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 石畳を叩く午後の陽光が、カフェ『青い鸚鵡』の窓ガラスを琥珀色に染めている。

 この店は、マルザのパン屋の真向かいに位置する絶好の「観測地点」だ。俺は深く被った羽根付き帽の下から、街を行き交う群衆を冷徹な眼差しで射抜いていた。

ミカーラがいつものように、ふっと笑う。


「……見て。あの角を曲がってきたいつもの男。左の肩が微かに下がっているわ。あれは借金ができたわね。それも、身内に言えない種類の」


 向かいの席で、庶民の娘に扮したミカーラが、退屈そうにティーカップの縁をなぞりながら囁く。ミカーラの「観察眼」は、毒蛇の舌のように鋭く、容赦がない。


「正解だ。それも、ただのギャンブルではなく投資の失敗によるものだろうな。歩幅が一定でないのは、現実逃避の証拠だ。……あっちの、露店で林檎を選んでいる女性はどうだ?」


 俺は顎で、愛想よく笑う若い女を指し示した。


「ふん、単純ね。あの笑顔は、隣にいる男に指輪をねだる前の顔よ。口角の上げ方が計算高いわ。獲物を仕留める直前の肉食獣と同じ眼。……ねえ、兄様。やっぱり人間って、皮を剥げば醜い本音の塊ね」


「全くだ。歩き方、視線の配り方、指先の震え……すべてがその者の『正体』を雄弁に物語っている。言葉など、本心を隠すための稚拙な道具に過ぎない」


 俺たちは、この「人間分析」という悪趣味な遊戯を楽しんでいた。

 領主として、そして「恋愛のプロ」として、他者の内面を透かし見ることは生存戦略であり、同時に至高の娯楽でもあった。俺の脳内では、通行人の頭上にその者の「推定年収」「家庭環境」「浮気癖」といったラベルが次々と貼り付けていく。


 ――これも領地の安泰の……その時だった。


 向かいの店の扉が開き、テッサが店先へ姿を現した。

 

「…………っ」


 俺の思考回路が、音を立ててショートした。


「……あのテッサの、歩き方を見てみろ。……あれは、単なる移動ではない。……希望そのものが、形を持って地上を歩いているような、奇跡の軌跡だ」


「……は?」


 ミカーラが怪訝な顔で俺を見るが、俺の口は止まらなかった。脳内の精密な分析機械は瞬時に粉砕され、代わりにどこから湧いたのかも分からぬポエムの奔流が溢れ出す。


「あの笑顔……見てみろ。あれは、既存の言語では定義できない。朝露に濡れた百合の純潔と、初夏の陽光の包容力を同時に孕んでいる。……彼女がパンを並べる仕草、どれ一つをとっても、宇宙の調和がそこに集約されているのが分からないか? 黄金比だ。あれこそが、神が設計図に描き忘れた真理かもしれない」


 俺は窓ガラスに張り付かんばかりの勢いで、テッサの一挙一動を凝視していた。


「……はい、分析終了。冷徹な領主が聞いて呆れるわ。一番の『観察対象バカ』に成り下がったわね。おめでとう、兄様。脳みそが小麦粉にでも置換されたの?」


 ミカーラの冷ややかな切り捨てなど、今の俺には届かない。

 テッサがエプロンを払い、眩しそうに空を仰ぐ。その動作一つで、俺の心は千々に乱れ、跪きたくなるほどの衝動に駆られる。

 だが、その至福の時間は、招かれざる「客」によって無惨にも、引き裂かれてしまった。


────


「やあ、テッサ! 今日もいい焼き色だね」


 店先に現れたのは、下町の青年職人だった。粗末な作業着を着ているが、その体つきは逞しく、いかにも「善良な好青年」といった風情でテッサに親しげに話しかけている。


 俺の目は、瞬時に獲物を狙う鷹のそれへと変貌した。

 だが、今度の分析は「冷徹」ではない。「殺意」を孕んだ執念だ。


「……あの男の右足の踏み出し方。テッサとの距離を、無意識に、だが確実に自分のパーソナルスペースへ引き込もうとしている。……あの首の傾げ方! 弱気な自分を演出して、彼女の母性本能をくすぐる卑劣な計算だ! 指先が微かに彼女の肩を掠めた……! 確信犯だ、あの男は純粋なテッサの善意を利用しようとする、稀に見るペテン師だぞ!」


 俺が椅子をガタつかせて立ち上がりかけると、ミカーラがさらに鋭い追撃を放った。


「あら、私の分析はもっと残酷よ? あの男、テッサが笑うたびに瞳孔が開いているわ。あれは純粋な好意というより、独占欲の萌芽ね。……ねえ見て、兄様。彼、テッサが渡したパンの包みを受け取る時、わざと指を触れさせたわよ? 『偶然を装った接触による親密度の向上』。……どこかのストーカー領主様が、よく教科書に書いている手法じゃない?」


「……っ、黙れ! あれと一緒にされるなど、心外だ!」


「あら、図星? 彼は平民で、テッサと同じ『下町の熱』を持っている。兄様みたいに、冷たい石造りの城で、古臭いマニュアルを握りしめている男より、よっぽど彼女に近い場所にいるわ」


 ミカーラの言葉が、俺の余裕を完膚なきまでに叩き潰していく。

 テッサが、その青年に向けて楽しげに笑っている。俺に「パン仲間」として見せたあの笑顔が、他の男にも向けられているという事実。

 嫉妬という名の黒い泥が、俺の理性を飲み込んでいく。


「……ミラ」


 俺は、隣の席で客に変装し、静かにコーヒーを啜っていた影護官を、小声で、だが断固とした口調で呼び寄せた。


「あの男を洗え。……必ずだ。借金、女遊び、職務怠慢……何でもいい。奴がテッサに相応しくない、救いようのないクズである証拠を、今すぐに見つけてこい」


 ミラは表情一つ変えず、「……仰せのままに、閣下」とだけ囁くと、陽炎のように席から消えた。

 

 その様子を一部始終見ていたミカーラが、心底呆れ果てたように溜息をつき、トドメの一言を放ってきた。


「……ねえ、兄様。分析してあげましょうか? 今の兄様の顔。……それは、愛を語るロマンチストでも、冷徹な支配者でもないわ。……ただの、おもちゃを盗られそうになった幼児の、醜い泣きっ面よ」


 ミカーラは、優雅に残りの紅茶を飲み干すと、おかわりを頼んだ。


「自分の心の『歩き方』さえ分析できないなんて。……恋愛のプロという肩書き、返上した方が身のためですわよ?」


 妹の言葉が、俺の心に虚しく響く。

 俺は、窓の向こうで青年にパンを手渡すテッサの姿を、ただ、狂おしいほどの焦燥感と共に見つめ続けるしかなかった。

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