11 直江状(徳川家康)
11 直江状(徳川家康)
徳川家関東八国二百五十五万石――。
家康は直江兼続から届けられた文……所謂、直江状に激怒する、振りをした。
この時、家康は激怒する振りをして腹の内では大笑いした。
我が天下取りの野望をほぼ成し遂げたと。家康は直江兼続の思惑と意図を光速理解。
家康の読み通りならば、直江兼続はわざと家康を激怒させる文を送り、
家康に諸大名を率いらせて上杉家討伐に向かわせる。上杉家は家康の軍勢を引きつけ、
その絶好の機会に石田三成が挙兵し、連携して家康の軍勢を挟み撃ちにする策。
それを家康は見事に看破し、既にその備えとして家康も布石を打っていた。
この時の為だけに備えて誼を通じていた仙台の伊達政宗一万八千の軍勢を抑えとして、
上杉家に睨みを利かせる。さすれば、三成と連携して挟み撃ちをすると言う策は機能しなくなる。
後は諸大名を説得し、捨て石として伏見城に家康の為ならば何でもする鳥居元忠を捨て石にし、
伏見を発つ。戦下手の三成は伏見城を攻め落とすのに時を要する。その間に軍勢を率いて、
敵軍勢の遊軍を各個撃破していき、両軍は美濃……関ケ原の地で決戦を行う。
無論、関ケ原の地でも、あらゆる布石を家康は打っている。
家康は類まれなる知略で三成の処刑までの道筋を読んでいた。家康の中では既に詰みの形を描いている。
――三成……挙兵を選んだ時点でお主は詰んでいた。
それを証明するために詰将棋、詰碁の如く、詰ませてもらうぞ。
家康は心の内で笑いながらも表面上では激怒する演技をして、軍備を万事滞りながら、
大阪城に出向いて淀殿と秀頼に上杉討伐に軍勢を率いて会津征伐をすると報告した。
こうして、会津征伐への軍勢が続々と集結。その数七万にも及び、
大阪城を経ち、七万の軍勢は会津へと侵攻した。そして、家康の読み通り、石田三成が挙兵した。
すると、家康は軍勢を突如、反転。伏見城に鳥居元忠三千を捨て石として残して、
次々と、三成率いる西軍諸将の城を見事な手際で各個撃破して行き、両軍は美濃関ケ原の地で、激突する。
その前哨戦として家康は七万の軍勢を織田秀信の居城、天険の要塞と呼ばれる岐阜城を攻略している。
城攻めは些か苦手な家康だが、それは秀吉のように城攻めの天才と比較した場合である。
その技量は老練にして巧みであり、詰碁のようにどんな難攻不落の城でも陥落していく。
岐阜城も例外ではなかった。岐阜城に拠って戦う織田秀信は僅か六千。守る秀信は凡庸凡百。
此方は七万にも及び、綺羅星の如く諸将もそろい踏み。士気の差も歴然。
この場合は多少削られても、強引に力攻めで落とすのが最善手であると家康は考えていた。
そして前線に出す先鋒は豊臣恩顧大名達。徳川家康は自分の兵力の消耗を抑え、
敵方に寝返る懸念がある福島や藤堂、黒田を前線に送る。正に一石二鳥である。
狙い通り、徳川家の兵力は一切消耗せず、岐阜城を難なく攻略した。
唯一の懸念は徳川本隊である三万八千の精鋭を息子の秀忠に預け、
徳川本隊は中山道を通り、関ケ原で合流する手筈だが、中山道には真田親子がいる。
息子の秀忠は凡将……真田親子に足止めされる恐れがある。しかし、懸念の中にも、
家康の布石が打たれている。秀忠が、徳川家を継ぐのに値する器かどうかの見極めである。
真田に翻弄され、関ヶ原に間に合わなければ、秀忠には継がせず、次男の結城秀康に継がせる思惑があった。
「正信……秀忠は関ケ原に間に合うと思うか?」
岐阜城攻略戦の本陣にて、家康は側近の本多正信に問う。
「御嫡男の秀忠様は凡庸……故に老練な真田に翻弄されることは必然。
ですが、それも経験の一つ。これを機会にご成長を促しましょう。
凡庸ですが、十分な経験を得れば、名将に化けるでしょう」
正信は家康の意図を理解した様子で的確な助言をした。それを聞いた家康は目を瞑り、思案した。
「……そういう見方も出来るか。盲点であった」
正信の言う通りかもしれない。秀忠は間に合わない目算が高い。
落ち度があったからと言って廃嫡するのは惜しい。家康は考えを改めた。
家康は岐阜城を見事に攻略し、本陣を畳んで、諸将を率い美濃関ケ原の地へと進軍を開始した。




