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第4章 第14話 Suggestion by Project Manager Ito◆★

 二十七管区、寒風吹きすさぶ冬のネスト台地にて。

 ある兄妹がぺちゃくちゃと会話を交わしていた。


 彼らはモンジャの民の中でも特に始祖と呼ばれる二人、ナズとメグだ。

 シツジの毛の青いセーターを着用し、シツジと綿的素材の混紡のズボンを穿いてネスト民に馴染んでいた。

 膝下には黒と白のクロスステッチの刺繍が入っている。

 ミシカに貰ったものだ。ついでにいうと、メグはミシカに習って三つ編みを覚えた! 

 というわけで、メグは長い黒髪のサイドを編み込みにし、青いビーズでとめている。

 そして彼らが何をしているかというと、メグとナズはネストの森の探索隊への戦力外通告を出されたということもあって、ネスト大地に残ってミシカと共に過ごしていた。


「あにさまー。牧場の方に行こうよ~、ミシカちゃんがシツジのお乳を絞ってくれるってー。絞ったお乳は濾して固めてね……」

「メグ先に行ってて、僕はもうちょっとこっちがみたい。メグはこういうの、きょうみないの?」

「私は動物のほうがいいなあ。あにさまはあの回るやつが好きなの?」

「うん! すごく大きくて、あんなにはやく回るんだよ!」


 ナズは茶色の瞳をきらきらと輝かせ、ネスト城の城壁にいくつも並ぶ風車がカラカラと回る様子を見上げる。

 彼らがネストに来た日より、ネストの生活も道具も全て、モンジャはおろかグランダより遥かに進んだ文明だと、この兄妹が気付くのに時間はかからなかった。

 ネストは金属加工技術に優れ、建築水準もグランダを圧倒し、風車を労働力の代用にして生活に利用している。

 痩せた土地で堆肥を作る農法は、神の祝福に預かり肥沃な土壌を当たり前のように享受し農地としていたメグたちには思いも付かなかった。

 メグはネストの人々の知恵に感心する。


「グランダもすごかったけど、ネストはもっとすごいよね!」

「すごいよね!」


 素直で無邪気な兄妹である。

 メグは、ナズと共に過ごす幸せな時間を噛み締めるように、寄り添って楽しそうにはしゃいでいた。

――現実世界では世界初の仮想リハビリテーション治療によって回復した高次脳機能障害患者として注目を浴び、治療の終了に伴い兄妹で過ごせる時間に終わりが近づいているとは露知らず。


 赤い神の庇護のもと、この平和な時間がいつまでも続くものだと信じていた。


「あにさまは男の子だから、大きくて強いものがすきなんだよ」

「そっかな」


 ナズが恥ずかしそうに鼻を鳴らす。仲の良い兄弟だ。

 しかしメグとナズは一時、いかに“あかいかみさま”と遭った頃の自分たちの暮らしが原始的だったかということを思い知り、気が沈んだ。

 彼らモンジャの民が裸で暮らし火を知らず採集生活を行っていた頃、ネスト台地では風車の羽音が聞こえ、大空をグライダーが飛んでいた。

 しかしナズとメグにはまた、誇りにしているものもあった。

 ネストの民もグランダの民も、赤い神を知っている。


 彼らがその降臨を渇望すれど、伝説上でしか知らなかった赤い神――。

 最初からその“あかいかみさま”と共にいて、彼はモンジャの民を祝福してくれていた。

 彼は先のことを教えてはくれないが、ネストの風車のことも、もっと先の進んだ文明のことも知っているのだろう。

 モンジャが他の文明より遅れているなら、学んでその水準に追いつけばいい。

  そのために、モンジャを代表して皆の分まで学ぼうと彼らは奮起する。

 そこで彼らはミシカの後ろをちょこちょことついて回り、彼女のネストでの普段の仕事を見学しているのだ。

 ナズは現実世界において工業大学生であったためか、記憶がなくとも三つ子の魂なんとやら、動くものや素民の生活に役立ちそうな工芸品などに釘付けだ。

 一方のメグはモンジャ集落で得意としていた畜産業と農業に興味津々。

 兄妹でもこのあたりに個性の違いがみえる。

 牧場への道すがら、立ち止まって城壁の風車に目を奪われている兄妹を、ミシカが迎えにきた。


「メグちゃん、ナズくんー。なに見てるのー? シツジの乳搾りと毛刈りしようー?」

「ミシカちゃーん遅れてごめん。この風車というものが面白いなあって。どんな仕組みで回ってるのかなーって」

「仕組みかー。風が吹くから回る、としか言えないかなー? ずっと前からネストはこうだったんだよ。風の力を使って大きな機械を動かして、粉をひいたり水を汲み上げたり」


 ミシカは腰に両手をあて、体裁の悪そうな笑顔を浮かべる。


「そっかぁ」


  ナズは若干不満そうに口先を尖らせ、ぽりぽりと天然パーマの茶髪を掻く。

 回るから回る。

 彼らはそれ以上の原理を追求しないらしい。

 ナズもその心情を理解できないではない。

 例えば、ネストへの到達手段となった例のグライダーも単純に、浮いたから浮いた。

 ナズはただ、最も効率よく浮く形を求め、実験によって理想形になったに過ぎなかった。

 それと同じように、回る形を追求すればこの四つ羽根の風車になったのだろう。


「ちょっと絵をかいていい? メグとミシカさんは先にいってて。僕もあとですぐいく」


 ナズは布に包まれた一枚の白い大きな羽根を、肩掛けの袋から大事そうに取り出した。

 右曲がりの白い立派な風切り羽。


「わあ、エトワールさまの羽根! 落ちてたの?」


 メグは大興奮だ。

 天使エトワールの羽根はレアアイテムなので、素民たちの間では装飾品やら何やらで人気が高かったりする。


「あれ? どうして中央が黒い?」


  しかしこの羽根は根元が持ちやすいようにカットされ、空洞の軸の中にモンジャで使われていた液体の染料が詰められている。

 ナズが軸を加工して持ってきたのだ。

 ナズはふわふわと羽根ペンを二人に見せながら、


「羽根のさきをちょっと傷つけると、中からせんりょうが少しずつでてくる。こうやって、ほら。グランダのかくものより、皮になめらかな線がかけるし、とてもかるい。また中にせんりょうを詰めたらいつまでも書ける」

「あにさますごーい。私もエトワールさまに羽根を分けてもらおうかなー。うう、でも言いづらいなあ。エトワールさま、みんなに羽根抜かれてたからなあー。あかいかみさまが、エトワールさまの羽根がなくなっちゃうって心配してたし」


 メグはくすくすと思い出し笑いをした。


「僕はおちていたのを三本拾ったから、あとでメグとミシカさんにもあげるよ」


 ナズは城の壁面の至るところから突き出している風車を、丁寧にスケッチしはじめた。

 真正面、真下、真横……様々な角度から、注意深く絵に描き起こしてゆく。

 その見事な画力は子供の描く絵というよりは完璧な作図、嘗て27管区で誰も描いたことのない製図用の三面図式である。

 無意識の中に埋もれるナズの記憶が、彼の指先を通じて微細に至るまで具現化されてゆく。


「ナズくんは絵が上手だね! うちの城の絵描きより上手かも」


 あまりに正確に描写するので、ミシカは目を見張る。

 ネストの城には絵師がいるが、誰もナズのように立体的な絵は描けないのだ。

 その理由は明白だった。

 立体的に見えるのは、遠近図法で描かれているからだ。

 三面図式を描き終わると、彼は仰角45度の三点透視法で城壁の絵を描き始めた。

 まず彼が描いたのは見たままの城壁ではなく、そこに存在しない筈の目の高さ、アイレベルというものだ。どこまでも平坦で消失点を持たない27管区世界に、水平線により始まる世界が描かれる。

 彼の頭脳の中で想定されている、地球の丸みと消失点。

 それはナズが現実世界の人間たる証拠でもある。


「すごい、どうしてナズくんは見上げてるように描ける?」

「これが僕の目線。この線より上のものを、見上げるようにかけばそうみえるんだよ」

「へー、そんなの全然思いつかなかったよー」


 工業大学時代に習得し、遠近図法を仮想世界においても忘れなかったナズの絵は、ありのままの物体を写し取っていた。


 ナズは復活して暫くの間、埋め合わせのきかない劣等感に悩んでいた。

 ナズが取り戻すべきは、空白の9年間と男としての誇りだ。

 もし、死の淵に沈むことなくいっぱしの男として成長することができていたなら、自分は今頃どんな青年になっただろう? 

 ロイのように、頼りがいのある立派な青年になれたんだろうか……。

 家族に負担をかけるばかりの、何の取り柄もない病弱な青年となる運命だったのか。

 

 神様は十年前、僕を病気から助けてくれなかったけれど、力をつけてこの世に呼び戻してくれた。

 そこに何の意味があるんだろう? 神様は僕に何をさせたいのだろう。

 僕が生きて皆の役に立てることがあるんだろうか――。

 モンジャでは皆それぞれに居場所と得意分野が与えられている。僕には何が? 

 メグにも悩みを打ち明けられず、人知れず悩んでいた時期……。


  彼が見るという悪夢に興味を持ったらしい赤い神に、ナズがその夢を詳しく説明するために絵を描いて見せたとき、彼に非常に驚かれた。

 遠くのものが遠く、近くのものが近く、見上げるものはそう、見下げるものもそのように見えたから。


 そして、真剣な面持ちで啓示されたのだ。

 この世界にある様々なものを描き、 それを消えないように残し続けてください、それが世界のはじまりの記録、百年先も、二百年先も、時間を越えて世界の終わりにまで残る歴史のしるべとなります、そしてあなたの画法は、末の世にまで通用するでしょう、と。


 ずっと残る記録だなんて、未来の人が見たらどう思うだろうと、何だか楽しみだった。

 それが赤い神に与えられた彼の使命だと信じた。

 生きていてよいのだと言われた気がして、自分の存在が必要なのだと言われたようでナズは嬉しくなった。彼は赤い神の言いつけ通り、消えないように描こうと思った。

 グランダの筆記具で書いたものでは擦ると消えてしまう。

 モンジャのものは木の皮を引っかくので描きにくい。だから彼は羽根ペンで絵を描く。


 ひそかな使命感に燃える兄を横目に、メグは人差し指を唇に当て、ぽれっとした顔で風車を見詰めていたが……


「ねえあにさま。べくとるを使えば力のかかり方が分かるかも。風がこっちから吹いたらこっちとこっちに、こっち向きとこっち向きのべくとるがきて。それでね、上側に力がかかって回るんだよ!」


 普段はトボけているが、メグは数学によって物事を理解し吸収できる賢い娘だ。

 赤い神が、万物の基本の理論を幼い頃から叩き込んだからだ。

 メグは兄の描いた絵の上に、指を滑らせて力学的ベクトルの向きを示した。


「わあ、本当だ。力がつりあったみたい。僕とフリーくんで作ったひこうきと同じ力がかかってるのかなあ?」


 妹の理論的なアイデアに、ナズは立式できない自分を少し不甲斐なくも思いながら大いに頷く。

 ナズは赤い神から、フリーらと共にようやく四則演算を教えてもらったレベルだった。


「原理的には同じなんじゃないかなー。あ、ほらほらあにさま。この軸をもう少し傾けたら風を受けてもっと回る力が強くなるかも? ちょっとやってみるー」


 メグは近くに落ちていた細長い二枚の葉を内側に折り込むようにして斜めに折り曲げ、細い小枝で二枚の葉を貫いた。

 ちょうど風車のような形をしている。


「メグちゃんなあにそれ。ちょっと形が違うけど、風車みたい!」


 ミシカは目を皿のようにしている。


「これはおもちゃだよミシカちゃん。私が小さかった頃、あかいかみさまがこのおもちゃ作ってくれたなぁって思い出して……皆で息を吹いて、葉っぱがくるくると回るのを面白がってたんだよ。今でも面白いけどね、ほら!」


 メグはふーっと息を吹くと、風車はぴゅーっと回る。

 ミシカに手渡すと、ミシカも楽しそうにぷーぷーと吹くのだった。


「メグちゃんは色んなこと知ってるのねえ」


 ミシカは感心している。


「あかいかみさまのおかげだよー。もっと遊ばずに勉強しておけばよかったと、今では思ってるけどね」


 えへ、とメグは照れている。

  ミシカはネストの王女という立場がら、幼い頃から家庭教師にネストでは最高の教育を与えられてきたが、どうもメグには敵う気がしない。

 メグはネストの何を見ても”知らない”と言うが、説明しなくても”分かる”と言うのだ。

 暗記が主体のネストの教育と、モンジャの教育は一線を画しているような気がした。

 メグには”考える力”が備わっている。


「あ、待って。いま……もしかして」

「どうしたのナズくん」

「その風車、正面からだけじゃなくて横風でもまわるんだ?」

「ネストの風車は横風では回らないよー。だから、一日のうちずっとは回っていないんだ。それで、ほら。城壁から色んな方向に風車が出てるでしょ」


 ミシカが指差すと、確かに風車はあべこべの方向を向いている。

 ミシカいわく、どの方向から風が吹いても、いずれかの風車は回っているような状態に設置しているのだというが……。


「うん、ネストの風車は回らなくても、かみさまがメグに作ってくれたおもちゃは横から吹いた風も受けて回るんだ。ハネがたわんでいるから、風をうけるぶぶんが残ってて」


 ナズは葉の風車を持って、軽く横から吹く。

 横風で葉のたわんだ部分が押され、風車が風を受けて軽快に回転する。


「分かった。こうすればいいんだ、羽根をもっと大きくすると……ネストじゅうの風車がいつも回るようになると思う」

「あ、そっかー。軸を垂直にすると、どこからの風でも受けられるね! 水平じゃなくて垂直なんだ!」


 風向きに依存しない垂直式風車であれば、その回転を利用してより多くの仕事ができるようになり、ネストの民はそれだけ辛い肉体労働から解放される。

 余った時間でほかの作業ができ、民の生活が潤うだろう。

 この色白で病弱な少年は、モンジャの人々にそう願うのと同じように、ネストの民の幸福も心から願っていた。


「ねえメグ、あかいかみさまがネストの泉の外に、”滝”をつくってくださったよね。あの水の勢いを風車に当てたら、風よりもっと途切れることなく回るんじゃないかな」

「ほんとだ! ほんとだよナズくん!」


 ミシカとメグは顔を見合わせ歓声を上げた。

 かくしてものの十五分の間に、垂直式風車と水車が発明されてしまったのである。

 そしてナズの着想は、それだけに留まらなかった。

 彼の脳裏にはちらりとこんな考えが過ぎっていたのである。


”あかいかみさま”は『ミシカの城は動かない城なのか』と聞いていたけれど……できもしないことを、彼はさも尤もらしく問いかけたりはしない。

 この城は動く、知恵を絞れば動かせるってことなんだ。


 だとすればどうやってこの重い城を動かせるんだろう? 

 いつか、”あかいかみさま”からヒントを聞きだそう。

 何だかわくわくしてきたナズだった。


 ***


 メグとナズが薄い雲のたなびく快晴の冬空を見上げた頃。

 アガルタ27管区内でナズとメグの様子を見下ろす、異世界から注がれる無数の視線があった。

 彼らにとっては天上界からの眼差しに等しい、伊藤をはじめとする厚労省職員の面々だ。


 さて、厚労省地下のパブリックビューイング会場には夜になっても人が途切れない。

 夕方五時を過ぎ各自の仕事を終えた職員たちが、時間外であるにも関わらず続々と集合してきた。

 赤井のライブ中継を一時中断し、伊藤がカメラワークをメグに切り替えているうちにナズの驚異的な発明に居合わせたため、彼らの目当てはナズではなくメグであったが、ナズがにわかに脚光を浴びることとなっている。


「ナズか……ナズは人間だな。一体何者なんだ?」

「発明家として開眼しつつあるのかな。ナズは」


 ざわめきは大きくなるばかり。


「にしても、ナズの発想はアガルタではタブーの”現実世界のカンニング”に相当するだろう。更に遠近法で絵を描いているし。脳機能が回復すると同時に、ばらばらになっていた記憶が戻ってきたら……まずいんじゃないか、これは」

「ナズは航空宇宙工学専攻だったという話だ。そのうち航空機やロケットだって飛ばしかねないな。というか、もうパラグライダーが飛んだし」

「あーあ、どうするんだ」


 文明の発展に影響を及ぼしかねない、元専門家のような患者は、治験患者から意図的に外したほうが無難ではないか。

 という意見が急浮上してきた。

 文明の発展にはしかるべき順序というものがある。

 順序を誤っては、素民の混乱を招くだけだ。

 したがってアガルタでは現実世界の知識の持込みは原則禁止されている。

 ナズの記憶が回復すれば、彼は27管区の技術水準を引っ掻き回してしまうだろう。


「おい伊藤。これ以上ナズが素民たちに影響を及ぼす前に、現実世界に戻すか素民たちから隔離したほうがいいんじゃないか?」


 伊藤の旧友、第一管区プロマネ茂本が今後の27管区への影響を懸念して伊藤に忠告する。

 茂本はグレーのサングラスを鼻でかけた、白髪の恰幅のよい初老の男だ。

 肌の色艶や豊かにたくわえた白髭から、伊藤にはカーネルさんと呼ばれていたりする。


 茂本の担当管区は日本アガルタ一丁目一番地。

 日本国民の凡そ9割が信仰しているとされる、めくるめく神道の世界”高天原”、茂本は天照大神役の伊藤と組み、日本アガルタの基礎を築き上げた功労者だ。

 カリスマ的存在と化している伊藤に、面と向かって率直な意見を投げかけられるのは茂本ぐらいのものだった。


 伊藤PMは茂本の意見に対しても首を縦に振らない。


「カーネルさん。これまでのアガルタでは、人間の患者様は概して仮想世界で無気力で、積極的に活動したり、ましてや発明を行うことなど皆無でした。これは仮想下治療が順調に進んでいる当管区ならではの問題なんです」

「カーネル言うなっつーのに。お前がそう言うから、これでも少しは痩せたんだぞ」


 茂本は髭をいじりながらハイボールを飲み干し苦笑する。

 パブリックビューイング内のフリードリンクバーには、五時を回ったのでアルコール類が並びはじめた。

 茂本は今度はソルティドッグに口をつける。


「お髭に塩がついてますよカーネルさん。そしてナズの発想に関する問題ですが、現実世界で生死の境を彷徨う一人の患者さんの治療より仮想世界の文明進捗が大切などということは、断じてあってはなりません。問題が起こらぬよう、バックアップ体制には万全を期しています」


 ナズの着想と現実世界の文明の利器の形状が必ずしも一致しているわけでもないし、と伊藤はナズを弁護する。

 まだ自らの足で立ち上がるのがやっとのナズを、メグのいる世界から引き離したくなかった。


「管区担当プロマネがそこまで言うなら口出しはしないが……」


 茂本が口をつぐむと同時に、湯あがりの石鹸のよい香りを身に纏った若い女性が伊藤に近づいてきた。彼女は定時までの任務を終え現実世界にログアウトした甲種二級構築士。

 蒼雲の使徒だ。


「伊藤プロジェクトマネージャー、ちょっと質問をよろしいですか」

「どうぞ」

「ナズはまだ復活して間もないと聞きましたが、何故回復の兆しが見えているのです? 赤井神は一体ナズに何をしたんです。私どもが知りたいのはそこです。教えてください、これは技術研修会なのでしょう?」

「29管区の蒼雲神は27管区に留学申請を出しているではないですか。蒼雲神が彼のもとで学び、その答えを自力で持ち帰ろうとしているのに、あなたはかくも安易に私に訊くのですか」


 伊藤は赤井の仕事を直に見、赤井と直に言葉を交わすうち、彼が無私の境地で民の為に尽くしているのだといやというほど分かった。

 彼はアガルタの中に生きる者を、決していい加減にしない。

 赤井はナズが復活してから暫くの間片時も離れず、毎日祝福を欠かさなかった。

 そして今もナズのことを、常に気にかけている。

 その心には偽りもない。A.I.だと判明している者も人間患者も平等に扱い、彼らの「つくりもの」である筈の心を慮る。


 だからA.I.たちも赤井に感応するかのように複雑な反応を見せ、赤井を慕うのだ。

 27管区の民たちは絶対の庇護者として赤井を信頼している。

 彼らが赤井に向けるのは信仰ではない、信頼に満たされた温かな世界。

 そして神と人との絆の強さ――。

 それが27管区の最大の特長であるといえる。


 仕事あがりで途中から観覧する構築士勢は、伊藤の挑発的ともとれる言葉に納得がいかない。

 赤井に特別なステータスが与えられているのではないかと疑う者もいる。

 遂にはこんな意見も飛び出した。


「赤井神の神気の組成と周波数を公開してください。アガルタ全管区の主神の神気を赤井神と同一周波数に合わせてはいかがでしょう」


 伊藤は嘆かわしいと思いながらも、赤井がチートをしているのではないかという疑惑を晴らすため、包み隠さず赤井の神気アトモスフィアの情報をパネルで映し出した。


「何の変哲もないな……周波数もごく普通だ。一体何が違うんだ」

「彼の神気や神体が特別なのではありません。違うとすれば彼の生き様です」


 しかし伊藤の言葉がアガルタスタッフの心を掴むことはなかった。

 伊藤の言うことが宗教じみてきたと、嫌悪感を抱く者。

 赤井神に傾倒しすぎだ、アガルタは宗教団体ではない。

 公的福祉施設だということを忘れているのか、と反発心を抱く者も多々。


「太上老君と天照大神を勤め上げた伊藤さんが……新神に熱を上げて。過去の輝かしい経歴からすると、信じられん」


 伊藤には失望した、と大げさな溜息もちらほら。

 日本アガルタのパイオニアであり数々の伝説を残す伊藤に憧れる甲種以下の構築士は数多。

 その伊藤が新神に傾倒するという異変が起こっていた。


「では、赤井神以外には治療ができないということですか。疑似脳の制御を外した状態で構築士を故意にアガルタにログインさせるのは違法ですよ。西園が処分を受けたばかりではないですか!」


 確かに疑似脳の制御を受けたアガルタの神には感情の欠落があり、赤井のように人間味のある感情豊かな振る舞いは不可能である。

 ならば人を集めて、一体何を学ばせようというのか。


「何のための技術研修会なんです。27管区の成果発表会ですか?」

「そうだ、そうだ」

「仮想化リハビリテーションを全区画でという試み自体が、そもそも無茶だったのでは。赤井神だけが患者様を治癒できるとして、それが何になります。彼が年間に治癒できる人数にも限度があるでしょう、そして彼が構築士を辞めたらこのプロジェクトは打ち切りですか? 体系化できない成果を厚労省の業績として世界的に発表して。伊藤さん、今回のことは拙速だったと言わざるをえませんよ」


 他管区プロマネが伊藤をちくりと刺したが、ある意味で正論だった。


「お集まりのスタッフの皆様。落ち着いて、私の話をよく聞いてください」


 伊藤はその場で立ち上がり、スタッフに指示して一度27管区内の時間を止め、ライブ中継を完全に中断し会場内の喧噪がおさまるのを瞑目して待つ。

 場内はなおも騒然としていたが、ホログラフに何も映さなくなったため、職員たちは自ずと伊藤の話に耳を傾ける。

 伊藤は声を震わせ、穏やかに切り出した。


「はたして主神だけが、役者なのでしょうか」


 演技力に定評のある伊藤だが、その言葉は演技ではなく彼の本心からのものだった。


「今こそ、現実世界にいるあなた方の出番です。主神に演技指導を行ってください。赤井さんは血の通った演技のできる役者ですが、例えば彼が大根役者だったとしても監督や演出の手腕によって役者を引き上げることができるでしょう。何故なら補佐官や外部スタッフには生身の感情があるではないですか。主神と二人三脚で人の心をもって、素民や患者様に真摯に接してください。いいですか」


 伊藤の言葉には、次第に熱が籠ってゆく。


「われわれはチームなのです。この管区だけが特別であってはなりません。日本アガルタ全管区で治療実績をあげましょう。決して無謀な目標ではない、私はそう信じています」


 何を言い出したのかと顔を見合わせる職員たちに、伊藤は更にたたみかける。


「そして患者様だけでなく日本アガルタ利用者様の魂にとって還るべき温かな場所、安らぎの地として選んでいただけるように、全管区全スタッフを挙げて、心づくしのサービスを提供してゆこうではありませんか」


 しん、と恐ろしいまでに静まり返ったパブリックビューイング場内。

 それから十秒間というもの、物音ひとつ立てるものはなかった。

 伊藤は一人一人のスタッフの瞳を覗き込むように、励ますように、ぐるりと観衆を見渡す。

 水を打ったような無音の果て、ぱち、ぱち、と拍手の音がホールにこだまする。


 伊藤の呼びかけに賛同した職員がいる。

 その拍手の音が、一つ、また一つとどこからともなく聞こえては重なり合って増えてゆく。

 そして気づけば万雷の拍手喝采となっていた。

 もはやこの会場において愚痴や嫉妬の声は、聞こえてこない。

 カヤの外であった彼らがまさにこの変革を行うための当事者であると、理解が及んだからだ。


「伊藤さん。早くライブの続きを見せてくれ。嫉妬して腐っていても仕方がない」

「ああ……赤井さんの仕事を見せてくれ!」

「学ぼう!」


 茂本プロジェクトマネージャーは景気よくビールジョッキを高々と掲げた。


「赤井さんに続こう」

「日本アガルタの前途を祝して」

「赤井神に」


 次々とグラスが会場内に掲げら、赤井に捧げられる。


「赤井神に乾杯!」


 楽しく賑やかで、テーマパークのような死後世界ではなく

 そこに人の心の通った、利用者の安住の地を創り上げるべきなんだ。

 日本アガルタはその真価を見出され、再スタートをきったのかもしれなかった。

 一柱の神と、一人のプロジェクトマネージャー、そして西園沙織という一人の女性によって――。


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