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Heavens Under Construction(EP5)  作者: 高山 理図
Chapter.5 Into the real world
57/130

第5章 第5話 Behind the gate◇★

 自動飛行車で首都空速道路を第8層路線から抜け、東京S.I.C.(スカイインターチェンジ)から一分とたがわず定刻通り環太平洋国際空速道路に入る。

 久しぶりの、三日間のオフ。


 あずま 沙織さおりは単身、しがらみから逃れるように日本を飛び出し米国への旅路に入った。


 パスポートチェックの代わりにインターチェンジゲートで車番自動認証。

 東の持つ番号は政府諜報機関関係者のパスで、個人名や詳細な情報は一切問われない。

 I.C.を抜け国際飛行道路上で法令で義務付けられている空域自動運転ハイパードライブに切り替え、気圏10000m、高度飛行を開始。


『カリフォルニアS.I.Cまで285分の旅をお楽しみください』


 車内ナビゲーションシステムの音声が告げた。


 自動運転技術が完成してからというもの、交通事故などは前時代のものでドライバーもハンドルを握らない時代となったが、こうして時間を費やしゆったりと一人で長時間のドライブをするのも彼女は嫌いではなかった。

 ミルク入りの缶コーヒーに口をつけつつ、流行りの曲を控えめな音量で流し、モバイル上で残務を整理する。

 飛行機や軌道エレベータを使わないのは、極力人目を避けたかったからだ。

 シルバーのシールドに覆われた車内で過ごすかぎり、目的地に到着するまで誰も会わずに済む。

 身分証はありといえど未成年の身体では、なにかと身動きがとりにくい。


 今回の訪米の目的は、実にプライベートなものだ。

 内調(内閣情報調査室)の人間が個人で人捜しとは皮肉なものであるが――。

 個人で動かなければ、沙織はあまりに目立ちすぎるのだ。


 東 沙織の妹と恋人の、行方と安否が知れなくなってからもう随分立つ。

 数年前、東がDFH計画の潜入捜査の中でも特に危険な案件を担当したばかりに、彼女の実の妹が何者かによって拉致、殺害されかけたことがあった。

 妹に迫る危険を察知した東は妹を彼女の米国の恋人のもとに密かに預け、当分の間国外でやり過ごそうとした。

 そんな東の努力を嘲笑うかのように、妹が渡米し沙織の恋人のもとに身を寄せた矢先、二人とも忽然と消えてしまったのだ。それは東たちの追っているターゲットからの、この案件に手を出すなという警告であることに間違いなかった。

 沙織は車内の音楽を消し、少し型落ちのプライベート用モバイルの録音再生ボタンを押す。

 それは二年前に録音された、23分間のデータ。


”もしもし、お姉ちゃん? うん、バイトさっき終わったよー。今日はちょっと早かったんだ”


 弾んだ声は、在りし日の彼女の妹のもの。

 沙織の仕事のことなどつゆ知らず、獣医学生としてのんびりと北海道で気ままな学生生活を送っていた。

 透明感のある雰囲気と知的な面立ちの、動物をこよなく愛する優しい自慢の妹だった。

 通話記録は、八月のものだ。


”お姉ちゃんの仕事は?”


 操作ミスで偶然に録音していた妹との通話記録を、沙織はまだ消すことができない。

 今では使用していない一代前のモバイルは、妹の声を聴きたくなった時の為にずっと大切に持ち歩いている。

 妹が大学生になってからは沙織が仕事に忙殺され殆ど会えなかったが、その分密に連絡を取り合っていた。

 酪農の実習を頑張っている、天文研に入った、講義も全部出ている、図書館で毎日勉強している、今日のおかずは……。

 沙織は彼女と会話をしているように相槌を打ちながら、上書きのできない過去と真摯に向かい合う。


”でね、お姉ちゃん。私、彼氏ができたの。理学部の同い年の人でね。話上手で、気が合って……”

”あら、それはおめでとう。ぜひ彼の動画を見せて”


 今となっては懐かしい彼女の声が、スピーカーから楽しそうに聞こえていた。

 自然と、過去の己の言葉をなぞるように沙織の唇が切なげに動く。


”えー恥ずかしいよー。お姉ちゃんも彼氏できたんでしょ、先に見せて!”


 せめてこの時、妹の恋人の名前を聞いておけばよかった。沙織がどれほど悔いたか分からない。妹の恋人は、それが永遠のものとなるかもしれない、理由も知れぬ突然の離別を嘆いたことだろう。

 今も彼は妹を待ち続けているのだろうか。それとも妹の存在を忘れ、新たな恋をしただろうか。

 編集もされていない、モバイルの中の生々しい通話記録は、やまない沙織の後悔と懐旧の情を容赦もなく掻き立てる。


”日本に戻ったら、その彼も一緒においしいもの食べにいきましょ。あ、そうそう。分かっているとおもうけど、同棲をしてはだめよ”

”わかってるよー。お姉ちゃんこそ隣に彼氏がいたりするんじゃないの。お姉ちゃんの彼、目が青い?”

”どうしてそんなことを聞くの”

”あーお姉ちゃん照れたー。彼、カッコいい?”


 過去という時間の中で生き続ける、妹がふざけて笑っていた。嬉しそうに日常の些事を報告したり、現在の自分などいないかのように、あの日の自分ととりとめのない会話を続ける。

 仮想下での軍事訓練に身も心も疲れ切った沙織は、妹との日々の電話で癒されていたと思い出す。


 平凡な日常を送る妹の身に危険が迫っていると分かった時、沙織は彼女に何ら事情を説明しないまま無理やり米国に連れ去ってしまった。

 せめて友達と彼に一目会いたい、連絡を取りたいと懇願する彼女を、連絡を取ると周囲を危険に巻き込んでしまうし電波発信記録から位置を特定され追われることになる、国家機密にかかわることなのよと突っぱね、結果的にそれが彼らとの最後の別れとなってしまった。


 妹の人生を破壊してしまったのは私だ。

 沙織は言い逃れをするつもりはない。

 その罪悪感は、妹をこの手で取り戻してもなお生涯消えることはないだろう。

 妹の声を聴いていると沸々と込み上げてくる濁った感情をどう処理してよいかわからず、沙織は数分の記録を残して再生停止ボタンを押した。


 彼女のもう一人の捜し人、沙織の恋人の名はNathan Blackstone(ネイサン・ブラックストーン


 沙織の米国での諜報技術研修中に現地諜報員の紹介で交際をはじめた彼は、航空工学を専門とするMITの優秀な大学院生で、国防総省国家安全保障局(NSA)への採用が決まり将来を嘱望されていた。

 身体能力が高く性格もアクティブな沙織に対し、静的で論理的なネイサンは対照的で、あまりにも性格が正反対だからかウマが合った。

 ネイサンは絵の趣味があり、たまのオフの日には二人で弁当片手に郊外にデッサンに出かけたりしたものだ。


 彼が果樹園にイーゼルを立ててスケッチに勤しんでいる間、沙織は音楽を聴きながら木陰でお気に入りの古い詩集を読む。彼にもぎたてのリンゴをむいてあげたり、サンドイッチを分け合って……いっぱしの恋人らしく、甘く幸福な時間を過ごした。

 あの時間の中でだけは、飾らず偽らない、等身大の一人の女でいられたような気がする。

 今はというと……偽りの洪水の中で、自らの存在をすら見失いそうだ。

 

 どうっと、少し気を抜けば洪水のような心象に襲われて

  ラベンダーの香りと共に、また手元に置いた宮澤 賢治の詩集を断片的に思い出す。


『そのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が こころも遠くならんでゐる

 これら葬送行進曲の層雲の底 鳥もわたらない清澄な空間を』


 西へ東へ。仮想へ現実へ。

 百千の日没と、幾千の夜明けを、日向と日蔭、意識の覚醒と途絶を主観時間に感じながら、

 私は何を求め、一体どこに行こうとしているのだろうな。

 沙織は座席を倒して仰向けになり、車のルーフに反射して映り込み足元を飛んでゆく真っ赤に染まった夕暮れ雲の群れを漠然と眺め、ガラスにそっと手を伸べる。


 そして宇宙と地球の水平線を横目に見る。

 ああ、世界はこんなにも鮮やかな色彩に満ちていた。

 熱でほてった肌を冷やすように、タイトなシャツのボタンを二つほど外し靴を脱ぎ、エアコンの風を胸元へ向ける。

 

『わたくしはたつたひとり つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら 

 南の方へ石灰岩のいい層を』


 生と死の狭間を、過去へ現在へ。

 彼らのほんの僅かな手がかりを、今日もまた彼らの魂を探し求めるために。

 ともすれば泣きだしそうになる。

 私が彼らを見失わないようにしなければ、彼らが記憶の中に生きることだって難しいのだ。


『一挺のかなづちを持つて さがしに行かなければなりません』


 沙織は深い溜息とともに脱力し、静かに目を閉じ眠剤を噛む。

 信じられるのは己の身一つだけ。

 立てなくなるほど挫けそうでも、自分を見失い発狂してしまいそうでも助けを求めることはできない。帰るべき場所も、安住の地もない。


 足を止めれば永遠に戻ってこない。

 失った日々も何もかも。

 彼らの消えた時間を、沙織はまさに修羅として歩んでいるのだ。


 彼らの失踪から二年以上が経過しており、米国からの出国の形跡はないため、何らかの事件に巻き込まれ監禁されている、もしくは死亡しているであろうとの見通しがついている。

 そしておそらく、後者である可能性が濃厚であるということも。だが、彼女は諦められなかった。

 遺体や遺骨が発見されていないので、望みを捨てられない。

 仮に彼らが事故ならともかく殺人事件に遭った場合、その記憶がアガルタに入ることはありえない。

 犯罪被害者の記憶がアガルタに入ってどうなるものか、少し考えれば分かることだ。

 死人に口なし、ではなく死人が雄弁に語るこの時代である。

 犯行の発覚を恐れるために、肉体と共に記憶も葬られているとみて間違いない。


 無言の対面となるだろう。

 彼らが沙織のもとに戻ってくる望みは限りなく薄い。

 しかし彼女は、ありやなしやの情報を求めて尋ね歩いているのだ。


 今回の旅の目的地は米国マサチューセッツ州、ノースケンブリッジ。


 もともとボストン・ケンブリッジ周辺はハーバード大学、マサチューセッツ工科大などが集まる伝統ある研究都市であったが、ケンブリッジ郊外にここ十年で新たに産学官連携拠点が築かれ、一大学術研究都市として生まれかわった。

 ノースケンブリッジ学術都市のとある一施設の厳重機密管理棟地下……そこに米国の死者たちがアガルタへ入るための窓口である中央データセンター、通称ヘヴンズゲートがある。


 ヘヴンズゲートにサーバーは設置されていないが、米国アガルタの一般入居希望者がサーバーへ生脳のデータを転送するための情報処理が行われている。

 ここには米国中の死者の情報が集約されるとともに、アガルタへの記憶転送を待つ遺体の生脳も集まってくるのだ。


 米国アガルタの死後住民台帳に沙織の妹と恋人の名前が新たに登録されていないか、捜索願の出ている行方不明者が何らかの形で見つかっていないか、あるいは身元不明遺体そのものが送られてきていないかを調べることができる。

 死者の情報は日本でもある程度閲覧できるが、一般には閲覧不可の情報もある。

 沙織は日本政府関係者の特権で機密情報に直接アクセスするため、ヘヴンズゲートに定期的に確認に訪れるのだった。しかし沙織個人が手の届く範囲での捜索は、まさに気休めにすぎない。


 気休めではなく唯一確実に、彼らに辿り着く方法はあるのだ。

 それは日本の国体を揺るがす戦後最大の国内テロ計画。

 コードネームDFH(Descent from Heaven)、天孫降臨計画の全貌を暴き、それに関与する者全員を逮捕すること。


「待っていて…………あなたたちがどこにいても、地の果てまでも迎えに行くわ」


 彼女の妹、 愛実まなみの写真を指先でひと撫でし、沙織はモバイルを閉じ浅い眠りに落ちた。



 ***


 川添 瑞希は感動の光景を目の当たりにしていた。

 蒼雲が留学先であんなに嬉しそうにいきいきと……。

 彼はロイの造反の一件があってから、素民から姿を遠ざけるようになってしまった。見えなければ、失望することもないだろう。そんな言い訳とともに、彼は結界に閉ざされた神殿へと引きこもった。


 現実世界における神々が民の前に姿すら現わさないように、神とは本来不可視の存在であるべきなのだと、彼なりに心の整理をつけたうえでの判断だ。


 彼は神殿の中からでも民に祝福することをやめなかったが、すっかり覇気をなくし、患者の治療を打ち切ると結論を出したのは川添には辛かった。

 彼はかつて患者の治療に人一倍の情熱を持っていたから。


 アガルタの神は、ときに治験患者の受け入れを拒否するという措置を取ることもできる。自信と意欲がないというのなら、患者の時間を無駄にするも同然なのだ。だから蒼雲はもう、治療打ち切りの意思を川添に告げていた。俺は駄目だ、俺の手には余る。へらりと薄い笑みを浮かべる。

 わざとらしい笑顔をこしらえる彼が、川添には痛々しく見えた。


 だからこの留学は正解だった。

 まだ彼に情熱があったころの、昔の片鱗を見せている。川添は常々目をきつく吊り上げて叱咤していたことも忘れ、よかったと目を細めるのだった。

 ほくほく顔の川添の隣では、川添と同じように二十七管区の情報制御室の一角に間借りしている担当官の鴻池が困ったように頬杖をつき、コーヒーをがぶ飲みしてはモニタ前でデータを漁っている。


 情報制御室は管区ごとに一室ずつ割り当てられ、一部屋は体育館ほどの広さがある。

 中央に立体モニタとコンソール、そしてその周囲に扇状に職員の作業用デスクと端末が配置され、個々のオペレータやデザイナー、構築士補佐官などが各ブース内でそれぞれの担当区画にアクセスし、仕事に適した構築時間を調整して任務にあたっている。通常構築時は基本的に個人での構築が多く、全体で同調させての構築は区画解放時のみである。


 どことなく肩身が狭そうに見える鴻池を川添は元気づけるように


「心配いりませんよ鴻池さん。赤井神が至宙儀を持っておられるそうではないですか! もし至宙儀が使えなければ蒼雲が何とかしてくれるでしょう」

「ああ、そういえば蒼雲さんは形而立方体でしたか」


 蒼雲は多機能神具という、珍しい神具を持っている。

 FC2-形而立方体メタフィジカルキューブというもので、見た目は立方体のおもちゃのよう。

 蒼雲の神具を用いればコハクの捜索は難しいことではないが、神具を起動すれば相応に神通力を消耗するし、他管区の神がしゃしゃり出ても無粋というもの。

 二十七管区では赤井に花を持たせたい。


 そんな川添の背後では、赤井に至宙儀を与えたと知った複数の二十七管区スタッフたちが伊藤に詰め寄る場面が先ほどから繰り広げられている。

 伊藤は中央のデスクにどかりと腰をおろし、意味深な微笑を浮かべつつモニタの中の光景を見守っていた。

 箱庭世界を知り尽くし、二柱の神を経験したキャリアを持つ伊藤。疑似脳の制御下にあったとはいえ総計千五百年以上を仮想世界で生き抜いた彼は、彼に憧れ彼を崇拝するスタッフ達からは一目も二目もおかれる存在である。

 伊藤からしてみれば、管区スタッフたちの経験というものは赤子のそれにも満たないのであるが、それを鼻にかけはしない。

 しかし伊藤に気おくれするとは言っても、赤井のこととなるとスタッフたちも話は別だった。


「一体どういうおつもりなんですか。至宙儀を赤井神に、だなんて……。あれは新神には起動すらできない代物ではないですか」

「今は現状維持を貫くべきで、冒険する段階ではないのでは。彼は超人ではないんですよ、神具を与えるぐらいならまだしも、キャリア十年での生体神具は早すぎます」


 思いつきにしても、慎重にして万全を期してほしいという共通認識がスタッフたちにはある。赤井が管区構築とは全く違った意味で前人未到の成果を上げている以上、腫れものに触るようにしろとは言わないが、実験的な試みを行う段階ではないのだ。

 独断で余計な事をして、赤井の精神状態が乱れてしまったらどうする、と言わんばかりだ。


「赤井さんには扱えますよ」


 お蔵入りにしておくなんて勿体ない、宝の持ち腐れと言う言葉もあるじゃないですか。と伊藤はおどけたような顔をした。すると、エトワールの担当官である江戸っ子堅気な黒澤が、柄にもなく訛りのない標準語で、ぐさりと伊藤の古傷をえぐりにかかった。


「……生体神具は使い手の精神を蝕むこともあると、あなた自身がご存じのはず。熟練者のあなただって、二度も疑似脳への侵食を受けたではないですか」


 というのは、これまで伊藤は至宙儀を継承したいと申し出てきた、経験豊富な五柱の維持士たちを、資質不十分として取り合わなかったという経緯があるのだ。

 いわくつきの神具を新神に渡したとあっては、彼らのメンツを潰すようなものでもある。

 反感だってしこたま買うだろう。


「ええ仰る通りですよ。それは私に神としての資質がなかったからです」


 伊藤は含みを持たせた表情で深く頷き、両手を組み合わせさらりと弁明する。


「構築年数は問題ではありません。皆様がたは何故、彼らアガルタの囚神が感情の一部を欠いた存在に創りかえられるかわかりますか」

「それは構築士の人権を守り、千年監禁のストレスから精神的苦痛を和らげるためでしょう」


 誰からともなしに、マニュアル通りの答えがかえってくる。


「それも一理あります。が、人が人でいる限り肉体を離れても、生理的、社会的欲求から逃れることはできないからです」


 自己顕示欲、支配欲、性欲などの人間の欲望はアガルタに入り肉体を失っても本能的に体に染みついたもので、無意識的に利己的行動や思考をしてしまうのだ。


「彼の精神はアガルタに入る前はごく平凡な青年でしたが、精神が肉体から離れると完全に利己心を捨て去ることのできる、極めて珍しい性質の持ち主です。それは彼の脳を解析した時点でよく分かっていました」


 修練を積んだ宗教者で稀にそのような特徴を持つものがいるが、それは特定の宗教に傾倒しているのであって、心の本質が変化しているのではない。

 なお、信教によって我欲を捨てた者は他の宗教に寛容ではない場合が多いため宗教管区での雇用に限られ、伊藤の求める人材ではなかった。

 また、信教がない場合は自己愛型、自己陶酔型となりがちで、神という存在を演じるうちひどく高慢になり、人の痛みに共感できなくなるケースもある。これは非常に頻繁に起こった事例である。

 しかし、欲望というものは人間性そのものだ。人が人として生きるために必要な本能なのだ。

 だから構築士に人間性を捨てさせるために、疑似脳の制御が必須なのである。


 今回、日本アガルタは無宗教管区、すなわち特定の宗教を信仰していない人々のための管区を構築する予定だった。特定の信教を持たず、民に驕らず自尊心を捨て、相手に求めず己の持てるものを全て与え、苦痛を恐れず、他者に寛容であり平等であることが理想だった。理想はあっても、そんな人間は実質存在しない訳で、そこそこの素材を採用して理想の神へと造り替える。

 蒼雲、白椋も無宗教管区の神として決して悪くはない、何十万人もの中から選びに選び抜かれた優秀な素材だった。だが、伊藤が求めていた理想のそれではなかった。


「至宙儀は、心まで神となりえた者だけが扱えるとされる神具なんです」


 心まで神となること、それは伊藤を以てしても不可能だったことだ。

 生命46億年の進化の先端には、いつだって中庸な母集団の中から限界の突破を果たし、無限の選択肢の中から生命を新たな境地へと送り出し、進化を収束させてゆく存在がいた。

 その先端にいるのが、今は赤井という男なのだろうと伊藤は見込んでいる。

 彼が特異点を超え、波動関数を収束させる最初の存在となりえることは、肉体の進化の極みを経た人類の新たなる進化、見えざる精神の進化をも予見させる。


 はたしてこの場所が、最適解こたえだっただろうか。


 ただ漫然と便利さを享受する怠惰なケモノへと落ちぶれるために、過去から星の数ほどの命を散らし人類がここまで進化を積んで来たわけではないのだ。

 我々人類は足を止めてはならない。

 人間はこの答えを破棄し、座標を塗り替え、”その先”へと、進まなければならない。娯楽施設を提供することが、アガルタ計画の本質ではない。

 それがアガルタ創始者、フォレスター教授の理念だった。


 人類の科学技術は、その技術の粋を集めた人体という装置は、確実に究極の状態と近づいている。

 人はどこからきて、何をなし、どこへ行くのか。

 ここが進化の終着点ではなく、人は”その先”に往くことができるのか。

 答えは、できる、だ。

 何千年と繰り返されて今も終わらない命題の答えを求め、立ち止まることなくこれからも続けてゆかなければならないのだ。


 伊藤が本音を言ってしまうと、九年後、彼を人間に戻さなければならないのが心底惜しい。

 無意識にそう考えてしまうので、やはり自分は人間だったのだ、神にはなれなかったのだなと伊藤は寂しく自らの度量というものを思い知る。

 

 伊藤の言葉は周りを取り囲む二十七管区スタッフらを震慄させ、おし黙らせるには十分な衝撃を持っていた。

 そうして重苦しい空気が流れたところで、タイミングよく伊藤のデスクに入電があった。

 伊藤はホログラフのキーを叩いてデスクのブースに防音シールドを張り、すみやかに通信に切り替える。スタッフらは伊藤の通話に配慮し、各々に響くものを抱えながらデスクについて通常業務の態勢へと戻った。

 シールドの中では、立体投影されたスーツ姿の男のホログラフが伊藤の通話をまっていた。


「お待たせしました」

「現実世界への帰還に備え連絡を取っているメグのご家族なんですが……少し、気になったことがありまして」


 伊藤に入電してきたのは、日本アガルタの事務方のトップ、栗田だった。アガルタ全体での責任者定例会議以外には接触をしない、栗田が伊藤を呼び出すことは珍しい。


「どういうことですか」

「メグのご両親に治験関連の書類で帰還後フォローの同意書を書いていただいたとき、お父様がメグの名前を間違えました」

「どのように?」


 ただでさえシャープな印象の伊藤の表情が、不穏な報告を受けさらに引き締まる。


「単純な名前の読み仮名の間違いです」


 どんな名前を、どのように間違えたのか。伊藤は気になったが尋ねることは憚られた。治験患者の実名をはじめとする個人情報は伊藤もアガルタスタッフも知らず、アガルタの運営に関与しない厚労省の特殊な事務官数名しか把握できないのだ。


「緊張されていたのかもしれませんが、肉親が娘の名前を間違えるなんて、普通はありえないですからね。また、フォローアップの研究のために提出されたご両親の遺伝子型データが、10年以上前の古い型式のものだったので再鑑定をすすめたのです。が、つい先ほど拒否されまして」


 メグの肉親とされる人物は、午前中に厚労省の栗田のもとを訪れていたのだという。

 伊藤はアガルタ関係者であり、治験の無作為性を担保するため彼らと直接会う機会はなかった。が、メグの両親が娘の回復を非常に喜んでいるとは間接的に聞いていた。


「現実世界でメグに他の家族はいないんですか」

「戸籍上では姉が。……ですが、旅行中で連絡がつかないということで」

「それは何やら不自然ですね」


 伊藤の直感が事件性ありと告げていた。

 

「応接机の上から唾液、ソファーから皮膚片等を捜し迅速鑑定に回してください。全てがクリアとされるまで、管区責任者としてメグの身柄を渡すわけにはいきません」


 得体の知れぬ、おぞましく蠢く影の存在をそのとき伊藤は感じ取っていた。



 *



 神具が何かは蒼白の二柱に教えてもらって分かったよ。

 神棚に飾るアレとかじゃなかった。

 何か神通力をエネルギー源にして駆動させ、奇跡っぽい事する為の装置みたい。

 ほら、雷神トールが持ってる雷が出るハンマーとか、不動明王の持ってる剣っぽいやつとか、ああいうの。

 そうです、多分神器です。

 なに、説明がアホくさい? 本当に理解してるのかって? いや正直あまり理解してませんよ。

 だって神具見たことねーし。

 んで私が伊藤さんから貰った至宙儀しちゅうぎって神具はかなり特殊みたいで、私の神体と一体化してるらしい。

 それってどんなことができるんですか!? と蒼さん白さんに尋ねると


 なんとびっくり!

 神通力の所持量に応じて、基本的に何でもできるんだそうです!


 はい? ……何でもって、何でも!? 構築スキル関係なしに?

 何でもって言われると逆に胡散臭い。


 まさかそんな。

 世の中そんな上手い話ありえませんよ。

 元気があれば何でもできるって誰かが仰いましたけど、神通力があれば何でもできるって本物の神様みたいじゃないですか、ガラじゃないですよ。

 だいたい一般構築士がそういうチートじみた能力使っていいわけがないんです。

 絶対に何か落とし穴があるはずです、そんな話信じられませんよ……と思いっきり疑ってかかっていると


『おーい、何言ってんだ赤いの。猫に小判、豚に真珠、赤いのに至宙儀状態になってないか?』


 蒼雲さんがコバルトブルーの青髪をぽりぽり掻きながら呆れたように私をおちょくってくる。


『そんなことはありませんよ赤井神』


 白さんがモフコ先輩をむぎゅっと抱えたまま、私に気を遣って一生懸命フォローしてくれる。

 別におちょくられたり叩かれ慣れてますからどう言われたっていいんですけど、こう見えて煽り耐性ついてますし。

 白さんて本当に生真面目な女神様だよね。

 現実世界では一体どんな性格してるんだろ? 学生時代、リアルに委員長やってたっぽいなこのヒト。もしくは委員長じゃなかったとしても委員長と呼ばれてそう。


『対価を支払えば所持者のいかなる望みにも応える、至宙儀が日本アガルタの秘宝と呼ばれる所以なのです』

『もったいねーなー。あーもったいね。白ちゃんもそう思わね? どー考えても赤いのには早くね? 使えないなら譲ってくれてもいーんだぜ?』


 別にいらないとか言ってないですよ。

 至宙儀はともかく、至宙儀のくっついてる私の背中の皮膚の部分、私的にはすごく大事ですからね。

 私の皮膚は私に所有権がありますからね、当然ですけど持っていかないで欲しいってぐらいで。


『いいえ、わたしは至宙儀は赤井神にこそ相応しいものだと思っています』


 至宙儀の性能をうまく引き出せば万能どころか全能の神になれるんだそうで。

 白さんの期待が一身に注がれる。

 この流れを見守っていたモフコ先輩、にゅっと私に突起を伸ばし、よく見ると何か紐を握ってる。


『東西南キタ―! 万年貧乏くじな赤井さんにも遂にツキが回ってきたきたきたー! いいからこれ引っ張ってみて赤井さん! 遠慮しないで、遠慮しちゃらめなのっ』


 モフコ先輩がそう言うので彼女の差し出した紐を引っ張ると、いつの間に用意したか私の頭上でミラーボールっぽいのがパーンと割れて、「祝、我らが貧乏神赤井さん至宙儀ゲット!」とか書かれた垂れ幕が出てきて紙吹雪が舞った。

 なんだろこれ。

 個神的にはいらなかったかな、それより私貧乏神とかじゃないしね。


『どや?!』


 相変わらずの芸の細かさ、そして無駄なことして神殿散らかさないで。てかあなたも絶対内容把握できてないでしょ。取り敢えずノっとけばいいか、的なのやめてもらえますかね。


『何かよくわかんないけどめでたそうだから祝ってみた~』


 可愛くおどけて見せる先輩。

 愛想笑いを浮かべつつ垂れ幕を三つ折りにする私。

 そして二柱からの視線が痛い。

 仕切り直しとばかりに咳払いして、


『とにかくそれは朗報です。その至宙儀はどのように使うのでしょうか』


 まあ、習うより慣れろって感じなのかな。

 どうせ説明書もないんだろうしやってみるしかない。

 せっかく伊藤さんが譲ってくれた貴重なものだっていうし。ベテランの蒼さん白さんがいてくれた方が何となく心強い。


『ははっ、まー俺も実物見たことないからね~。とりあえず集中して念じて至宙儀呼び出してみ、呼び出せたら詳しく分析してやんよ』


 蒼雲さんは豪快に笑ってる。

 つっても、私の背中にくっついてるので見たことないんですよ実物。すると白さんがモフコ先輩を両手の中にふわりと浮かべて、


『このように日本アガルタのシンボルを球体のようにイメージして、両手の中に納まるように呼び出せばよいはずです。海外の生体神具はそうやって起動していたと覚えています』

『……やーん白椋さんひどーい、私を例にして説明しないでー!』


 モフコ先輩が白さんの腕の中でぽいんぽいん跳ねて抗議してる。でも凄く分かりやすい例をありがとう。

 えーと、球を呼び出すようにね? 

 了解です。私は目を閉じて集中し、丸くたおやかに曲げた両手の中に、モフコ先輩大の球体をイメージする。

 私、中腰のへっぴり腰姿勢でまだ見ぬ至宙儀なるものをイメージしまくること五分。


『かーっ、やっぱ神通力たりてねーっ。二十七管区って素民一万もいねーんだろ? そりゃどー考えても無理ゲっしょ、赤いのには早すぎた。時代が、ってか構築年数が赤いのに追いついてきてない!』


 おーっと早くも蒼さんが待てずに匙投げた模様――! 

 心なしか私の集中力もぶった切られて途切れてきました。妄想力が足りなかったみたいですね私。

 ちょっと力の入れどころを間違えたんでしょうか……とか反省してたら


『もーかったるくて見てらんね。加勢するわ、目あけんなよー』


”Fundamental Contorl Double Metaphysicalcube”

(根元事象二重制御・形而立方体)


 うん? あれ? 

 言われた通りに目をつぶってるから見えないけど何か蒼さん横で一人でぶつぶつ言ってる? 

 そして金属が擦り合わさるような変な擦過音が絶え間なくしてる。何かのコマンド!? 

 何それ、蒼さんカチカチ何やってんの!? 

 目を瞑ったまま耳だけ意識をそちらに向けていると、蒼さんのコマンドに応じるかのように私の神通力の絶対量がみなぎるゥああああ! 

 何か手持ち花火やってたと思ったらいきなりロケットエンジン点火されちゃった雰囲気。この急激な暴騰は突沸に近い。そのぐらいの大馬力が無理やりぶち込まれた。

 まさか倍率ドン、さらに倍的な何かを――!?

 やばいやばい、蒼さんの神具で私に神通力を大量に送ったっぽい。そんな大量にもらったってこっちが制御できない! 一瞬でも気を抜けば跳ね飛ばされそうなほど強大な神通力を何とか気合で制御しつつ耐えていると、私の両手が焼けつくように熱くなってきて……背中から腹側にかけて無数の弾丸に射抜かれたような気がした。


『至宙儀、起動……しましたよ』


 状況を飲み込めないまま、白さんの声で恐る恐る目を開く。日本アガルタの恥ずかしいあのシンボルマークがそのまま背中から剥がれて立体投影されたのか……と思いきや。

 太陽系……私の目にはそう映りました。


 私の両掌の中央に一つの核となる大きな白光、その周囲を赤や青の小ぶりな光の球体がゆっくりと周回する。

 美しく幾何学的な軌跡を描く大小のホログラフの球体群が、ふよふよと同心円を回りながら私の両手の中に規律正しく浮かんでいた。

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