第1話 間が悪いのにもほどがある
「はぁ……またやっちゃった……かも?」
アルディア王国の名門、ロメオ伯爵家の令嬢デイジー・ロメオは、澄み切った秋空を見上げながら、深い、本当に深い溜息をついた。
初代国王の時代から続く歴史あるロメオ伯爵家。その一人娘である十七歳のデイジーは、容姿端麗で教養も高く、一見すると完璧な貴族の令嬢であった。
しかし、彼女には誰にも言えない……いや、言ったところで誰も信じてくれない、致命的な《《欠点》》があった。
そう。デイジーは、とにかく、《《間が悪い》》のである。
どれほど気をつけていても、彼女が歩けば何かが起きる。
それも、他人の人生を左右するような大事件の『一番見ちゃいけない瞬間』に、吸い寄せられるように居合わせてしまうのだ。
(本当は、静かに川沿いを散歩して、カフェで美味しいタルトを食べて帰るだけのはずだったのに……!)
デイジーは眼下の川を見下ろした。
そこには、全身びしょ濡れになりながら、なぜか晴れやかな顔で岸へと這い上がっていく一人の若い男の姿があった。
◇
ことの始まりは、十五分ほど前にさかのぼる。
(どうして、いつもこうなるのかしら……)
本来であれば、侍女のマリーが側にいるはずだった。
しかし、夕方の人通りもまばらな王都の道端で「うぇぇん」と大粒の涙をこぼして泣いていた五歳くらいの男の子と出くわしてしまったのだ。
『お嬢様、私が迷子を届けてまいりますので、お嬢様はこちらの橋の上でお待ちください!』
マリーがテキパキと泣いている男の子の手を取り、無事に探していた母親と巡り会えたところまでは良かった。男の子も笑顔になり、遠くから「おねえちゃん、ありがとうー!」と元気に手を振っていたのだが――。
(マリー、すっかり安心してお母さんと話し込んでしまっているわ……)
遠目に見えるマリーは、無事に子供を送り届けられた安堵からか、母親と楽しそうに立ち話を始めてしまっている。
結果として、デイジーは橋の上で一人待たされることになった。
お気に入りの白いレースの日傘を差し、優雅な足取りを装ってはいたが、頭の中は「早くマリーが戻ってきますように、そして今日こそは何のトラブルにも巻き込まれませんように」という祈りでいっぱいだった。
だが、運命は容赦ない。
橋の中央付近で欄干に片足をかけ、今にも身を乗り出そうとしている貴族らしき服装の青年が目に入った。
(……見なかったことにしよう。うん、私は何も見ていない。彼は特殊な柔軟体操をしているだけかもしれないし……きっと、そう)
デイジーは素早く視線をそらし、足早に通り過ぎようとした。関わってはいけない。関わればろくなことにならないのが、これまでの経験で嫌というほど分かっていたからだ。
しかし、デイジーの「間の悪さ」は、平穏というものをことごとく踏み越えていく。
突然の突風に日傘が大きく煽られた。
「きゃっ!?」
反射的に日傘を押さえようとしたデイジーの身体が、大きく傾く。
そして――倒れ込んだ先には、まさに飛び降りようとしていた青年の背中があった。
――ドゴォッ!
見事な肘打ちのような形で、デイジーの肘が青年の腰にめり込む。
「ぶほっ!?」
「あ!!」
青年の情けない悲鳴とともに、二人の身体は重なり合うようにして、今にも欄干を越えそうになった。
……とはならず、デイジーは辛うじて欄干にしがみつくことに成功した。
しかし、デイジーにぶつかられた青年は、その勢いのまま欄干の外へ押し出され、デイジーの手から離れた日傘とともに、川へと落ちていった。
――ザパーーーン!!
けたたましい水柱が上がる。
欄干から下を見下ろしたデイジーは、みるみる顔を青ざめさせた。
(押した! 私が突き落とした!! 殺人……!? いや、事故よね!? どうしよう、私のせいで人が死んでしまう!!)
デイジーが恐怖で失神しかけた、その時だった。
水面から青年の頭が勢いよく浮かび上がった。
「ぷはっ!」
青年は必死に腕をかき、岸辺へと泳ぎ着いた。そして、水から上がると、濡れ鼠のようになった姿で橋の上のデイジーを見上げた。
デイジーは青ざめたまま、謝罪の言葉を口にしようとした。
「あの、ごめんなさい! 故意ではないのです、本当に! 突風が吹いて――」
しかし、下から聞こえてきた青年の声は、予期せぬものだった。
「……す、素晴らしい……!」
「はい?」
青年は全身から水を滴らせながら、膝をつき、天を仰いだ。
その目には、なぜか深い感動の涙が浮かんでいる……ように見える。
(……いや、顔が濡れているだけよね?)
「冷たい……生きて、いる……! 僕は、死に損ねたのではない……生き直す機会を得たんだ! あの恐ろしい水流の中で、死の恐怖を味わった瞬間、悟った……! 借金苦くらいで人生を諦めるなんて、なんて愚かだったんだ!!」
青年は激しく咳込みながらも、橋の上にいるデイジーに向かって深く頭を下げた。
「女神よ! ありがとうございます、名も知らぬ令嬢! あなたが僕の背中を力強く押してくださったおかげで、僕は己の甘さを捨て、もう一度出直す決意がつきました! この命、あなたに救われたものとして、これからは泥を舐めてでも生きていきます!!」
「え……あ、はい……? がんばってください……?」
青年は立ち上がると、その濡れた服のまま力強い足取りで走り去っていった。
デイジーは橋の上に取り残され、ポカンと口を開けていた。
(何だったの……? 私、普通に後ろから突き落としただけなんだけど……。いや、認めはしないけれど)
怪我もなさそうだし、生きる希望を取り戻したのなら結果オーライかもしれない。
しかし、デイジーの心には言いようのない疲労感だけが残った。彼女が望んでいるのは、このような劇的な騒動ではなく、平穏な日常なのだ。
「はぁ……帰ろう。今日はもう屋敷から出ないようにしよう……」
デイジーは溜息をつき、乱れたドレスを整えると、やっと戻ってきたマリーと連れ立って
トボトボと歩き出した。
彼女は気づいていなかった。
橋のたもと、街路樹の木陰に停められた豪華な馬車の窓から、一人の男がその一部始終をじっと観察していたことに。
◇
馬車の中。錦糸の刺繍が施された上質な上着を纏った青年――ヴァンサン公爵家の嫡男であり、現王太子の側近を務めるライアン・ヴァンサンは、優雅に身を起こした。
プラチナブロンドの髪に、鋭くも知性溢れるアイスブルーの瞳。王国中の令嬢が憧れる麗しの貴公子である彼は、顎に手を当ててフッと口元を緩めた。
「……面白いものを見たな」
向かいに座る幼馴染の侍従ルイスが、困惑気味に尋ねる。
「ライアン様、あのお方はロメオ伯爵家のデイジー様では? 飛び降りようとした男を、容赦なく突き落としたように見えましたが……」
「ふっ、いや、違うな」
ライアンは窓の外、遠ざかっていくデイジーの小さくなった背中を見つめながら、楽しそうに目を細めた。
「彼女はただ、風に煽られて体勢を崩しただけだ。……少なくとも、本人にその意思はなかっただろう。だが、あのタイミング、あの行動、そして結果として男の身投げを阻止し、更生までさせた。……噂には聞いていたが、ロメオ伯爵家の令嬢は、実に『間』が良いのか悪いのかわからない特異な星の下に生まれているらしい」
「はぁ……単なる偶然ではないでしょうか?」
「偶然が一度ならそうだろう。だが、恐ろしい数の証言があるんだぞ?彼女が通りかかる場所で、なぜか事件が起き、そしてなぜか最終的には丸く収まる」
ライアンの瞳の奥に、怪しい光が宿る。
王太子の側近として、王都のあらゆる情報を把握しているライアンにとって、最近頻発している『奇妙な事件の円満解決』の陰に、デイジー・ロメオの名があることは見逃せない事実だった。
「ロメオ伯爵家は初代からの忠臣だが、最近は派閥争いから距離を置いている。……フフ、デイジー・ロメオ。彼女をただの『うっかり者の令嬢』として放置しておくのは、あまりにも惜しい」
ライアンは手元の手帳を開き、彼女の名をさらさらと書き込んだ。
「次の彼女の予定を調べろ。私も……いや、しばらく様子を見てみるとしよう」
こうして、デイジー本人の全く知らぬところで、王太子の側近を務める公爵令息の目が、彼女の『間の悪さ』に強く惹きつけられることとなったのだった。
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