日がひどいことになってしまうのは明白である。
いや、だがしかし……。
うーむ……。
右手だけで頭を抱える俺の思考を中断させたのは、またもや部屋の入口から聞こえるドアの音だった。
だが今度はカチャリなどという控えめな音ではない。文字にすると『バンッ!』である。もしくは『ドンッ!』であろう。
盛大な音を立てて開け放たれたドアの向こうには人影。上半身がポンチョのようなぶかぶかパジャマを着た人物が立っていた。長い髪はゆるくひとまとめにされ、普段とは異なる姿格好だが、少なくともこの家の中に長髪の人物はひとりしかいない。
ティアである。
全身を悪寒が走り、身の毛がよだつのを自覚した。
――俺の言い分、聞いてくれるかなあ。
――寝起きに正座はつらいなあ。
とか後ろ向きな思考となる俺に向けて、ティアが猛然と駆け寄ってくる。
「ちょ! ティア、これはその! 俺は違うんだ……!」
自由に動く右腕で、手のひらを広げてティアへ向ける。だがそんな『止まれ』のゼスチャーもむなしく、ずんずんとティアはこちらへ向かってきた。
あは。これ、『聞く耳持たず』のパターンだよね。
抵抗をあきらめた俺が、ため息と共に力なく手を下ろす。
ティアが近寄ってくる。
ずんずんと近寄ってくる。
まだ近寄ってくる。
どこまで近寄ってくるんだ? おい。
予想に反して、ティアは無言のまま至近距離までやってきた。
そのまま、俺を挟んでパルノと反対側へ回り込むと、止める間もなくベッドの中へ潜り込んでくる。
「え!? ちょ! おい、ティア!?」
想定外の事態にうろたえる俺の呼びかけにも、ティアは全く反応しない。
「どうした? って、ええ!?」
ベッドに潜り込んだティアは、そのまま俺の右腕ごと体にしがみついてきた。
軽く紐でひとまとめにされた銀髪から、朝露を身にまとった木々のような香りがしてくる。
「え? 何? どゆこと?」
「女の人が……! 声が……!」
抱きつく腕に少し力がこもった。
「女? 声?」
あ……。
もしかして例の幽霊ってヤツか?
そういえば夕方からバタバタしていて、ティアに幽霊の話はしてなかったな。魔力がほとんど無いパルノはともかくとして、人一倍の魔力と魔眼を持ったティアに幽霊が見えないわけがない。
すまん、ティア。俺のうっかりミスだわ。
俺の体にギュッとしがみつくティアの体は、心なしか震えているようだった。
しかし意外だな。
誰にでも苦手なものがあるとはいえ、幽霊が苦手な女の子って、あまりにもありきたりな気がする。王道と言えば王道だけどさ。なんかティアの場合、幽霊相手にも正座させて説教しそうなイメージがあった。
「なあティア。ここ、俺の寝室なんだけど?」
「今は私の寝室です。ここが私の寝床です!」
「しゃあねえなあ……。じゃあ、俺リビングのソファーで寝るから、とりあえず離れてくれるか?」
「ダメです! 声がするから寝室は先生です! 私はここだから先生が布団なら私が毛布です!」
言ってることが支離滅裂でさっぱり意味分からん。
「声って……、何も聞こえないぞ? 何年も住んでる俺が何ともないんだから、別に害はないんじゃないか?」
「だって声聞こえます!」
「だからってこの状態はまずいだろう。もしパルノの眼に映って、そこから変な噂とか立てられたら困るのはお前だぞ? 今だったらパルノも寝てるし、今のうちに俺はどこか行った方が良いって」
「ヤダヤダヤダヤダ! 行っちゃヤダー!」
普段の丁寧な言葉遣いから一転して、駄々をこねる子供のような物言いで首を横にふるティア。
ついでに抱きつく腕に力がこもって、俺の体が締め付けられる。
絶対に逃がすまいとする意思表示なのだろうか? 両足で俺の右足を挟み、全身で俺を拘束していた。
あれ? おかしいな? 左の足もなんか拘束されてる?
えーと、相変わらず左腕はパルノが抱きしめている、と。
体の右半分はティアが抱きついている、と。
じゃあ左足は……?
不思議に思い左足へ力を入れてふりほどこうとすると、足もとから犯人の声が聞こえてきた。
「ンー……」
お前かよ!
なんということでしょう。左腕には熟睡中の奴隷少女が抱きつき、右腕右足は身を震わせるアシスタントの少女がしがみつき、左足には性別不明のゴブリンがくっついております。
首から下が動かねえ!
ある意味金縛りじゃねえか、これ!
魔力も霊感もないのに心霊現象体験しちゃうとか貴重な例だよね!
ふと「本当の満員電車とは首から下が動かない状態のことを言うんだ!」と拳を振り上げて力説していた前世の兄を思いおこす。
ごめんよ兄さん。あの時は興味がなくてスルーしちゃってたけど、今になって兄さんの言ってた意味が少しだけ理解できたよ。
これが満員電車なんだね? ……電車じゃないけど。
シングルベッドに三人と一体。ある意味満員だもんね。
でも満員電車もこんなだったら全然苦じゃないよね。
左右から女の子に抱きしめられるとか。ちょっとしたハーレム状態だよね、これ。
……朝を迎えるのは正直怖いけどさ。
左を向けば二十センチ先に、甘い香りを放つショートカットの奴隷少女が俺の腕に胸を押しつけてしがみついている。
自分の胸元へ視線を転じれば、そこには震えながら俺の体を抱きしめて離さない銀髪少女がいた。
パルノとは違い、見た目にかさばりそうなデザインのパジャマだ。しかしいくらかさばりそうとは言ってもパジャマはしょせんパジャマである。当然その生地は薄い。
見た目よりもずっと豊かな双丘が、俺の右腕に押しつけられてその形をゆがめていた。
それはつまり右腕に加わる圧力が高いことと同義であり、その柔らかさに比例して呼び起こされた俺の煩悩は既にパッパラパーである。
しかも両足でがっちりと俺の右足を挟み込んで放さない。「お前はダッコちゃん人形か!?」という、昭和生まれにしか通用しない突っ込みは横に置いとくとして、その密着度合いは男の欲望を形に変えたツイスターゲーム終盤間際のカオス状態に勝るとも劣らなかった。
師匠、僕はもう鼻血が出そうです!
そんな理性と煩悩が泥沼の消耗戦でしのぎあう戦場へ、今度は思わぬところから新手の戦力が分け入ってきた。
窓から差し込む月明かりが何かにさえぎられ、俺の顔に影がさす。
俺はとっさに窓へと視線を向けた。なんせ首から下は動かないんでな。
「へ…………? 忍……者?」
もう何が何だかわけがわからない。
窓の外、ガラスを隔てたその場所には、黒装束に身を包んだ人影が見えた。
顔は黒い布を巻き付けたような覆面に被われ、その隙間から鋭い眼光を放つ両目がこちらへ向けられている。
静寂の中、俺と黒装束の視線が交わった。
目が合ったのはほんのわずかな時間。黒装束は次に布団の中で震えるティアへと目を向けると、次いで俺の左に眠るパルノへと視線を移す。
回り回って再び俺の顔に視線を向けると、若干あきれたような色をその目に浮かべる。まるで『こっちは徹夜でお勤めしてんのに、良いご身分だな』という声が聞こえてきそうな目であった。
普通に考えれば窓の外に黒ずくめの人影を見つけたなら、泥棒か不審者だと騒ぎ立てるところだろう。今日に限ってはティアがいるから暗殺者という可能性すらある。
だが黒装束の目からはそういった害意は感じられなかった。どちらかというと『めんどくせえなあ』というぼやきが聞こえてきそうなくらいだ。
おそらくこれがティアの護衛なんだろう。ティアが客間を離れて俺のところにやってきたので、様子を見に来たのかもしれない。
……でも護衛がそんな簡単に姿を見せても良いんだろうか? 特に俺なんて部外者だろうに。
そんなことを考えていると、黒装束の目がティア――布団に潜り込んでるので、ティアが居る場所のふくらみ――と俺の顔を何度も往復したあげく、目を細めて俺を睨む。
『手出してないだろうな?』
容赦のない視線から、そんな問いかけをされている気がした。
加えて黒装束は懐から刃渡り十五センチほどの短剣を抜くと、それを持って首元を掻ききる仕種を見せる。
『手出したらどうなるか、わかってんだろうな?』
と言わんばかりの視線だ。
ひい!
だ、だだだ大丈夫です! もちろん手は出してませんよ! 出しませんとも!
俺はこれまでの人生において、見せたことがないほど高速で首を左右に振る。
それを見て満足したのか、黒装束は短剣を懐に収めると目だけで笑った。『それでいい』とでも言いたそうだ。
その視線に俺がいやーな汗をかいていると、今度は突然黒装束のまとう雰囲気ががらりと変わった。見れば、黒装束は部屋のドアへと鋭い眼光を飛ばしている。
なんだ? 何かあるのか?
首だけを回してドアの方を見るが、俺の目には何も映らない。
再び首を回して窓側に向けてみると、黒装束の口元あたりが何やらモゴモゴと動いている。窓を挟んでいるので声は聞こえないが、おそらく魔法を唱えているのだろう。
やがて黒装束の指に淡い光が集まると、その光は指を離れてふわりと浮かび、窓ガラスを通り抜けて部屋の中へと入ってきた。光はゆらゆらと浮きながら、ゆっくりと部屋のドアへと向かっていったかと思うと、突然音も立てずにはじけ飛ぶ。元から淡い光がさらに薄く引き延ばされ、部屋中へと染み渡っていく。
それを見た黒装束は満足そうにうなずくと、もう一度俺に睨みをきかせてそのまま姿を消していった。
えーと、何が起こったの?
もしかしてあの時入口に例の幽霊がいたとか?
そんで黒装束の魔法で幽霊をどうにかしたとか?
あのー? 誰か?
説明してもらえませんかね?
そしてこの状態を何とかしてもらえませんかね?
俺は腕を抱え込んだまま熟睡する奴隷少女と、相変わらず俺の体を抱きしめたままの銀髪少女へ順番に目をやる。
しがみついたままのティアからは、もう怯えは感じられない。体の震えも止まったようだ。やはりあの黒装束が幽霊を追い払ってくれたのではなかろうか。
「なあ、ティア……? 起きてるか?」
「……」
返事はない。
「もう女の声も聞こえないんじゃないか?」
「……」
「客間に戻る気はないか?」
「……」
「しゃあねえなあ。じゃあ俺はリビングに移動するからな」
「……やです」
やっぱり起きてんじゃねえか!
「えーと、つまりこの状態を保持しろと……?」
こくりと頷く動きが、体に伝わってきた。
俺は頭を抱えたくなった。抱えたくても両腕が拘束されているので実際には思っただけだが。
「あーもう、勝手にしろよ。その代わり朝になってから文句言うなよ。説教も無しだぞ」
ティアからの返事はなかった。返事の代わりだろうか、しがみついている手にギュッと力が込められる。了解ということなのだろう。
「んじゃ、おやすみな」
その言葉を聞いて、ティアの腕から少しだけ力が抜ける。ただ、解放してはくれないようだ。
はあ……。こんな状態でちゃんと眠れるんだろうか……?
その後、サンドイッチハーレム状態の俺は煩悩を排除するのに全力を尽くすはめになる。
煩悩ついでに眠気まで一緒に退散してしまうため、結局うつらうつらとしはじめたのは東の空が白みはじめてからのことだった。




