第8章 第3話 One of the fragments of the sun▼
幾千万の光が降り注いでくる。
冷え切った高原から見る夜空は、私の知るものよりずっと高い。
この世界の星は瞬く。
ちらちらと、儚く繊細に。
私たちが発生させる熱と、空気の対流を映して。
澄みわたった空気のもと、二人で空の向こうを見ていた。
私は手袋をした手をこすり合わせながら、彼にほんのり寄りかかっている。
「ねえ、桔平くん。寒くない?」
「今日は寒くないよ」
即答した声が震えていたのを、私は気づかなかったことにした。
寒くないのではなく、”今日はいつもの観望より比較的寒くない”が正解だ。
少し言葉が足りなかったんだよね。
「ん、そっか」
ささやかな満足を得る。
私たちは夜の丘に二人、断熱レジャーシートの上に腰を下ろしながら、缶に入った温かい飲み物を飲んでいる。
でも、私から聞こえる二人のやりとりは薄い幕ごしに聞こえているよう。
直接聞こえる感じではない。私の意識はふんわり丸くなって、膝を抱えて……この女性の中で揺蕩っているみたいだった。
「ね。ぎゅってしよ」
彼女は私のそれとは違う甘い声色で、照れくさそうにそう言った。
この女の人はいつかの私だったのかもしれないと、確信めいてそう思う。
彼は照れくさそうにそっぽを向いて背後から女の人を抱きしめた。寒さにかじかんでいた身体が少しずつほぐれてゆくとともに、私の意識も彼女の中に溶けていった。この人の腕の中にすっぽりと包み込まれていると、私ももう寒さは感じない。この感じ……どこかで知っていたような。でも、どこで。
彼が聞いていた隅々まで透き通った音楽が、ささやかな音量で耳元を水のように流れ続けている。彼は時々楽しそうに口ずさんで、やっぱり宙を見上げていた。
「ごめん、私ばっかり見てた。かわるよ。もう見ないの?」
天体望遠鏡の三脚の前から体をずらしながら、私は悪びれた。
「もう十分見たよ、愛実が見たらいい」
彼の持っている自動導入、追尾のついた赤道儀式天体望遠鏡を私が借りて見ていたんだ。
鏡筒は私のものより大口径で高解像度で、その中で織り成す天体の美しさについつい魅入ってしまっていた、ごめんね、占領して。私が望遠鏡に夢中になっていた間、この人はだらしなく寝転んで首をもたげて鼻歌を歌っていた。
「今日は肉眼で見ていたんだ」
どこか私を気遣うように、彼は言葉を繋げる。
「よく見えないんじゃない?」
「見えそうで見えないのがいいの。俺たちは普段、物事を鮮明に見すぎてる」
こんなに鮮明に見える天体望遠鏡を持っていながら……?
彼は時々、私には理解のできない不思議なことを言う。
どういうことなのと問い詰めれば、俺はいい加減な人間だから、あんまり深く考えないほうがいいよ、と彼は誤魔化すけれど、私はちっともそう思わない。
彼の一言一言、いい加減な言葉だとは思えない。
ぼうっとしているように見えて、ゆるい雰囲気を出しているけれど、それでいて抜かりのなく研ぎ澄まされた人。そういうところが、私は好き。
私は肉眼では、月以外にはほとんどどこに天体望遠鏡を向けていいのかも分からないけど、この人はどの時間どの方角に何の星座があるのか、赤道儀を頼りにしなくても全部覚えている。
彼にならって時間をかけて夜空に目を凝らし、暗闇に慣れてゆくと、空に散りばめられた星々が意外に明るいことに気づく。月のない夜は特にだ。
「あ、私も見つけたよ。あれがカペラ、アルデバランでしょ、リゲルにシリウス、プロキオン、ボルックスでウィンターダイアモンドで冬の大六角形」
「すごいな!」
彼は盛大な拍手とともに私を褒めちぎる。でも、決して馬鹿にした感じではない。
「桔平くんに教えてもらったんじゃないの」
「そうだっけ」
「そうだよ」
生徒になった気分だ。
そう、私はいつもまっさらな気持ちで教わるんだ。
この人に、私の知らない世界を教えてもらうのが好きだから。
「究極に性能のいい望遠鏡があって、どこからでもこの宇宙の中でたった一つだけ天体観測するとしたら、愛実は何を見たい?」
天体観望の醍醐味、お菓子をつまみ飲み物を飲んで一息ついて、熱く白い息を重ね合わせて。
他愛もない会話の中で、小さな小さな幸せを、蕩けるような時間を私たちは共有している。
もう、寒くはなかった。
「天体観測?」
「観測、ね」
桔平くんは、私と星を見ているときは天体観測という言葉を使わず、代わりに観望という。
観測という言葉は研究や調査などの明確な目的のある場合で使われていて、一方の観望は、ただ星を見て楽しむという意味合いを持っている。
だから、今は彼の定義でいうと観望中なんだけど……
「ひとつだけ、観測かぁ……」
私が宇宙に興味を持って宙を見上げるようになったのは、自分の居場所をさがしていたからだ。
いつだって帰る場所がある気がするのに、それがどこなのか分からなかった頃。
両親を事故でなくし、離れて暮らすお姉ちゃんと二人きりになり……自分の足元すら覚束なくて、これからどこへ行けばいいんだろうって。
あのころ、世界は真っ暗で、怖くて仕方がなかった。
あのころ、一人で空を見上げても、どこにも答えはなかった。
それどころか果てのない深淵に飲み込まれそうになって、どんな風に星を見ればいいのかも分からない。
私の見た空はのっぺりとして、ただ暗くて怖かった。
でも、今は違う。
月の輝きも街の灯りも、天体観望には邪魔になる。
暗くなればなるほど、見えないものが見えてくる。
夜空は私の思っていたよりずっと明るくて騒がしいんだと教えてくれたのは、彼だ。
「北極星かな。いつも同じところにあるから、頼もしくて。ほら、それに星座を覚えられない私にも、とっても親切な星だから」
理由は他にもあるんだけど。素直に言えなくて視線を伏せ、笑ってごまかした。
「いやー。愛実らしいな」
「らしいでしょ」
私の答えを聞いて、彼は私の頭を撫でて楽しそうに微笑む。
そして空に手をかざして、指先で星の距離を計っている。
ほら、星を掴みとるようなそんな些細な仕草でも、君の傍にいるだけで、私は胸の高鳴りを抑えられないんだよ。
「俺は地球かな」
彼は言葉を宙にふわりと浮かべた。
星の名前が無造作に飛び交っていた中で、地球という一語を特別に感じて、それが私の心にすうっと沁みる。
「宇宙から地球をね、観るんだ」
「どうして地球なの?」
地球の姿は、衛星を通じてどんなに詳細にも見えるじゃない。究極に性能のいい望遠鏡を使ってみても、どれだけ拡大してもそこには私たちの営みがあるだけじゃない。
そう思っていた。
「究極に離れたところから地球を見るんだ」
「究極に性能のいい望遠鏡で?」
「例えばの話だよ。何十光年先も見えるやつでね。遠ざかった分だけ地球の過去が見える」
1光年で1年前、10光年で10年前……ってことだ。そう、私たちが見ているこの星々の光は、常にその星が過去に発した光なんだ。それは地球も例外ではなくて。
「あ!」
「20光年離れたら、俺たちの存在は消える」
概念上の話で、実際に消えるわけではない。
観測するにも星間物質も漂っているだろうから難しいかもしれないけど。
それでも、そんな視点から考えると私は急に楽しくなってきて、声を弾ませる。
「そこから逆に地球へ近づいたら、私たちの誕生も見られるわけだね」
「そう、さらに近づけば俺と愛実が出会った時の日もね」
「そうすると、宇宙から地球を観測するであろう私たちと、地球から星空を見上げた私たちの目が合うかもね」
不思議な気分になる。
過去と現在がゆるく重なり合っているような。
現実と、超現実が一体となっているような。
そんなふわふわとした感じに。
「あの時も、俺たちこんな風に星を見ていたからなぁ」
「想像するだけで楽くなるね」
それからひとしきり、地球観測の想像で私たちは盛り上がった。
「じゃあさ、じゃあ地球ができる前まで、46億光年分よりもっと遠ざかったら、地球がある場所には何が見えるの?」
「太陽が見えるよ。ただし、初代の太陽がね」
「どうして!?」
今、私たちが見ている太陽と太陽系は、初代の太陽が爆発してその残骸でできた太陽系なんだと、彼は教えてくれた。
「俺たちの体は、いわば太陽の欠片からできているんだ」
そう言った彼は、心底楽しそうだった。
「輝いていたのかな?」
「そりゃもう。今の太陽とは比べ物にならないほどにね」
幾億の太陽の欠片を集めて。
心に眩い光を灯して。
私たちは存在する。
太陽の子として。
私は嬉しくて、そして泣きたくなるほど実感する。
私と彼が存在している、それがどれだけの奇跡の結果なのか。
世界には不思議なことが少なくなってきて、世界は少しずつ狭くなってきた。
それでも、宙を見れば途方もなく広くて、私たちが生きている不思議と喜びを、彼は難解にしすぎずに私に伝えてくれる。
私と同じ歳で同じ人間でありながら、この人の考えることは突拍子もなくて、希望に満ちている。
もう一回生まれ変わっても、逢いたいと思った。
強く、強くそう思った。
「えへへ、天体観望、肉眼で見るのも楽しいかも」
「宇宙のことを考えながら見るから楽しいんだ。星を見て写真を撮るのもいいけど」
「見えないものもひっくるめて、宇宙なんだね」
「当たり前だけど、そうなんだよ」
真面目くさって、彼は鼻をすすった。
なんだか、今日の宙はずっと大きく見えて、開かれた懐に飛び込むことができたように大好きになれた。
望遠鏡をのぞけば星は大きく見えるけれど、私たちを見下ろす宙の何と広大なこと。
冷たい空気をひとつ吸って、もうひとつ深く吸った。
肺に入れた息を少しずつ吐く。
桔平くんの空想は、いつだって空想なんかじゃない。
だからこそ閉塞しきったこの世界は、見つめなおせばまだこんなに面白い。
「ありがとう、私とここに一緒にいてくれて」
感謝の言葉が、口をついて出てきた。
「俺も。ありがとう」
そう、私がポラリス(北極星)を好きなのはね。
桔平くんみたいだと思うからなんだ。
だいたいあの辺りで太古の昔からずっと変わらず輝き続けて、旅人に方位を教えてくれるように。
ここに、存在していていいんだって。
一緒にいると、君が教えてくれるような気がする。
君がいるから、私の居場所が定まるんだ。
その後、桔平くんが「そういえば」と言って思いついたようにふらりと天体望遠鏡で撮影した写真を、私のモバイルに送ってくれた。
いびつな形の、不器用なハートがそこに写っていた。
カシオペア座の星雲「IC1805」、通称ハート星雲だ。
「そういえば、じゃないよ」と私は笑った。
*
額に触れた風の冷たさに、目が覚める。
締め切った窓からこぼれてくるのは隙間風。
布に包まった私の両腕は、私の身体を抱いていた。
恥ずかしくなって慌てて腕を解く。私が抱きしめたかったのは、自分ではなかったから。
「夢、かぁ……」
夢の中の世界はほんのり切なくて、胸が高鳴るほどに刺激的で、そしていつも待っていてくれる人がいる。
私はどれだけの時間、向こうの世界を離れているんだろう。
窓を開け放ち、うーんと寝床で伸びをして、思い出したように手の届く位置に綴られた紙束を取り上げる。あまりきれいではないけれど、私の日記帳だ。
隣で寝ていた妹のカイは、日課の水汲みに行っているみたいだ。
兄様ももぬけのから。少し寝過ごしてしまったみたいだ。
私もシツジの世話に出かけないと。
寝ている母様を起こさないように、そっと、軋む床板を踏みしめて部屋を出る。
台所で朝食の果物を食べて、簡単に身だしなみを整えて屋外へ出る。
そこにはわっと、モンジャの集落の景色が広がった。
かつてのことを考えると、モンジャは見違えるほど賑わいと活気に満ちた集落になった。
「おはよう、メグ。あら、服、裾がぴろってなってるよ」
「おはよう、リリン。ありがとう」
友達に指摘され、めくれていた服の裾を素早く直す。
モンジャの皆はおしなべて早起きで朝に強くて、夜明けと共に起き出し、活動を始めている。
あたりを見渡せば新しいもの好きで影響されやすいモンジャの皆。
服の流行もめまぐるしく変わる。
今の季節はカラバシュ風の緑色の上着が流行ってるみたい。どこもかしこも、緑の人だらけだ。
シツジ小屋までの道のりをひた歩きながら、カリカリと日記帳に書き付ける。
筆記具の筆先が時々紙にひっかかる。
タコヤキからもたらされた新しい筆記具も、まだ滑らかな書き心地……には程遠い。
とはいえ記憶の整理をするのに日記は役立つ。
この世界では私はメグという。
今日は赤の節、水の日。
晴れ。
気候は、小春日和。
向こうの世界ではラテルかフワレ、別の言葉では四月か五月だと思う。
赤い神様の記憶が消えてから色んなことを忘れてはいけないと日記をつけはじめたけれど、この日記も早々に終わってしまいそう。
「マー!」
「ママーママー」
牧場に近づくと、シツジたちの騒がしい声が聞こえる。
「おはようございます、メグさん。小屋の掃除、終わりましたから! これから餌やりです」
「おはよう、レイ、ハンナ。ありがとうね」
今では15頭。すっかり増えたシツジたちに声をかけて、シツジ牧場で働いてくれている女の子たちにお礼を言う。もう、仕事はあらかた終わってしまったみたいだ。
「メグさんは、お忙しい方ですから、今日は私たちだけでやります」
「他にも仕事があったら言ってください」
シツジの世話の仕方はこの子達にしっかりと教えたし、かわいがって育ててくれている。
もういつ私がいなくなっても、大丈夫だ。そんな思いは、胸のうちにしまっておく。
「ありがとう」
私が夢の中で見た世界に帰ることが決まってから、シツジ小屋の近くの沢で、私は一人で書き物をまとめていた。集落の皆にも赤い神様にも内緒だ。
何故内緒にしているのかというと、直前まで明るみに出すのは禁忌だと思ったから。
これまで私達は、夢の中の世界の技術を少しずつこちらに持ち込んできた。
でも、これは特に革命的なものになりそうだから。
そしてほんの少しだけ、こうも思う。
こうなる事を知っていて、赤い神様は私を異世界へ出すんじゃないかって。
私がこの世界を追放されるのは、赤い神様から罰を受けるからではないかって。
ひとたび動き出したら、私の存在はどう考えても完全に邪魔になる。
……私には、地球という異世界からきた未知の存在である赤い神様が、この世界でどんな存在なのか分からない。
確かに赤い神様は優しくて私たちを守ってくれるのかもしれないけれど、その姿が全てではなくて実は私たち異世界の人間が技術を持ち込みすぎないように監視してもいるんだと思う。
この世界に異世界の技術を持ち込みすぎるのは、赤い神様の意思に反する。
なら異世界の技術を知る兄様も遠からずここを追放になるかもしれない、立場は私と同じだ。
今、兄様を巻き込むのは危険だ。
でも、ロイだけはずっとここにいるみたいだ。
それはロイが赤い神様に直接聞いて確定した。
ロイは優秀だから、赤い神様もここにいて手助けをして欲しいのかもしれない。
真相は分からないけれど、私は許されなくて、ロイは許される。
だから私は、この世界にずっといるロイだけに、私が知る大切なことを伝えておくことに決めた。
それは夢と現実が渾然一体となった私の記憶の底から、夢をみるたびに砂粒ほどの情報をよりわけて組み立てて、少しだけ見えてきた世界の理だー―。
夢の中の地球という世界では人はとても長生きで、生きることに疲れたら肉体は死んで、機械の見せた夢の中の世界に住むことができる。
そして「向こうの世界の人にとっての夢の中の世界」がここ、アガルタ世界だ。
アガルタ世界は、今、私たちが暮らしている場所でもある。
アガルタ世界が完成したら異世界の地球人がやってきて……地球人と私たちアガルタ世界人は、共存できるんだろうか?
もしかしたらアガルタ人は追い出されてしまうかもしれない。
真実の世界がどちらなのかというと、私は判断に困る。
どちらも真実の世界なのかもしれないし、もしかすると向こうの方が偽りの世界で……そんなことも考えたけど。
でも私はこの世界が地球人の精神福祉、ひどい言葉で言えば植民地のような目的で作られたということを知っていた気がする。
アガルタ世界のほうが、虚構だということも。
――こんなこと、アガルタ世界の誰にも言える訳がない。
こればかりはロイにも言えない。
知ったとしても、ロイは外に出られないから。
造物主の決定の前では、私たちは哀しいまでに無力だ。
今、アガルタ世界人には、異世界の「人間」である赤い神様は本物の神様のように見える。
そう見えるってことはそれがそのまま、地球とアガルタ世界の間の技術格差を示している。
もし私たちが地球人と対等な議論の席に着こうと思ったら、感情論や善悪は抜きにして、地球人がこの世界にやってきたとき、最低でも異世界人と同じ知的水準、技術水準にいなくてはならない。
望ましくは、地球人の技術力を追い越していてほしい。
でなければ、搾取されてしまいかねない。
二つの世界の住民が平和に共存できるなら、それが一番いい。
アガルタ世界が地球世界の技術に追いついていれば……力関係も一方的なものにはならないだろう。
地球人もアガルタ世界の人間も、同じように感情があって、家族がいて、好きな人がいて、誰かを大切に想っていて、せわしなく日々を精一杯生きている。
私たちの存在は、虚構なんかじゃない。
そのことを、お互いが分かり合えるようになってお互いに一定の敬意を持って接するためには……アガルタ人の存在を、利用価値という冷酷な基準ででも地球人に認めてもらうしかない。
地球人にとってアガルタ世界人は人間ではなく、モノだから。
モノは心を持たないと思われているから。
私がこの世界に齎そうとしているものは造物主への叛逆であり、得られる結果は破滅なんだろうか。
それでも私たちアガルタ世界人は地球人に与えられた束の間の楽園を享受するだけではなく、アガルタ世界の真の希望へ繋がる道をさぐらないといけないと思うんだ。
もう、後には引けない。
迷うべき時期は過ぎた。
覚悟を決めて、ロイを呼び出した。
ごめんね、ロイ。
君を巻き込むことになるけれど、どうしても君にしか伝えられないんだ。
呼び出されてやってきた彼は書類をたくさん抱えて、いろんなことを同時並行してやっているみたいで大変そうだった。
でも、私が「私がいなくなったあとのことを話しておきたい」と言ったものだから、時間を作ってくれた。誰も居ないシツジ小屋近くの沢、そのほとりにごろんと転がった大岩の上に、向かい合って腰をおろす。私はまず、こちらもロイと同じぐらい準備していた分厚い資料を示しながら、これから手をつけたほうがいいと思うことを順に打ち明けた。
最初のページで、ロイの手が止まる。彼は目ざとい。
「教育制度の拡充? わざわざ? これまでにもまして?」
「そうなの」
私は頷く。
「モンジャだけではなくて、世界規模での?」
「そう」
さっきより少し力をこめて、私は頷く。
「他国の教育制度にまで干渉しすぎるのは、いいことだとは思えない……各国が抱えている事情も考慮しないと」
ロイは気乗りしないみたいだ。
何故といって、赤い神様から教育を受けた移民ではないモンジャの民の教育水準の高さはいまだに世界一で、決してカラバシュの技術者にも引けを取らない。
農林水産業で生計を立てているモンジャの民は軍隊を持たず、特産品も他国の自給率の高い食料、衣料品が主なので、高度な学問拠点となることで国際的な競争力を保っている。
その強みを手放すのを、彼は懸念しているんだ。
「事情はあると思うけど、別々にではなくて並行して取り組んだほうがいいと思う。次の国際会議でそれを呼びかけてみてほしいの」
すぐにとはいかない。
でも、それは早ければ早いほうがいい。
こうしている間にも1年、2年経ち、アガルタ世界の子供たちは育ってゆく。
発達段階に応じて、教育には受けるべき適齢期がある。
遅れれば遅れるほど、教育機会の損失が生じる。
アガルタ世界人同士、国家間の摩擦を乗り越えて協力し合わないと。
「メグの言いたいことはわかるけど、各国難民の生活の基盤を整えることが第一で、基礎・高等教育はその後だ、余裕がない」
ロイがそういうので
「読み書きと計算ができるということは、技術の習得の高速化と、知の共有、国際協力のための第一歩なんだよ。だから、教育は生活の基盤を整えることにもつながるの。現在の各国の識字率は、グランダが78%、ネストが12%、タコヤキが36%、カラバシュが48%、そしてモンジャは?」
私がそこで一息置くと、ロイが後を続けた。
「モンジャは100%だ」
そうだよロイ。
些細なことだけど、百分率を言っても、他国では通用しない。
百分率はモンジャでだけ通用するのが現状だ。
「そう、モンジャでは当たり前のことが、他国では当たり前じゃない」
この状態では、他国と知識を共有することができない。
それはひいては、技術開発の立ち遅れに繋がってしまう。
今、青い神様から教わった医学はモンジャの民には理解できても、他国の民に伝えるのは難しすぎる。現にそう、今もモンジャの民が神々の知識を独占している。
この状態は、早急に対処しなければならない。
「それはこの地域が比較的豊かで、食べ物に困らず、労働と勉学を両立させることができたからということもあるが、赤い神様が最初に俺たちに施してくれた教育のおかげだ。俺たちは恵まれていた」
ロイはすかさずそう言った。
ロイは赤い神様のことを認めているし、感謝しているんだって、言わなくてもそれが伝わってくる。
赤い神様と意見が違ったりしても、殴りかかりそうになったって、心の底では反目していない。
だからこそ教育の不均衡の是正をうったえれば、赤い神様は許して下さると思う。
彼は最初に、私たち始祖と呼ばれる民に教育をほどこしたのだから。
「今、各国ではモンジャと違って官僚や貴族しか教育を受けていないみたいだが、誰もが教育を受けられるようになるべきだとしたら、教材と、教師の養成と、学校の整備をしないと」
「教材の作成と教師の養成は、モンジャの人たちがやってくれると思う。仕事として成り立つならなおさら。モンジャに学びに来て貰うだけじゃなくて、モンジャから教師を派遣してもいいと思う」
モンジャの民は、お人よしで、教えたがりだ。
だから、先生に向いていると思うんだ。
「教育の拡充については分かった。提案をしてみよう」
「お願いね」
国際会議が開催される頃には、私はいないから、ロイでなくてはいけないんだ。
もしかしたら荷が重くて、ロイへの風当たりも強くなると思うけれど。
それは最初に整えておくべき基礎で、今のアガルタ世界に絶対的に必要なこと。
「それからね」
私は話を続ける。
「それから?」
「私と兄様は、モンジャではじめて電灯を作って、数秒間だけ夜を照らしたんだ」
「こっちに帰ってきて皆から話を聞いたよ。驚いた。メグとナズはすごいよ」
ロイは感心してくれているみたいだった。
電気の価値は、ロイにも十二分に理解できている。むしろ神通力や神雷をも操る彼にかかれば、電気の性質に関しては、私たちより詳しいぐらいだ。でも、電気で何ができるのか、ロイは私たち以上には知らない。地球世界で電気に支えられ、依存しきった暮らしをしていた私たち以上には。
「夜に消えない灯があれば、皆が喜ぶな。長時間もたせるには……」
「それも必要なことだけど、電気を使うには大規模な発電が必要なんだ。電池を大規模化するのではなくて」
根本的に、電池は発電効率が悪すぎる。
「発電……か。電池ではない発電というと、色々できそうだけどな」
ロイは両腕を組んで呟いた。ロイの頭の中には、理論上の発電方式が山盛り思い浮かんでいるんだろうけど。理論から実用へ。私たちの学んだ科学から、応用工学へと踏み出すときがきたんだ。
「私は、電池の代わりに電磁誘導の原理を使った銅線と石での発電方法を考えてみたんだ。直流電流を取り出せるの」
その原理とヘタクソな図をしたためたページを彼に示す。
「直流……?」
ロイが怪訝な顔をする。ごめんね、下手な図で。兄様みたいに、上手くは描けないんだよ。
「流れる方向が一定の電流のことだよ」
「一定でない場合もあるのか。どんな用途に使えるんだ?」
ロイは目を輝かせて喰らいついてくる。こういうとこ、昔から変わらない。
「その場合は、交番電流といって、正弦波で小刻みに電流が変化するんだけど……」
書き損じた裏紙に、私はさらさらと正弦波のグラフを書く。
「直流のほうがよさそうに見えるな」
私もそう思うよ。
「どちらにも用途はある。交流だと電気を遠くまで送ることができて、電圧も調節できる」
「大規模に発電して電気を送るなら交流が適しているってことか。その大容量の電気を、何に使うんだ?」
「電気を使った機械を作るんだよ、電気エネルギーを運動、熱、光エネルギーに変換するような」
電気機器を知らない人に、その利便性を説明するのは難しい。
具体的な電気の利用法は、資料に書いてある。数え切れないほど。ロイは資料に目を通しながら空中に四角形を描いた。赤い神様も使徒さんたちもよくやるこの動作。ロイが見ている側から空中に描かれた四角形のあった辺りをのぞくと、今の私にはロイの見ている情報が見える。これは地球世界の人が使う、情報を取得したり整理する窓なんだろうと思う。
「ねえ、それ」
私は的確にその場所を突き止めて、ロイの手首を掴んだ。
「どれ?」
ロイはすっとぼける。
「ロイの見てるそれ、その窓だよ」
「驚いた、メグにも見えるのか」
「見えるよ。それで何ができるの?」
「複雑な計算ができたり、化学式も使える。あとは、赤い神様や使徒たちと連絡がとれる。俺がカラバシュに行っている間に赤い神様からいただいたんだ」
「そうなんだ……じゃあ、赤い神様のそれは見たことある? 赤い神様が見ている方向と同じ方向から見ると、見えたりしない?」
「やってみたが、俺には見えなかった」
ちゃっかり試しているところが、さすがというか。
「それも、電気を利用した異世界の技術のひとつなんだ」
「俺の理解を超えているよ」
「でも、こっちの世界でもそれと同じことができないわけじゃない」
そう言ってしまっても、いいと思う。
「本当なのか!? どうやったらできるんだ?」
半分ははったりで、もう半分は、本気。
絵空事では決してない。赤い神様にできることは、私たちにもできることだ。
「気の遠くなるような過程が必要なんだ……。まずは電力があって、精密機械を作れる技術力があってね、それから……」
「気が遠くなるな」
彼はため息混じりに呟いたけど、それは諦めたからじゃない。
むしろ、これからの目標を見つけてやる気に漲っている、そんな表情だ。
「そうだ。ロイはその窓で物質構築ができるようになったんだよね」
「ああ」
「それって、形状まで指定して構築できる?」
「それは無理だが、この光板で示された位置に座標は指定できる。ただ、あまり大きなものは作れない」
物質を点描のように構築できるってことかな。
「なら、極小単位での設計もできるってことだね」
「小さいものには制限がなさそうだ」
「なら、ロイなら作れるかもしれない」
私は、モンジャとグランダの一部でだけみられる、ある現象を思い出した。
そう、神殿を中心とした領域は、空気が清浄なんだ。赤い神様の神気が満ちている、完全なる聖域。
その空気中には塵ひとつ存在しない。
それはあるものを作るのに必須の環境でもある。
「何を」
ロイは私の言葉を待っていた。
それはもしかしなくても、気の遠くなるほど長く苦難に満ちた挑戦の始まり、あるいは二つの世界を冷戦へと駆り立てる端緒になるのかもしれないけれど。私は彼に、朧げながらに覚えている電子工学の原理を伝えてここを去る。
向こうの世界では、電気電子工学は必須教養科目だったおかげで、私は少しばかりその基礎を知っている。知識がたとえ漠然としたものであっても、物質を創造する力を神様から許されたロイならば限りない試行ができるし、理論に支えられた頭脳も分析力もある。技術史は間違いなく、加速するだろう。
私の夢の中にいる桔平くんに、心の中で問いかけた。
彼がもし無力なアガルタ世界人だったら、造物主である地球人とどう向かい合うだろうって。
地球人と対等となるためには?
「は……」
声が震えた。
でも彼なら多分こうするだろうということを、振り絞るように言い切ったんだ。
「半導体を作ろう」
それを使って電子回路を組み上げ量子回路へと応用し、そして地球人と同じように……。
計算するんだ。
私たちもまた、向こう側の世界を。




