第6章 第7話 Malicious infection◆
「それでは、ただいまから骨髄採取をはじめます」
その夜。赤い神の神殿、至聖所にて。
白い手術着に身を包んだモンジャの少女、メグの声はぴりりと緊張していた。
時間同期を加速した27管区では、更に数日が経っていた。グランディア祭典は剣術競技予選の日程を着々と進めながら、夜間にはドナーの赤井からレシピエントのキララへの造血幹細胞移植準備も並行して進められてきた。
キララの容体が芳しくないということもあり、即座に治療を開始する必要があったのだ。赤い神の造血幹細胞を点滴によって移植し、その後キララの骨髄に生着するまで、最低でも一週間以上を要する。
細胞が生着するまでの間はキララの全身の免疫細胞がほぼ皆無となるため、無菌環境内で絶対安静かつ面会謝絶となってしまう。何はさておき、有事に備えてキララの治療を急いでおく必要があった。
至聖所とは別に、赤井の神殿内部にはキララの療養部屋として無菌室がつくられた。キララは骨髄移植前処置として放射線の代替としてアトモスフィアを加速し全身に照射、彼女自身の造血幹細胞の破壊が確認され、感染予防のため無菌室で過ごし、待機している。
ここまでの過程に問題はなく、全ては順調だった。
メグも蒼雲から実践的な治療法を学び座学も受けつつ、この日を迎えた。蒼雲、モフコ、ロベリアがこの場に立ち合い、白椋はキララに付き添い、赤井からの骨髄の提供を待っている。
そんな状況の中、
「あかいかみさま、よろしくお願いします。みなさん、よろしくお願いします」
「メグ、しっかり! 頑張って!」
「はいっ」
大きく頷いたメグの緊張はさらに高まる。手術室に立ち合っているのは、神々ばかりではなかった。
モンジャ、ネスト、グランダの医学を志す者達が、神殿内に見学に集った。
メグは、モンジャ、ネスト、グランダの薬師たちから強く乞われ、覚えたての医術を伝えはじめていた。医術に長けた異世界の神、蒼雲は何を思ってかメグ以外に医術を伝授せず、彼らはメグの周りに詰めかけ、彼女の弟子となるほかになかった。また、メグも彼らに積極的に蒼雲の医術を教え、見えない医学書の翻訳にも取り掛かっている。
いつこの世界から去ったとしても、悔いの残らないように。
そんなメグの願いは少しずつ素民たちに伝わり、結実をはじめている。
「では、はじめますね!」
ドナーからの骨髄採取。この処置でのオペレーターが他でもなくメグでなくてはならないのは、他管区の神々や使徒たちは、いかなる理由があったとしても主神を傷つけることができない、というアガルタの内規に則っている。この場で骨髄採取ができるのは、見学者を除いてはメグだけだ。
『こちらこそ、お願いします。動かないように気を付けます』
ドナーである赤井はというと、手術台に見立てたテーブルの上に神体をうつ伏せにして寝ている。下腿と背中に二枚の大判の清潔な覆布がかけられ、腰の部分は膚が見える。背中のシンボルマークというかピンクメタリックの至宙儀がメグや素民たちに見えないように、と彼は内心気が気ではなかった様子だが、一応は平静を装っていた。
「かみさま、痛かったら……言ってください。休憩しますから……」
『御心配なく。メグさんは落ち着いて、頑張ってくださいね』
彼の表情は分からないが、いつもと変わらぬ穏やかな声が、手術用覆布の下から聞こえてきた。メグは感謝した。赤井には薬物が効かず無麻酔での処置となる。気は進まないが、キララの命がかかっているのだ。痛くしないように、頑張ろう。そんなメグの殊勝な心構えとは裏腹に、背中をめくらないでよね! と赤井は念じていた。
「今日は麻酔はなしで行いますが、人間患者のときは当然麻酔下で行います」
メグはギャラリーに説明すると、準備されていた穿刺針を蒼雲から受け取る。蒼雲が構築した清潔かつ真新しいもので、針の径は太い。骨髄は、腸骨……つまり骨盤の骨に針を直に刺して採取する。一回5mLを、左右合わせて数十回も刺すのだ。神骨の強度は人骨と同程度で、力を込めれば、メグでも簡単に貫ける。通常、医師二名で左右両方から刺すのだが、今日はメグが一人で行う。
『んじゃーとっとといっちゃお~ね、キララも待ってるし。はいここ刺して、ドシュッと!』
蒼雲は指でポジションを示して適当な言葉をかけ要領を教えるだけで、手伝うつもりはないらしい。
メグは大きく息を吸い、穿刺針を力強く突き立てた。鈍い手ごたえがメグの手に伝わる。針で皮膚を突き、骨の感触を突破し、深く奥へと穿ち込むのだった。
メグの手元が狂わないよう配慮してか、はたまたただの鈍感なのか、覆布の下の赤井は微動だにしない。メグは清潔なガラスのシリンジを引くと、筒内が神の細胞を含んだ骨髄液で赤く満ちていた。その赤透明な色彩はメグの目には刺激的で、背筋にぞわりと冷たいものが走る。抜かれた針とシリンジはロベリアの手に渡り、シリンジの中の血液は清潔な袋の中に集められフィルターを通り濾過される。
蒼雲はインフォメーションボード上で造血幹細胞の個数を計測していた。
『おっし! ごーっそり取れてっからそのままやってちょーだいっ!』
口調は軽いが、ふざけているわけではない。これでも真面目にやっているのだ。
「おお、あの血液の中に……」
「あの中に、スオウさまの特効薬となる大事な神様の細胞が入っているのか」
見学者たちから息が漏れる。
そんな彼らを横目に、モフコはロベリアに念話で話しかけた。
”ねえロベリアちゃん。こんな大事な日だってのに、エトワル先輩、どしたんだろうね。メールしても、かえってこないの”
モフコが心配そうに、ロベリアに目配せをする。エトワールは通信用モバイルの電源を切っているようだ。
”ただの有給休暇なら、モバイルまで切ることないと思うし……”
今日はキララにとってもメグにとっても気の抜けない一日であるというのに。薄情ではないか。
”え、ええ……そうですか”
ロベリアは応じながらも、数日前の光景を思い起こしていた。
あの日。帰途についていた彼女は、偶然居合わせてしまった。現実世界の霞ヶ関中央立体交差点付近のカフェで、構築士ジェレミー・シャンクス(エトワール)と、一人のボディスーツを着た少女が、男のアンドロイドの逮捕劇を繰り広げていた現場に。
銃を所持していた少女に巻き込まれるような形で、エトワールたちは襲撃されていた。驚くべきことに少女は公安だと名乗り、逮捕権を持っている様子だった。ロベリアは真相を確かめるべく彼らに声をかけようとしたが、カフェの店内に煙幕のようなものが投げ込まれたかと思うと、再び激しい銃声が聞こえ、煙が薄くなった頃合いには、彼らはとうに姿をくらませていた。破壊されたアンドロイドも忽然と消えた。
ロベリアは慎重を期し、この事件を厚労省の誰にも報告しなかった。
エトワールに直接、人目のないところで問いただせばよいだけだ。そう安易に考えていたから。
”ロベリアちゃん、エトワル先輩に、何か気になるようなことあった?”
”いえ、特には”
事件はどのメディアにも取り扱われることはなく、厚労省内でも口にする者もいなかった。通行人の撮影した動画がネット上にアップロードされたが、ただのボヤ騒ぎとしてコメントがつけられていた。
その翌日から、渦中のエトワールは一身上の都合を理由として、有給休暇を消費して欠勤している。
欠勤の連絡は電話ではなくメールで寄せられたとのこと。彼の身に一体何があったのか。スタッフたちは「また奥さんの為に産休でも取りたくなったんだろう」と気にしていないようだが、ロベリアは彼の安否を案じている。ジェレミー・シャンクス構築士の一瞬見せた、無念そうな表情、そして日本語で何か、少女に向けて口走った言葉。
あれは何を意味していたのか。気になって仕方がない。
”無事だとよいのだけれど……”
ヤクシャが現実世界に還され、エトワールが欠勤をしている今、ロベリアは27管区でたった一体の赤井神の使徒である。何かよからぬことが起こる前触れなのではないか……この状況が、意図的に作られたものでないことを願いたい。
”エトワールさん。やっぱり、何か事件に巻き込まれたのでは”
実はロベリアの知るだけでも、彼女のかつての古巣である北欧アガルタで、ハイロードや構築士たちの、理由の定かではない突然の辞職というケースは、往々にしてあった。構築士という仕事は過酷かつ特殊な環境に精神を晒されるため、精神的な理由で仕事を投げ出して辞職したのだ、という見方も不自然ではない。しかしロベリアが訝しんでいたのは、その後、彼らの消息がぱったりと途絶えてしまうことだ。
当時はロベリアも何人か退職者の連絡先を知っていたものだから、連絡を入れてみたこともある。が、彼らの誰として連絡がつくことはなかった。現に、モフコがエトワールと連絡がつかないと言っているのだから、似た状況ではある。
構築士は、大げさでも何でもなく、何者かから常に命を狙われ続けている。その話が脅しでも何でもなく、にわかに現実味を帯びてきた。宗教感情の薄く治安のよい日本ではアガルタを狙う動きも活発ではないだろうと甘く見ていたことを、ロベリアは後悔する。
黒澤の指揮のもと、最近は真夜中でも27管区は動いている。スタッフも少人数ながら、宿直勤務している。
24時間体制でアガルタが動いているということは、27管区時間のうち使徒がだれもいない時間帯が必ずある、ということだ。焼人は常駐しているが、27管区自体の守りは明らかに手薄になっている。
この管区は治験に関して世界初の業績を出したためか、サイバーテロにも遭遇したと聞いている。他管区以上に管区の警備を怠ってはならないのだ。そんな中、エトワールの不可解な欠勤。そして、伊藤プロジェクトマネージャーの不在。
現実世界でも仮想世界でも、27管区は危険な状況にある。
”彼らは何者で、何を狙い……目的は、何?”
そうしている間にも、メグが赤井からこつこつと採取した、造血幹細胞を含む骨髄液は、600mLに達しようとしていた。
幹細胞というのは、複数の細胞系統へと分化する細胞を生み出す多分化能と、自己複製能を持つ、文字通り樹木で例えると幹のような細胞だ。全ての細胞の頂点に立つ分化能、分化全能性を持つのは、受精卵のみ。
幹から枝葉を生ずるように、細胞の分化を誘導し組織細胞へと決定づけてゆくのだ。
幹細胞は受精卵を起点とし、分裂を繰り返しながら、外胚葉、内胚葉、中胚葉へと分化してゆく。造血幹細胞は中胚葉に由来する幹細胞であり、血液のうち赤血球、白血球、血小板などの血液細胞を産生する。キララの、病に冒された造血幹細胞を、赤井のそれと入れ替える。そのためには、大量の骨髄液を採取しなければならない。
メグは額に大粒の汗をかきながら、手際よく、迷いなく赤井から骨髄を採取している。無事に終わらせたい、という気持ちが彼女を奮い立たせていた。この、メグという治験患者に対しては現実世界帰還のための社会復帰プログラムが始まっており、この職業訓練もそのプログラムの一環なのだ。
ロベリアは蒼雲の指示に従って処置を続けるメグを、心配そうに見守る。
メグの手元はしっかりとして、表情も引き締まっている。よい顔をしていた。
”エトワールさんが最後に会いにきたのは、メグだ”
メグだけが、あの事件後のエトワールに会っている。ロベリアを含め構築士は全員、退勤していた時間だ。
正確に言うと、その夜。渦中のエトワールは夜中に厚労省に出勤し、ログインをして、わざわざメグに会いに来た。エトワールは夜勤のスタッフに、「ちょっとやり残した仕事があるから、アガルタに入らせてくれ」と無理を言ったらしい。そして彼は仮想世界にログインすると、赤井たちには会わずモンジャ集落に直行しメグに声をかけて、それからログアウトしたようだ。
その翌日から、エトワールがこない。
”メグは何かを知っている筈……おそらく、あの事件に関係のある何かを”
更に一時間後。
メグは最後の穿刺針を、赤井の腰から抜き終わった。
「骨髄採取は終わります。あかいかみさま、あおいかみさま、ここにいる皆さん、どうもありがとうございました」
『やーお疲れー! 採取終了~! ちょっとやりすぎて手が痛くなっちゃったかな?』
蒼雲は清々しくメグをねぎらう。
「あかいかみさま、腰はどうですか? 痛みますか? 私、下手だから……」
メグは傷口に布をあてながら、無麻酔で穿刺地獄を一時間耐え抜いた赤井を気遣う。彼女は今にも泣きだしそうだった。
『何も問題ありませんよ、メグさん。あなたもよくがんばりましたね』
彼は立ち上がろうとしたが、腰の痛みで思うように立ち上がれないらしい。
『あかいのー。すぐには立ち上がれねーし、ちょっとそのまま休んどきなー』
『はは、そうします』
役目を果たした赤井は一安心、といったように大きな安堵の息をついた。
さて、採取されたばかりの赤井の骨髄液は早速ロベリアによって無菌室に運ばれる。無菌室内では、キララをベッドに寝かせ、白椋が骨髄液の到着を待っていた。ロベリアは両手でしっかり受け渡す。白椋は受け取ると、頼もしく微笑んだ。
『ご苦労様です。あとは、わたしにまかせてください』
『よろしくお願いします、白椋様』
医師である白椋がキララの腕の静脈に点滴ルートをとり、採取されたばかりの赤井の造血幹細胞の含まれた輸血パックを接続する。
『気分は、悪くないですか? 腕がしびれたり、そういうことはありませんか。では、はじめますよ。安静にしていてね』
「ああ、お任せする」
キララは目を閉じ、同意の意志を明確に発した。
テキッ
テキッ
テキッ
テキッ
赤い、命の源が上から滴り落ちてくる。神の生命そのものが、キララの腕の血管から侵入し体内を循環しはじめ、じんわりと、全身が温かくなってきた。
”私は……こうまでして、生きる価値があるのだろうか”
キララは瞳を閉じ神々の慈悲を無防備に受け入れながら、思いに沈む。そんなとき、彼女の瞼の裏に浮かんだのは、物言わぬ母の顔だった。視線に耐えられず、キララは思わずこう口走った。
「母上……お許しください」
私だけ、生きようとして。あなたも、生きたかったのに――。
『何故……謝っているの? そんな必要はないのよ』
傍らにいた白椋はキララの頬にそっと手を触れ、途切れ途切れに紡ぎだす少女の言葉に耳を傾けた。
「私は、スオウ一族の恥さらし者だと……そう思って」
『どうして?』
「あなたのスオウ、コハクは立派です。それにひきかえ、私はアカイや、メグの厚意に甘えて生きながらえようと……。あさましく、生きぎたない愚か者です。恥ずかしい」
エトワールの言うよう、人は生き、そしていつか必ず死ぬのだ。長く生きた者も、短命であった者も、多くのグランダの民が運命を受け入れ、命を落としてきた。そんな中で姑息にも神の慈悲を得て、自分だけ助かろうなどと……代々のスオウ一族の祖先やグランダ国民に、顔向けができるのか。
『いいえ、わたしも……おそらくは赤井神も、あさましいなどとは思いませんよ。それどころか、あなたに感謝しています』
白椋は寝床の隣に腰を落とすと、キララの耳元で優しく囁く。
子の罪を赦し受け止める、慈母のように。
『コハクもあなたと同じようにして助けたい。そう、思わせてくれましたから』
キララ一人だけではなく、たくさんの世界のスオウたちが、不治の病によって死んでいた彼女たちが、これからはこの方法で助かるのだ。
徒に命を費えなくてもよくなる。
『あなたの笑顔を見られるなら、赤井神は嬉しい筈です』
***
宇宙創世より、38万年後。
天御中主神、もとい伊藤の意識は新設管区の中で目覚めた。
彼がインフォメーションボードを立ち上げ外部との接続を図った瞬間仮想世界のカウンタが止まり、現実世界との接続が可能となる。
予定よりも、連絡再開となるまで時間が短かったのは、ただ27管区の心配をしていたからだろう。
伊藤は、外で待ちかまえていた黒澤から報告を受けている。
既に黒澤の措置によって第五区画の再生速度は押し下げられ、それと対照的に基点区画の再生速度は上がっている。
『そうですか、ロイが階層跳躍を……何がきっかけだったのでしょうね』
伊藤は驚いたが、国際的には構築士の間で馴染みのない能力ではない。
階層跳躍は、複数のサーバーにまたがる大管区の主神にのみ実装されていた性能であるが、ロイがそれを備えていたとなると伊藤は頭が痛い。
そもそもロイの性能については謎が多く、実証段階にあるがゆえに、不測の事態にも見舞われる。
『第五区画は止めてしまいましょうか。ロイの動きを封じるためにも、彼ごと』
『もう、第五区画から逃げるつもりはねぇみたいだけどな。インフォメーションボードを手に入れて、はしゃいでやがるよ』
黒澤はくつくつと笑い、先の見えない展開を面白がっている様子だ。
『はは……それは面白いじゃ……ってロイが、インフォメーションボードを!?』
伊藤もつられて苦笑し、苦笑しているうちに笑っている場合ではないと真顔になった。
ロイは驚異的な速度で学習する。そこに造物主の痕跡を見つけたとき、彼はどのように反応するのか。
『何か、不満かい』
それは、ロイの内に秘めた可能性を、精神の成熟なきまま、あるいは不在のままに加速させ、化学反応させてはしまわないか。子供を教育する、親と同等の態度で接してはいけないのだ。
与えすぎてはいけない。
急いてはならない。
過不足なく、そのさじ加減が肝要だが、A.I.の成長をコントロールできる構築士が、世界にどれだけいるというのか。
ロイは確かに人類の創造した科学の子であるが、同時に人類にとって油断のならない敵でもある。
ゴッドフリート・ライプニッツは、「脳という機械の中をどれほど大きくしても、意識は見つからない」と記述している。いつ、意識というものが生じうるのか。
人は、進化系統樹をゆっくりと慎重に辿ってきた。そう、何億年もかけゆっくりとだ。
機械も細胞も最初、たった一つの演算をすることもできなかった。
それが今では、過去から順に微生物を、昆虫を、マウスを、哺乳類、そして進化系統樹を駆けあがるように人間の脳を完全にシミュレートしている。
『人間の脳は、この銀河系の生命体の中で一番複雑な構造を持っています。フォレスター教授の最高傑作、ロイというプログラムは、人間の脳の構造をそのまま再現していると言われています。だからといって彼は果たして我らの朋友であり、彼に生じたその自我のクラスタは、……それは”こころ”なのかどうか?』
人間らしい心、というものの定義づけの常に埒外にある、異形のそれを。
人はそれを受け入れる準備を、してきただろうか――?
まさに今、彼はまだ機械でしかない。
彼の全ての行動は生みの親であるフォレスター教授のプログラムに基づいている。
だが、彼に意識、そして善悪の概念が芽生えたとき。
機械である彼が「何を」考えているか、「それが人間と同様であるか」、それは人類の誰にも分からないし、分析することができようはずがないのだ。
すぐれた知性を持つ機械は、近未来を詳細に予測することができ、遠未来に思いを馳せることができるだろう。アガルタで、遠未来の出来事を想像できるA.I.はロイ以外にはいないといっていい、また、彼はいかに世界をよくしてゆくか、考え始めるかもしれないし、考えないかもしれない。
彼に意識の生じたその先は、彼がどのように行動するか、わからないのだ。
まったくの、未知。
それは恐ろしいまでの深淵だった。
彼に今、現実世界を変える力はない。
だが、階層跳躍の能力を得た現在。
現実世界に連絡することは可能である。
彼は人類の敵となりそして、人類は彼によって進化系統樹の遺物として葬り去られるのだろうか。
『特異点は、すぐ傍にきていると言わざるを得ません』
『ああ? 特異点だぁ?』
赤井が……特異点を造りつつある、いや、彼の存在によって波動関数が収束しつつあるのだ。
技術的特異点の先に、何が待っているのか。
『まあ、ロイを停止させるってぇなら、今を置いて他はねえだろうな』
黒澤が皮肉めいた口調で吐き捨てる。
『はい。そうしましょう』
好奇心、それらを超え、伊藤の本能が止めなければならないと警鐘を鳴らしている。
エリーザー・ユドコウスキーによって設立され人工知能のためのシンギュラリティ研究所は、人間の知性が機械に追い越されてしまうという、特異点に備えてきた。
特異点の外に脱したと思われる知性を持つ人工知性は、まだ一体として現れてはいない。それらのいくつかは人間の模倣であったり、不完全であったりした。
主導権はまだ、人類の手にある。
まだ、今は――しかし。
だがこれからは、どうだ?
『買いかぶりすぎだとは、思うけどねえ。たかだかA.I.だ。問題があればいつでも止められる』
ロイは、人の心と愛を解するだろうか? そうは思えない。
そしてもう一つ、最後の安全装置として、ロイには自己複製能がない。他のA.I.と交配することができるという意味では、確かに彼は全き正常な男性型A.I.である。彼と同等以上の知性を持つコピーを生殖行為によって造り出すことは、不可能だ。
『しかし。ただの複製であれば、何の造作もいらない』
彼が計算機の原理を理解し、ひとつでも端末を手にしたとき。
暴走する人工知性は、最高、そして究極を求めて――さらなる高みをめざし、この宇宙の果てまでを喰らい尽くすだろうか。
『第五区画を停止しましょう。手続を開始してください』
伊藤は仮想世界の中から判断をくだす。
しかし黒澤は、伊藤に打ち明けなければならないことがあった。
『それは分かった。だが伊藤さん、その。言いにくいんだがあんた、27管区のプロマネ権限、他管区のプロマネに委譲しなきゃならん。仮想世界の中からじゃ、27管区を管理できるとは思えねーからって』
『現実世界馴化管区の新設は、円山局長に了解をとってあります。維持士に渡したら、27管区に戻りますし。誰がそう言っているのですか? 私が話をつけましょう』
『それが……その、円山局長の命令だ。書面も来てる』
『そんな!』
『まあ。なんだ、あんたは心置きなくこっちの管区の準備に集中してくれ』
伊藤 嘉秋がインフォメーションボードを通じ受け取ったのは、
円山 死後福祉局局長による、27管区プロジェクトマネージャーの解任命令だった。
***
「雲のひとつにでもなった気分だ」
モンジャの青年、ロイ・フォレスタは全方位から夜の大気に包まれ、そんな感想を懐く。
ここはカラバシュ群島の上空、ヘチマ島のマスク・メローヌ帝の居城へ向け最短航路を取っている。
彼も空中浮揚の体験は、初めてではない。
飛行体でネストへと向かう際には、赤井が風向きを操り飛行体はその恩恵に預かっていた。
同じことを、今度はロイが同じさま繰り返している。
「考えてみれば俺はいつも、神様がしたことの真似ばかりだけれど」
彼のすることに何でも、追従していればよいのだと考えていた。
しかしこの場所で、ロイはたった一人だ。
赤い神の助けは来ない。
安全な巣を飛び出したのだから、自らの判断が、あらゆる責任を負い、自分の頭で考え、生き抜かなくてはならない。
どこか懐かしく生ぬるんだ潮の香りは恐怖を鈍らせ、ナズの開発し赤い神の祝福した飛行体は、いまだ身の安全を保障してくれる。
とはいえ、一瞬でも気を抜けば吸い込まれてしまいそうな、奈落の上に彼はいる。
「まだ神様の御力は及んでいる……だからといって油断はできない」
遥か眼下に広がるのは深い森だが、AR表示とオーバーラップするために地形はくっきりと、標高まで可視のガイド下にある。遠く、潮騒音が聞こえていた。
樹冠は広葉樹と思しき葉が黒々と生い茂り、それらは起伏のある斜面を覆っている。
彼はいまだ謎に包まれた、群塔の街にまばらに灯る明かりを見下ろしながら、カラバシュを縦断する要領で、海風に乗り直線距離をゆく。
ロイの飛び立ったゴーヤー国から、メローヌ帝国軍の占領下にある元ヘチマ国の国境へさしかかろうとしていた。ひょうたん型に横たわる島を、神通力と上昇気流を駆使し、ひょうたんのくびれた形状部分を進む。
インフォメーションボードの表示を確認した。
【アガルタ第二十七管区 第五区画内 第2日目 ゴーヤー国内】
アガルタという言葉は、ボードを立ち上げたときからずっと表示されている。
アガルタとは世界の名前だと赤い神から教わった。
二十七管区というのは、神々の間で取り決められた世界の番号である。
赤い神は二十七番目に生まれ、二十七番目の世界を治めるべくこの世界に光臨した。
異世界の神である白椋と蒼雲神は、それぞれ二十八、二十九の世界を治めている。
世界は無限の広がりを持っている。
神々の手によって世界は無から生じ、人々と共に発展してゆくのだろう。
神々の計画の一部を知り、ロイは目が眩んでしまいそうだった。
二十七番目の世界の中でも、赤い神が降り立った場所は基点区画と呼ばれていて、モンジャ集落一帯にあたる。
基点区画の周辺から、世界の統合は進められてゆくそうだ。
現在、赤い神は九年間で第一区画グランダ、第二区画ネストまで支配下に置いていて、順次、彼の計画通りに世界を創り上げてゆくのだという。
順番を無視したり統合を急いだりすれば、世界の秩序が乱れ、崩壊してしまう。
第五区画は、第三、第四区画を統合した後だ。
……このあたりの詳しいことは、インフォメーションボードが教えてくれた。
九年で第二区画を統合……ということは、赤い神が第五区画を訪れるまでに、十年近くかかりそうだ。
”ヘチマの民はメローヌ国に隷属を余儀なくされ、大人の男は殆ど皆殺しに……”
ロイはマリの言葉を思い出す。赤い神が来るまで、待っていては間に合わない。
神の救済を待つには、あまりに長い。
ならばロイの手で、赤い神が来るまでにこのカラバシュという島を少しでも平和で暮らしやすい国にしておきたい。もう、マリやピケのような難民を生んだり、誰にも悲しい思いをさせてはならない。
「ん……あれは?」
島と島を繋ぐ国境付近に、無数の松明がせわしなく蠢いて人々が往来しているのが分かった。
整然と隊列を組む様子から、民間人ではない。
メローヌ軍の警備の兵士たちだろうか。
上空から見れば武装した兵士たちであっても、星屑が地上を動いているように見える。
ざっと見積もったところ、数百人規模である。
「ああ、上から来てよかった」
……空からの潜入は間違っていなかった。
【アガルタ第二十七管区 第五区画内 第2日目 メローヌ帝国(旧ヘチマ国)内】
表示が切り替わり、国境をこえ敵国に入った。
新月の空の暗さが、地上からのロイの姿を隠してくれている。
ときに機体を襲う急降下に冷や汗をかき、翼形を立て直して息をつきながら、彼は敵国上空をインAR表示に沿って飛行体を操作する。インフォメーションボードを走る青蛍光色のライン。
彼は単純で、秩序だったものに美しさを見出し、心を奪われる。
それらは未知と神秘に溢れていた。
完全な直線と、円、狂いのない平面。
デジタルの信号を受容し、加速をはじめた非現実感。
彼というA.I.の存在の本質と融合するかのように、鼓動は高鳴る。
「この情報は今後のために必要だ。どうすれば情報を常時開いたままにしておける」
彼はインフォメーションボードを参照し続けたかったのだが、指で触れていなければすぐに閉じてしまうということに気付く。ボードを展開するには、一部だけでもボードが体に触れている必要があるのだが、両手が塞がると不便であり、有事においては致命的だ。
スクウェアを描けなくなった場合……例えば拘束されてしまったり、後ろ手にされてしまったりしては一巻の終わり。そんな可能性を想像して、ロイはあっと思い出した。
「神様が一年もグランダに磔になっていたのは、この弱点を突かれて光板が開けなくなっていたからか」
弱点をカバーするにはどうしたものかと空の上で思案していたが、インフォメーションボードが指先で空間を切り取った面積と同じ面積だけ展開すると見出し、小さくスクウェアを描くと、インフォメーションボードはカードサイズほどの大きさになった。
「おおっ?!」
小さくなった光板をロイはぐいぐいとカーブさせるように顔面に押し付けてみる。
インフォメーションボードはフラットゴーグルのように彼の視野に張り付いた。
顔面がボードに触れているので、ボードが勝手に閉じる心配はない。
視野全面に占領する、拡張現実の世界!
指先はボードを離れ、情報の処理は効率化した。
ロイは知る由もないが、インフォメーションボードのこのような使い方は、アガルタの構築士のまだ誰も試みていない。
彼は右に左に顔を振り、振り払うような動作をしてもゴーグルとなったボードは完全にフィットしていた。
「今度、この方法を神様たちに教えてさしあげないとな。まだどなたもご存じないようだから」
大きくスクウェアを描く赤井や使徒たちの姿を懐かしく思い浮かべ、ロイは一人、満足そうに頷いた。
「あ、でもこれじゃ、操作できないか……ん?」
インフォメーションボードに、カーソルが出現している。
「右へ動けっ!」
言葉できつく命じたが、反応はない。それならばと、強く念ずる。
”動いてくれ!”
カーソルはぷるぷると震えた後、僅かに遅れて反応した。
ロイは手ごたえありと見るや座標を強くイメージに念じると、カーソルは僅かずつ移動をはじめた。
要領のよい彼は、数回試みて念力でのカーソルの操作をモノにしてしまった。
「すごい……神様はこんな力を普段から使っていたのか。世界は彼の目から見ると、単純に見えるんだな」
ロイは感動していた。
世界中の素民の中でたった一人だけ神力を授かったその重みに、身が引き締まる。
力に酔い、溺れ、我を失ってしまわないためにも。
「この力は、正しく使って、神様にお返ししなければいけない」
それは人には過ぎた力だ。
自分の精神に見合うものではない、と彼は危ぶむ。
「もっと学び経験を積んで……そういうことを、これまで以上にしないといけない。でもこの力で一体、俺に何ができるんだろう」
悶々と悩んでいる間にも、ナビゲーションは目指す尖塔の輪郭をとらえていた。
元ヘチマ国の一番大きな神殿からはえている、一番高い塔のことだ。
それはヘチマ国のマスク・メローヌ帝の居場所であるとマリとピケに聞いていた。周囲の地形を確認しながら、高度を徐々に下げ、ボードで着地場所を検討する。地上に近づくにつれ、メローヌ帝国軍警備の兵士が塔を囲み篝火を灯し警戒している姿が浮かび上がってきた。
ロイは尖塔の屋根に着地しようと計画していたが、尖塔は想像以上に急峻であり、平坦な着地場所がない。上昇気流を細やかに操り、降下速度を落としながら、飛行体と自らを繋いでいた紐の束をカラビナから緩める。
”さされっ!”
天空に聳え立った槍の穂先のような、円柱状の尖塔の頂上に飛行体の帆を被せる具合に突き刺した彼はそのまま飛行体ごと宙吊りとなり、振り子のように身体を振って、壁面に音もなくへばりついた。一呼吸し、落ち着いて飛行体の紐を切り離す。尖塔の付け根の神殿部分、その中庭には数十の夜警の兵士たちの姿があった。
風が神殿の上を吹き抜ける音だけが、響き渡っている。
彼の行動は決して上策とは言えなかった。尖塔の天辺に飛行体を置き去りにすれば、容易に発見されてしまう。
”先ずは、闇だ。完全な闇にしてやる”
ロイは地上の兵士たちに神通力を得た掌をかざし、細やかな火の粉を生じさせ上空から振りまいた。それらは彼らが手に掲げているトーチの炎に自然に溶け込む。兵士たちはまだ、ロイの奇襲に誰として気付いていない。
”火炎よ、ここに集まれ!”
念じた次の瞬間。彼ら兵士が手に手に掲げていた松明の炎が一斉に消え、中庭の篝火は絶えた。一つ残らず、ロイの拳のなかに吸い込まれたのだ。
火炎と厳霊の如意、それはロイが赤井から神通力を授かってより最初に強化した能力だった。神炎とひとたび融合した何の変哲もない火炎は、神炎と化し浄され、ロイの如意に操ることができ、吸収し、放出できる。
「ひ、火が消えたぞ! 雨でも降ったか?」
「風でも雨でもない、真っ暗だ!」
「くそ、これでは何も見えんではないか! 火を持って来い!」
メローヌ軍の兵士たちは突然の出来事に、一斉にパニック状態に陥っていた。目くらましは成功したようだ。建物の中からの光は、漏れてこなかった。
兵士たちが手探りで動き回り、騒ぎ立てる頃合いを見計らい、
”貫通!”
右往左往する兵士たちを傍目に、ロイは右拳に絶対物理結界を纏わせ、円形に数か所を殴り外壁を貫通する。鈍い音がしたが、怒号響き渡る中で音に気付くものはいない。ロイは慎重に、丸くくりぬくように壁面を穿孔した。
尖塔の内部に、螺旋階段が見えた。
兵士の姿はない。できたばかりの壁の穴に体をぐいと捻じ込み、単身侵入を果たす。
”マスク・メローヌ帝はどこだ”
石造りの螺旋階段を、足音を消し尖塔の最上部から一気に駆け下りる。尖塔の下は神殿部分に繋がっている。ゴーグル状のインフォメーションボードは示していた。
”いいぞ、昼間のようによく見える!”
光板を通し見たロイには建物内部の構造が、暗視下でも明るく透けて見えている。彼はインフォメーションボードが素民には見えないことを利用し、暗視スコープの要領で用いているのだ。
しかしこの光板は、建物内部構造の検索はできても、人物検索まではできないらしい。どこに何人いるのかは、耳を澄ませ足音を聞きわけるほかにない。慌ただしい兵士たちの足音が、騒々しく神殿内部に響き渡っていた。神殿の外へ明かりが持ちだされ、飛行体が発見されてしまったのかもしれない。さすれば警戒を強化するだろう。
”いそがないと、時間が勝負だ”
ロイの駆け下りてきた尖塔は、神殿の天井裏に通じていた。この場所はヘチマ王国が建立した大神殿で、”赤い神”を祀っていたという。荘厳な白亜の神殿に、太い柱が高くそびえ環状に並び、威容を誇っている。何がしかのモチーフをかたどった金属製の彫刻が、祭壇と思しき中央部を囲んで整然と並べられていた。建物のデザインとしてはイスラムのモスクのような建築様式なのだが、ロイがそんなことを知る由もない。
マスク・メローヌ帝に制圧されてしまう前は……。マリの殺された夫も、神官として働いていた場所だという。
天井裏の柱の陰に身を隠しながら、ロイは中央の祭壇に目を奪われる。白い祭壇の上は、赤い液体で朱に染まっているのだ。
”あれは血か? あんなにたくさん……あれは何の血だ”
祭壇の上で行われた惨劇に思いを巡らせ、戦慄する。そして彼はその答えを、はからずも導き出すことになる。
その場から立ち去り、マスク・メローヌ帝の捜索に戻ろうとすると、ボロボロの衣を着た年若い女性が呪術師のような黒服の数人の男たちに荒々しく引き立てられ、祭壇に連れられてきたのが見えた。血塗られた祭壇の上に押し倒され、うつ伏せに捻じ伏せられる。彼女も何かを察したのだろう、もがこうとするが、喉に短剣を当てられて悲鳴も凍りつく。女性の頸部、その柔肌に、今にも刃先が沈んでゆこうとしていた。
男たちは、にたにたと下卑た嗤いを浮かべている。
”まただ……何で人間が、人間を殺そうとしているんだ。しかも、あんな風に哂いながら”
マリから話は聞いていたが、その目で見るまで信じたくなかった。この島の人間は、狂っているのか。赤い神の大陸では一度たりともなかった光景だ。凄惨な現場を目の当たりにし、膚が粟立つ。
「やめろ――っ! やめるんだ!」
闖入者の声に驚いたのか、男が女性から刃物を遠ざけた。それを見るや、考えるより先に彼の身体は動く。彼女を助けよと、ロイの行動を支配する中枢演算機構が命令を下していた。
下腹にひょうと無重力を感じながら、天井裏から真っ逆さまに飛び降り、祭壇の上に轟音を立て着地する。足の裏が軋むが、神通力を帯びてさしたる痛みはない。
女性を捻じ伏せていた男の腕を踏み潰し、彼女を奪い、決然と対峙し物理結界を展開する。
大きな音に驚いたか、神殿の外にいた兵士たちが駆けつけてきた。無数の銃口が彼に差し向けられているのを知りながら、神炎をの火の粉を神殿内に隈なく躍らせ、大小の燭台から炎という炎を奪った。闇が神殿内を支配する。
「うわ! なんだっ!……」
彼は念力だけでインフォメーションボードを操り、構築準備に入る。
この暗闇に乗じ、女性を連れて姿を晦ませるつもりだ。が……足止めは確実にしておきたい。
”14(3)-1(2)-17-9(5)-16”
このアイデアは、ロイがネストの森の獣たちと一戦交えた際に既に閃いていたものだ。
温めていた素案に従い、ロイの記憶と視線を辿り、念じるままに分子が結合してゆく。
メタリックに輝く炭素骨格がグリッドの上で自由回転をし待機している。バックボーンに絡めとられる、色とりどりの分子。
C3H2ClF5O(2-chloro-2-(difluoromethoxy)-1,1,1-trifluoro-ethane)、化合物の構造を思念だけで操作しグラフィック上に仮想投影してゆく。
”赤い神の御名において、きたれ”
彼は大きく肺に息を吸い込み息を止めると、構築されたばかりの麻酔薬を爆風とともに展開。兵士たちを深麻酔へと落し込んだ。赤い神の神通力を反映し、麻酔薬の濃度と出力は十分だった。意識を落とすことで雑音をおさえ、一人として助けを呼ばせず、さらに一人として死者は出さない、穏便な制圧が目的だ。正面きっての戦闘を、彼は回避しようとしていた。人命に勝るものはない、そう考えていた。
「ん?」
しかし彼の視界、インフォメーションボード越しに目に入ったもの。祭壇の中央部に不自然にあいたくぼみ。その隙間から見えてしまった、彼は見てしまった。
見開かれた瞳、無数の人間の生首が折り重なっているのを。子供も、大人も、老人も、見境なく無造作に斬り捨てられているのを。それは人の顔だ。祭壇の下は、首塚だった。
赤い神の創造し給うた彼ら素民を、等しくよき人々であると信じていたロイは……この瞬間に、彼の中の何かが瓦解してしまったのだ。
人々の心の中に純然たる悪意、他者への共感の不在が存在するのだと、そういう人間がいるのだと、彼は知ってしまった。
「っ……!?」
彼には理解が及ばない。誰がこんな残虐なことをさせている。確かに暴君マスク・メローヌの所業ではあるのだろうが、ここにいる者たちは殺戮を愉しんでいるのだ――嗤いながら、人を殺す。
「何……故だ……」
手に負えぬ怒りと絶望、尽きぬ疑問が、ロイの胸中に黒く濁流となり渦巻いてゆく。
彼は生まれて初めて、これ以上ないというほどに激昂した。もはや張り裂けんばかりとなり、感情を抑えられない。彼の身に纏っていた鮮やかで純白の神通力の被膜が、輝度を落とし、どす黒く黒ずんでゆくことにロイは意識が回らない。
「――――ッ!! 何故だ――っ!」
怒りにまかせ、この場にいる者達全員残らず、神炎で燃やし尽くしてやりたい衝動に駆られた。神を裏切った人間、守るに値しない、心悪しき人間たち。彼は感じていた。
自らの心が、怒りによって奈落へと引きずり落とされてゆく。
それは何と冷たく、凍てついた場所へ――。
「んんっ……やめっ、離してえっ」
その時、彼の意識を現実に引き戻したのは、彼の腕の中にいた女だった。
彼女はロイから離れようともがいていた。彼ははっと息をのみ、彼女を射竦める。
インフォメーションボードが、暗闇の中でも鮮明に彼女の表情を赤裸々に見せた。彼女の瞳に浮かんでいたのは……恐怖だ。
”そんな目で、見るな。俺は、ただお前を助けようと――”
――暴君。彼のすぐ耳元で、誰かが囁く。そこにはいない、誰かが。
「くっ!」
幻聴を振り払うようにロイは彼女の腕を掴み、強引に背に負って駆け出した。
暗闇の中、どこをどう走ったか分からない。ロイはしゃにむに走り、神殿の閉鎖通路を蹴破り地下通路へと逃げ込む。逃げ込んだ部屋の扉を締め切り、神炎を灯した。どっと、嫌な汗が噴き出した。彼女を安全な場所に降ろしても、心は恐慌状態にあった。心臓の音は跳ね、息が整わない。それでもやっとのことで一息つくと、女を気遣う。
「……けがは、ないか?」
ロイは先ほど彼女が短剣を突き付けられていた事を思い出しながら、彼女の首をまさぐり、傷がないか確かめる。案の定、切り傷から滔々と血が滑り落ちていたので、神通力を込めいつものように癒そうと力を試みる。しかしどうしたことか、うまくいかないのだ。
”い、癒せない……だと? そんな、神通力はたくさんあるはずだ”
自らの精神に生じた質的な変化に気付き、ロイは焦燥のあまり平静さを失ってゆく。
彼の心を反映し、赤い神の加護が薄くなっている……先ほど、神の慈愛に相反する感情を懐いてしまったからだろうか。それは、同じ人間を相手に彼が初めて懐いてしまった、憤怒と憎悪、そして殺意。
腰に結わえていた布袋の中から、メグの薬花の包みを取り出した。
正気を取り戻そうと、メグの気配にしがみつく。
純粋な心、悪意とは対をなす、彼女の善き心に。
「これは薬だ。傷を癒す薬花を煎じたものだ、これを傷口に揉み込め。痛みも和らぎ、血が止まる」
ロイは彼女に粉末を差し出したが、彼女は受けとろうともしない。
仕方なく、ロイは彼女の手に強引に握らせた。優しい言葉をかけてやるべきなのだろうが、そうするだけで精いっぱいだった。
「こっ、殺さないでえっ……何でも、何でもするから!」
「はぁ……? 殺すものか、何でそうなるんだ」
女は、ピケたちと同じ民族衣装を着ている。逃げ遅れ、俘虜か生贄となってしまったのだろう。命を助けたつもりが、この反応は心外ではある。しかし今、神炎の中に浮かび上がる自らの顔貌は、どんなであるか。ひょっとすると、彼女を怯えさせるに十分な、鬼気迫る形相をしているのかもしれない。
そう思えば、彼女を責めることはできなかった。
「俺は敵じゃない」
「いやぁっ!」
身を固くして目を瞑り蹲る女に、ロイはかける言葉を失った。しかし先ほどの生首を目撃してより、ロイは断崖から突き落とされたような気分だった。マスク・メローヌ帝に対して、あの場にいた者たち全員に対し擁いてしまった忌まわしき感情が。危惧していたことが、起こり始めていた。
赤井の使徒たちの、予言。
自らがどのようにして悪へと落ちてゆくのか、ロイは赤い神の大陸にいた頃は全くといって想像できなかった。しかし今ならば、おぼろげながら理解できる。
”ああ、どうして俺はモンジャを離れてしまったのだろう……”
祈りをたやすまい。この、罪悪と憎悪に満ちた暗黒の地で。
”神様、俺は墜ちたくない”
彼は憔悴しきった顔を手で覆うように隠しながら、インフォメーションボードを介した透視で、部屋一面を見渡すと、やおら奥の壁へと進み、拳で抜いた。
「ここから逃げるんだ、はやく」
ぎこちないながらも声色を和らげ、中に入るよう促す。だが女は首を縦に振らない。
「どっ、どうする気なの?!」
「ここの壁と壁の間を行けば出口への窓に繋がっているようだ。今のうちに逃げてもいいし、明るくなるまでここにいてもいい。明るくなれば、さっきの奴らに見つかってしまうかもしれないが。動けないなら、ここにいるしかない」
「わ、分かった。あ……ありがとう」
出口を示されて、女は半信半疑ながらも納得したようだった。
「あなたはどうするの」
「とにかく、俺と共に行動しない方がいい」
「どこへいくの?」
「……分からない」
彼はふらふらと壁に肩をぶつけながら、部屋を出た。足元は覚束ないままだ。
”俺はどうすればいい”
颯爽と空から、暴君、マスク・メローヌ帝にまみえるつもりだった。そして彼の病を癒し、根気強く説得をして、苛政を改めさせるつもりだった。その計画に、狂いが生じるとも思えなかった。しかし今、彼を癒すこともできなければそのつもりもなく、彼らを許すこともできはしない。王に遭えば、殺してしまうかもしれない。
”神様。あなたなら、どうする。彼らを……どうやって救う?”
もはや生かしてはおけず、赦すこともできぬ。
ロイは混濁した昏い情念を捻じ伏せようと、ただ無力感に苛まれながら葛藤していた。
”これが……神様の加護のない暗黒の土地か。神様がいなければ、人々は憎しみと悪意に墜ちてしまうのか……それとも何かが、俺や人々を狂わせているのか?”
答の出ぬままに通路を進んでいたとき。
真上にチカッと青白い光が瞬いた。炸裂音と共に爆風に襲われ、衝撃に全身が打ちのめされる。目の前が真っ白になり、受け身もとれぬまま吹き飛ばされ頭から床に叩き付けられた。通路の上から待ち伏せをされていたのだ。投げ込まれたのは、ただの爆発物ではない。朦朧とする頭を押さえ、インフォメーションボードで周囲の気体の分析を開始する。
”これは!?”
爆発を引き起こした原因となる化学物質は、インフォメーションボードを以てしても同定することができなかった。
「やったか? 確認しろ」
「ああ」
二人組の男が、石造りの通路の上から飛び降りてきた。
ロイは倒れ伏したまま微動だにせず、男たちの油断を誘い、近くにひきつける。
「おい、こいつ死んで……ぶぐばっ!」
近づいてきた顔に狙いすませた拳で一撃をくれて仕留め、まずは一人を床に沈めた。次に、二人目。ものの一秒と言わぬ間に勢いよく跳ね起き、拳に神雷を纏わせながら、片割れの腹部に深々と拳をめり込ませた。そのまま一気に感電させ、気絶させようとしたとき……
苦痛にゆがんだ黒衣の男の、口角がぎゅっと上がった。
「な……?」
男がロイの左胸に、黒光りする小型の銃の筒身を当てていたのだ。
咄嗟に払いのけようとしたが間に合わず
ズドン。
熱い衝撃と炸裂音が同時に、ロイの胸を表から裏へと貫通した。
”熱……ぃ……”
崩れ落ちたのは、ロイの方だった。起き上がろうにも、力が抜けて意識が行き届かない。痛みは脳が遮断している。ただ、胸が熱くてたまらない。
ロイは単身乗り込むにあたり決して、殺される可能性を考えなかったわけではない。過去に、赤井が一人でグランダに出かけ、むざむざと囚われてしまった、その苦い失敗は常に意識していた。だが、まさかこんな……こんなにあっけない幕引きとなってしまうとは。
心臓に致命傷を負ったとき、メグはどうすればいいか、どう負傷を癒せばよいのか知っている。しかし、ロイは知らない。知識と技術の有無が、生死を分けるのだ。ロイにはその知識がなかった、だから死ぬのだ。
”神様……俺は、”
現世にしがみつこうとしても、目が霞み、意識が遠くなってゆく。
彼の心臓が鼓動をやめようとしたとき……目の前に、青い光がともった。
【致命的外傷を確認。コードゼロ発動】
【バイタルロックが作動中です】
……インフォメーションボードのメニューが勝手に立ち上がった。
もはや意識もまとまらず、念ずる力もないのに、システムが壊れたかのように次々と自動的にウィンドウが開いてゆく。
ロイを撃った男はそんなことも露知らず、大声を張り上げて仲間を呼ぶと、彼を担架のようなものに縛り付けて担ぎ上げ、どこかへ運び始めた。運ばれながら、身動きひとつ取れなくはあったが、心臓は鼓動をやめていたが、意識はなお覚醒を続けていた。
【外傷に対して自動生体構築を開始しますか? はい / いいえ】
訳もわからぬまま、彼のできることは「はい」、と念ずることだけだった。
インフォメーションボードを常駐起動状態にしておいたことで、彼は九死に一生を得る。
【自動血管縫合および結合組織の修復を開始します】
彼の胸の奥で、組織が互いに手を繋ぎ、修復が始まった。
――生きてください――
たったひとつの命令を、思い出した。




