15
昨夜の失態――いや、あれは失態などという生易しいものではない。領主としての理性が、深夜の静寂とパンの香りに絆され、あろうことか一介の職人に対して「その姿の方が尊い」などと口走ってしまったのだ。
朝、執務机に置かれた一通の手紙を見た瞬間、俺の心臓は物理的な衝撃を受けた。
『アリアス様へ。昨夜は、もったいないお言葉をありがとうございました。勇気をいただいて、お礼に特別なパンを焼き上げました。もしよろしければ、お店の裏で、焼きたてを召し上がっていただけませんか?』
たどたどしい文字。だが、そこには迷いのない熱が宿っていた。
「……店の裏で、二人きり、だと?」
俺は椅子を蹴立てるように立ち上がった。
これは、どういう意味だ。領主としての公務ではない。「一人の男」として呼び出された……のか?
恋愛のプロとしての俺が導き出した答えは――。だが、期待に震える俺自身の内面が、その答えを激しく拒絶する。
もし彼女が、俺の「本音の欠片」を受け取り、それに応えようとしているのだとしたら?
俺は鏡の前で何度も襟を正し、香水の香りを確かめ、結局「あまりに気合が入りすぎている」と判断してすべてを拭い去った。あくまで、自然な「視察」の延長を装わねばならん。
────
足早に城の回廊を抜けていた時だ。
中庭に面したテラスから、聞き覚えのある涼やかな笑い声が届いた。
「あら。アリアス様、そんなに急いでどちらへ?」
凍りついた。
そこには、朝陽を浴びて優雅にティータイムを楽しむ、レティアとミカーラの姿があった。
「……レティア、ミカーラ。おはよう。少し、街の様子が気になってね」
「ふふ、兄様の『街の様子』は、いつも一軒のパン屋に集約されているようですわね」
ミカーラが虹彩板を妖しく光らせて毒を吐く。俺はそれを無視し、レティアの前に進み出た。今朝の彼女は、昨夜の紅とは対照的な、清らかな水色のドレスを纏っている。
「アリアス様。昨夜の余韻がまだ冷めぬうちに、もうお出かけですの? ……実は私、昨夜の庭園で、とても『素敵な影』を見かけましたのよ」
レティアが、カップを置かずに俺をじっと見つめた。
その微笑み。すべてを見透かしたような、慈悲深くも残酷な眼差し。
――終わったのか。
昨夜、俺がテッサと二人きりで話していたところを見られていたのだ。
領主が婚約者を差し置いて、裏で職人の娘に甘い言葉を囁いていた。この事実が公になれば、ベルシュタイン公爵家との関係は破綻し、俺の政治的生命も潰える。俺は背中に、かつてないほどの冷や汗が流れるのを感じた。
「……レティア、それは……」
「ええ。影護官のミラさんのことですわ。彼女、闇に紛れて庭園の警備を完璧にこなしていらしたでしょう? あの献身的な動き、まさにロドキス家の宝ですわね」
「…………あ。ああ。ミラ、か」
俺は、止まりかけていた呼吸をようやく再開させた。
レティアは、ミラの話をしていたのだ。……いや、本当にそうか? 彼女ほどの聡明な女が、俺の動揺に気づかないはずがない。これは警告か、それともただの偶然か。
「さあ、アリアス様。街の皆様があなたの『視察』を待っていますわ。あまりお待たせしては失礼ですことよ?」
レティアの優雅な手招きに、俺は逃げるようにその場を後にした。
背後でミカーラが「兄様、耳の裏まで真っ赤ですわよ」と笑う声が聞こえたが、振り返る余裕などなかった。
────
下町。マルザの店の裏手。
そこには、昨夜の夜会での緊張が嘘のように、いつもの素朴なチュニック姿に戻ったテッサが待っていた。
「あ、アリアス様! 来てくださったんですね!」
彼女の笑顔は、朝陽よりも眩しかった。
周囲には誰もおらず、薪の燃える匂いと、甘く香ばしいパンの香りが立ち込めている。
俺の心臓は、高鳴りを通り越して痛いほどだった。
一人の男として呼び出されたこの状況。もし、彼女が昨夜の俺の言葉に、何か「特別な意味」を見出していたとしたら。
俺は、どのような言葉で彼女に応えるべきか。領主という身分を捨ててでも、彼女を――。
「これです! 昨夜、アリアス様が私の事を褒めてくださったのが嬉しくて……職人として、今の私にできる最高の答えを焼きたかったんです!」
テッサが差し出したのは、まだ熱気を含んだ小さな丸パンだった。
「これ、普通の小麦に、隠し味で少しだけ『レドララ岩塩』を振ってあるんです。甘いだけじゃない、仕事の合間に食べると一番力が湧いてくるパン。私の故郷の味なんです。……アリアス様のような、パンを愛する方のために、是非と!」
俺は、差し出されたパンを手に取った。
熱い。彼女の情熱そのもののように。
「……ああ。素晴らしいな」
「ええ! これこそが、私の『職人としての誇りの一部』なんです! アリアス様は、私のパンの本質を理解してくださる、最高の『パン仲間』だと思っていますから!」
――パン仲間。
その言葉が、俺の脳内に鳴り響いていた聖歌を瞬時にかき消した。
テッサの瞳には、微塵の「女」としての情熱も、駆け引きもなかった。
そこにあるのは、自分の技術を認めてくれた「良き理解者」に対する、純粋で、真っ直ぐで、そしてあまりに潔い信頼だけだった。
「……仲間、か」
「はい! 領主様が認めてくださったから、私、もっともっとこの窯で、この街のために焼き続けます。……あ、お口に合いますか?」
俺は、無言でパンを口に運んだ。
岩塩の塩気が、不器用なほどストレートに舌を刺激し、その後に小麦の深い甘みが追いかけてくる。
旨い。これまでの人生で食べたどのパンよりも、力強く、そして残酷なほど「健全」な味がした。
「……旨いよ、テッサ。……君は、本当に素晴らしい職人だ」
「やったー! よかった……!」
無邪気に飛び跳ねる彼女の姿を見ながら、俺は自分の喉元まで出かかっていた「男としての言葉」を、そっとパンと共に飲み込んだ。
俺の葛藤も、昨夜の苦悩も、レティアへの冷や汗も。
彼女のこの純粋な情熱の前では、すべてが薄汚れた邪推に思えてくる。
俺は、一人の女性の「真心」という名の光に当てられて、自分の醜い独占欲をただ持て余している、愚かな男に過ぎない。
だが、それでも構わない。
今は、この岩塩のパンの熱を、噛み締めていよう。
テッサが俺を「最高の理解者」と呼ぶのなら、俺はその名に相応しい、最も完璧な檻の番人になってやろうではないか。
俺は、朝の光の中で笑うテッサを見つめながら、自分の敗北を心地よく受け入れていた。




