第6話 壁を突き破る令嬢と、偏屈調剤師の陥落
「デイジーお嬢様、本日は救護院での、薬草の納品の確認でございますね」
「ええ、マリー。東区の救護院のみんなが寒い冬を無事に越せるように、十分な常備薬を用意してあげたいの」
すっかり秋の深まった王都の街並みを、デイジーは侍女のマリーと共に歩いていた。
ロメオ伯爵家は長年、王都の東区にある救護院への支援を続けている。
先日、ちょっとした『奇妙な出来事』で改心させた元スリの少年も、今ではそこで元気に働いていると聞いていた。
今日は彼らへ納品するための大量の風邪薬とハーブティーを発注するため、王都でも屈指の歴史を誇る薬草卸問屋『グリーン・ハーバル商会』へと足を進めていたのだ。
(今日こそ……今日こそは何も起こらないわ! ただ薬草の質を確認して、書類にサインをするだけなんだから!)
デイジーは固い決意を胸に、木造の重厚な看板が掲げられた店舗の扉をくぐった。
店内には、何千種類もの乾燥ハーブや薬草の香りが充満していた。壁一面に備え付けられた巨大な木製棚には、無数の小さな引き出しがぎっしりと並んでいる。
「いらっしゃい……って、なんだい。ロメオ伯爵家の令嬢様かい」
カウンターの奥から顔を出したのは、白髪交じりのボサボサ頭に丸眼鏡をかけた、頑固そうな老人だった。
この店の店主であり、かつて宮廷調剤師として名を馳せた男――ガロンである。彼は腕は確かだが、極度の人間嫌いと偏屈な性格で知られ、貴族に対しても一切へりくだらないことで有名だった。
「ごきげんよう、ガロン様。救護院へ納品する今期分の薬草の注文に参りましたの」
「ふん、お貴族様の気まぐれな善意かい。品物は裏の作業場にまとめて置いてある。確認したけりゃ勝手に見な。……ただし、俺の繊細なハーブたちに下手に触るんじゃないぞ」
ガロンはシッシッと手を追い払うような仕草をすると、再び手元の調合皿に目を向けた。
(相変わらず愛想のないおじい様ね……。でも、お薬の腕は確かだって伺っているわ。手早く確認して失礼しましょう)
デイジーとマリーは、店舗の奥にある広い作業場へと足を踏み入れた。
そこには、救護院へ運ぶ予定の麻袋や木箱がうずたかく積まれていた。
「まあ、素晴らしいわ。どれもしっかりと乾燥された上質なハーブばかりね」
デイジーは満足そうに微笑み、麻袋の一つに手を触れた。
しかし。
その時、作業場の天井の梁から、一匹の小さな黒猫がすっと飛び降りてきたのだ。
「ニャア」
「あら、可愛い――」
デイジーが目を細めた瞬間、黒猫はデイジーの長いドレスの裾をチョイチョイと爪で引っかいた。
予想外の感触に驚いたデイジーは、慌てて足を引こうとした。
(あ、足が……裾に引っかかって――!?)
お約束の不運発動である!!
バランスを崩したデイジーの身体は、ぐらりと後ろへ傾いた。
「お、お嬢様!!」
マリーの悲鳴が響く。
デイジーは倒れるまいと反射的に近くの木製棚へ手を伸ばした。しかし、それが運の尽きだった。
ガタタタタッ!!
手をかけた棚は固定されておらず、デイジーの体重と勢いに引っ張られるように、豪快に傾いた。
「きゃああああああっ!?」
倒れかけた棚を支えようとしてさらに体勢を崩したデイジーは、そのまま棚を巻き込みながら後方へ倒れ込んだ。
ドガァァン!!
作業場の突き当たりの壁に、デイジーと棚がまとめて激突した。
しかも、その壁は長年の湿気で木材がすっかり傷み、今にも崩れそうなほど脆くなっていた。
デイジーの体重、落ちてきた重い木箱、そして天性の『間の悪さ』による衝撃が一点に集中した結果――。
ベキベキベキッ! バキィン!
なんと、分厚い板壁が丸ごと一枚、派手にぶち破られたのである。
「うぅ……いたたた……」
大量のハーブと木の屑にまみれながら、デイジーは頭を押さえて起き上がった。
またやってしまった。伯爵令嬢ともあろう者が、薬店の棚を倒し、あろうことか壁まで破壊してしまったのだ。
「な、なんだ!? 何が起きた!!」
大きな音に驚いたガロンが、顔を真っ青にして作業場へ飛び込んできた。
「お前さん、俺の店で何をして――え……?」
怒鳴り散らそうとしたガロンの言葉が、ピタリと止まった。
彼の丸眼鏡の奥の目が、限界まで見開かれる。
ガロンが見つめていたのは、頭にハーブを乗せて半泣きになっているデイジーではなく――彼女がぶち破った壁の『内部』だった。
破壊された板壁の奥には、長年誰も知らなかった二重壁の空洞が存在していた。
そして、崩れ落ちた壁の隙間から、古びた金属製の小箱が転がり出ており、その蓋が衝撃で開き、中身が露わになっていたのだ。
小箱の中に収められていたのは――黄金色に輝く、見たこともない形状をした乾燥植物だった。
「こ、これは……まさか……『太陽のしずく草』……!?」
ガロンの膝がガクガクと震え出した。彼は吸い寄せられるように小箱へ駆け寄り、震える手でその黄金の薬草を抱きしめた。
「三十年……! 先代の師匠が死ぬ間際に『この店のどこかに隠した』と言い残し、俺がどれだけ探しても見つけられなかった隠し場所を! 幻の万能薬草の標本……! なぜこんな二重壁の裏に……!」
ガロンの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
この薬草の完全な形が分かれば、古代の特効薬の製法を再現できるかもしれない。そうなれば、何千人もの貧しい病人を救える可能性がある。
ガロンは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ハーブまみれで呆然としているデイジーに向かって、ドサッと勢いよくひざまずいた。
「ロメオ伯爵令嬢……! お前さん……いや、お嬢様! あんた、最初からこれに気づいていたのか!?」
「え? は……はい……?」
(壁の裏に何かあったのに、気づくわけなくない……?)
「俺がどれだけ探しても見つからなかった壁の中の隠し場所を……『ハーブの配置のズレ』と『壁の反響音』だけで見抜き、あえて自らの身を投げて壁を破壊し、俺にこの標本を捧げてくれたんだな……っ! なんという観察眼! なんという荒々しくも情熱的な慈悲の心……!! あんたは幸運の女神様だ!」
「ち、違いますわガロン様! 私はただ猫ちゃんに驚いて転んだだけで――」
「謙遜なさるな!!」
ガロンはデイジーの手を両手で固く握りしめた。その目はもはやすべての誤解を終え、信仰心すら宿していた。
「俺は反省した! 貴族はみな偽善者だと思い込んでいた俺の目が狂っていた! あんたは本物の救世主だ! 決めたぞ……救護院への薬草はすべて最高のものを無償で提供する! さらに、この『太陽のしずく草』を元にした特効薬を完成させ、真っ先に救護院の子供たちへ届けよう!」
「ええぇ……!? 無償だなんて、そんな申し訳ない――」
「受け取ってくれ! これが俺の、あんたへの一生の忠誠だ!!」
熱弁を振るうガロンの横で、デイジーは魂が口から飛び出しそうなほど呆然としていた。
(まただわ……。私、普通に躓いてお店の壁を壊しただけなのに……なんで『情熱的な慈悲の救世主』になっちゃってるの……!?)
◇
「……ふふ、はははははは! 相変わらず素晴らしい破壊力だね。まさか物理的に壁を穿って三十年来の幻の薬草を発掘するとは」
グリーン・ハーバル商会の向かいに停車していた高級馬車の車内。
ライアンは窓のカーテンをわずかに開け、店の奥から響いた凄まじい破壊音と、その後に現れたデイジーたちの姿を遠眼鏡で確認していた。
「ライアン様、あきれ果てて言葉もありません。あのガロンは頑固で有名で、王室からの招聘すら断り続けていた偏屈者です。それが一瞬でデイジー様に心酔してしまうとは……」
となりに座る侍従のルイスが、頭を押さえて深々とため息をつく。
「彼女の『間の悪さ』は、頑固者の心すら打ち砕く最高の武器だな。……さて、ルイス。手配を頼む」
「は。どのように?」
ライアンはアイスブルーの瞳を妖しく光らせ、手に持っていた羊皮紙に素早くペンを走らせた。
「ガロンが『太陽のしずく草』の特効薬を完成させ次第、王宮の薬友会から破格の助成金を出すよう手配しろ。それから、今回の発見の端緒を作った人物として、デイジー・ロメオ伯爵令嬢の名を公式文書に記録させるんだ」
「かしこまりました。……ガロンへの報酬という形を取りつつ、デイジー様の名声と安全を高めるわけですね」
「それだけじゃない」
ライアンはペンを止め、優雅に背もたれへ身体を預けた。その唇には、腹黒くも甘い笑みが浮かんでいる。
「ガロンには定期的に、ロメオ伯爵家へ『令嬢の美容と健康に良い最高級の薬草茶』を納品させよう。……彼女はいつもトラブルに巻き込まれて疲れ切っているからね。私から贈っては警戒されるが、ガロンが『令嬢に良い薬草茶だ』と勧めれば、彼女も素直に飲むだろう?」
「……相変わらず、外堀の埋め方が執拗でいらっしゃいますね」
「……それは、褒め言葉として受け取っておくよ」
ライアンは窓の外、マリーに支えられながら「壁の修理代……お小遣いで払えるかしら……」と情けない顔で店から出てくるデイジーを愛おしそうに見つめた。
「君がどれだけ破天荒に世界を救おうと、そのすべての後始末と幸福は、私が引き受けよう。……愛しい私の幸運の女神」
デイジーが事件を起こすたびに、二人の距離はデイジーの意思とは裏腹に、着実に縮まっていくのだった。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




