第31羽
「おはようございます。先生」
学都での初日。俺の朝は透き通る春風にも似た声で始まった。
「起きてください、先生。朝ですよ。とてもすがすがしい朝です」
「ん……、んん? 今……何時?」
「もう七時です。外は明るいですよ」
「七時ぃ? もう、ちょい……、寝かせて……」
「ダメです。せっかく学都までやってきたんですから、朝寝坊なんてもったいないですよ」
そうは言っても、昨日の疲れが俺をベッドに縛り付けるんだよ。
今はこの楽園を手放したくない。
俺は布団に潜り込んで籠城を試みる。
「あと五分……。いや、十分だけ……」
「ダメと言ったはずです」
相変わらず融通の利かない性格だな、このアシスタントは。
普段は俺が起きる頃にやってくるから、朝起こされるのは初めてだけどさ。
俺の安眠を守るために、やはり今後も出勤時間は九時を堅守するとしよう。
……あれ? そういえばなんでティアの声が聞こえるんだ?
少しずつ意識がハッキリし始めた俺は、自分のおかれた状況とその経緯を思い起こす。
確か昨日の深夜に学都に着いたよな。
で、そのままティアが手配した宿に直行して、部屋に入るとシャワーを浴びて……。
そのまま髪も乾かさずにベッドに潜り込んだ……はず。
部屋のドアはオートロック形式だった。
内側から開くならともかく、外側から入るには鍵が必要……。
どうして鍵を持っていないティアの声が部屋の中で聞こえる?
布団からのっそりと顔を出してみると、いつも通りのエプロンドレスに身を包んだ少女が俺の顔をのぞき込んでいた。
「ど、どっから入ってきた!?」
「入り口からですが?」
「オートロックは!?」
「あの程度の鍵、私の手にかかれば無いも同然――」
「怖いこと言うなよ! いつの間にそんなよい子が使っちゃダメなスキル身につけた!?」
「というのは冗談で、ルイが内側から開けてくれました」
すまし顔で種明かしをするティア。
当のルイはベッドの端に腰掛けて俺たちのやりとりを眺めていた。
「お前かよ……」
「ンー」
なんだろう。朝からドッと疲れが肩にのしかかってくる。
「さあさあ、先生。せっかくの学都観光です。時間がもったいないですから早く着替えてください。何でしたら着替えのお手伝いもさせていただきますよ? 先生は立っていてくだされば――」
「いい! いいから! わかったって! すぐ起きるからとりあえず自分の部屋で待っててくれ!」
「では廊下で待機しておりますので、お急ぎください」
そう言って素直に部屋から出て行く際、さりげなくルイにも声をかける。
「先生が二度寝したらすぐに私を呼ぶのよ?」
「ンンー」
モニタリングも万全ですか、そうですか……。
すっかり目が覚めてしまった俺は、ルイによる監視の下で身支度を調える。
しかも一分間隔でドアの外から聞こてくる「まだですか、先生? お手伝いが必要なら――」という声にせかされながらだ。
まったく、ここはどこかの留置場か?
着替えを終えた俺とティア、そしてルイは宿の食堂で朝食をすませると、早々に朝の賑わいを見せる街中へとくり出した。
いや、むしろティアに連れ出されたと表現した方が正確かもしれない。
なんだかんだと言って、既に表通りの店舗は営業を開始している時間だった。
夜の姿とは違い、健全な賑わいが見て取れる。
学都というだけあって、学者的風貌の人間や学生らしき制服姿の少年少女が多い。
俺は気が進まないのだが、物珍しさにあちこちと視線をさまよわせているルイはもちろんのこと、心なしかティアも楽しそうだ。
「先生。ルイが迷子にならないよう手をつないであげてください」
ふらふらと今にもはぐれそうなルイを見て、ティアが言った。
「ああ、そうだな。ほれ、ルイ。俺の手を握ってろよ」
ミニチュアのように小さな手を軽く握る。
「ンー」としか鳴かないルイは、自分の身元を証明することもできない。
はぐれると探すのが厄介だからな。
「……で、なんでお前まで握るんだ?」
俺がルイの手を握った後、さほど間を置かずにもう一方の手が握られる。
犯人はさっきから俺のとなりを歩いている銀髪少女だ。
「迷子にならないように握っておきましょう」
「は? お前、迷子って歳でもないだろうに……」
「先生が迷子にならないように握っておきましょう」
「俺がかよ!」
まさかそこまで頼りなく思われていたとは……、って、いやいや。いくらなんでもそりゃないわ。
どうせルイにかこつけて遊んでるんだろう。
「馬鹿なこと言ってないで、つなぐならお前がルイの手をつないでおけよ」
自分の右手と左手をたぐり寄せると、ティアの手とルイの手をつながせる。
これで心配性のティアも安心、迷子になりそうで危なっかしいルイも安全、と。
だからティア。なんでそんなに不機嫌そうなんだ。
頬をふくらませるのはやめれ。
お前は気がついてないのかもしれんが、さっきから周囲の視線が俺に突き刺さってるんだよ。特に若い男連中からの視線がな。
この少女、身びいきを差し引いたとしても結構な器量だ。
人通りの多い通りを歩けばどうしてもまわりの注目を集めてしまう。
地元の町なら顔見知りも多いし物珍しさもないだろうから、まあそこまでひどくはない。
だが初めて訪れた町――しかも学都のような大きな町――で衆目にさらされればこうなるのも当然だろう。
女達は問題ない。
せいぜい羨望のまなざし程度だし、俺にも害はおよばないから。
が、男は別だ。
男の視線はまずティアの全身をひと眺めした後、顔に釘付けとなる。
そこでフリーズしてくれればまだマシなのだが、半分以上は並んで歩いている俺へと視線が移ってくるのだ。
しかも忌々しそうな敵意を過剰積載させて。
その上、手まで握ってみろ。
実力行使にうったえるやつが出てこないとも限らない。
俺は勝てないケンカはしない主義だ。
まあ俺が勝てる相手がそうそういるとも思えないから、要するに一切ケンカはしないってことと同義なんだがな!
そんなわけで、ティア。俺は自分の身が可愛い。
だからおとなしくルイと手をつないどけ。
ルイが相手ならまわりの男どもも敵意の飽和攻撃をぶち込んでくることはないだろう。
もっとも、となりを歩いているだけでも流れ弾はバスバスと俺に突き刺さってるんだけどね。
「それで、先生」
「なんだ?」
「先生は甘い物お好きですか?」
「別に嫌いじゃないけど。特別好きってわけでもないぞ」
「私は人並みにたしなむ程度です。女の子ですから」
「ンー」
いや、聞いてないから。
「実は先月読んだ雑誌でスイーツ特集をしてまして、その中で紹介されていたお店がこの近くにあるそうです」
へー、そうなんだ。
「なんでも若い女性を中心に大人気のお店らしいですよ。多少なりとも流行のお店というのには私も興味があります。女の子ですから」
「おう、じゃあ俺のことは気にしないで良いから行っておいで」
「ンー」
「聞くところによると、そのお店では二人以上でないと注文できない限定メニューがあるそうです。限定メニューというのはとても惹かれる響きですね。女の子ですから」
「じゃあちょうど良い。ルイと一緒に行ってこいよ」
「ンー」
「さすがにルイを人数に含めてくれるとは思えませんが……。見た目人間に近いとはいえ、ほとんど幼児ですし……」
「つまりあれか? 俺に同行して欲しいということ?」
俺がそう返すと、とたんにティアは顔を赤くしてうろたえた。
いつも落ち着きを失わない彼女にしては珍しい。
「え、いや……、その……。女性の方から誘うなんて……。それはちょっと……、なんというか、女の子ですから……」
涼しげな薄水色の目はその動揺を隠しきれず、左右に泳ぎまくっている。
ほほう。これはなかなかレアな光景だな。
「だから、えーと……。この機会を逃すと次はいつになるかわからないし……。今この町で一緒に行く人は他にいないし……。あ、そうだ! ボーナスください! ボーナス!」
「ボーナス?」
「ンー?」
「そうです! ボーナスです! 勤続三周年のボーナスです! 限定メニューがボーナスです!」
そうかあ。そういえばティアがアシスタント始めてからもう三年か……。
この世界では同じ勤め先で三年働くとボーナスがもらえるという習慣がある。
どっかの日本人――っぽい名前のやつ――が経営してた会社が最初に始めた制度らしい。
『石の上にも三年』ということわざが元にでもなってんのかね?
「ふむ……、ボーナスか……」
確かにティアは給料を渡そうとしても受け取らないし、むしろこういう形で報いてやった方が良いのかもしれない。
そのうち給料の代わりにアクセサリーでもプレゼントしてやろうか……。
まあとりあえず今は限定メニューだな。
正直ティアの働きに対して釣り合っているとは思えないが、本人が喜ぶのならそれが一番だろう。
「そうだな、そんなんでいいなら俺はかまわ――」
「ホントですか!」
常日頃見ることのない食いつきっぷりに一瞬たじろぐ俺。
目の前の銀髪アシスタントはさっきまでの狼狽から一転、クリスマスプレゼントをもらった子供のように素直な笑顔を浮かべている。
ひさしぶりにティアが見せる歳相応の笑顔だった。
いつも見ている控えめで気品のある笑顔がロベリアの花だとすれば、今目の前で見せているのは正に太陽に向かってまっすぐ咲き誇る大輪のひまわりだ。
うん。この笑顔が見られるなら、限定メニューにつきあってやるくらい別に大した問題じゃない。
と思ったんだが……。
「なんだよこの行列は……」
ティアの案内でたどり着いたその店には、テレビ番組で特集を組まれた人気ラーメン店もかくやという長い長い行列ができていた。
その混雑もいつものことなのか、行列を整理するためのロープまで張ってある始末だ。
店員らしき女性が手書きのプラカードを持っている。それには『現在三時間待ち』と書いてあった。
「待てるかー!」
「ちょっと先生! なに帰ろうとしてるんですか!?」
「すまんな、ティア。限定メニューはあきらめてくれ。三時間は無理だ。行列に並んで三時間とか正気の沙汰じゃねえ」
「大丈夫ですよ! 三時間くらい、ちょっとおしゃべりしてればすぐですよ! 女の子ですから!」
「俺は生まれてこの方ずっと男の子なのー!」
きびすを返して帰ろうとする俺の腕をがっちりとつかみティアが抵抗する。
「先生! ボーナス! ボーナスです! ボーナスですからあー!」
むう。それを言われるとなあ……。
普段、ほとんど我を通すことがないティアの要望。ビタ一文、給料を受け取らないティア達ての願いである。
俺の脳内で三時間待ちという苦行とティアへの感謝が天秤にかけられた。
わずか一フレームで感謝の方に軍配が上がり、三時間待ちの苦行はあさっての方向へ投石機でぶん投げられた岩のように飛んでいく。
「そんなに限定メニュー食べたいのか……?」
「はい! 雨が降ろうと、槍が降ろうと、例えこの身が尽き果てようとも決して譲れぬ、引けぬ時があるのです! 女の子ですから!」
ずいぶん男らしい決意表明に聞こえるんだが。
「わかったよ、今日はお前につきあってやるよ」
まあ、このひまわりを眺めながらボケーっとしてるのもたまには良いか。




