19.水車小屋の底で、糸は息をする
水車小屋の前は、冷えていた。
夜の川風が肌を撫でるというより、薄い膜の下から覗かれている感覚がある。
水の音は変わらない。流れも、匂いも、いつも通りだ。
それでも身体のどこかが「ここは違う」と告げてくる。
バルツは膝をついたまま、荒い息を吐いていた。
瞳は戻ってきている。――戻ってはいるが、まだ揺れている。
「……すまない」
役人は絞り出すように言った。
レオンは首を振った。
「謝る必要はありません。……引かれただけです」
丁寧な言葉にしたのは、相手を落ち着かせるためでもあるが、
こちらの焦りが相手に移るのを避けるためでもあった。
この町の人間は、まだ“何が起きているか”を知らない。
知らないまま怖がっている。
だからまず、崩さずに立て直す必要がある。
背後で、ガルドが短く息を吐く。
それだけで背中の硬さが変わった。足の置き方が低くなる。――まだ来る。
エリシアが測定具を川面に向けた。
淡い光が器具の針のような部分を伝って震える。
「……薄い。けれど、確かに“引き”があります」
「どこに?」
レオンが問うと、エリシアは水車小屋の下を見た。
崩れた板の隙間。
蔦に隠れた入口。
川へ落ちた木材の陰。
「小屋の下。……水路と繋がっている」
バルツが青ざめる。
「そんな場所、子どもが入り込んだら……」
「だから今夜、ここまで来たんです」
エリシアの声は淡々としている。
だが、その淡々は冷たさではなく、焦点の定まった緊張だ。
レオンは一歩、前へ出かけて――止めた。
踏み込むのは、相手の線が届かない時だけ。
ガルドに叩き込まれた線が、胸の奥で先に引かれる。
「ガルドさん」
レオンが名を呼ぶと、ガルドは視線で返した。
――分かってる、という目。
レオンは自分の口で、次の手順を整える。
「バルツさんは町へ戻って、見回りを増やしてください。今夜は特に、川沿いを」
バルツは一瞬迷い、頷いた。
「分かった。……だが、君たちは」
「中を見ます」
エリシアが言い切った。
任務書の文言よりも、彼女自身の意思が先に出ている。
バルツが去っていく背中を見送り、三人だけが川辺に残った。
水の音が、少しだけ近づいた気がした。
入口は、想像より狭かった。
崩れた板を外し、泥を払って身をかがめる。
川の湿り気が壁に染み込み、足元はぬかるんでいる。
ガルドが先に潜り、レオンが続き、エリシアが最後に入る。
誰も口にしないが、順番は自然に決まった。
中は暗い。
エリシアが指先に淡い光を灯す。照明というより、測定のための光だ。
薄い通路が続く。
水車小屋の下を抜け、さらに奥へ。
古い排水路の一部らしく、石組みの壁が続いている。
「王都の旧水路ほど大きくない」
エリシアが低い声で言った。
「でも構造は似てる。……人の手が入った痕もある」
レオンは壁を見る。
苔の上に、細い傷がある。
刃物で付けたような線――ではなく、擦ったような痕。
糸、というより、束が通った跡に見えた。
喉が乾く。
王都の地下は遠くなったはずなのに、距離が縮まる。
歩くたびに、足元の水がぬるりと音を立てる。
その音が、妙に耳に残る。
通路の先が少し開けた。
小さな溜まり場。
そこに、古い木箱や割れた瓶が散らばっている。
誰かが最近まで使っていたような――生活の名残だ。
「……人がいる?」
レオンが息を殺すと、ガルドが手だけ上げた。
止まれ、の合図。
ガルドは目線で奥を示す。
闇の向こう、微かな気配。
レオンが目を凝らすと、壁際に布の影があった。
人だ。丸まって座り込み、眠っている。
「……子ども?」
小さな肩。細い腕。
エリシアが口元を押さえた。
「呼吸はある。でも、深い……」
眠りだ。
王都の昏睡のような、落ちる眠り。
レオンは一歩進みかけて、また止める。
不用意に触れて引き金を引く可能性がある。
エリシアが膝をつき、光を弱めた。
「近づきすぎないで。……周囲の歪みを見ます」
彼女の指先が、空気の薄い膜をなぞる。
そこに、引っかかりがある。
「……縫い目」
呟きが落ちる。
次の瞬間。
溜まり場の奥で、ぬるり、と音がした。
水が揺れるのではない。
空気が揺れる。
レオンの視界の端が、わずかに歪む。
――来る。
ガルドが踏み込む。剣が抜ける音が空気を切った。
闇の中から、犬ほどの魔物が三体、四体。
川辺で見たものより数が多い。動きは揃っている。
束が“同じ方向”に引いている。
エリシアが低く言う。
「倒していい。……でも、斬り過ぎないで。“中心”に近い反応がある」
レオンは理解した。
目的は、ここを掃除することではない。
異常の中心へ繋がる線を、途切れさせないこと。
レオンは剣を構える。
前へ出ない。
まず、動きを止める。
一体が飛びかかる。爪が一直線に伸びる。
レオンは横へずれる。踏み込まず、線の外へ滑る。
爪が空を切る。
レオンは斬る。深くない。
肩口を裂く。体の芯を切らない。
魔物がぐらつく。
その瞬間、動きが鈍る。
(……緩む)
繋ぎ目を切った時の感触に近い。
魔物そのものではなく、引いている張りが弱くなる。
ガルドは正面で受け止める。
大剣が壁になる。
必要以上に振り回さず、流れを止める重さだけを置く。
エリシアは後方で短い詠唱。
光が走り、魔物の足元が固まる。
「拘束。……今、薄い」
レオンはその言葉に反応した。
薄い――束が薄い場所。
レオンは視線を走らせ、空気の張りを探す。
見えないものを“抵抗”として捉える感覚が、手の中に残っていた。
床の一角。
石の継ぎ目。
そこだけ、空気がわずかに硬い。
レオンは剣を振る。
ぷつり。
見えない抵抗が指に乗る。
魔物が一斉に動きを失い、膝から崩れた。
「……やっぱり、束」
エリシアが息を吐く。
ガルドが崩れた魔物へ刃を向け、動きが戻らないことを確かめるように足を置く。
それから、顎で奥を示す。
――まだ奥だ。
溜まり場のさらに奥。
通路は細くなり、湿りが濃くなる。
石壁に、古い刻みがあった。
文字ではない。
模様でもない。
縫い目のような、連続する浅い切れ込み。
エリシアが指先で触れ、すぐに引っ込めた。
「……これは、意図的です」
「誰かが?」
レオンが問うと、エリシアは頷いた。
「人の手。学院の術式とは違う。……王都で見た系統に近い」
レオンの胸が静かに締まる。
王都で止めたはずのもの。
止めた、というより、形を変えたもの。
「ここが入口か」
レオンが呟くと、ガルドは答えず、体を少しだけ寄せた。
通路の先へ耳を澄ませる姿勢。
その動きで、レオンには分かる。
――一気に入る場所じゃない。
エリシアも同じ判断に至ったのか、測定具を持つ手が止まった。
「この先、反応が急に濃くなる。……小さいけど、中心がある」
中心。
核ほど大きくない。
だが、ここではそれで十分に危険だ。
そして、そこに人がいる可能性もある。
さっきの子どもがここまで引かれたなら、他にも――。
レオンは息を整える。
怖さは消えない。だが、手順は崩れない。
「……戻る」
エリシアが言った。
レオンが顔を向けると、彼女は子どもの方を見ている。
「まず、あの子を安全な場所へ。ここで深入りすると、逃げ道がなくなる」
合理的。正しい。
そして今は、その正しさが地面のように足を支えてくれる。
レオンは頷いた。
「うん。……先に運びましょう」
ガルドが先に引き返す。
歩幅が迷いなく定まり、二人もそれに合わせて動く。
戻る途中、レオンはふと足を止めた。
壁の縫い目。
そこに、ほんの小さな金属片が挟まっている。
錆びた輪。
指輪のようにも、留め具のようにも見える。
レオンはそれを拾い上げた。冷たい。
「……これ」
エリシアが覗き込む。
「金具。……最近落ちたものです。錆び方が浅い」
ガルドは金具を一瞥しただけで表情を動かさない。
それでも視線が留まった一拍で――人が出入りしていると分かった。
地上に戻ったとき、夜はさらに深くなっていた。
バルツが数人の見回りを連れて待っていた。
顔色は悪いが、目は覚めている。
レオンとガルドで子どもを抱え上げ、毛布に包む。
起きない。だが呼吸は安定している。
エリシアが子どもの額に指を当て、低く言った。
「……引きは弱い。王都ほど強固ではない。今夜中なら戻せる」
「戻せるって……目を覚ますのか」
バルツが問う。
「朝には。……ただし、夜は見張ってください。もう一度引かれる可能性があります」
役人は歯を噛んで頷く。
「分かった。宿の空き部屋を使う。誰も近づけない」
対応が早い。
町が小さいからこそ、意思決定も早い。
それが救いでもあり、危うさでもある。
子どもを引き渡し、三人は川辺に残った。
遠くで犬が鳴いた。
町の灯りが小さく揺れ、夜が動いている。
エリシアが測定具を握り直す。
「入口は確認できました。……でも中心は奥。今夜は無理をしない方がいい」
レオンは頷きかけて、手の中の金具を見た。
冷たさが指に残っている。
「人が出入りしてる。……それが一番、嫌な感じがする」
レオンの声は丁寧なままだ。
だが、芯が少し硬い。
ガルドが川の上流へ視線を送る。
その角度だけで分かる。続きがある。
レオンは握った金具を懐へしまい、呼吸を整えた。
王都で止めたはずのものが、形を変えて、ここにも触れている。
規模は小さい。けれど、小さいからこそ放置できない。
「明日、もう一度。……今度は、中心まで届く準備をしましょう」
エリシアが頷く。
「観測計画を組みます。入口の封鎖も必要です」
ガルドは踵を返し、先に歩き出した。
“やるなら準備だ”と背中が告げていた。
レオンは二人の後を追った。
川の音が、ずっと近いままだった。




