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紅茶専門店店長×常連客


 After


 ──こんな歳で恥ずかしいことだけど、離婚してこのまちを出る。

 そう言った彼女に、私は「何にも恥ずかしくない!」と言ったあと、鍵を渡した。

「これ……」

 閉店間際で、店には誰も居ない。紅茶の苦くも甘い、透き通った薫りだけがある。ずっと向き合ってきたその薫りが、背中を押してくれる。だから、こんな思い切った行動に出られた。

「どうせなら、私と一緒に暮らさない?」

 長年、ずっと言いたかった言葉だった。けど、いざ口に出すと少し震えていた。緊張している。心臓が、いやに大きく鳴っている。お願いだから止まらないでよ、と別の意味でも緊張した。

「と言っても、うちは狭いし、古いし。いいことなんて、私があなたのためだけに美味しい紅茶をいつでも淹れられる、ってことくらいしか無いんだけど」

 そうこれは、プロポーズ。七十にもなって自分がプロポーズするなんて思わなかった。皺くちゃのおばあちゃんからのプロポーズなんて普通は嬉しくない。わかってる。でも、機は逃さない。だってここで逃したらもう二度と会えないってこと、この年じゃ当たり前にあるんだから。

 はしたない? いくらでも言え。私は、彼女が欲しい。彼女と居たい。儚げに目を伏せる彼女が、たまに見せる明るい笑顔をもっともっと見たい。何年その想いを飲み込んで来たと思う? 三十五年だ。怖いものなんてあるはずが無かった。

「……それが」

 応える彼女の手も、声も、震えていた。

「それが、一番嬉しいんです」

 けれど、それでも彼女の手がしっかりと鍵を握り締めたとき。そして、ふわりと微笑んだとき。

 やっと私たちは、本当の意味で目を合わせられた気がした。


 Before


 紅茶の薫りが、好きだ。清々しい、野原を渡る風のような薫り。そこに混じるバターやお花の匂いも、また格別。だから、彼女のお店に度々足を運んだ。

「……そろそろ帰らないと」

 彼女のお店は、居心地が好いからいつまででも居たくなる。

「お会計ですね」

 ……嘘。いえ、居心地が好いのも、紅茶の薫りが好きなのも本当。でも、ここに居たい本当の理由は。

「楽しい時間は、あっという間です……」

 彼女と、居られるから。彼女が、私の為に丁寧に丁寧に……もちろん私だけにではないものの……淹れてくれた紅茶を飲んで。カウンターのこちらとあちらでお話をする。他愛ない話をする。彼女が笑う。彼女の細められた目が、朗らかな笑い声が、私の心をそっと溶かしてくれる。彼女の前では、子どもみたいに声を出して笑えた。

「……楽しい時間と言って貰えて、嬉しいわ」

「また、来ても?」

「いつでも大歓迎!」

(本当は、ずっと居たい)

 そんな我儘を胸に秘め、今日も私は席を立つ。

 彼女の眩しい瞳から、そっと視線を逸らす。


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