第七話 笑う男
白雨の部屋の前で一瞬、躊躇する。
本当に出掛けるのか、それだけが気掛かりだ。
迂闊に聞けば怪しまれる。
当主も白雨もいない夜なんて、次はいつ来るかわからない。今夜を逃すわけにはいかない。
(なるようになれ)
決心し、声を掛けようと息を大きく吸い込んだ、その瞬間だった。
「何の用だ?」
「……」
まだ声をかけてないのに…
どうしてわかった?
「夕餉をお持ちしました」
「入れ」
ぶっきらぼうな声が襖越しに響く。
襖を開けると、部屋の奥には大きな窓があった。ゆっくりと日が傾きかけているのが遠くに見える。
その前の机に、白雨は軽く腰を掛け、本を手にしていた。
「出掛けるから、夕餉はいらないと言ったんだが」
白雨は本を閉じ、面倒そうに立ち上がった。
「そこに置いておけ」
「はい」
返事をし、手前にある卓に膳を置いた。
出掛けるのは本当のようだ。
「少しは慣れたか?」
そう言いながら、卓の前に座る。
気遣うような言葉だが、興味も温度もまるで含まれていない。
「さぼるのはほどほどにしておくんだな」
白雨が目線を上げ、視線がぶつかった。
「申し訳ありませんでした」
お茶を淹れる手を止め、深く頭を下げた。
「結界を数えていたな」
白雨はこちらを気にする様子もなく、淡々と夕餉を見下ろしていた。箸を取る気配はない。
「あれは俺の仕事だ」
(あっ…)
そういえば。
卯月の怒鳴り声が急に頭に響いた。
古神の跡取りが最年少で国の任を任された。
そう言うなり、怒りを撒き散らしていたっけ。
この歳で結界のお役目とは。
通りで。
おかしな結界ばかりあるわけだ。
「…屋敷内で、試しているんですね」
自然と声に警戒が混じってしまう。
誤魔化すように、湯気のたった茶をそっと白雨の前へと差し出す。
白雨は茶を受け取りながら、さも思い出したように言う。
「さっき、五つと言っていたな?」
「…何のことでしょう?」
(聞こえてたか)
掃除の時の会話が記憶を掠め、とぼけたように答えた。
白雨は一瞬目を細めると、そのまま続けた。
「あの結界。あれはそうだな。お前の所の卯月では見えない」
「卯月だけを引き合いに出すのはいささか限定的か」
小さく鼻で笑う。
「卯月だけではない。ほとんどの者が見えないさ」
「…何の話か、さっぱりわからないです」重ねてとぼける。
白雨は私の返答など気にもせず、涼しい顔で一口、茶を飲んだ。
(お構いなしか)
「では、はっきり言おうか」
「卯月の父が今の当主であったとしても、お前が選ばれない理由にはならない。お前は元々本筋だ」
「それとも、睦月殿の目は節穴か?」
(正論を真顔で…全く楽しそうだな)
しかし、そう思うのは当然か。
卯月の父は分家筋。
本来なら、そう卯月は選ばれない。
「私が決めることではありませんから」白雨を見ながら、きっぱりとすっとぼけた。
いや、これも真実だ。
「お前の母上、日月殿はとんでもない術師だった。降ろすだけではない。全ての術に精通していた。その直系であるお前をさしおいて、あの卯月を選ぶ理由は何だ?」
突然の母の名前に息が止まる。
それと同時に腹の奥がどくり、と動く。
反射的に軽く手を当てた。
とんでもない術師“だった”?
まるで知ってるような言い方だ。
「母の術を見たことがあるのですか?」
「……いや、ないよ」
一瞬だけ、言葉を選んだように間が空いた。
「お前が選ばれなかった理由は他だろ?」
まるで当然のように言う。
「卯月の方が、嗣子の器だったのでしょう」
阿呆らしい、と白雨は心底呆れたように呟いた。
「それと」
湯呑みから視線が外れる。
「言い忘れていたが」
「ここの結界は人間には作用しない」
ぎくりとする。
表情を崩さないよう静かに息を整えた。
「それなら安心です」
「不安だろ?」
「お前には、特にな」
(特に、か)
含みのある言い方をしてくれる。
何を探ろうとしている?
白雨はわずかに口元を緩めた。
涼しげだが、掴みどころのない笑み。
部屋の空気が僅かに薄くなった。
その瞬間、腹がぎゅっと強張る。
(腹を、見ている…?)
白雨の視線の意味は考えない事にした。
これ以上、腹の内を明かすわけにはいかない。
退散だ。
「お心遣い、ありがとうございます」
礼だけし、そのまま部屋を後にした。
廊下に出ても腹の奥はまだ騒ついていた。
無意識にそこへ手が伸びる。
妙に引っ掛かる。
白雨は母の術を見ている?
考えかけて、止まる。
それにしても…
(あいつ、笑えるんだな)




