第十四話 距離を取る癖
春になった。
四月の空は高く、光が柔らかかった。
街路樹の桜が満開になり、散り、若葉が出始めた。
季節が確かに動いている。
でも彩の中では、季節の変わり目よりもっと静かな場所で、何かがゆっくりと動いていた。
その何かに、彩はまだ名前をつけていなかった。
つけなくていい、と思っていた。
名前をつけると、その形に収まってしまう。
今はまだ、形が定まる前の状態でいたかった。
でもある夜、それが崩れた。
きっかけは、小さなことだった。
局の廊下で、後輩の制作スタッフが電話をしていた。
彩が通りかかったとき、後輩は笑いながら話していた。
声が弾んでいた。誰かと話すことが楽しくて仕方ない、という声だった。
彩はそのまま通り過ぎた。
通り過ぎてから、廊下の突き当たりで少し立ち止まった。
あの声の弾み方を、彩は知っている。
好きな人と話しているときの、あの声の質。
自分にも一度か二度、ああいう声で話していた時期があった。
諒と話すとき、彩の声はどうだろう。
考えてから、彩は気づいた。
諒と「話す」とき、声を出しているのは彩だけだ。
当たり前のことだった。
最初から知っていた。
でもその夜初めて、その当たり前のことが、彩の中で違う重さを持った。
好きな人と話すとき、声は二人の間を行き来する。
でも彩と諒の間では、声は彩からしか出ない。
諒の言葉はノートから来て、スマートフォンの画面から来て、便箋から来る。
それは確かに届く。届いている。でも——
彩は窓の外を見た。
四月の夜が、静かに広がっていた。
好きな人の声を、聞いたことがない。
その事実が、今夜初めて、彩の中でひとつの形を持った。
その夜から、彩の中に小さな棘のようなものが生まれた。
棘、というのは諒への不満ではない。
諒を責める気持ちは少しもなかった。
ただ——自分の感情が向かっている先に、越えられない何かがある、という感触だった。
声を扱う仕事をしている。
毎日誰かの声を聞いて、声の質を測り、声が届く場所を作ることを考えている。
なのに、好きな人の声を知らない。
その非対称性が、棘として彩の中に刺さった。
木曜日、公園で諒と並んで池を見ながら、彩はその棘を感じていた。
感じながら、顔には出さなかった。
出してはいけないと思った。
自分の感情を諒に押し付けることは、違う。
諒が声を失っていることは、諒の問題であって、彩が抱える問題ではない——そう言い聞かせながら、でも棘は消えなかった。
消えないことが、かえって彩を苦しくした。
諒がノートを渡してきた。
今日、医師と話してきました。
手術の日程について、具体的に相談しました。
まだ決めていません。でも、現実の話として聞いてきました。
彩は読んだ。
胸の中で、棘と手術の言葉が、同時に重なった。
手術が成功すれば、諒の声が戻るかもしれない。
声が戻れば、この非対称性は消える。
でもそれは——彩が望む理由として、正しくない。
彩は自分の中を、静かに点検した。
手術してほしい、と思っている。
でもその理由が、諒のためだけではないかもしれない。
自分の棘を抜くために、手術を望んでいるとしたら。
それはこの人への、誠実さに欠ける。
「どんな話でしたか」
彩は言った。
声が、いつもより少し平坦だった。
諒は彩を見た。
何かを感じ取ったように、少し目が止まった。
成功率は六割程度。
声が完全に戻る保証はない。かすれが残る可能性もある。
リスクとして、悪化する可能性もゼロではない、と言われました。
六割。
彩はその数字を、頭の中で転がした。
ラジオの世界で六割という数字は、決して低くない。
でも今夜この数字は、冷たく感じた。
「怖いですか」
彩は聞いた。
諒は少し考えた。
怖いです。
でも以前とは、怖さの種類が変わりました。
「どう変わりましたか」
以前は、失うことが怖かった。
今は、踏み出せないことが怖い。
彩はその言葉を読んで、窓の向こうの木を見た。
四月の若葉が、風に揺れている。
踏み出せないことが怖い。
その変化が、彩には痛かった。
痛い、というのは悲しいのではなく——この人がそこまで来たのか、という感触だった。
声を失ってから、失うことを起点に生きてきた人間が、今は踏み出せないことを怖れている。
それはどれほどの変化か。
彩はその変化の重さを感じながら、同時に、自分の中の棘を感じていた。
二つが同時にある。
この人の勇気を嬉しいと思う気持ちと、声を知らないままでいる自分の苦しさが、同じ胸の中に並んでいた。
帰り道、彩は一人で歩いた。
四月の夜風が、若葉の匂いを運んでいた。
柔らかい匂いだった。
でも今夜その柔らかさが、かえって彩の輪郭を際立たせた。
好きな人の声を、知らない。
その事実と、これからも付き合っていかなければならないかもしれない。
手術が成功しなければ、声は戻らない。
戻らなくても、この人のそばにいたいと思っている。それは本当だ。
でも——本当だからこそ、苦しい。
諦めていないから、苦しい。
彩は夜空を見上げた。四月の空に、星がいくつか見えた。
苦しさの正体が、今夜ようやくわかった気がした。
これは距離の苦しさではない。
近づきたいのに、越えられないものがある、という苦しさだ。
越えられないものが何なのかも、わかっていた。
声ではない。声がないことではない。
自分の感情を、まだ諒に渡せていないこと。
受け取ってもらえるかどうかわからないまま、送り出せないでいること。
届くかどうかわからないのに出ていく、と彩はラジオについて言った。
それが好きだと言った。
でも今、自分の感情を送り出すことが、できないでいる。
ラジオのディレクターが、一番大事なものを電波に乗せられないでいた。
その週、彩は諒を少し避けた。
避けた、というのは連絡を絶ったわけではない。
木曜日も公園に行った。
ただ、いつもより少し早く帰った。
話題が手術に向かいそうになると、別の方向に逸らした。
諒はそれを感じていた。
感じているのが、彩にはわかった。
わかっていて、でも直せなかった。
自分の棘を持て余している間は、誰かと正直に向き合えない。
それは彩の癖だった。傷つきそうになると、少しだけ外側に出る。
完全に離れるのではなく、でも完全にいるのでもない、微妙な距離を取る。
松本と別れたときも、そうだった。
一緒にいると楽なのに、一緒にいるほど自分が遠くなる感じがした、と彩は思っていた。
でも今なら少しわかる。
遠くなったのは自分ではなく、彩自身が少しずつ外側に出ていったのだ。
怖くなって、近づきすぎることを恐れて、気づかないうちに距離を作っていた。
同じことをしている、と彩は思った。
思いながら、止められなかった。
十三通目の手紙が届いたのは、そんな週の終わりだった。
藤沢さんへ。
最近、少し遠い気がします。
気のせいかもしれません。気のせいであってほしいとも思います。
ただ、気のせいではないとしたら——何か、私がしたことがあれば、教えてもらえますか。
あなたが遠くなることが、私にはとても、静かに、辛い。
神田諒
彩は便箋を読んで、長い息を吐いた。
短い手紙だった。いつもの諒の手紙より、ずっと短かった。
短いぶん、一言一言の重さが違った。
あなたが遠くなることが、私にはとても、静かに、辛い。
静かに、辛い。
この人は辛いことも、静かに書く。
声を荒げるのではなく、感情を爆発させるのでもなく、ただ静かに、辛いと書く。
その静けさが、彩には大きな声より深く刺さった。
彩はテーブルに便箋を置いて、両手で顔を覆った。
自分が情けなかった。
棘を持て余して、距離を取った。
その距離を、この人はちゃんと感じていた。
感じながら、責めるのではなく、ただ教えてほしいと書いた。
私が何かしたのならと書いた。
していない。あなたは何もしていない。
悪いのは自分だ。
自分の感情を持て余して、一番近くにいる人を遠ざけた。
彩は顔を上げた。
窓の外に、夜の街が広がっている。
どこかで誰かが話している。
笑っている。声が行き交っている。
彩は便箋を取り上げた。
返事を書こうと思った。でも手紙ではなかった。
今夜は手紙では届かない気がした。
手紙を書いて、送って、届くまでの時間が、今夜はもどかしかった。
スマートフォンを取り上げた。
諒のことを考えた。
諒はスマートフォンのメモ帳を使う。
文字を打てば、届く。
でも諒の連絡先を、彩は知らなかった。
手紙しか、来たことがなかった。
彩は少しの間、スマートフォンを持ったまま動かなかった。
それから立ち上がって、便箋を取り出した。
手紙で返す。手紙しかない。
でも今夜中に書いて、明日の朝一番に送ろうと思った。
ペンを持って、書き始めた。
神田さんへ。
遠くなっていました。
あなたのせいではありません。
全部、私のことです。
うまく説明できないかもしれないけれど、正直に書きます。
私は声の仕事をしています。
毎日、誰かの声を聞いて、声を届ける仕事をしています。
なのに、あなたの声を知らない。
あなたが笑うときの声を、怒るときの声を、何かに驚いたときの声を、知らない。
それが苦しくなりました。
苦しい、というのはあなたを責めているのではありません。
あなたのせいにしたいのでもありません。
ただ、近づきたいのに越えられないものがある、という苦しさが、ある夜突然大きくなって、持て余してしまった。
持て余したまま、あなたの前に立つことができなかった。
情けないと思っています。
一つだけ、聞かせてください。
あなたの連絡先を、教えてもらえますか。
手紙は好きです。
これからも書きたい。
でも今夜みたいに、すぐに届けたい言葉があるときのために。
藤沢彩
書き終えて、読み返した。
直したいところが三箇所あった。
一箇所だけ直した。
あとの二箇所は、直さないことにした。
不格好な部分が、今夜の彩だと思ったから。
封をして、宛名を書いた。
明日の朝、これを送る。
そう決めたら、棘が少し和らいだ。
和らいだのは、棘が消えたからではなかった。
持て余していたものを、手放したからだった。
届くかどうかわからなくても、出ていく。
それが彩の、言葉の形だと思った。




