↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『エルザとガブリエル、ふたりの天賦の才』  作者: 東曌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/12

第一話 ローマの少女、エルザ

第一話 ローマの少女、エルザ



 一八九〇年九月、ローマ。


 古い石造りの建物に、午後の光が差し込んでいた。


 街路を行き交う馬車の音。教会の鐘。窓の向こうに広がる、幾世紀もの歴史を抱えた街並み。


 その年の九月十日、エルザ・スキャパレリは、ローマの名門パラッツォ・コルシーニに生まれた。


 父チェレスティーノは、アラビア語や東洋の文学を研究する学者だった。母マリア・ルイーザは、南イタリアの名門の出身である。父方の親族にも学者が多く、天文学や古代史、写本研究といった学問が、この家では遠い世界の話ではなかった。


 エルザの生まれた家には、知識があった。


 書物があった。


 そして、長い歴史を受け継いできた人々の、誇りがあった。


 けれど、ひとりの少女にとって、豊かな家に生まれるということは、必ずしも自由に生きられるという意味ではなかった。


     *


 幼いエルザは、周囲の大人たちが期待するような、従順でおとなしい子供ではなかった。


 彼女の頭の中では、いつも何かが動いていた。


 目の前にあるものを、ただ目の前にあるものとして受け取ることができない。


 窓辺に置かれた花瓶を見れば、その花瓶が別の形だったらどうなるだろうと考える。庭の花を見れば、花びらが人の顔に咲いたら、どんな姿になるだろうと思う。


 大人たちが美しいと呼ぶものを、彼女は美しいと認めながら、同時に、そこから少しだけ外れたものを想像した。


 どうして花は、庭に咲いていなければならないのだろう。


 どうして顔は、顔らしい形をしていなければならないのだろう。


 どうして、ものごとは、いつも決まった場所に収まっていなければならないのだろう。


 そんな疑問を口にすれば、大人たちは困ったような顔をした。


「エルザ、そんなことを考えて、何になるのです」


 そう言われるたびに、彼女は首をかしげた。


 何になるのか。


 それは、彼女にも分からなかった。


 ただ、考えずにはいられなかったのである。


     *


 父の書斎は、エルザにとって特別な場所だった。


 そこには、厚い本が並んでいた。知らない文字が印刷された書物もあれば、遠い国の歴史を記した本もある。


 父は、言葉を扱う人だった。


 ひとつの言葉が別の言葉へと移されるとき、そこには単純な置き換えでは済まない何かがある。言葉の背後には、土地があり、習慣があり、人々の考え方がある。


 エルザが幼い頃から、そうしたことをどこまで理解していたのかは分からない。


 しかし、彼女の暮らす家では、世界はローマの街角だけで完結していなかった。


 書物の中には、見たことのない土地があった。


 今では失われた文明があった。


 人々が信じた神々や、遠い時代の祭儀があった。


 エルザは、そうしたものに心を引かれていった。


 目の前にないものを、頭の中に思い描く。


 存在しない景色を、存在するかのように感じる。


 その力は、やがて彼女の人生に深く関わることになる。


 けれど、この頃のエルザにとって、それはまだ才能と呼ばれるものではなかった。


 ただの空想だった。


 大人たちから見れば、時には、困った癖にすぎなかった。


     *


 エルザには、美しさをめぐる、もうひとつの問題があった。


 家族のなかで、彼女は自分の容姿に自信を持てずにいた。


 美しいと評される姉と自分を比べ、母の何気ない言葉に傷つくこともあった。


 子供にとって、家族の評価は世界そのものに近い。


 母が美しいと認めるものは、美しいものなのだろう。


 母がそうではないと考えるものは、そうではないのだろう。


 幼いエルザもまた、そんな思いから逃れられなかった。


 自分の顔が、もっと美しかったら。


 そう考えたとき、彼女の頭には、ひとつの奇妙な考えが浮かんだ。


 顔そのものを変えるのではない。


 顔に、別のものを加えればいいのではないか。


 花が咲くように、顔にも花が咲いたら。


 頬や額が、庭のようになったら。


 そんな空想は、やがて実際の行動へと変わった。


 彼女は植物の種を手に入れ、自分の身体に植えようとしたという。


 もちろん、種から花が咲くはずもなかった。


 むしろ、それは危険な行為だった。


 だが、この逸話には、幼いエルザという人間の一面がよく表れている。


 彼女は、与えられた美しさの基準に従うだけでは満足できなかった。


 自分を変えたいと思ったとき、誰も考えない方法を考えた。


 その方法が正しいかどうかを確かめる前に、想像を現実へ移そうとしたのである。


 無謀と言えば、無謀だった。


 けれど、想像のなかにとどまっているだけでは、何も変わらない。


 幼いエルザは、そのことを知っていたわけではない。


 ただ、思いついたことを、実際に試してみずにはいられなかったのだ。


     *


 ローマには、古代の遺跡があった。


 教会があった。


 広場があり、彫刻があり、季節ごとに表情を変える花々があった。


 人々は、それぞれのものに名前を与え、意味を与え、美しさを見いだしていた。


 しかし、エルザは、それらをそのまま受け取るだけの少女ではなかった。


 古い彫像を見れば、なぜこの姿なのだろうと考える。


 花の色を見れば、別の色を重ねたらどうなるだろうと思う。


 目の前の現実に、いつも、もうひとつの可能性を見つけてしまう。


 彼女の暮らしは恵まれていた。


 書物を手にすることができた。学問に触れることができた。芸術や歴史に囲まれて育つことができた。


 その一方で、彼女には、周囲の人々が当然と考える生き方に、素直には従えないところがあった。


 家の名誉。


 女性としての慎み。


 よい娘であること。


 そうしたものが、彼女の前にも並べられていた。


 けれど、エルザの心は、ときどき、その枠の外へ飛び出してしまう。


 なぜ、そうしなければならないのか。


 なぜ、別の方法ではいけないのか。


 問いを重ねる彼女に、大人たちは、いつも答えを用意できたわけではなかった。


     *


 この頃、エルザはまだ、自分が何者になるのかを知らなかった。


 服を作る人になるとは、考えていなかっただろう。


 ましてや、世界の女性たちが自分の名前を知り、彼女の生み出す奇抜なドレスや大胆な色彩に驚く日が来るなど、想像もしなかったに違いない。


 彼女の前には、まだ長い人生があった。


 学問への関心。


 詩への憧れ。


 家族との衝突。


 そして、いつか自分の生きる場所を見つけたいという、言葉にならない願い。


 そのすべてが、これから少しずつ形を変えていく。


 やがて彼女は、服を芸術へと近づけていくことになる。


 布地の上に、誰も思いつかなかったものを描く。


 身体を飾るだけではなく、見る者の想像力を揺さぶる。


 美しさとは何かという問いを、服そのものによって突きつける。


 その未来は、まだ遠かった。


 いま、ローマの屋敷にいるのは、ただの少女である。


 少しばかり扱いにくく、想像力が豊かで、周囲の期待からはみ出してしまう少女。


 けれど、彼女の心には、すでに小さな火が灯っていた。


 世界は、決められた形のままでなくてもいい。


 美しさは、誰かに教えられたものだけではない。


 そして、自分の目に映るものを、自分の方法で表現してもいいのではないか。


 その問いが、いつか彼女を遠い場所へ連れていく。


 ローマから、パリへ。


 少女の空想から、世界を驚かせる服へ。


 エルザ・スキャパレリの物語は、まだ誰にも知られていない、その小さな問いから始まった。


 彼女が世界を変えることになるのは、もう少し先のことである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。