8.ルーカスの怒り
王都の一角にある、小さな商館の応接室
ルーカス・アルヴェインは、窓際に置かれた椅子に腰掛けていた。目の前のテーブルには、まだ手をつけていない紅茶が置かれている。
今日、ここで会うことになっているのは、かつてローディス子爵家に仕えていたという女性だった。
現在は別の商家に勤めており、使用人の紹介を請け負っている知人を通じて、ようやく連絡が取れた人物だ。
面会に応じるという返事はもらっている。
ただし、彼女は話の内容が外部に漏れることを、ひどく恐れているらしかった。そのため、場所はルーカスが用意した。商館の主人は以前から付き合いのある人物で、事情を詳しく聞くこともなく、静かな部屋を貸してくれた。
しばらくすると、扉が控えめに叩かれた。
「ルーカス様、お客様がお見えになりました」
「ありがとう。お通ししてくれ」
扉が開くと、一人の女性が入ってきた。
年齢は四十代半ばほどだろうか。地味だが清潔な服装で、髪はきちんとまとめられている。
女性はルーカスの姿を確認すると、深々と頭を下げた。
「初めまして。マルタと申します」
「ルーカス・アルヴェインです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「い、いえ……とんでもございません」
マルタは恐縮した様子で、もう一度頭を下げた。
「どうぞ、お掛けください」
「あ…ありがとうございます」
勧められて椅子に腰を下ろしたものの、彼女は膝の上で両手を固く握りしめていた。
ルーカスは、その様子を見てから口を開いた。
「まず、今日のお話についてですが、無理やり何かを聞き出すつもりはありません」
「……はい」
「お話しになりたくないことは、話さなくて結構です。途中でお帰りになっても構いません」
マルタは少し驚いたように顔を上げた。
「それから、ここでお聞きしたことを、あなたの許可なくローディス家へ伝えることはありません」
「……ありがとうございます」
マルタは小さく頭を下げた。しかし、その表情はまだ硬いままだった。ルーカスは急かさず、彼女が落ち着くのを待っていた。やがてマルタが、おそるおそる口を開いた。
「……ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「今回のお話は、オリヴィアお嬢様のことでございましょうか」
ルーカスは少し驚いた。
「……どうして、そう思われたのですか?」
「アルヴェイン家のエリシアお嬢様は、オリヴィアお嬢様とは幼い頃から大変仲良くしていただいておりましたので」
マルタは懐かしそうに目を細めた。
「エリシアお嬢様とお会いした日は、オリヴィアお嬢様も本当に楽しそうで……」
そこで、ふと表情を曇らせた。
「……ですから、もしかしたらと思ったのでございます」
ルーカスは静かに頷いた。
「ええ。オリヴィア嬢のことで、お話を伺いたいと思っています」
「……お嬢様は、今もエリシアお嬢様と仲良くしていらっしゃいますか?」
「もちろんです。今も学園で一緒に過ごしていますよ」
「……そうでございますか」
マルタはほっとしたように微笑んだ。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「……正直に申し上げますと、今日ここへ参ることを少しだけ迷ってしまいました」
マルタは膝の上で両手を握りしめた。
「今でも、あのお屋敷の方々が恐ろしいのでございます。私一人のことならともかく、家族にまで何かあったらと思うと……」
「……それでも、お越しくださったのですね」
「はい」
マルタは小さく頷いた。
「アルヴェイン伯爵家からのお話だったからでございます」
ルーカスは黙って続きを待った。
「エリシアお嬢様とオリヴィアお嬢様が、幼い頃から仲良くしていらっしゃることは存じております。エリシアお嬢様がお帰りになったあとも、オリヴィアお嬢様はいつも楽しそうに、その日の出来事をお話ししてくださいました」
マルタは懐かしそうに微笑んだ。
「それに、アルヴェイン伯爵家の皆様のお人柄についても、よいお話を伺っております」
そこで、彼女は一度言葉を切った。
「……ですから、もしかしたらと思ったのです」
「もしかしたら?」
「今度こそ、オリヴィアお嬢様をお守りできるかもしれない、と」
マルタは俯いた。
「……私は、あのお屋敷で十年ほど働いておりました」
しばらくして、彼女はぽつりと話し始めた。
「オリヴィアお嬢様が、まだ小さな頃からでございます」
「そうでしたか」
「お嬢様は、本当にお優しい方でした。私ども使用人にも、いつも丁寧に接してくださって……」
マルタは懐かしむように微笑んだ。
「まだ幼い頃、私が風邪をひいて寝込んだことがございました。そのとき、お嬢様がわざわざお花を持ってきてくださったのです」
「……オリヴィア嬢らしいですね」
「はい」
笑顔でマルタは頷いた。
だがその笑顔はすぐに曇った。
「……ですが、お嬢様は、いつも旦那様や奥様の顔色を気にしていらっしゃいました」
ルーカスは黙って耳を傾けた。
「少しでもお気に召さないことがあると、ひどくお叱りになるのです。お嬢様が何かを申し上げようとしても、口答えをするなと……」
「それは、どの程度の叱責だったのでしょうか」
マルタは答えなかった。
しばらく俯いたまま、唇を結んでいる。
やがて、かすれた声で言った。
「……旦那様は、お嬢様に手を上げることがございました」
ルーカスは、思わず眉を寄せた。
「……手を、上げる?」
「はい」
「それは、叩くということですか」
「……はい」
「…軽くポンと言うわけではなく?」
「…赤く腫れ上がり時には血が出る事もございました。」
マルタの唇は震えていた。
「私が見たことも、一度や二度ではございません」
ルーカスは、テーブルの下でゆっくりと手を握った。
「理由を、お聞きしても?」
「……本当に、些細なことでございました」
マルタは視線を落とした。
「旦那様がお尋ねになったことに、すぐお答えできなかったとか。お食事の席で、少し手元を誤ったとか……」
「……それだけで?」
「はい」
マルタは小さく頷いた。
「それに、旦那様は……ご自分でお嬢様を叩いておきながら、手が痛むのはお嬢様のせいだとおっしゃるのです」
ルーカスは言葉を失った。
「お前のせいで手が痛くなった。どうしてくれる、と……」
マルタの声が震えた。
「そうおっしゃると、お嬢様は何度も謝っていらっしゃいました。申し訳ございません、申し訳ございませんと……」
ルーカスは目を伏せた。
オリヴィアが、何かにつけて謝ろうとする姿が思い浮かんだ。
ほんの些細な失敗でも、自分が悪いのだと思い、誰かがため息をつけば、何か気に障ることをしたのではないかと身構える。
……ルーカスは静かに息を吐いた。
「奥様は、そのことをご存じだったのでしょうか」
「もちろんでございます」
「止めることはなかったのですか」
マルタは首を横に振った。
「顔を怪我させたときは嗜められましたが、それ以外むしろ、お嬢様に謝るようおっしゃることもございました」
「……そうですか」
それ以上、すぐには言葉が出なかった。
しばらく沈黙が続いた。
マルタは膝の上の手を見つめたまま、何かを迷っているようだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「……ルーカス様」
「はい」
「私があのお屋敷を辞めることになったのは、別のことでございます」
ルーカスは顔を上げた。
「別のこと?」
「……若旦那様のことでございます」
「ダミアン殿ですか」
「はい」
マルタは一度、深く息を吸った。
「ある日、私がお嬢様のお部屋へ向かっておりましたら、中から泣き声が聞こえてきたのです」
ルーカスは黙っていた。
「初めは、何かあったのかと思いました。けれど……お嬢様が、何度も『やめてください』とおっしゃっていて……」
マルタの指が、膝の上で震えていた。
「慌てて扉を開けますと、若旦那様がお嬢様のお身体に、無理やり触れていらしたのです」
ルーカスの表情が消えた。
「お嬢様は泣いておられました。泣いて嫌がって、逃れようとしていらしたのに、若旦那様は……」
マルタは言葉を詰まらせた。
ルーカスは、彼女が続きを話すのを待つあいだ、血の気が引いていくのを感じた。
「……私は、思わず間に入りました」
「……はい」
「若旦那様はたいそうお怒りになりました。使用人の分際で何をするのかと……ですが、あのままにしておくことなど、できませんでした」
マルタは俯いた。
「お嬢様をお連れして、別のお部屋へ移りました。しばらく、泣いていらっしゃいましたが……」
そこで、彼女の声が途切れた。
「……そのあと、お嬢様は私に謝ってくださったのです」
ルーカスは顔を上げた。
「謝った?」
「はい。自分のせいで叱られてしまったと……」
マルタは唇を噛んだ。
「何も悪くないのに……」
部屋の中はマルタの啜り泣く声だけが響いた。
ルーカスは自分の呼吸が、いつもより浅くなっていることに気づいた。どうしようもなく怒りが湧いていたが、目の前にいる女性もまた、長い間その出来事に苦しんできたのだろう。ルーカスは声を整えた。
「……その翌日に、解雇されたのですか」
マルタは頷いた。
「はい。旦那様に呼び出され、暇を出すと言われました」
「理由は?」
「若旦那様に無礼を働いたからだと……」
ルーカスは何も言わなかった。
「それから……」
マルタの声が、さらに小さくなった。
「この屋敷で見聞きしたことを、外で話すなと言われました」
「…言われただけ、ではもちろん——」
マルタは首を横に振った。
「はい、余計なことを口にすれば、私の家族がどうなるかわからない、と」
ルーカスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……脅されたのですね」
「はい」
マルタは小さく頷いた。
「私の実家は、小さな店を営んでおります。両親も年を取っておりますし……子爵家に目をつけられれば、商売を続けられなくなるかもしれません」
「……そうでしたか」
「怖かったのです」
マルタは、ようやく顔を上げた。
「今も、怖いのでございます」
その目には涙が浮かんでいた。
「ですが……」
彼女は震える声で続けた。
「ずっと、お嬢様のことが気になっておりました」
ルーカスは黙って頷いた。
「私が辞めたあと、あのお屋敷でどうしていらっしゃるのか。誰か、お嬢様を庇ってくださる方はいるのだろうかと……」
マルタのハンカチは涙でぐしゃぐしゃだった。
「けれど、私には何もできませんでした」
マルタは慌てて息を整えると
「申し訳ございません。このような……」
「謝らないでください」
ルーカスは静かに言った。
マルタが驚いたように顔を上げた。
「ご家族を守らなければならなかったのでしょう」
「……はい」
「そのことを誰が責められるでしょうか」
マルタは俯いたまま、何度も頷いた。
「……今回、お話しくださったのは、どうしてですか」
ルーカスが尋ねると、彼女はしばらく考えてから答えた。
「……アルヴェイン伯爵家の方が、お嬢様のことを気にかけていらっしゃると伺ったからでございます」
「……」
「もしかしたら、今度こそ……お嬢様をお救いできるかもしれないと思いました」
マルタは、まっすぐにルーカスを見た。
「どうか……どうか、オリヴィアお嬢様をお助けください」
ルーカスは、その視線を受け止めた。
すぐに、何もかも解決できるとは言えない。けれど、この話を聞いて何もしないという選択肢は、もうなかった。
「……お話しくださって、ありがとうございます」
ルーカスは深く頭を下げた。
「まず、あなたとご家族の安全について考えさせてください。今のままでは、安心してお過ごしになれないでしょう」
「……ですが」
「あなたが不利益を被らないよう、できる限りの手を尽くします。必要であれば、父や母にも相談したいと考えています」
マルタは目を見開いた。
「伯爵様や、奥様に……?」
「はい。ただし、あなたの許可なくお名前やお話の内容を広めることはしません」
ルーカスは少し間を置いた。
「両親に、今日伺ったことを伝えてもよろしいでしょうか」
マルタは俯き、しばらく考えていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
そして、もう一度顔を上げた。
「どうか、よろしくお願いいたします」
———
その日の夕方
アルヴェイン伯爵家へ戻ったルーカスは、まっすぐと母のもとへ向かった。
セシリアは書斎で、何通かの手紙に目を通していた。
「母上。少し、お時間をいただけますか」
顔を上げたセシリアは、息子の表情を見て手紙を置いた。
「ええ。どうしたの?」
「……オリヴィア嬢のことです」
セシリアの表情が変わった。
「……何かわかったのね」
ルーカスは頷いた。
「はい。ですが、私一人で判断してよい話ではありません」
「そう……」
セシリアは向かいの椅子を示した。
「座ってちょうだい」
ルーカスは腰を下ろした。
そして、これまで独自に調べていたことを話し始めた。
ダミアンの金銭問題から始まってローディス家の使用人の入れ替わりが多いこと。そして、今日、元使用人から聞いた話。
セシリアは途中で口を挟むことなく、静かに聞いていた。しかし、ヴィクトルが娘に手を上げていたことを聞いたとき、その目がわずかに細められた。
さらに、ダミアンの行為と、元侍女が解雇された理由を聞くと、セシリアはゆっくりとカップを置いた。
「……そう」
それだけ言って、しばらく黙っていた。
ルーカスも、言葉を待った。
やがてセシリアが口を開いた。
「その元使用人の方は、今も脅されているのね」
「はい。少なくとも、そう感じておられます。ご実家の商売に影響が出ることを、ひどく恐れていました」
「当然でしょうね」
セシリアは頷いた。
「ローディス子爵家が実際に何をするつもりだったのかはわからないけれど、脅された側にとっては、それだけで十分恐ろしいことだわ」
「……はい」
「その方は、今どちらに?」
「王都の商家で働いています。現在の勤め先に迷惑がかからないよう、面会場所は別に用意しました」
「そう。よく考えたわね」
セシリアは少し考え込んだ。
「その方とご家族の安全については、こちらでも調べてみましょう。必要なら、働く場所を変えることも含めて考えた方がいいわね」
「……母上」
「なあに?」
「私は、あの方のお話を聞くまで、ここまでのことだとは思っていませんでした」
ルーカスは膝の上で手を握った。
「オリヴィア嬢が、少し怯えたような顔をすることがあるのは知っていました。けれど、まさか……」
言葉が途切れた。
セシリアは息子を見つめていた。
「……悔しいのね」
ルーカスは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
しばらくして、そう答えた。
「もっと早く、気づけていれば……」
セシリアは首を横に振った。
「ルーカス、知らなかったことよ。自分で自分を責めても仕方がないわ」
「……はい」
「大切なのは、これからどうするかよ」
ルーカスは顔を上げた。
セシリアは、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
けれど、その声には迷いがなかった。
「まずは、元使用人の方の安全を確保しましょう。それから、オリヴィア嬢が今どのような状況に置かれているのか、慎重に確かめる必要があるわ」
「はい」
「そして、何より……」
セシリアは一度、言葉を切った。
「オリヴィア嬢ご本人が、どうしたいと思っているのか。それを聞かなければね」
ルーカスは頷いた。
「……はい」
「ただし、今すぐご本人に問い詰めるようなことはしてはだめよ。あの子が安心して話せる状況を、まず作らなくては」
「私も、そう思います」
セシリアは小さく微笑んだ。
「それにしても、あなたも調べていたのね」
「……はい」
「実は私も、少し前からベアトリス様について調べていたのよ」
ルーカスは驚いて顔を上げた。
「母上も?」
「ええ。昨日のオリヴィア嬢の様子が気になってね。それに、エリーも以前から何か心配していたようだったから」
「……そうでしたか」
「今日、エリーからも話を聞いたわ」
セシリアは少し笑った。
「あの子なりに、ずいぶん考えていたみたい」
ルーカスの表情が、わずかに和らいだ。
「エリーらしいですね」
「ええ。本当に」
セシリアは微笑んだ。
「だからこそ、あの子には今までどおり、オリヴィア嬢の友達でいてもらいたいの」
「……そうですね」
ルーカスは頷いた。
エリシアと話しているときの、オリヴィアの笑顔が思い浮かぶ。あの時間まで、失わせるわけにはいかない。セシリアは机の上の手紙を揃えた。
「……オスカーにも話しましょう」
ルーカスは顔を上げた。
「父上にも?」
「ええ。ここから先は、私たちだけで進めるより、あの人の力も借りた方がいいわ」
セシリアは立ち上がった。
「それに、子爵家のことですもの。慎重に動かなくてはね」
ルーカスも立ち上がった。
「わかりました」
セシリアは息子を見た。
「ルーカス」
「はい」
「調べてくれて、ありがとう」
ルーカスは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、静かに首を横に振った。
「……まだ、何もできていません」
「そんなことはないわ」
セシリアは穏やかに言った。
「あなたが動かなければ、今日のお話を聞くこともできなかったでしょう?」
ルーカスは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……はい」
セシリアは扉へ向かいながら、ふと足を止めた。
「それにしても……」
「母上?」
「オリヴィア嬢は、本当に素敵なお嬢さんよね」
ルーカスは、思わず顔を上げた。
セシリアは振り返らず、続けた。
「エリーがあんなに大好きになるのも、わかる気がするわ」
「……ええ」
ルーカスは短く答えた。
「私も、そう思います」
セシリアは振り返り、息子の顔を見た。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……そう」
それ以上は、何も言わなかった。
二人は並んで廊下へ出た。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。
ローディス家で何が起きているのか、まだすべてが明らかになったわけではない。
けれど、少なくとも、もう見過ごすことのできない事実を知ってしまった。
ルーカスは歩きながら、今日会ったマルタの言葉を思い出していた。
——どうか、オリヴィアお嬢様をお助けください。




