煙立つ所1
タニアの駆ける足音が、厚い雲の下、木々に囲まれた中で小さく控えめに響く。少女の足が一歩坂道を駆け下るたびに、夜に向け辺りが輪をかけて暗くなっていった。
少女タニアがその手に持つ雫草の束。一つひとつの花が放つ光は極小さいものだが、寄り集まると闇を払う光となる。その光で足元を照らして、タニアはでこぼこと不安定な道を脇目も振らず駆け続けた。
(急がなくちゃ)
その思いがタニアの中にあった。理由は分からない。ただ、何か予感がしたのだ。胸騒ぎと言った方が正しいかもしれない。元々固い表情がそれ以上にこわばる。
恐ろしいことに、この感覚にタニアは覚えがあった。
息が上がる。心臓が早打つ。背筋に冷たい汗が伝う。それは冷えた空気の中を走ったからだけでは決してない。
……自分なんかが行ったところで、いったい何になる? 焦燥を感じて走るその一方で、自分の内からそうした思いが沸き上がる。タニアの中にいつも吹き荒れている嵐。それが今この時もタニア自身の邪魔をしかけた。だがそれでも、タニアはその足を止めることはなかった。
タニアの顔は今、雫草の清い光に照らされている。その光は、北の薬師団の旅のリーダーを務める少年と揃いのネックレスが放つのと同じ光。今のタニアには、それがあるから。タニアはそのまま視線をまっすぐに上げ、“薬師の里”の集落の方へと続く道を駆け下りた。
しかし次の瞬間。タニアの視界はぐるりとひっくり返った。道しるべのように目の前を照らしていた雫草の白い光が、地面に落ちて散り散りになる。タニアの体が何かと強くぶつかり、弾き飛ばされるようにその場に大きく倒れこんだのだ。後から痛みのこみ上げてくる中、タニアはそろそろと体を起こし、自分とぶつかったものが何か、見る。それは。
「……かあ、さん……?」
タニアの母、ベランナだった。暗がりの中タニアの前に立つ、ローブをまとった女。その立ち居姿は、いつも人前で見せる様子とは違っていた。曲がっているはずの腰は嘘のようにしゃんと伸び、その背丈は存外に高い。顔は闇に飲まれ、表情は読めなかった。そうして立つベランナはまるで、立ちはだかる巨大な壁のようにタニアには思われた。
「行くよ」
ベランナの低い声が唸るように告げる。いつもの上擦ったような声とはまるで違う。無慈悲な冷たい響きがそこにあった。タニアは思わず身じろいだ。体が動かない。
「さっさと立ちな、このグズ、のろま、穀潰し!」
母親にむんずと腕を乱暴に掴まれる。無理やりに強く引かれて腕が捩じれ、タニアは痛みに思わず声を上げた。
「ああもう、うるさいっ!」
ベランナが吼えた。途端、タニアの体は否応なしにビクッと跳ね、それから委縮しきって縮こまる。それを見てベランナは満足げに鼻から息を吐いた。
タニアは腕を引かれるまま、無抵抗にベランナの前に立たされた。その傷跡のある頬が、ベランナの骨ばった両の手でじっとりと包み込まれる。ベランナはそのまま腰を屈め、タニアの顔に自分の顔を近づけた。焦げ臭い煙の臭いがふっとタニアの鼻をかすめる。タニアはそれに顔をしかめることもできないまま、正面の母親の顔を見つめる他なかった。ベランナの見開かれた目、狂気をはらんで爛々と光る瞳が、タニアをじぃっと捉えている。
ベランナは口を開いた。先ほどと一転して上擦った甘ったるい声が、それでもなおどこか凍て付くような響きを持って、タニアの両の耳に響く。
「あらぁ、良い子ねぇ。聞き分けの良い子は大好きよぉ。……お前はあたしの娘。どこにいたっても何をしたっても、あたしの娘なの。それはこの先例えどんなことがあったとしても、変えようのないことなんだからぁ……。だからあたしは、お前がどんなにグズでものろまでも穀潰しでも、お前がいつか何かの役に立てますようにって、守って育ててあげるの。ね? 分かるでしょう? あたしの娘。あたしの、娘ぇ……」
(ああ……)
タニアは自分の勇気、意志、気力、そうしたものの一切合切がしおしおと枯れ萎びていくのを、どこか他人事のように感じていた。
そしてベランナは、娘タニアを引きずるようにして歩き出す。“薬師の里”から遠ざかる方向へと。
山道の坂を上るうちに、皮肉にも判明した。タニアの覚えた焦燥感の正体、嫌な予感がものの見事に的中していたことが。
夕焼けではない。厚い雲に覆われた空の下で、夕焼けでは在り得ない。赤く光って揺らめく色。ぱち、ぱちと爆ぜる音。鼻の奥を刺す煙の臭い。
覚えがある。覚えがあった。この何もかもに覚えがあった。心の奥底に刻まれて忘れることなどできない。燃える、燃える。何もかもが燃えている。あの時、あの村を出ていった時と、まるで同じ……――
坂道を振り返るタニアの目から涙が零れた。そのままタニアは母親に引きずられていく。
地に落ちて泥に塗れた雫草。その一輪が放つ白い光は、あまりにも弱々しくて。タニアの視界の中で滲んですぐに見えなくなった。その光に手を伸ばすことはもう、タニアには叶わない。
タニアの目から零れた涙は、すぐに乾いて消え去った。振り返っていた方向に背を向けて、そのままタニアは母親の後について歩く。物事を悲しく思う感情も、出来事を残念に思う感覚も、あの優しかった里と共にタニアから遠ざかっていった。
ミディアは夜の闇の中、息を切らして走る。まだ回復しきらない体に苦しさが募っていく。だが諦める訳にはいかなかった。ミディアのその手には剣が携えられている。今のミディアは、王国騎士団員としてここにいるのだから。
駆け上る坂道の途中。ミディアの目がふと、ある一点に留まった。
「雫草……」
地面から一輪拾い上げ、その花の名をそっとつぶやく。よくよく目を凝らすと、ざっと十本は下らない数の雫草が地面に落ちて散らばっているのが分かった。踏みつけられ泥に塗れ、それでも淡い光を放つ小さな花。ミディアはその一つひとつを拾い集めて束にして、改めてその白く清い光をじっと見つめた。
ミディアの駆けてきた背後、里の集落の方では轟々と火の手が上がっている。言うまでもなく、緊急事態だ。
ミディアは視線を上げ、花を踏みつけにした足跡の続いていく先、暗くそびえる山の方をキッと見据えた。そのまっすぐな表情を、雫草の白い光が静かに照らしたのである。




