第6章 第2話 Sky intellectual◇★
国民の皆様こんにちは。
私赤井ですけど、ロベリアさんとヤクシャさんが啖呵切ってる真っ最中です。
えーと、話を整理すると、ロイを連れ戻すには第五区画解放するしかない。
でも第五区画は悪役区画なので解放したら人口3000人にも満たない基点区画(基点、第一、第二区画)は速攻攻め込まれて蹂躙されてアウチ。
だから第三、第四区画を先に解放して、9万人分の素民の信頼を先にゲットしようって計画だ。
9万人分も神通力が集まれば、私でも至宙儀が使えるようになるんですって!
聞きました奥さん!? 私大興奮! 皮算用極まりないですけど。
んじゃ、伊藤さんが出張? から戻って来られたらかけあってみましょうよ!
とか思ってましたら黒澤さんが。
『PMに訊くのはいいとして、開けるってぇなら、第三区画から開けねえと!』
『第四区画からじゃ、だめでしょうか』
グランダの解放なくしてネストには行けなかったように、逆順はできないんですと。
確かに、あの時ミシカに「邪神ギメノグレアヌスが~」とさめざめ泣かれても『何の話?』ってなってただろうし、まずグランダ通らないとネスト行けないよ立地的に!
やっぱ第三区画→第四区画、この順番は守らないといけないんだそうです。話は分かる。
『第三区画の構築士、そっちに出勤してたっすよね。繋いでもらっていっすか』
『なんねえって』
『そこを何とか』
以下15分略。
ヤクシャさんが黒澤さんと喧嘩紛いの交渉をして下さり、最終的にモニタの映像が切り替わりました。第三区画の構築士さんに繋いでくれたらしい。
インフォメーションボードに映っていたのは、ヘッドギアをしてすっぽりと鼻と口元を隠した、白ブラウスにスカーフをまいた、若そうな女性の方でした。
『初めまして、ハイロード。このような場ですが、お会いできて光栄です。第三区画構築士 、水埜です』
律儀にデスクについたまま一礼し、ストレートロングのオレンジ系の髪をかきあげて耳にさらりとかける。オレンジチークを塗ったほっぺたが元気いっぱいでかわゆく、声は高めで清涼感のある感じ。
悪役構築士は確か、ハイロードに顔見せNGだったよな。
エトワール先輩がやらかしてしまっただけで。
水埜さん(仮名)の名刺が私のボードのフォルダにすとんと入った。
結構名刺フォルダ内に名刺がたまってきたな。私の名刺もそろそろ欲しいかな、って今それどこじゃない。
『お世話になっています。赤井と申します。早速、折り入ってご相談なのですが』
『経緯は把握いたしましたよ。第三区画は解放できる水準に整えてございます。プロジェクトマネージャーの許可さえあれば、いつでも……ね?』
ん?
何だか不吉な感じの含み笑いを浮かべておられますが。
そういや言葉に険があるように……気のせいか。気のせいだよな?
『ご無理を言って申し訳ありません、ありがとうございます!』
私が90度の角度で頭を下げると、彼女は何やら小ばかにしたように微笑んだ。
『私は楽しみにしているのですよ……いつまであなた、化けの皮がはがれずにいられるでしょうか』
おわっ!? モニタ越しに今凄い悪意ってか敵意を感じた気がしましたけど、役作り……ですよね?
やー悪役って大変ですね、どんな時も憎まれ役の役作りしとかないといけないって……。
水埜さんは、人指し指一本を立ててモニタ近くに突き付けた。
『失礼ながら第三区画解放の条件を提示させていただきます。あなたの使徒のヤクシャさんかロベリアさんを、一度でも自力で戦闘不能にできれば、としましょう』
え、ヤクシャさんかロベリアさんを!?
『マジっすか!』
ヤクシャさんは急に振られてボードを注視し、ロベリアさんは眉を寄せて身構える。
でもヤクシャさんの方は困惑してるって感じじゃない、何か面白そうな事が始まりそうだと目を輝かせちゃってる。
『な、何故私がお二人を?』
私もリアクションに困る。
何この超展開、何で味方同士潰し合わないといけないのよ。
てかまず物理的に無理、潰されるのは私の方じゃん。
無茶ブリだよ、ヤクシャさんもロベリアさんも余裕で私なんかより強いわけだし。
『ご自身の使徒にも劣る技量では、程度が知れます。さもないと……解放後、あなたもろともモンジャもグランダも、瞬時に荒地と化すことを予言しましょう。まずいのではないですか? 不死の御身といえど、神様が一撃粉砕されてしまっては。素民も無数の肉片に信仰を捧げるわけにいきませんから……ねえ?』
さっきと違ってすげー皮肉っぽい声出すなあ。
私って相当嫌われてるんだな初対面だけど。
殺る気満々じゃないの水埜さん!
解放直後に第三区画民総出で何か爆弾的な大量破壊兵器をぶっ放してくるとか!?
『私は、強かで優れた神様にこそ第三区画をお譲りしたい。さて、あなたは、どうでしょうか?』
彼女は小首を傾げて頬杖をつき、指でトン、トン、とモニタをノックした。
『水埜さん、条件は分かりました。ですが、その条件を提示された理由をきかせてもらえませんか』
『簡単ですよ。例えば……こんな輩がいたらどうしますか?』
水埜さんは薄く微笑んだ後、コホンと咳払いをする。
『たかが一度二度の運に恵まれた程度で、何でも周囲が思い通りになると勘違いをした、技量も器量もないにもかかわらず自惚れた輩が、他人の仕事を滅茶苦茶にしようとしていたら……』
ってこれ、私のことだよな。
まあたぶん役作りにかこつけて、半分以上は本心だ。
『……っ!』
そうまで言われては、返す言葉が見つからなかった。
同じプロジェクトを手掛けるチームともいえる構築士に、刺されるよな敵意を向けられている。
私が何か恨みを買ったんだろうか。
紛れもなく、私に向けて放たれた憎悪の矢だった。
私が遅まきながら彼女が本気だということに気付いたので、彼女は心なしか口元を綻ばせ。
『なんてね……うふふ。冗談ですよ、少しからかってみただけ』
彼女は誤魔化すように両手を小さく振る。
でも私は、決して演技でも冗談でもなかったと気付いていた。
見逃さなかったからだ。彼女のデスクに置いた拳の内側から、一筋の赤い液体が滴り落ちたのを。
彼女はその手に、鮮血を握りこんでいたんだ――。
『しかし御気の毒ですが、条件は撤回するつもりはありませんので』
彼女は私の目を捉えて、一語ずつ宣告した。
通信は一方的に切られ、私たち五人は先ほどの浜辺に微妙な空気の中佇んでいる。
白椋さん、心配そうに私の傍に近寄ってきた。
第三区画は悪役区画だから、基点区画を守るためにも気合入れて修行するようにと言いたかったのではないか。そうフォローしてくれるけど。
何か色々と思い知った。
私が現実世界のスタッフや、他の構築士に本音ではどう思われてるのか。
期待を寄せてくれている人もいれば、めっちゃ嫌ってる人もいる。
とにかく、条件をクリアして第三区画開けてもらわなきゃいけない。
無茶言ってるのはこっち側なんだから、向こうの出す条件は全面的に飲まないと。
て話になり、『ロベリアさんじゃ赤井さんもやりにくいでしょう、俺が特訓に付き合いますよ!』と仰ってくれたのはヤクシャさん。ではひとつ、胸を借りるつもりで。
『ロベリアさんもそれでいっすか?』
『神様のお相手でしたら、私でも構いませんが。というより私めが是非……で、でも神様はヤクシャさんの方がよいのでしょうか』
ロベリアさん、もじもじしてるけど。
うーん、他のことならロベリアさんにお願いするかもしれないけど、女性相手だと変に気を遣いそうだし私も気が散っちゃいそう。ってアバターの性能に男女型差なんてないんだから、こんなこと思ってちゃいけないのか。
『今回はヤクシャさんにお願いしようと思います。ロベリアさんはまたの機会に』
『左様でございますか』
ロベリアさんが凄く残念そうにしているけど、ヤクシャさんはお構いなしで
『じゃ、早速行きましょトレスポに。あ、白椋さんのフリーチケ貸してもらっていいすか? 俺の、もう残ポイントなくて』
『そうですね、思いきり訓練なさるなら、あの場所がよいかと思われます』
白さんもご存じみたいですけど、トレスポって何の略なんでしょうか。
とか言っている間に……百聞は一見に如かずで。
『すっ、すごい! 一体全体何ですかこの空間は!』
てなわけでヤクシャさんとやってきました、トレスポ(トレーニングスポット)へ!
どうやって来たのかって? 何かインフォメーションボードのすげーわかりにくい場所に四角いアイコンがあったからぽちっと押したら、トレスポフリーチケットってのが拡大されて立体表示された。
そのグラフィックを二枚分、ぺろりと地上に敷いて上に立つと、摩訶不思議!
踏んだ途端チケットのグラフィックの底がパカッと抜けて、気付けば見渡す限り満天の星空。
そして私は小さな天体の上のような場所に立ってた。地面めっちゃ光ってる。何だろここ。
『ここが27管区のトレーニングスポットっすよ、とっととやりましょっか』
トレーニング用亜空間なんだそうです。
というのは、神具をろくに制御できないのにアガルタ世界でぶっ放したら素民が危ないので、構築士達は管区ごとにトレーニング用の空間を与えられるんだそうです。
空間の定員は二人まで。
素民を巻き込まず思いきり修行できる絶好のスペースだ。
『知らなかったですよ、こんなスペースがあったなんて』
『赤井さんまだ神具使えないし、今は必要ないと思って誰も教えなかったんじゃないすかね』
むう、ごもっともです。
トレーニングスポットは当然ながらハイロードが優先して使えるようで、使徒たちは神様に遠慮しつつ空き時間を見つけて使うんだそうで。
ヤクシャさん、ロベリアさんはへヴィーユーザーすぎて、今月はもう残時間がないんだとのこと。
時間制なのここ?
『ということは、他の区画の構築士も使っているんですか?』
『そっすね。ガンガン使ってますよ、ってか予約しまくってます。他管区の神様だけど蒼雲さんは毎日使ってますし。でも赤井さんが入ってたら、遠慮して誰も入ってこないっしょ』
私の知らないところで夜な夜なそんなことが行われていたとは!
ハイロードは時間無制限にトレスポを使えるんだそうで。
だからヤクシャさん、白さんのチケット借りたのか。
てか、トレスポに来たはいいけど真面目に考えたら、二週間どころか百年以上修行しないとヤクシャさんに勝てそうにない。
ヤクシャさん、構築士歴ウン百年って言ってたし。
その間ずっと鍛えてたんだろうし。と、気遅れしてましたら。そんな私の心中を察したらしいヤクシャさんが
『赤井さん! その先入観がよくないんすよ』
『はい?』
『時間をかけないと俺より強くなれないって、自分は弱いって先入観は今日を限りに捨ててください』
ヤクシャさんが熱血コーチらしく、腰に両手をあてて仁王立ちしてます。
どうしましょう、私は正座して聞いた方がいいでしょうか。
『主神はどの使徒より強くあることが約束されていて、神体は本来そのように造られているんすよ』
何か自己啓発セミナーみたいになってきました。
『え、はい』
ヤクシャさんは声のトーンが段々と盛り上がってくる。
『あなたは誰より強いんですよ! それはっ! 27管区世界での決定事項! 既成事実なんです!』
『え? そうなんですか』
現時点では逆立ちしてもヤクシャさんのが強いのを知っているので、面食らう私。
『そーなんですか、じゃなくて! 声に出してっ! やればできる!』
『!? やればできるっ!?』
『Yes you can!!』
『Oh heah, I CAN~!』
何か少しずつその気になってきました。
のせられるとすぐ調子にのる性格ですからね私。
そしてテンションアゲ上手なヤクシャさん。いやー何か爽やかスポーツマンシップ。
何だろうこの体育会系のノリ、悪くないよ。
ヤクシャさんのおかげで、単純な私はすっかり気分アゲアゲ。
盛り上がってしまいました。
『おーいえー! いえい、いぇい、うぇい、いえー!』
いぇい、のところでヤクシャさんと腕をガシンガシンと合わせています。
『いえー!! 準備運動からいってみよ~!! じゃ、超速反復横とびから』
『I Can do it! いぇーい!』
『はよ!』
『えっ』
ヤクシャさんはおもむろにホイッスルを取り出し、ピピーッ! と高らかに吹く。
もう体育の授業だこれ。
「ピッ、ピッ、ピッ、ピッ! ピッピッピッピ! ピピピピピピ」
『んま゛っ!』
ヤクシャさんの笛に合わせて、私は白衣の裾をまくり右往左往。
教官の鳴らすホイッスル、超速いの何の! 準備運動とかやりましょうよ! いきなりやると筋肉痛が怖いですよ。最初はアルゴリズム体操とかから……。
『ピピピピピピピ――!』
こうして暑苦しい滑り出しの中、私とヤクシャさんとのトレスポでの強化合宿が唐突に始まったのです。
折角の機会ですので、こちらもいっちょ本気でやったりますよ!
……30分後。
『ピピピー。体、温まってきました? んじゃ次は、赤井さんにも楽しんでもらえそなやつを』
息の上がってきた私に、ヤクシャさんがぽいんと放り投げて寄越したのは。
『ラ、ラケット?』
テニスのラケットでした。懐かしいなーラケットー、と、思わず拾って持ち上げようとすると、
『!?』
何これ超重い! 片手じゃ持ち上がらないんですけど。ラケットじゃないよこれ!
『赤井さん、テニス得意っすよね!』
確かに私、高校、大学と硬式テニス部でした。
でも、ガット張られてすらないですし。そして、ヤクシャさんが左手の上に浮かべて持ってるのって……ボールじゃなくて青白い火の玉なんですけど見間違いでしょうか!
まさかフレームで打ち返せってこと? フレーム部分をガン見していると。
『じゃーエクストリームテニスでラリー、やりましょ』
『待ってください! このラケット、ガットまだ張られてませんけど!』
せめてラケットでお願いしますよ!
フレームだけとか意味わかりませんよ。
現実世界でエクストリームテニスっていうと、ケージと呼ばれる360度の球形無重力空間の中で縦横無尽にノーバンでテニスをする、バドミントンにも似た超危険でエキサイティングなXスポーツなんですけど。
てか、危険すぎてテニスの原型が殆どなくなってる競技なんです。
よく見たらヤクシャさんやる気満々じゃないの! 衣装チェンジしてテニスウェアになってるし!
『ガットは結界で作るんす、よっと!』
ヤクシャさんがグリップ部分に力を込めると、ブォン、と音がして青白い光の面がフレームの中に出現した――!
『弾、返せないと神体に風穴あくんで気をつけてくださいね! いっきまっすよ―-赤井さーん!』
あれ、ヤクシャさんのスピンサーブ、今から平和にラリーしましょうって速さじゃねーぞ! え!
『ちょ!!?』
気が付いたら、私は隣の星の表面に背中からめり込んでた。黒煙が立ち込め、次の瞬間、大炎上!
ヤクシャさんのサーブが重すぎて打ち返せなかったどころか、メテオストライク的な火の玉ボールに吹き飛ばされ、反動で隣の星に背中から叩き付けられ、極めつけに白衣ごと炎上してました。
全身炎上しながら私は思いました。
思った以上に危険ですので絶対にマネしちゃだめです国民の皆さん……と!
ぎゃー! 気分はまさにXトリーム!
***
「青い神様。西の空が妙です、風が鳴いております」
赤井がエクストリームテニスに興じる少し前のこと。
うららかな春の日差しのもと、遥かなる西空に雷鳴が聞こえていた。
カルーア湖上でのグランディア熱狂のただ中にある素民たちは気づかないが、波乱を呼び込む、強い追い風が西の方角から吹いている。
風とともに生きるネストの民は常にその場の風の強さと向きに気を配る。
ネスト王、パウル・ネストもその例外ではなかった。
彼は観覧席から、雲間に明滅する閃きに魅入っていた。
『ん? どしたーパウル?』
神殿前に設けられ、ひな壇の当座の祭壇に座す蒼雲神は、パウルに応じつつインフォメーションボードを開き、と同時に自動的に起動していた彼のボードの中では、黒澤と赤井のやり取りが消音字幕のポップアップで流れては消えてゆく。
赤井は第三区画、第四区画先行解放という奇策をぶち上げているが、蒼雲は好手だとは思えない。
他管区の神のやり方に口出しをする筋もないので、静観するしかないが。
「嵐が来るのでは、なさそうですしなあ」
「あの輝きは神雷に間違いない、だが赤井の天使の放ったものか?」
キララは背筋を伸ばし、錆付かせていなかった巫女王としての第六感を呼び起こしている。
『お! さすがスオウちゃん、そだなー誰だろーなー』
稲光は正確に一定のペースである座標を穿ち続け、次第にその出力を増しているのは明らかである。
”ねーねー青い神様ー、もしかしてーもしかするとーもしかするー?”
毛玉精霊、モフコが蒼雲の頭の上で跳ねてくびれてひょうたん型になったりと興奮しきりだ。
興奮のあまりうっかり人型になったので、パウルは「おふ!」と絶叫し鼻の下を伸ばし、後ろを通りすがったミシカに「もう、お父様ったら」と、小言を言われていた。
毛玉状態のモフコはコミカルで遠慮知らず、ずけずけとした物言いをするのだが、人型になると急に恥じらいも照れもする。
上目遣いで口を尖らせたり、はにかんで笑うと涙目になっていたり。
登場のたびに異なるデザインの愛らしいピンクのドレス、脚のラインが見えていたりと、こだわりの優美なグラフィックが素民たちの目を愉しませる。
パウルには毛玉から美女へのギャップが堪らないらしい。
”やっぱロイはロイだなー。あいつなんてことしやがるんだ”
赤井の管区のロイは、特に警戒しなければならない。
例えば蒼雲の管区のロイは必ず蒼雲からのアトモスフィア供給を必要としたし、自力でアトモスフィアを増やすことはできなかった。
「神雷からのアトモスフィア抽出」と「アトモスフィア無限増幅」を経験的に知る27管区のロイは、他のどの管区のロイよりも脅威である。
赤井はロイを連れ戻すつもりのようだが、黒澤の言うようにそれが裏目に出る可能性は高い。
コハクの話から、ロイの夜逃げの原因が判然とした。
蒼雲が予期した最悪のシナリオは回避できていたが。
”つーかさ、ロイって昨日まで元手のアトモスフィア持ってなかったんだよねー”
モフコは腑に落ちないという顔でぷうとピンク色の頬を膨らませ、ハーフアップの柔らかなカールをした銀髪の後れ毛を掻きあげる。パウルはさりげなくうなじを凝視していた。前のめりになったその額を蒼雲がぺし、とツッコミ気味に軽く叩く。
”こっそり蓄えていたんかなー? でも何で神雷爆撃しまくってんだ? 危ない目にでも遭って何かを攻撃してんのか?”
ロイの失踪から一日と経たないうちに、この有様である。
赤井と黒澤の間では、基点区画を加速再生しつつ、二週間後に伊藤に第五区画を止めてもらおうという話で手打ちとなった。
他区画に逃奔したロイの第五区画での行動は確かに、当面封じられるだろう。
第三区画の構築士が出勤していたので、赤井がモニタ越しに何か調整してもらっているようだった。
”第五区画内の映像も欲しいなー。大騒ぎになってないといいけど”
モフコはうずうずとして辛抱ならない。そんな時だった
”あれ……水埜ちゃんじゃない? 赤井さんに絡んでる!”
インフォメーションボードから音声を拾うと、赤井は第三区画構築士の水埜に絡まれているようだった。水埜の赤井に対するあまりの剣幕に、モフコは違和感を覚える。
”……変だよ“
“ん、なに、何が変なの?”
蒼雲は、ロベリアとヤクシャを潰せとの区画解放条件をつきつけた水埜の真意を測りかねた。ただ、彼女は赤井に協力的ではないことだけは確実だ。
“水埜ちゃん、赤井さんに会うのすっごく楽しみにしてたの。何であんなにブチ切れたりしちゃったか、わけわかんないよ”
第五区画のために第三、第四区画を利用するという趣旨の赤井の提案が、水埜には気に入らなかったのではないか。
モフコはキララやパウルに気付かれないよう、ぽそりと蒼雲に訴える。
完全にしょぼくれていた。
”何か思い当たることは?”
”うーん、今はそうじゃないと思うんだけど、昔はさ……”
水埜は甲種一級構築士採用試験を何度も受験し、不合格となった経緯を持つ。
甲種一級を目指すうち、ハイロードに対する憧れと執着がいつしか敵愾心に変わっていたと、水埜はモフコに打ち明けたことがある。
ハイロード浪人を繰り返すうちに諦め、一般構築士となった受験挫折組は少なくない。
というより殆どがその手合いだ。モフコもそうだが、モフコは固執していない。
それでも、水埜は最近では表面上穏便に悪役構築士として構築任務をこなし、27管区の主神たる赤井を認めようとしていた。
だが水埜は、自らの何が赤井に劣っているのか、比較し続けていたのかもしれない。
スキル、経験、力量、イマジネーション……構築士として、人間として、何を欠いていたのか。
悩み続けていたのだろうか。
これがただの邪推であって欲しいとモフコは思う。
しかし、モフコは彼女のハイロードに対する、並みならぬ執着を知っている。
知る限り、彼女は主神という存在を巡って悶々としていた時期があった。
燻り続けていた劣等感に、向き合い続けていた。
これらのことを思い返せば、今回の赤井の態度は、赤井の資質を密かに疑っていた彼女にとって、我慢できなかったことなのだ。
彼女が心血をそそぎ三百年かけて構築してきた区画を、「踏み台」にされそうになった。
伊藤PMが何と言おうと、同僚にどう思われようと。
この男を、27管区の主神として認めるわけにはいかない。
水埜がそう思っているのだとしたら……。水埜は強靭な構築士だ。
“……もしかしたら、全力で赤井さん潰しにくるかも”
“マジで!?”
“マジで!”
先ほどの恫喝は。彼女が復讐を誓った瞬間であったのかもしれなかった。
「モフコさま、青い神様、どうなされました? 本選が始まりますよ」
パウルの言葉に、モフコと蒼雲はグランディア大会に引き戻される。
『やった! お楽しみー☆』
変わり身の早いモフコである。
観覧席の下では予定通りに水泳競技の予選会が始まっていた。
これまでのグランディア大会結果を振り返れば。
■グランディア大会第一日目
やり投げ 男子 ヤス・ハント(モンジャ:漁師)
■グランディア大会第二日目
やり投げ 女子 ヒノ・ヨージン(モンジャ:大工)
短距離走 男子 ソミタ・イシモリ(モンジャ:狩人)
短距離走 女子 ノール・マイマ(グランダ:鉱山勤務)
■グランディア大会第三日目
長距離走 男子 メロス・ハシル(グランダ:伝令兵)
長距離走 女子 シャナ・クワトロ(ネスト:農民)
野生児を多く輩出するモンジャが地力で大量にリードを広げつつ、グランダが猛追、ネストはお気軽お祭り気分だ。各国の思惑と個人的な思惑(主に食欲と物欲)が交錯しつつ、第三日目、水泳競技の決戦の火蓋は切って落とされた。
100シン水泳自由形、男子、女子の部。神殿前の浮橋に沿った直線コースを、男性は腰布一丁で、女性はビキニのように胸と腰に布を巻いて泳ぐ水泳競技だ。
自由形といっても泳法もまちまちだ。
現実世界での泳法に似た泳ぎをしているのはモンジャ民の人間患者だけで、他は思い思いの泳法を編み出して挑む。抜き手を得意とするグランダ民、のし泳ぎのような泳法を編み出した民も。ネスト民は高山台地在住の為、泳ぎは不得手だ。犬掻きと大差のない泳ぎを見せる選手もちらほら。
一見和やかに見えながら、水面下では、個人競技というよりはモンジャ漁民とグランダ漁民の団体戦の様相を呈していた。
カルーア湖の漁業権を巡り、モンジャ民とグランダ民の間で利害が一致していないのだ。
グランダではかつてギメノグレアヌスによる「海産物を食べるのは悪しきこと」という教えがあったため漁業に本腰を入れていなかったが、グランダ解放後は食のタブーもなくなり、新興漁民がカルーア湖の漁場に参入してきた。すると漁場を巡り小競り合いが繰り広げられる。よい漁場にはモンジャ船籍、グランダ船籍の小舟が群れを成す。
そんな経緯があり、神殿を境に北側をモンジャ漁場、南側をグランダ漁場としているが、神殿境界線をはみ出しただのはみ出していないだの、そっちが餌を撒いたので魚が逃げただのいいや撒かないだの、夜間に漁をするなだの、問題は山積している。
揉め事を嫌うモンジャの長のロイは、カルーア湖の漁場と漁獲量を自治管理する国際漁業組織を立ち上げようと提案した。モンジャの漁師たちは応じる姿勢を見せているが、グランダ側の漁師たちは参加を渋っていた。モンジャの漁師の方が、頭数が多いのだ。これではグランダ側が損に事が運ぶ。
一方でロイは、モンジャ、グランダ側双方でのカルーア湖の水産資源の共同管理が難しいとみるや、モンジャの漁師はカルーア湖ではなく外海で漁をしようと呼びかけていた。
そんな背景あっての、水泳競技である。
「カルーア湖をめぐる南北の漁民たちの因縁は深そうですな」
パウルは漁業問題から一歩離れた立場にある。
「まったくだ。まあ、互いに憂さ晴らしにはなるだろう」
キララは控えめに述べるにとどまった。
民間の漁業問題で女王の踏み込んだ発言は、外交問題に発展する。
「おおっ、あのモンジャ民の泳ぎは何だ!?」
予選第一組、一位の選手を見てキララが驚愕していた。
現実世界でのバタフライに似た両足そろえての腰を大きく使った泳法で推進力を得る、他の選手の拙い泳ぎとは一線を画している。モンジャの漁師の、マルマルという青年であった。彼は数々の工夫をこらした仕掛けを使って、カルーア湖沿岸の珍しい魚を獲り神殿前市場やグランダで商人に売りつけて生計を立てている。
「予選ですから、本気を出しているとは限りませんぞ。むう、こちらのグランダ選手も早い」
余力を残して泳いでいる民もいるはずだが、第二組、一位で予選を通過した選手の泳ぎも見事だった。
リソットという男は、上体は平泳ぎで下体はバタ足のような泳法で首位を独走する、マルマルと同じ仕掛け漁を得意とするグランダの漁師であった。
リソットとマルマルはグランダで同じ商人に魚を売っている。同種の漁法で同じ魚を扱うだけに、商売敵でもある。さらにリソットからすると迷惑なことに、マルマルはリソットより少し安く値段をつけて売るものだから、当然、商人はマルマルから魚を買う。モンジャ民の民族性として、彼らは基本的に無欲だ。
商魂逞しい輩もいるにはいるが、彼らは大抵人間患者だったりする。
リソットはマルマルを降し、優勝して目にもの見せてやると意気込んでいる。一方のマルマルは、嫁のモリモリに焚きつけられて仕方なくの出場。
水泳競技の参加者は、男性ばかりではない。
力仕事が多いので漁民には男が多いが、湖底の貝や水草の収集、獲れた魚を加工して売る女性も貴重な働き手となる。漁民の女性も泳ぎは達者だった。
「選手は位置について~!」
水泳競技、男子決勝戦。
神殿の浮き橋の一端から水に入った、12名の選りすぐりの選手たちが、横一直線に湖上に渡されたロープを等間隔に握り締める。ロープがスタート位置となり、これを旗が振られるまで両手で握っていなければならない。先に手を離すとフライングとなり失格、小舟が出て不正行為がないか監視している。
予選一位同士のマルマルとリソットは隣同士だ。
リソットがマルマルを牽制する。
「お前、勝ちたいからって泳ぎの邪魔するなよ! 絶対だぞ!」
「するもんか。何で?」
女子の水着姿を見ようとネスト民の一団が最前列をキープしていたが、男子決勝戦では興味が湧かないのか、だらしなく寝そべっておやつを食べている。一方、婦人たちはネスト男性陣を最前列に乗り越えてかぶりついてキャーキャー黄色い声援を発している。
「私の民は、泳ぎなどいつ練習したのやら。というか、泳げる者がいたとは驚きだ」
つい最近まで、グランダでは泳げるものなどいなかったとキララは感心する。赤い邪神の呪いで湖底に引きずり込まれるという伝説が、カルーア湖からスイマーを遠ざけていた。
『きゃーキララちゃんカナヅチだったんだー! かわいー』
「そ、そんなことは断じて……」
観覧していたキララの上半身が、僅かに傾ぐ。
キララの真隣にいたモフコはキララの異変を見逃さなかった。
『ちょ、キララちゃん!? どしたの!』
玉座から崩れ落ちそうになったグランダの巫女王を、至近距離でモフコが抱きとめる。
「……あ、あぁ」
『大っ変! 今、スコーンと意識なくなってたじゃない!?』
「な、何でもない……ただの目まいだ。たいしたことはない」
早口で誤魔化すキララは、息が上がり、額に大粒の汗を浮かべている。観覧席から少し離れた場所からでもはっきりと窺えた女王の変事に静まり返り、何事だとざわめきはじめるグランディア会場内。スタートを待つばかりだったキララ命のグランダ選手は、陸に駆け上がりそうな勢いで心配していた。
『眩暈い?』
インフォメーションボードに釘付けになっていた蒼雲は、訝しげにコバルトブルーの頭を掻いた。
妙に、彼は引っかかったらしかった。
『キララー。白状してみてなー、てか正直に言わなくとも俺にはバレちゃうし。最近、よく眩暈がするのかい?』
「何でもないと、申し上げている」
虚勢は張るが、語気は弱い。
彼女は大半の汎用A.I.と違い嘘をつくことができるが、言葉に芯がない。
『赤いのには、もしかして内緒にしてんのかな? 脇腹に痛みを感じたり、とか?』
「青い神様、どういうことですか?」
あくまで彼女の口から聞き出そうと探りを入れようとする蒼雲に、パウルが口を挟む。ミシカがパウルの肩越しに身を乗り出し、薬袋から気付け薬となる酒を準備しつつあった。
「キララさん。こ、これ飲まなくて大丈夫ですか?」
「ああ、ミシカどの、大事ない……、っ!」
「やっぱり!」
キララは平静を装おうするが、今日に限って堪えることができない。
慢性的な倦怠感も腹部の痛みも食欲不振も、気のせいだろうと騙し騙しやってきた。メグの栽培する薬花も試したが、奏功しなかった。ここ数日で、病状は一気に誤魔化せない域に達した。スオウ一族の短命の原因である、不治の病に冒されつつあったのだ。神を呪い代謝を加速させた報いだ。邪神との一年の間に、キララの巫力を呪力として消費したつけが、遂に回ってきた。
代々の王が受け入れてきた、天命を受け入れる時が来たのだ。
先日、キララは酒を酌み交わした白の巫女、神聖エルド帝国巫女王たるコハクに尋ねた。
白い女神の世界のスオウの一族は短命であり続け、コハクの母もそうだったかと。するとコハクは真っ直ぐで無垢な瞳で「でも、スオウの一族は、めがみさまと国民のために死ぬさだめです。母は幸せでした、私も、それが幸せです」胸を張って言うのだ。短い生をめがみさまと共に歩む、最後まで彼女の傍にいる。運命とは無情なものだ。
産声を上げてすぐに赤子が死ぬのも、女神の思し召し、それが世界の摂理であるとしたら
幾年を生き、巡る季節を過ごし観て、何を哀しく思うのか。
“それ以上生きようと思うのは、私はよくばりだとおもいます”
弱冠十四歳の少女王の、覚悟を見たのだ。そして、恥じ入った。
「そうだな……その通りだ」
キララは誰にともなく、自らに言い聞かせるように呟く。
忍び寄る死の気配を、彼女は日ごと自覚していた。
脈々と受け継がれてきたグランダ王、スオウ一族の血を絶やしてはならない。しかし一方で思う、グランダの呪縛を連鎖させてはならないと。ギメノグレアヌスを失ったときから、スオウ一族の絶対王政には根拠がない。彼女が望むのはグランダ国の発展と、グランダの民にもたらされる恒久の和平だ。
新たな歴史には、新たな王が祭られる。
優れた、民心を反映した新たな王が。それでよいのではないか。
「では教えてくれ。神の力でも、手の尽くしようがない。私はここで、死ぬさだめなのだろう? 情けはいらぬ、教えてくれ」
『キララちゃん! どうしてそんなこと言うの』
飲み干したように。キララはモフコにではなく蒼雲に尋ねた。
惨めにならないように。
ましてや同情など、されないように。
『……そうだろうな』
蒼雲は短く応じる。
それが答えだ。訊き返すことはしない、命乞いはしない。受容するだけだ。
「そうか」
ならばこれ以上、あの優しい神を困らせたくない。
束の間ではあったが、温かくやわらかな希望をくれた彼のために何を残して死ねるだろう……?
***
量子宇宙に漂う、極小にして極大の階層。
アガルタにおいて青天井に開かれた階層は、ただ一つしかない。
そこは不可視のカラビヤウ空間として、誰に知られることもない。その空間に閉ざされた不定形の形状をした壮麗な白亜の天空城に、全世界の構築士が仰ぐ、世捨て人はいた。
首にセピア色のリボンをつけた一匹の赤目白毛のウィスターラットが、磨き上げられた格子模様の床にチャッチャッと爪音を軽やかに弾ませながら、天空城の中枢部、“果てなしの書斎”に駆け込んでゆく。
『やあ、アルジャーノンかい』
書斎の中から男の声が聞こえた。
「チチッ、チーチッチ!」
ラットは、球体の空間に浮揚し青い輝きを放つ天球儀のようにしか見えないデスク兼コンソールの中に器用に滑り込み、仄かな蛍光に照られた毛を膨らませ、主のもとに馳せ参じチチチ、と歯を見せ朗らかに笑う。
『どうした、ラットの真似なんてして。上機嫌じゃないか』
男がラットを手の上に乗せると、長い尻尾を鞭のように丸めて携え一礼する。
ラットの毛皮がこれほど白く美しいのはグラフィックの無機生命体ゆえのことである。
「失礼。これはユーモアなるもので」
『そういうものではないよ、ユーモアというのは』
「チッチチ。それは残念です」
ラットは前足を浮かべ文字通り浮足立ったように、前足を浮かせて嬉しそうに鼻を鳴らすのだった。
男は疲れたように溜息をつき
『お前も退屈なら、回し車でも回していたらどうだい』
「退屈だなんて何の冗談ですか。私はアーカイブ構築で忙しいのでございますよ。教授のほうは、いかがで」
赤い眼のラットは流暢かつ気取った国際語で応じる。
『今回もまた、だめだったよ。あと少しというところで、具合が悪くなる』
「さあさあ、気分転換も必要でしょうよ」
彼が視線をくれもせず作業を続けていたホログラフのボードにラットがぴょこんと飛び乗ると、同時に演算経過を伝えていた数十のプログラムが非表示となった。
ラットはこの男に、何とか休憩をさせようとする。
男が執心し続けているのは、地上の生命史を塗り替えるであろうプログラムだ。
いや、それは完全なる生命と言って差し支えない。
G-ES(神化全能性幹細胞)、これが完成すれば――、と成果を急いでいる。
「少しは、お休みになってはどうですか。機械ではないのですから。あなたの疑似脳のメンテナンス、私の手には余りますので」
ラットは、389年も不眠不休で未完成のプログラムの開発を続けてきた、男――彼の主人を尊敬を込めた眼差しで見つめる。
しかし同時に思う、怠惰で無目的な生を貪る、殆どは生きる価値すらない人間どもの為に、死してもなお、彼の血肉と時間を投じるのだろうか。と。
現実世界に、彼の救うべき「人間」は果たして存在しているのだろうか。ラットは懐疑する。
いつだってそうだ。
利己心や虚栄心、嘘で固めた醜い精神、他人の功績をわがもののように語り、享受される娯楽を食み、テクノロジーを欲望のままに浪費する。
外見を飾りたて、精神を飾ろうとせず脳を怠けさせることに熱心に興ずる、そのような愚か者どもの傍らで、ただひた向きに未来と過去との鎖を繋ぎ続けるために、身が朽ち果てるまで走り続けんとする、献身的な死者たちがいたのだ。
例えば彼のような。
それが、ラットには口惜しくて仕方がない。
フォレスターが心血をそそぎ構築したテクノロジーは、怠惰なる人間の為のものではない。
そんなラットに気付いたのか、彼は
『私は聊かも高尚な人間ではない、ただ、大切な女性との約束を守れなかった、愚かな男に過ぎないのだよ』
「だから、あなたは贖罪を続けるのですね。究極を目指して」
ラットは赤い瞳で老人を一瞥する。
フォレスターの死亡時、肉体的には老人であった。
現実での姿と遜色のない初老男性のアバターを選んだのは、教授の趣味だ。
アガルタ入居者は平均的には、頭脳と精神、身体能力を維持するため若年期のアバターを好むが、彼がアガルタに入る際に、自身に刻まれた歴史を消し去ってしまうことを好まなかった。
教授は褐色の肌に、栗毛、白のデニムを穿き、ブルーのカットソーを着て、視る者に清潔感を与えるいでたち。
だからといって、彼のアバターの性能に老いという言葉は似合わない。
『それで、どうした?』
「ああ、失礼。ボトルメールがこの天上階に漂着しました。恐らくは、あなた宛てでしょう、これを」
ラットがウィンドウを描き実体化させたそれは、宛先人にしか見えないマリンブルーのガラスボトル。
ボトルの中には四つ折りになったグラフィックのメールが入っていた。
「差出人は突き止めました。東京工業大学のスオウ教授です。内容は、どうぞ」
『どれ』
アルジャーノンはピンク色の耳を引っ張って見せ、小さな歯を見せてチチッ、と独り言を言う。
教授の声は、僅かに弾んでいる。ラットは予感しているのだ。教授が久しく忘れていたであろう、人類に希望を呼び込む吉兆を。そして、彼が昔のように(・・・・・)、彼らしく生き直そうとすることを。
『キリコか。懐かしい朋友だ。達者にしているだろうか』
フォレスター教授は、人間らしく“深呼吸”をする。
肺に空気を入れるのを、久しく怠っていた。
教授の知る限り、あの日を境にドクターキリコは現実世界に残った。
以来、連絡は途絶えている。
彼はボトルに何か含むような視線を向けると、おもむろに服の内ポケットから黒革の札入れを取り出し、手に取った。
『が……残念ながら。中身は喰われてしまっているよ』
彼の札入れに収められていたのは、マネーではない。
教授は一掴み、札入れの中のものを鷲掴みにしてその場に無造作に放り投げた。
ぱらりと空に放たれた一束、数式の刻印された42枚の純金のカードは何の変哲もないカードのように見えるが、超神具と呼ばれるものである。
『Rapid synthesis of stable Gold Cluster, Fullerene [Au42]』
教授はアガルタ随一を誇る無尽の神通力をもって、超神具・フラーレンを御す。
化合物としてのフラーレン(Fullerene)は一般的に炭素クラスターの総称であり、フラーレンシリーズとしてはC60(カーボンシクスティ)などがある。
フラーレン・オーラムはコマンドを与え様々なクラスターを形成することにより、固有の性能を発揮させる。
非常に可塑性のあり、自由度の高いが高いスキルを要求されるため彼専用の神具とされている。
「ど、どうされたんですか!?」
ラットは教授が急に神具を抜いたので、何が起こったのか把握できない。
しかし彼の放った超神具は既にボトルの周囲に配座され、ボトルは全方位から加圧され飛散した。
その破片を、フラーレンAu42は捕捉して内腔に閉じ込める。
するとどうだ、破壊されたボトルの中から、滾々と水銀様の流体が流れ出してくるではないか。
流体は人型をとり、ぶるぶると蠕動を始めた。
「しまったっ! これは!」
ラットがボトルメールからの悪意あるプログラムの侵入に気づいた頃には、彼は慌てることもなく既に超神具に最後のコマンドを与えていた。
仮想世界に描き出された構造式が彼の周囲を守り固めるように、シールドとなり幾重にも出現する。
特異的バウンディングによって、ボトルの存在する空間はフラーレン内部に内包され、階層は隔絶されている。溢れ出たプログラムが自己組織化し、フラーレンとフォレスター教授の空間との隙間をこじ開け、引き裂こうとする兆候をみとめると、彼はコマンドを唱え始めた。
“Setup Object Stabilizer……to the chain reaction……→……+( AuISR )n(poly)(org)→……+( AuISR )n(org) + BH−4(aq) →Aux(SR)y(org).……”
彼のコマンドは一般的な神具の扱いとは異なり、無詠唱でも付与される。
彼の疑似脳と超神具は直接接続しているからだ。脳領域の酷使を、彼は回避しない。
『M@Au42(エンドセリアル・フラーレン)』
超神具が構造を確定した瞬間。
終わっていた。
侵入プログラムを凝結させたままフラーレン内部で沸騰、融解し、最小単位にまで落とし込む。
プログラムは展開すら許されぬまま、黒く焦げ付き、流体は蒸発し消え失せる。
彼は軽く両腕を組んだまま、ぽそりと呟いた。
『インナーワールドの人間の造ったもので、この私は破壊できまいよ』
無限に成長する知性だけが、特異点を超えてきた。
彼が自信を持ってそう言えるのは、一度かの地点に達し、”こちら側”に還ってきた世界でただ一人の人間だからだ。
その先の世界を識った瞬間から、彼は仮想世界を出ることができない。
誰も彼のいる場所に、踏み越えてくることはできなかった。
そして彼も、外に出ようとすら思わなかった。そう、これまでは――。
『キリコからの用件は……と』
彼は灰燼と化した黒いプログラムの残渣を掬い取り、束ね持ったフラーレンの上にぱらぱらと降りかける。
『再生(reproduction)』
フォレスターが命じれば、カード上に落ちた粉末は彼に命を吹きこまれたかのように蘇る。
容易く破損データの修復を終えると、
『へえ。ロイが……』
フォレスター教授は彼の息子の名を、感慨深く噛みしめた。
そして、ほんの少しだけ外界への興味が湧いてきたのである。




