Pの消失
Pの消失とのタイトルで話を書いてもらいました。
並行世界の話。
最初に気づいたのは、編集者の田上だった。
原稿の二十六ページ目。どこを見ても「P」がなかった。
「これは、誤字……だよな?」
彼は思わず声に出した。が、奇妙なことにその「P」という発音すら、舌の上で空気の泡になって消えた。
作者の名は、佐波峻。
新進気鋭の作家であり、前作『Phantom』で文壇に名を轟かせたばかりだった。
だが次回作のタイトルは――『_の消失』になっていた。
田上は電話をかけた。
呼び出し音が三回鳴り、峻の声が出た。
「はい、佐波です」
「おい峻くん、どういうことだ。原稿から“P”が全部抜け落ちてるぞ」
「……え?」
沈黙。
そして、電話の向こうで紙をめくる音。
「……あれ? “えぴそーど”って書いたのに、“えそーど”になってる」
彼の声には、明らかな動揺があった。
その夜、峻はPCの前で原稿を開いた。
確かに、どの文からも“P”が抜けていた。
しかも――再入力しても消える。
「P」キーを押しても、画面には何も現れない。
“ぱ”“ぴ”“ぷ”“ぺ”“ぽ”は音ごと歪み、意味を失った。
翌朝、SNSでは奇妙な話題がトレンド入りしていた。
> 「P」って打てなくなった。
> “プリン”が“リン”になった。
> “ポケット”が“ケット”になってる。
“P”が、世界から消えたのだ。
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その後、出版社は混乱に陥った。
『パリ』『ピアノ』『ポエム』――あらゆるタイトルが欠落して読めない。
ニュースキャスターも不自然に口を閉ざす。
言葉が滑る。音が途切れる。
言語の構造が、静かに崩壊していった。
峻は考えた。
「これは、物語の報いなのかもしれない」
彼は思い出した。
自分の新作は、“言葉が神を創る”というテーマで書き進めていた。
もし、創造が書き換えを呼んだのだとしたら?
“書く”という行為が、“消す”という現象を呼んだのだとしたら?
その夜。
彼は一行、最後の原稿に書き込んだ。
> “この物語の最後の文字は、_である。”
そうしてエンターキーを押した瞬間、画面が真っ白になった。
モニターには、文字も、カーソルも、彼自身の名すら映っていなかった。
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数日後。
編集部の机の上に、一枚の紙が届いた。
送り主の名はなかった。
ただ、こう記されていた。
> 「“P”とは、“Presence”。――存在そのもの。」
田上はそれを見つめ、背筋が凍った。
そして気づく。
自分の名、「田上哲也」もまた、いつの間にか「田上 也」となっていたことに。
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世界から「P」が消えて、三週間が経った。
看板も、辞書も、音楽も、すべてが欠けたままだ。
人々は“何かが足りない”という漠然とした不安を抱えながら暮らしていた。
けれど誰も、その“何か”の正体を言葉にできない。
佐波峻だけが、その理由を知っていた。
自分が「書いた」からだ。
自分が、“言葉の神”を題材に物語を作り、
その中で「P」という文字を封じた。
“P”――Presence(存在)。
この世界は、言葉でできている。
言葉の一つを失えば、存在の一つが崩れる。
――ならば、取り戻すしかない。
峻は地下室に籠もり、タイプライターを取り出した。
古びた黒い機械。
PCでは入力できない“P”を、ここなら叩ける気がした。
打鍵音が静寂を切り裂く。
> “Pは存在する。”
> “Pは再び現れる。”
しかし、タイプバーは途中で止まった。
キーが、動かない。
黒い金属の隙間から、細い煙が立ちのぼる。
「まだ拒むのか……」
峻は紙を取り出し、ペンを握った。
筆跡で、手で、世界に刻むように。
> 「P」
その瞬間、ペン先が紙を裂き、白い光が弾けた。
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気づけば、彼は白い部屋に立っていた。
壁も床も、天井もない。
ただ、果てしない白。
そこに一人の女がいた。
透明な輪郭、瞳は光のように揺らいでいる。
「あなたが“作者”ね」
「……誰だ」
「わたしは、“P”。存在そのもの」
女は微笑む。
「あなたは、わたしを物語で殺した。
だから、この世界は不完全になった」
峻は唇を噛んだ。
「戻したい。みんなの“言葉”を」
「ならば問うわ――あなたは、存在を責任とともに書けるの?」
沈黙。
タイプライターの幻が、空中に浮かぶ。
白いキーの上に、黒い指が触れる。
> “Presence returns with purpose.”
> “存在は、意味と共に還る。”
キーを打つたび、音が鳴る。
世界の欠けた部分が、少しずつ埋まっていく。
“プリン”が甘く香り、
“ピアノ”が音を奏で、
“ポケット”には夢が戻る。
女――“P”は静かに微笑み、彼の胸に触れた。
「ありがとう。あなたは、わたしを“物語”に還した」
光が溢れ、全てが震えた。
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翌朝。
峻は机の前で目を覚ました。
タイプライターの上には、一枚の紙。
そこには、ただ一文。
> 「物語とは、存在を証明する行為である。」
そして、その下に、消えかけたサイン。
“P”――その一文字だけが、黒く、鮮明に刻まれていた。
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“P”が戻ってから、世界は音を取り戻した。
言葉は流れ、人々は笑い、ニュースキャスターの口元も自然に動く。
全てが「元通り」――のはずだった。
けれど、佐波峻は違和感に気づいていた。
朝、鏡を覗くと、自分の輪郭が少し薄い。
写真を撮っても、ピントが合わない。
SNSで自分の名前を検索しても、ヒットしない。
「……俺、消えかけてるのか?」
部屋の片隅。
タイプライターの上に、“P”の紙がまだあった。
あの文字だけが、まるで呼吸をするように微かに揺れている。
存在を戻した代わりに、書いた者が代償を支払う。
“言葉”を生み出した者は、“言葉”に吸われる。
それは、世界の調律。
存在のバランス。
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夜。
峻は再び地下室に降りた。
そこはもう、現実というより「物語の裏側」だった。
机の上に原稿が散らばり、文字たちが宙に浮かんで揺れている。
彼が書いた言葉が、音もなく空へと昇っていく。
“Presence returns with purpose.”
“物語とは、存在を証明する行為である。”
その一文が、柔らかく彼の体に触れた。
まるで、紙片が皮膚の下に溶け込むように。
――“君はまだ、存在したい?”
あの声が聞こえた。
“P”の女の声だ。
「……俺が消えても、言葉は残るなら、それでいい」
峻は微笑んだ。
「存在は、物語の中で続いていく」
“P”は静かに頷いた。
「なら、あなたは“語”になる」
白い光が、全てを包み込む。
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翌朝。
田上は机の上に一冊の原稿を見つけた。
タイトルは『Pの消失』。
著者名の欄は、空白のまま。
けれど、ページをめくると、最後の行にだけ文字があった。
> 「この物語を読んでくれて、ありがとう。
> ――佐波峻。」
その文字を見た瞬間、紙の表面が光を放ち、
文字がひとつずつ消えていった。
最後に残ったのは、“P”の一文字。
そしてそれも、静かに――消えた。
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以後、誰も「佐波峻」という作家を知らない。
だが彼の作品だけは、確かに存在している。
本棚の奥、背表紙のない一冊の中で、
今も静かに――“P”が呼吸している。
文字の消失って怖い。




