第一話 ローマの少女、エルザ
第一話 ローマの少女、エルザ
一八九〇年九月、ローマ。
古い石造りの建物に、午後の光が差し込んでいた。
街路を行き交う馬車の音。教会の鐘。窓の向こうに広がる、幾世紀もの歴史を抱えた街並み。
その年の九月十日、エルザ・スキャパレリは、ローマの名門パラッツォ・コルシーニに生まれた。
父チェレスティーノは、アラビア語や東洋の文学を研究する学者だった。母マリア・ルイーザは、南イタリアの名門の出身である。父方の親族にも学者が多く、天文学や古代史、写本研究といった学問が、この家では遠い世界の話ではなかった。
エルザの生まれた家には、知識があった。
書物があった。
そして、長い歴史を受け継いできた人々の、誇りがあった。
けれど、ひとりの少女にとって、豊かな家に生まれるということは、必ずしも自由に生きられるという意味ではなかった。
*
幼いエルザは、周囲の大人たちが期待するような、従順でおとなしい子供ではなかった。
彼女の頭の中では、いつも何かが動いていた。
目の前にあるものを、ただ目の前にあるものとして受け取ることができない。
窓辺に置かれた花瓶を見れば、その花瓶が別の形だったらどうなるだろうと考える。庭の花を見れば、花びらが人の顔に咲いたら、どんな姿になるだろうと思う。
大人たちが美しいと呼ぶものを、彼女は美しいと認めながら、同時に、そこから少しだけ外れたものを想像した。
どうして花は、庭に咲いていなければならないのだろう。
どうして顔は、顔らしい形をしていなければならないのだろう。
どうして、ものごとは、いつも決まった場所に収まっていなければならないのだろう。
そんな疑問を口にすれば、大人たちは困ったような顔をした。
「エルザ、そんなことを考えて、何になるのです」
そう言われるたびに、彼女は首をかしげた。
何になるのか。
それは、彼女にも分からなかった。
ただ、考えずにはいられなかったのである。
*
父の書斎は、エルザにとって特別な場所だった。
そこには、厚い本が並んでいた。知らない文字が印刷された書物もあれば、遠い国の歴史を記した本もある。
父は、言葉を扱う人だった。
ひとつの言葉が別の言葉へと移されるとき、そこには単純な置き換えでは済まない何かがある。言葉の背後には、土地があり、習慣があり、人々の考え方がある。
エルザが幼い頃から、そうしたことをどこまで理解していたのかは分からない。
しかし、彼女の暮らす家では、世界はローマの街角だけで完結していなかった。
書物の中には、見たことのない土地があった。
今では失われた文明があった。
人々が信じた神々や、遠い時代の祭儀があった。
エルザは、そうしたものに心を引かれていった。
目の前にないものを、頭の中に思い描く。
存在しない景色を、存在するかのように感じる。
その力は、やがて彼女の人生に深く関わることになる。
けれど、この頃のエルザにとって、それはまだ才能と呼ばれるものではなかった。
ただの空想だった。
大人たちから見れば、時には、困った癖にすぎなかった。
*
エルザには、美しさをめぐる、もうひとつの問題があった。
家族のなかで、彼女は自分の容姿に自信を持てずにいた。
美しいと評される姉と自分を比べ、母の何気ない言葉に傷つくこともあった。
子供にとって、家族の評価は世界そのものに近い。
母が美しいと認めるものは、美しいものなのだろう。
母がそうではないと考えるものは、そうではないのだろう。
幼いエルザもまた、そんな思いから逃れられなかった。
自分の顔が、もっと美しかったら。
そう考えたとき、彼女の頭には、ひとつの奇妙な考えが浮かんだ。
顔そのものを変えるのではない。
顔に、別のものを加えればいいのではないか。
花が咲くように、顔にも花が咲いたら。
頬や額が、庭のようになったら。
そんな空想は、やがて実際の行動へと変わった。
彼女は植物の種を手に入れ、自分の身体に植えようとしたという。
もちろん、種から花が咲くはずもなかった。
むしろ、それは危険な行為だった。
だが、この逸話には、幼いエルザという人間の一面がよく表れている。
彼女は、与えられた美しさの基準に従うだけでは満足できなかった。
自分を変えたいと思ったとき、誰も考えない方法を考えた。
その方法が正しいかどうかを確かめる前に、想像を現実へ移そうとしたのである。
無謀と言えば、無謀だった。
けれど、想像のなかにとどまっているだけでは、何も変わらない。
幼いエルザは、そのことを知っていたわけではない。
ただ、思いついたことを、実際に試してみずにはいられなかったのだ。
*
ローマには、古代の遺跡があった。
教会があった。
広場があり、彫刻があり、季節ごとに表情を変える花々があった。
人々は、それぞれのものに名前を与え、意味を与え、美しさを見いだしていた。
しかし、エルザは、それらをそのまま受け取るだけの少女ではなかった。
古い彫像を見れば、なぜこの姿なのだろうと考える。
花の色を見れば、別の色を重ねたらどうなるだろうと思う。
目の前の現実に、いつも、もうひとつの可能性を見つけてしまう。
彼女の暮らしは恵まれていた。
書物を手にすることができた。学問に触れることができた。芸術や歴史に囲まれて育つことができた。
その一方で、彼女には、周囲の人々が当然と考える生き方に、素直には従えないところがあった。
家の名誉。
女性としての慎み。
よい娘であること。
そうしたものが、彼女の前にも並べられていた。
けれど、エルザの心は、ときどき、その枠の外へ飛び出してしまう。
なぜ、そうしなければならないのか。
なぜ、別の方法ではいけないのか。
問いを重ねる彼女に、大人たちは、いつも答えを用意できたわけではなかった。
*
この頃、エルザはまだ、自分が何者になるのかを知らなかった。
服を作る人になるとは、考えていなかっただろう。
ましてや、世界の女性たちが自分の名前を知り、彼女の生み出す奇抜なドレスや大胆な色彩に驚く日が来るなど、想像もしなかったに違いない。
彼女の前には、まだ長い人生があった。
学問への関心。
詩への憧れ。
家族との衝突。
そして、いつか自分の生きる場所を見つけたいという、言葉にならない願い。
そのすべてが、これから少しずつ形を変えていく。
やがて彼女は、服を芸術へと近づけていくことになる。
布地の上に、誰も思いつかなかったものを描く。
身体を飾るだけではなく、見る者の想像力を揺さぶる。
美しさとは何かという問いを、服そのものによって突きつける。
その未来は、まだ遠かった。
いま、ローマの屋敷にいるのは、ただの少女である。
少しばかり扱いにくく、想像力が豊かで、周囲の期待からはみ出してしまう少女。
けれど、彼女の心には、すでに小さな火が灯っていた。
世界は、決められた形のままでなくてもいい。
美しさは、誰かに教えられたものだけではない。
そして、自分の目に映るものを、自分の方法で表現してもいいのではないか。
その問いが、いつか彼女を遠い場所へ連れていく。
ローマから、パリへ。
少女の空想から、世界を驚かせる服へ。
エルザ・スキャパレリの物語は、まだ誰にも知られていない、その小さな問いから始まった。
彼女が世界を変えることになるのは、もう少し先のことである。




