第6章 第3話 Plant the flag on◇◆
カルーア湖の真ん中に、一羽の大きな白鳥が優雅にすいすいと泳いでいた。
『クワー、クワクワクワクワクーックヮクワー!』
白鳥の湖を口ずさみながら上機嫌のスワンボート……というなかれ、赤井神の第一使徒エトワールの白鳥形態である。ふわふわ羽毛の背に、グランディアスタッフの三色の襷をかけたメグとナズが乗っていた。
グランディア水泳競技の際に溺れた選手のための、救助艇だった。
ところでメグとナズは、モンジャでのロイ失踪の騒動をつゆ知らず、赤井神がまさにその頃、ロイ失踪を知ったモンジャ民の間で24%もの信頼を失っていたなどとは、さらに知る由もなかった。
彼らは徹夜での手術を終え、日が高くなるまで自宅で寝ていたのだ。
遅い朝食をとりグランディアの持ち場に向かった頃には、モンジャ集落はもぬけのからとなっていた。
父親のバルも母親のマチも、妹のカイもグランディアで出店を出していたため、彼らは当初の予定通りカルーア湖からエトワールの背に乗り、選手の救助班として湖上でスタンバイしている。
水深の深い湖での水泳大会なうえ、実際のオリンピックと違い殆ど泳げない輩も参加するとあっては、医療班は重要な役目である。
予選会が終わり暫しの休憩の後、本選が始まる。
『聞いていたかね、この美声を!』
エトワールが得意満面で長い首を曲げて背後を振り返ると、寸暇を惜しんでメグとナズが勉強していた。エトワールは渾身の歌声をスルーされて、気の抜けたように黄色と黒の嘴をカパッと開けた。
『……きみたちってやつは』
「はい?」
『二人とも、そんなに寸暇を惜しんで勉強せずに、休憩したらどうだ。どうしてそんなに頑張るんだね』
メグは”見えない医学書”のページを繰っているし、ナズはロイの青空教室で出た数学の宿題をしている。エトワールの背中の上で、だ。メグはぽい、と見えない本を空に放った。今の彼女は、医学を学ぶことを義務のように感じているだろう。
メグの現実帰還に向けて社会復帰訓練が始まったのは、確かに彼女にとって大きな前進だ。喜ばしいことでもある。
伊藤プロジェクトマネージャーによってメグの社会復帰教育を一任された蒼雲は、仮想世界滞在中に、メグに獣医師国家資格をとらせるつもりでいるらしい。
さもなければ、メグは現実世界に帰還すると24歳、大学も既に退学扱いにされている。
現実に帰還してすぐ就職できるよう、路頭に迷わないよう、仮想世界で臨床経験を積ませ獣医師としてすぐに再出発できるようにしてやろうという彼の気持ちも分からないではない。
だが、徹夜での手術を強いたり、あまりにも急かしすぎていないか。彼女の体がもたなくなってしまう。
「うーん……。病気になった皆を助けたいし、かみさまの御力になりたいんです。あとは、怖いからかな」
『怖い?』
ナズを気にするように、メグはさらさらと持参していたメモに筆記してエトワールだけに見えるように掲げた。
白鳥姿のエトワールは長い首をうねらせて傾げ、モンジャ語を翻訳する。
この言語は単純のように見えて複雑で、存外に難しい。
――私はもうすぐこの世界から消えて、別の場所に行ってしまうんだと思います。死ぬのかもしれないし、旅に出るのかもしれない。いつ消えるのか、わからないから、眠るのがとても怖いんです。怖い、怖いって思って震えているより、少しでも今できることをした方がいいと思うから――
避けられない運命として、彼女は厳然と死を見つめていた。
『ふむ、だがねメグ。それは』
エトワールが何か言いかけようとすると、二枚目のメモを掲げる。
――私はかみさまの文字が少し読めます。あおいかみさまに医学を教えてもらって、この本を理解したらモンジャの言葉になおして、それを全部ロイに伝えます。ロイはすごく早く知識を吸収するし、一度覚えたことを忘れません、本を書くのも上手です。そうすると、たくさんの人の命が助かります――
『メグ……君は』
メグの目に、込み上げてきた液体が見えて、エトワールは言葉を飲み込んだ。
そしてエトワールは危惧した。これはいけないのではないか。
「間に合えばいいなあ……私が消えるまでに」
こんな精神状態で、彼女を現実世界に帰還させるわけにはいかない。
アガルタの世界は彼女にとってもはや仮の宿ではなくなっている。ここが彼女の故郷なのだ。
『一度、君の悩みについて赤い神様とよく話した方がいい。私からもよくよく言っておこう』
――いいんです。かみさまにも、どうにもならないことなんだとおもいます。かみさまの辛そうなお顔をみたくないから――
メグは声も出さずはらはらと泣いて手の甲で涙をこっそりと拭い、ナズにそれを気取られないようエトワールの長い首にしがみつくように顔をうずめた。そうとは知らないナズは、青空教室で出た宿題を解いてエトワールに見せていた。
「えとわーるさまー。できました! どうでしょうか。自信はあります!」
『よくできたね、全問正解だよ。ふーむ、ナズはもっと難しい問題でもいけるような気がするな』
ナズは復活した当初、学力的に同年代のモンジャの子供たちより遅れていたが、最近ではめきめきと記憶が回復しつつある。昨日できなかったことが、一足飛びにできるようになってゆく。
ナズ自身が手ごたえを感じながら、後れを取り戻そうとする姿にエトワールは感心するのだった。
『勉強はほどほどに、君は好きなだけ、心穏やかに絵を描きなさい』
ナズの回復が、メグにもまして早すぎる。
精神科医の白椋の見解では、ナズは絵を描くことで傷ついた心を癒し記憶を統合し、生きることをやり直そうとしているのだろうという、だから速いのだ。
27管区の何が脳機能障害患者たちにとってよかったのか、疑問視する声も多い。ある者は、赤井の影響などなかったという者もいる。評価は様々だ。ただ、赤井という存在そのものが、患者たちにとっての安全基地としての役割を果たしていることについては、一定の評価がある。
だからエトワールは最近の赤井の状況をあやぶんでいる。
区画解放とともに世界が拡大し、赤井の目が素民の一人一人にまで届かなくなったら、患者と赤井の信頼関係はどうなるのだろう。メグの、一人抱え込んだ恐怖心は、とどまることなく膨らみ続けている。
彼女は覚ったのだ、現実帰還が避けられないということ。
そして、現実世界に「あかいかみさま」はいないということ。
新しい世界で、ひとりぼっちだということに。
アガルタにおいては、現実世界での高次脳のリハビリと大きく異なる点がある。
それは、病識(自らが高次脳機能障害患者であると認識すること)の欠落である。現実に直面せず、欠落部分の補償行為を開始する機会がない。
現実帰還への恐怖に、回復して間もない彼女の精神が晒され続けてもよいものだろうか。
折角回復していた脳機能が、精神的負荷によって損なわれてしまいそうだ。
それはかよわい若芽を、暴風に晒しているようなもの。
”……この二人が心配だ、赤井君。彼らから目を離している場合かね”
メグの帰還の時期とその是非について、アガルタ上層部会議に早急に諮ろうと決めた。
「えとわーるさま、一つ、聞いてもいいですか?」
メグが、エトワールの首にしがみつきながら囁いた。
「きっぺいという名前は、かみさまたちの世界ではありふれた名前ですか?」
『……それは』
メグは知っている。
ただ一人、名前を思い出した現実世界の人物。彼がそちらの世界にいるかもしれない。
エトワールは赤井に読心をかけて知ったのだが、赤井の本名は確かに桔平という。日本名に明るくないエトワールでも、同じ名前の人間が日本全国に一人ではないことぐらいは知っている。
『ごく、ありきたりな名前だよ。たくさんいるだろうね』
エトワールはそう言うしかなかった。嘘をついているわけではない。
しがみついていたメグは、へなへなとその場にくずおれた。
彼女の中で、あかいかみさまと、夢に繰り返し出てきた、あかいかみさまに似た人物が同一人物である可能性が消えたのだ。
***
「これでいい」
いがぐり頭のピケ少年の擦り傷は、ロイがひと撫ですると痕もなく消えた。
ロイの受け取った赤い神の癒しの力は以前とは比べものにならないほど強くなっている。
ロイは感謝を忘れなかった。
「すげえよ、すげえ! あんちゃんすげえ」
ロイたちは先ほどの集落にほど近い、暗く深い森の少し開けた場所で一休みしていた。
その間、彼は幾度となく神雷を呼び、アトモスフィアの備蓄を完了させていた。
派手な落雷で赤い神に居場所を特定されてしまうかとも考えたが、神雷を送られたので同じこと。
どのみち、泳がされているに過ぎない。
一撃の神雷は救済であり、抑圧であり、牽制でもある。
逃亡した理由も悟られているのだろうか……まあよい、全ては彼の思召すままに、とロイは祈る。
「あ、あの……あのように雷に打たれて、平気なのですか?」
少年の母親マリが、ロイの素性に探りを入れてきた。
「平気、ってわけじゃないけどな」
応じながら先ほど荷物を置いてきた岩場の洞窟へと至る、急峻な崖を迂回するルートを考えている。
日が暮れる前に、安全な洞窟に着いておきたい。
ロイは歩みの遅いピケを背負うことにした。
マリは、ピケを背負ったまま、不自由そうに道なき道をゆく彼に悪びれる。
「ごめんなさい、勝手についてくるなんて言って……足手まといでしょう」
「いいよ」
旅の足手まといだと言えばそうなのだが二人の道連れを得て、内心心強くもあった。
一度は奈落の底に突き落とされたような心地と、放っておけば悪しきように想像を巡らせてしまう心理状態を、彼らは紛らわせてくれる。
とはいえロイの乗ってきた小舟は五人乗りだが、彼らに島を出る覚悟を促さなくてはならなかった。
「この島で一泊したら、方角が分かり次第西の島を目指すつもりだ。それでもついてくるのか」
それを聞いた少年ピケが困惑したように
「西? 方角なんて分かりっこないよ、カラバシュは漂流してるんだから。ゆっくりと、くるくる回ってるんだ」
島が浮いているのか。
ロイはマリの詳しい説明で事情を把握した。
カラバシュ島は漂流する、軽い岩石の島なのだ。方位が分からないということならば、日没の方位を見てその時点での方位を知り航路を取るしかない。
「あんちゃん、島の外から来たんだろう? どんな場所から来たんだ? 聞かせてくれよ!」
「俺は赤い神様の治めておられる大陸から来たんだ」
「赤い神様!?」
マリは殴られたような衝撃を受けて立ち止まった。
「ん?」
表情の消えて久しかった彼女は、心が激しく揺さぶられるのを感じていた。
「赤い神様の伝説を知っているのですか?!」
「この島の伝説は知らないが、俺は赤い神様と共に暮らしていた」
ロイにとって神は身近な存在だったのだが、マリはお伽話のように受け止めていた。
ただの古い伝説だと聞いていたからだ。
しかし実在するもしないも、先ほどマリが目撃した奇跡が答えを導き出している。
マリは信じた。この人は、赤い神の使いなのだ。
彼はカラバシュの民に希望を齎すためにやってきたのだと。
「それで、よくわからないんだが」
森に深く分け入りながらロイは、ナイフで下草を黙々と切り開き、後ろを一定の間隔でついてくるマリの話を整理していた。
カラバシュ島はメローヌ島、ヘチマ島、ゴーヤー島からなる三つ葉様になった群島であったという。
ちなみに、これらの群島のネーミングが現実世界におけるウリ科の植物だというのは、彼は知る由もない。
カラバシュ諸島は異なる文化を持つ複数の民族が三つの島に都市圏を築き暮らし、各島は水中で連結されていた。
状況が一変したのは、一年前。
三島のうち最も広大な面積を誇っていたメローヌ島の内紛によりメローヌ島は焦土となり、海中に沈んでしまったのだという。
「何故、内紛でメローヌ島が沈む?」
人間が、浮島とはいえ島を沈められるわけがないと考えるロイには、甚だ疑問だ。
「暴君、マスク・メローヌ大帝が火炎魔術の一種、火の禁術を使ったのだと聞いています」
暴君。マリの不用意に放った一言がロイを打ちのめすには十分だった。
身体の芯に焼けた杭を穿たれたように、ズクンと熱く疼く。
「……暴君?」
「メローヌ島の沈没により領土を失ったマスク・メローヌ帝は強固な軍と火法を以て、ヘチマ島に進軍しました。メローヌ国の火法の前に、ヘチマ軍は全滅。残ったヘチマの民はメローヌ国に隷属を余儀なくされ、大人の男は殆ど皆殺しに……。私は赤い神を祀る神官の一族で、夫は殺され、息子のピケを連れて、カラバシュ三島のうち最も小さなゴーヤー国に亡命しあのように山里に逃れていたのですが、メローヌ軍に見つかってしまい……」
そんなときにロイが助けてくれたのだと、マリは鼻水をすすりながら深々と頭を下げた。
背中のピケも同調する。
「そうだよ! あんちゃんは、命の恩人だよ!」
彼らを助けはしたが、一時凌ぎにすぎないと知った。
彼らの話が本当だというのなら、亡命にも失敗したヘチマ島の民は今頃どうなっているのだろう……。
「だいたい分かった、でもな。何故ゴーヤー国にメローヌ国の兵がいた?」
「ゴーヤー国は、メローヌの属国となり無条件降伏しております。なので、メローヌ軍が進駐しているのです」
「つまりカラバシュ群島のうちメローヌという国に、他の二か国が実質占領されているわけだ」
「はい、その通りです」
ゴーヤー国の無血降伏を、ロイは臆病だとは思わない。
民の血が流れるのを避けるのは、第一に優先しなければならないことだ。
ただし、赤い神によって争いは鎮められ、公平な治世が担保されるという前提があってこそ。
敵国の侵略を赦し、暴君の苛政で国と民を疲弊させ、結果的に多くの命が犠牲となるなら、やむを得ず抗わなければならない場合もある。
頭の中を整理しながらロイは、ベースキャンプとしていた洞窟に辿り着いた。
「今夜はこの洞窟で一泊しよう」
荷物を広げ、茣蓙のような敷物をうち敷き、煙の出ないよう持参した炭で火を起こす。
洞窟の陰で炭火で暖を取りながら採集してきた果実と海の幸を分け合い、三人でネストの毛織物にくるまり、寒さをしのぐ。
ピケは疲れたのか、早々に母親に寄り添って寝てしまった。
あかあかと、静かに燃える炭火。
マリは炭を小枝でならすロイに魅入っていた。
彼の肌には、見間違いではない、白く眩い光が宿っている。
そこはかとなく漂う神秘的で静謐とした雰囲気に気圧されし、マリはますます彼を人ならざるものだと確信した。「俺が寝ずの番をするから、寝るといいよ」と、ロイは彼女を気遣った。
「目が、冴えてしまって……」
「では聞きたいことがある、ヘチマ国を滅ぼした恐ろしい火法というのはどんなものだ?」
「先ほどご覧になったように、爆発を起こす恐ろしい魔術なのです」
「……あれがか?」
ロイは首をかしげる。
この島の人間には、魔術のように見えているのか。
ロイの見た限り、原理としては随分お粗末なものだった。
あれなら、ナズでもロイでも、似たようなものをすぐに作ってしまうだろう。
「妙なことを申しましたでしょうか」
モンジャの民ならば誰も魔術などとは言わないだろう。
ロイは人間の頭脳では本当に説明のつかない、神秘の業を知っている。
一見で簡単にたねを見破られてしまうようでは、紛い物というほかにない。
「もう一つ聞きたい。お前たちは神官の一族だから、追われていたのか? ピケは見逃されていたようだが」
神官の一族を根絶やしにするのが目的なら、ピケも連行されていなければならない。
「メローヌ帝はカラバシュ全土から、あるものを捜し求めていると言われています」
「それは」
「赤い神の神体です。それが、カラバシュに隠されているというのです」
それを求めて、火法を持っていたメローヌ帝国軍はヘチマ島を侵略し支配した。
奇襲をかけられたヘチマ軍は全滅し、大勢の民が犠牲となった。
その後、メローヌ帝は望みのものを捜して、民家や田畑、山林をくまなく捜させたという。
しかしまだ見つかっていない。
「神体、というのは」
「それが何なのかは、わかりませんが、神体は所有者に不老不死を齎すとされています。メローヌ帝は不治の病を患っていると聞いています、なので……」
不老不死。
……確かに赤井神は不老にして不死の存在だ。
だが、彼を手に入れることは誰にもできない。
「急いで神体というものを手に入れる必要がある、と」
「そうです。そのために」
武力による占領と支配。
相手を力で屈服させ権力をふりかざす。
人を支配してよいのは、神だけだ。
殺戮、戦争、国家間の利権のために流される民の血があるとしたら、忌避すべきだ。
この地には赤い神の目が届いていないのだろうか。
届いていれば、このような醜い戦禍などありえない。
「神体、とやらが存在しなければどうなる」
「メローヌ帝は存在する、と信じています。そこになければ、あると思しき場所をくまなく捜し続けます」
では、赤い神の大陸にまでも、彼らは侵略を始めるだろうか。
彼らを赤井神の大陸に行かせてはならない。
「決めた。俺は明日の夜、メローヌに行って暴君を止める。病が治れば、侵略もおさまるかもしれない」
ロイの決断は早かった。
ロイはメグの薬花のシリーズを全て粉末にして持ってきている。
神通力での治癒能力もある。
メローヌ帝が死の恐怖にかられ、ありもしない神体を捜すために半狂乱になっているのだとしたら、説得することはできそうだ。
しかしそうとは知らないマリは、
「おやめください。一人の力で、どうなるものでもありません。彼らは火法と強大な軍事力を持っています。どこから近づこうとしても、兵士に見つかって殺されてしまいます。島中には細やかな警戒線が張られています、不審者がメローヌ帝の宮殿に近づくことはできません。近づいたとしても、メローヌ帝は宮殿の一番高い塔にいるのだそうです、塔は衛兵によって幾重にも守られています。どうやって高い壁を登って近づくのですか」
「メローヌ帝の居場所は、元ヘチマ国の一番大きな宮殿の一番高い塔、でいいんだな」
ロイはナズの開発した羽根ペンで、何やらするすると獣皮紙に筆を滑らせ始めた。
彼が高台から目に焼き付けた簡単な地図を作成する。
地図は大事だ。
ナズならばきれいに描くのにな、と、拙い出来に苦笑する。
「本当に行くつもりなんですか!? お一人で!?」
「明日の夜な。暴君に会ったら、何とかなるようにしてみるよ」
「そんなの、絶対に捕まって殺されてしまいます!」
ロイはマリの想像していた以上に向こう見ずだ。
マリは彼の雰囲気に惹かれて、打ち明けてしまったことを悔いた。
「絶対に、それはない」
明日は新月、月は出ない。ロイには必勝法があった。
「太陽も月もなければ、星だけでは暗すぎる。夜、人が手にすることのできる明かりは炎だけだろう。その炎を人に与えたのは神様だ。だからとりあげることもできる。こんなふうに」
彼は片手を炭火にかざし、何かを引き抜くようなしぐさをすると、炭火は炭を飛び出してロイの手の中に吸い込まれ、握りつぶされて消えた。絶句するマリにロイは、言い添えた。
「赤い神様のご加護があるからだ」
「でも、メローヌの宮殿に近づくまでには……」
「心配いらない」
大きく人差し指を天に向けた。
「空から行くつもりだ」
ロイは思った。
この島に流れ着いたのは、民を苦しめている暴君を止めるためだったのかもしれない。
失敗するつもりは毛頭ないが、何かの重大なミスを犯して殺されてしまったとしても、それはそれで満足だ。
少なくとも自分は、「暴君にはならない生涯を終える」、使徒たちの予言した運命に抗って、彼を裏切らないまま死ぬことができるのだから。
「おやすみ」
暗くなったからか、暫くしてマリの寝息が聞こえてきた。
ロイは寝付くことができず、洞窟の外に出て潮騒の中に佇み満天の星を見上げた。
薄く、糸のようになった月を仰ぐ。
間違いない、明日は新月になる。
月に向かって我知らず宙にかざした指先を見つめる。
指先に纏わりつく神通力の光が、神秘を宿していた。
彼から得たこの力を、正しいことに使うと決めた。
それは無様に逃げ続けるよりよほどましだろう。
ぴんと張った指先を、真っ直ぐ横に引いた。
流星を創るように。
直線を描きふと気付く。思い出した、赤い神が手癖のようにやっていたおまじないを。
夢中になって、神通力を指先に宿したままゆっくりと長方形を描く。
線分を、彼のしていたようにきっちりと閉じた。寸分の狂いもなく。
その時だった。彼の頭上から、いっそう眩い光が弾け。
「…………これは」
赤い枠のついた半透明の白い板が、うっすらとロイの頭上に浮かんで見えた。
裏から、月の光に透かせて光の板を凝視する。
板には神々の使う神聖文字がびっしりと刻まれていた。
ロイはその場に神炎を灯し、筆記用具ですべてを模写した。
時間の経過とともに光の板は段々と薄くなって周囲の景色と同化してゆく。
全ての疑問は後回しだ、もう二度と見られなくなった場合に備えて、全部写し取らないと。
彼は必死だった。
神聖文字。
ロイは幼少期から赤井神の傍らで密かに神聖文字の解読を試みていたが、赤井によって基本的に秘匿されてきたため、解読できたのはごく僅かだ。
だがユメというものを見るメグは、かなりの部分を解読できる。
彼女に少しでも教えておいてもらってよかったと思った。
「化学・合成……」
その部分だけははっきりと読めた。
両手に持った筆記用具が、興奮のあまり小刻みに震えていた。
*
『はっ!』
こんなに広い場所で演技をするのを忘れていたのは、久しぶりだ。
束縛をとかれ、解放感に浸る。
『はっ! ……はっ!!』
“840!”
いつからだろう。周りの目を意識していたのは。
24時間、365日。
全方位に視線を感じながら、私はこの世界で神を演じてきた。
けれど、今だけはそれを忘れている。
ヤクシャさん以外には誰もいない、私の大好きな宇宙の中に。
のめり込んで、自分の為に集中して。
自分に向かい合いながら、疾走。
全力疾走。
そしてインパクト。
“846っ!”
あの頃を思い出す。
気のおけない仲間がいて、目標に向かい夢中でボールを追い、部活帰りに宇宙を見上げた遠い日々。
私は何になりたかったんだっけ?
今の私は、あの頃なりたかった大人なんだろうか?
生物学者として世界を股にかけ、宇宙を飛び回り活躍し新たな発見をする。
子供の頃、割と本気で夢みてた。
それが、愛実と出会って彼女と別れ、ボロボロになって何も手に付かず、大学院にすら進学せず学位も取らず、夢のことなんてすっかり忘れて腑抜けて……アガルタに拾われた。
人生をやり直す機会をもらったのかもしれないな。
火球と共に、心が弾む。
楽しい。
童心に戻る、楽しいと思える自分がいる。
息が上がり、汗は出ないけど、体がほてる。
『赤井さん、ちょい休憩しなくていんすか?』
『まっだまだ!』
『楽しんでもらえて何よりっす』
ぐるりと周囲を見回し、満足そうに頷くヤクシャさん。
休憩を挟まず、ヤクシャさんとのエクストリームテニスに、仕事を忘れていた自分に驚いた。
今だけは、素の神坂 桔平に戻っていた。
トレスポは27管区時間と同期せず何時間やっても27管区時間にして1時間にしかならないから、時間は気にしないで思い切りやれる。
ヤクシャさんが重視してるのは1:1の試合形式での徹底した基礎体力訓練だ。
速攻バテバテになってぶちのめされるかと思ってたけど、普通のテニスと違ってバウンドがないしコートもない、神通力使っても減らないので、体力の消耗気にしなくていい。
ラリーは続くよ、どこまでも。
おかげで面白いほどヤクシャさんの課題にこたえてゆける。
上達が目に見えるのは嬉しい。
また、ヤクシャさんのトレーニング方法も巧妙だ。
ヤクシャさんがこのトレーニング方法を選んでくれたことに感謝したい。
最初は超ロングレンジでのラリーで、ヤクシャさんの球が重くてバックハンドも両手じゃないと返せなかったしスローペースだった。
それが段々とショートレンジになってきて、ヤクシャさんにパワー負けせず片手でもスピンがかかるようになってきた。人間の走力では追えない弾が、右に左に振られて容赦ない速さで、無限大のコートに撃ちこまれて来る。
ストレートもクロスもロブもへったくれもない、まず前後左右上下なんて感覚がない。
私は最初、ふわっと浮いてふわっと返していたけど、コースアウトがない分、普通に移動してたんじゃ間に合わなくなるので、ショートレンジに切り替えた。
気が付けば高速での応酬に。
オーバー気味のコースも難なく物理結界面で感覚的に捉えて、神通力を爆発させ急加速をかけて斜前方向にスマッシュで返す。
気が付けば、私は無意識の状態で神通力でラケットに結界を張り、ヤクシャさんの強烈なショットも打ち返せるようになっていた。
結界の張り加減によって面圧が変わり、切り返しも素早くできる。
リズムを感じながら、何度も、愚直に繰り返す。
最初は途切れ途切れだったラリーも、今では890回に至る。
『ふんっ!』
腰に回転をかけ、ドライブをかけながら片手バックハンドでスピードボールをかえす。
私は、人間でいた頃にはなかった感覚を身につけつつあった。
人間だった頃は片手じゃ安定しなかったそれだ。
『ほっ!』
パワーの乗ってきたトップスピンは、宙に浮かぶミニチュアの星々の間を切り開くように閃く。
『テイクバック引きすぎ! あと、声出さない!』
声出しちゃだめなのか。
インパクトの時に息吐くから声出ちゃうけど、別に普通ですよねこれ。
『カッコ悪いっしょ、神様がいちいちハードヒットの時に”ふん!”、”ほっ!”、”ポウ!”とか声出してちゃ』
『……ポウは言ってませんよ』
声出した方が20%くらい腹筋に力が上乗せできるんだけど、注意されたからやめよう。
私の渾身のストロークを、ヤクシャさんが緩急つけて打ち返す。
軽く返してるように見えるのに、上手いなー。
フォームきれいだし、コントロールに迷いない。
『ヤクシャさん、テニス歴長いです?』
お世辞抜きに訊いてみたら。
『長いっすけど、単なる趣味の一環っす』
さらりと仰る、この腕で?!
アガルタの構築士ってフィジカル、メンタル、学歴経歴、超一流で挫折知らずでここまできて。
白さんも蒼さんもそのクチだ。
『でも赤井さんも大したものっすよ。飲み込み早いのなんの』
そういやそうだな……私、もともと運動神経は人並みぐらいで、特別いいってわけでもない。
トレスポ来てからのこの身のこなしはちょっとおかしい。
ヤクシャさんのコーチングのおかげなんだろうけど。
現実ではこんな要領のいいプレーヤーじゃなかったよ、見ての通りの努力型。
サーブやスマッシュのスピード上げるだけでも、課題のライジング打ち練習するにも弟ケンタに付き合ってもらったり。
右肩壊したり、練習しすぎて脚がパンパンになったり。
体質的に筋肉がつく方じゃなかったから、筋トレも人よりきつめのメニューにしてみたり、足腰強化の為に夕方のジョギングは欠かさなかったり。
基礎体力をつけていたとしても、全力でラリーできるわけがない。
動体視力、脚力、集中力、コースの読み、狙ったコースに叩き込む正確性。
同じ動作をして分かる、人間時代とは何もかも違う。
イメージに体がついてくる。
火弾を打ち返すコツを即座に掴むことができる。
『何かここ、宇宙空間みたいでテンションあがって。それで集中できてるのかもしれないです』
『自分もテンションあがりますよ』
『ヤクシャさんも宇宙好きなんですか!?』
『そうっすね、宇宙というより、宇宙開発事業にはね。アガルタと宇宙は切っても切れない関係にありますからね』
あれ、急に話が脱線した。
『宇宙開発に、アガルタがどう関係してるんです?』
私がアガルタに入る前の知識では、NASAやJAXAの有人での宇宙開発事業は確か、縮小傾向にあったはずだ。
民間の宇宙開発競争が激化しているから。
そして、公的宇宙機関の宇宙飛行士の数もここ10年の間に減ってきてる。
宇宙を往来することが当然となったからだ。
確かにアガルタができた頃からだ。どういうことなんだろ。
『っと、それはともかく』
ヤクシャさんは思わず口がすべったという雰囲気だった。
アガルタが宇宙開発の礎に……考えたこともなかったな。
コールドスリープで地球外惑星探査に行くのに冷凍睡眠中、仮想世界で過ごす……みたいな利用法があるんだろうか。
もしくは、宇宙飛行士を意識のコピーだけにして片道切符の旅に飛ばすとか。
ありうるな、技術的には可能な域にあるし。
『赤井さん、アガルタ入ってから全力で駆けずり回って体動かしたことないっしょ。勿体ない、神体が泣きますよ。使わないと』
『そうですね、自分でも驚いています』
確かに、これまではどこかで遠慮してた気がする。
派手なことやって素民たちを驚かさないように、暴れすぎて民家壊しちゃったらどうしよう、なんてビクビク気を遣って。
そして何より、神体を乗りこなせず、アバターをどう使っていいのか分からなかった。
ヤクシャさんの手ほどきのおかげで、今なら少し分かるような気がする。
『人の心を持った神様であろうとするのはいい。でも、人間時代の身体感覚は捨てなきゃいけない』
『肝に銘じます』
人間の感覚を捨てるってのは、徒歩で行動してた人がロケットに乗る感じだとヤクシャさんは仰る。
必要なのはイメージと神体の動作との遅延を限りなくゼロに近づけ、解離をなくすこと。
どれだけ無理をしても、神体はイメージについてくる。
神体を信じろと、ヤクシャさんは言う。
現実世界の人間の脳が外部視覚刺激を受容してから反応を起こすまでに0.2秒、このタイムラグは、アガルタの神には存在しない。
だから神通力で加速し飛翔すると、マッハ1(秒速340m)くらいいけて、加速力はアトモスフィアの所持量に応じる。
アガルタの神の神体は成長も進化もしないし、元々完全な状態に仕上がっている。
筋力を鍛えてもあまり意味がない。
パワーも神体強度も神通力の所持量をダイレクトに反映するので、神通力のコントロール、瞬時の判断力強化、敏捷性向上が最優先課題となる。
猛烈な勢いで飛んでくる弾に全速加速して急ブレーキをかける、この練習メニューが、転移術の練習を兼ねていることに私はさっき気付いたばかりだ。
テニスでもやるSAQのトレーニングを極めると、転移術にいきつくってことなのか。
ラリーが千回を超えるようになってきた頃。
『よっし、第一転移速度にまで達しました。人間としての神経系のリミットが破壊され、神体感覚へと上書きされたんすよ』
『えっ!? 今の間に!?』
なにその第一宇宙速度みたいなの。空間を歪める為に必要な初速度って感じなんでしょうか。
とか訊いてみたら、そんなもんすねと仰る。
『速度がボーダーに乗ったので、座標に追いつく感覚から座標間を跳ぶ感覚に変えましょう。にしても……』
あーあ、とヤクシャさんは額に手を当てて悔しそうに呻く。
『どうしたんです?』
『やっぱ、神がかってんなー主神のアバターは、と思って。すげー羨ましいっすよ、こんな短時間で転移速度行けるなんて』
転移速度ってのに達する時間が、ヤクシャさんが思ってたより早かったってこと?
そっか、体育会系な彼としては性能のいいアバターに乗って大暴れしてみたいんだろうなー、運動神経いいから私より上手く乗りこなせそうだし。いや、でもさ。重要なこと忘れてますよ。
『このアバターに乗ると千年ログアウトできませんけど、羨ましいでしょうか』
と言ってみると。
『羨ましいすよ!』
強い言葉が返ってきた。堂々と腕組みをして、何だか少しふてぶてしく。
『子供の頃って、誰しも全能感あるじゃないですか。俺はまだそれを持ってるんすよ。欲しいものはすべて手に入ると思ってる、そして実際に、手に入れてきた』
『!』
拳でとんと胸を叩いたヤクシャさんは、漲っていた。絶対の自信に。
私はそれを聞いて、何言ってんだこのヒトは、と凄く間抜けな顔をしてた気がする。
よっぽどの自信家か、はったりだ。努力で手に入れられないものだってあるだろう。
『いつだって諦めるのは、自分自身だ。だから自分は諦めない』
私は夢を忘れて、諦めてしまった方の人間だ。
彼の歩み、その身に刻み付けてきた努力の証が、積み上げた時間が彼の自信に繋がっている。
そんなにずっと目標を見据えていられるって、並大抵のことじゃない。
『どうしてハイロードになりたいか、聞いてもいいですか?』
ヤクシャさんはぐるりと首を回して、爽やかにこう仰った。
『誰も行ったことのない、まっさらな場所に一番に行って足跡をつけて、道を拓いて戻ってきたい。それが子供の頃からの夢でした。その夢を諦めていないだけです』
誰も行ったことのない場所に、ハイロードになれば行ける、ってこと?
『それは、ハイロードにならないと行けないんですか?』
誰も行ったことのない、未踏の場所ってどこなんだろう。
かつてそれは大陸であり、極地点であり、空であり、宇宙であり、月であり、木星や土星だった。
考えうる”前人未到の地”のすべてに、これ以上ないという場所にまで人類は到達して、ここに来たと旗を立ててきた。
でも……私には分からない、ハイロードなのに。
ヤクシャさんの行きたい場所の、近くにいるのか遠いのかさえ。
『それって、どこなんです?』
『内緒っす。教えたら、赤井さんが一番先に行っちゃうかもしれないじゃないすか。俺はそこに行くって、十年前から決めてたんすよ』
十年前といえば米国アガルタができたばかりで、構築士の勤務実態すらもよく分かっていなかった頃。
ヤクシャさんはそんなに昔から、「構築士になってそこに行く」って決めてたのか。
私はその頃、何してたんだっけ。
『赤井さんには悪いけど、俺が一番に行きますから』
意志の力に貫かれるようだ。
彼は既に構築士だけど、そこに行けていないから満足していない。
何だか悔しかった。
彼がどこに行くのか知らないけど、私がアガルタの神になる決意を固めたのは、アガルタに入ってからだ。
掛けてきた思いと、時間が違う。
『俺は、まだ、今は神様になれていない。納得もしてないし、諦めてもいない。その最高のアバターを……絶対に手に入れますよ。あなたには才能があるのでしょうが、あなたを超えて、追い越して”その場所”にいきます』
諦めない。
その言葉は、彼の退路を断った、真っ直ぐ一本に敷かれた、寄り道のない決意と答えそのものだった。
改めて考える。甲種一級構築士とは何だろう。
国際資格でおよそ、最難関。合格率は0.000157%、19万2103名に3人。
それが、私がくぐり抜けてきた倍率だ。
私は19万人の夢を挫いて、彼らの心を折って、この場にいる。
ヤクシャさんやその人たち皆の乗りたかったアバターに私が乗っている。
大勢の視線に見守られて。
見返した。彼らの思いに、負けちゃいけない。
『赤井さん、だから! 馴れ合いで負けてやるつもりはありません。俺をきっちり実力で叩き潰して、先に進んでください』
数えきれないほど多くの人が裏方に回って、様々な思いを胸に私という役者を支えてくれている。
『ヤクシャさんは、ハイロードになれると思います』
どこか清々しそうに笑い、ヤクシャさんはいっそう強い球を叩き付けてきた。
彼の思いがビシビシ伝わってくる。
応えないと。打ち返さないと。
ヤクシャさんがバックに放ったコースに追いつく為に神通力を先ほどより一段と圧縮し、私は目標を見据え大きく跳ぶ。
その直前、分厚い物理結界が出現し私の行く手を阻んだ。
ヤクシャさんの仕業だ!
私は加速後だったから急停止できない! 頭が真っ白になる。
『!!』
物理結界衝突で木端微塵か?! 粉砕寸前のことだった、空間の壁にぶつかったような感触がして、私は跳躍していた。
どこへ? 声も出ない間の一瞬の出来事だ。
歪んだ空間のトンネルから幕を突き破るように抜けると……!
『ぶべ!』
気がついたときには頭から地面に突き刺さっていた。
『ごぶぼぼぼ!』
苦しい苦しい! 首から先が地面に刺さってる!
ずごんと勢いよく首を抜くと、ヤクシャさんがあり得ないほど遠くに見える。
あれ、私……今の間にどうなってた? 少し遅れて、私めがけて青い火の玉が飛んできたので渾身の力を込めて打ち返す。
『こうでないと、神様は』
ヤクシャさんは私の打ち返した火の玉を素手で受け止めると、パアンと握り潰した。
これ……まさか転移? 疑問で頭がパンクしそうになっていると、腰に手をあてて首肯するヤクシャさん。
『それが転移っす』
わっは! 信じられない。転移ができた!
ヤクシャさんが邪魔してくれたおかげで!
でも、跳ぶ座標間違えると地面に埋まったり大変なことになるんだな。
転移術は”何もない場所”にかけるのが基本ですね。
無難に空がいいな。
一つ賢くなったところで。余韻に浸る間もなく、特訓は進む。
『では次のステップです。俺らの周囲に物理結界を張って下さい。そうすね、200m立方で』
『はい、このくらいかな?』
私は神通力を変換し、物理結界を生成する。
さっきからラケットのフレーム内部に物理結界を張り続けたおかげで、結界を作る操作が少し楽になっていることに気付いた。
『物理結界は、何があっても解かないでください。そしてラケットは捨てて。素手でラリーを続けましょう、球は自分で用意して。ここからはオープンスペースに返さず、互いを標的とします。容赦なく当てにきてください。いきますよ』
考える暇なく物理結界をラケットの面のように浮かせ、さっきよりデカい火の玉をサーブが私めがけて! 慌てて物理結界を作り、打ち返す。
しまった、チャンスボールに! 彼は見逃さなかった。
やばい、ダンクスマッシュだ!
フォロースルーやばい、何てスピードだ。顔面に喰らったら絶対頭吹っ飛ぶ!
思った時にはもう、身体が勝手に動いていた。
私は覚えたての転移術を使い、辛くも回避に成功した。
『はあ、はあっ!』
か……躱せた! ヤクシャさんの火球は、突き刺さるようなストレートのコースを描き、トレスポの惑星の一つを大爆発に巻き込む、何て威力だ。そのとき。
『殺しましたね』
『? 何がですか?』
『あなた今、モンジャ集落の素民を全員殺しましたよ』
『……!!』
物理結界が解けたからだ……。
私は転移に集中して、物理結界の展開をなおざりにしていた。
これが実戦だったら、確かに多くの素民が死んでいる。でも、今は訓練なんだし。
『そんなもこんなもねっすよ、殺しましたよ。赤井さんの大切なメグにナズ、カイもバルもマチ、ヒノ……みーんな死にましたよ。あなたが殺したんですよ、分かります?』
やめてくれ! 何でそんな!
きっと睨み返せど、言い訳はできない。
訓練だからとか言い訳にもならない。
ヤクシャさんはさっき念押しまでしてた、物理結界を解くなと。
それを破ったのは、自分自身だ。
『ハイロードの物理結界は使徒の結界と違い、その防御力は絶対です。だからハイロードの結界は、不落の砦だ。戦闘に入ったら惨敗しようが、自分の身がどうなろうが、物理結界を解いてはいけないんす。それさえできれば』
無意識下でも結界を張り、素民の安全を守り抜く。
それが、さっきまでのガットのないラケットに結界を張り続ける練習だったのか。
『あなたがどうなろうと、民は守れます。少なくとも俺が神様になったら、生首だけにされても死守しますよ』
自分を信じてくれる素民を守る唯一の方法を、手放す真似だけは絶対にしません。
私はそのとき、確信めいたものを感じていた。
この人はいまに凄いハイロードになるだろう。
『私も、そうします』
奥歯を噛みしめる。
私がハイロードだから、死なないから、どんなに負けても素民を守り抜くことだけはできるんだ。
気の緩みひとつで、素民はいとも簡単に命を落とす。
散った命は戻ってはこない。
現実世界ではいくらでもチャンスはあるけど、仮想世界ではそれっきりだ。
『そうしてください。空に輝く星が、何があっても輝き続けるように。あなたはそういう存在です。あなたが墜ちたら、どうなるでしょうか』
ヤクシャさんの視線につられて見上げると、無限に続く模造の銀河が私を見下ろしていた。
人が想像できることは、必ず人が実現できる。
旧世紀のSF作家、ジェール・ヴェルヌが言い、物理学者、スティーブン・ホーキングは、天国は暗闇を恐れる人間が創り上げた仮想世界だと言った。
それから百年という歳月が過ぎ、闇を恐れる人類は本当に仮想死後世界を手に入れた。
死後の安住の地を得て、もはや最後の審判や世界の滅亡の時に怯えなくてもよくなった。
死ぬのは怖い。
誰だって闇は怖いんだ。
宇宙がもし暗黒に満ちて、大地以外に天体など存在しなかったら。
空を見上げて震えることはあれ、憧れることはなかっただろう。
私と彼らが空を見上げるのは、そこに輝く天体があり、永遠なる真理と時間と空間の存在を知り、無限の好奇心を掻きたてられるからだ。
その天体の輝きによって、空が明るく保たれ光によって守られているからだ。
闇を恐れる彼らのために、強くなろう。
一人の人間としてではなく、これからはアガルタの神として。
誰もが見上げてくれるように、私はこの世界で一番明るい星になるんだ。




