昔の話、今の話。(10)
マンションには駐車場があった。
来た時にはあまり印象になかったのは、視界に入っていなかったからなのか。それとも、入っていたとしても少々酔っていた自覚があるから、気づいていなかったかのどちらかだった。
エレベーターは地下まであり、そこが駐車場となっている。
話はドライブついでに、というのが純一の意向だった。それを無碍には出来ず言われるがままだった。
「あ」
「どうかした?」
「えっと……」
悠人は内心少し慌てていた。だがもしものことを考えたら仕方がない。
小首を傾げる純一を見上げると言いにくそうに口を開いた。
「家に寄ってほしいんだけど……。薬、家なんだよ。いつも朝飲むから」
「ああ。いいよ」
そう言って純一は了承してくれたが、その後すぐに眉根を寄せて唸った。
どうしたのかと首を傾げると、純一は言った。
「俺が部屋の場所を知ってもイイの?」
「お前がそれを気にするんだ?」
少し意外で少し可笑しかった。
「別にいいよ」
車に乗り込むとエンジンをかけて、カーナビが起動すると悠人は住所を告げた。
登録した住所へのルートが計算される音声案内を聞きながら、純一が申し訳なさそうに言う。
「ごめんね。薬のことなんて全然考えてなかった」
「俺が単純に朝飲んでるからさぁ。仕事中も偶に飲むけど、ちょうど昨日は持ってなかったんだよね」
「偶に?」
「あー、うん。偶に。あの店長の冬真さんって鼻が凄い良いんだよ。あの人もまぁαなんだけど。だから、俺が抑制剤飲んでても、どうしてもヒートになるかもしれないって時は匂いが変わるからって教えてくれる」
「そんなことできんの?」
「うん。どうしてもやっぱ……薬で抑えてるだけだと、そういう、ヒートが始まる予兆みたいなのがあるらしくって。俺自身、全然気づけないけどね。でも少し多めに飲んでおけば、ヒート自体酷くならないし、ちょっと調子が悪いかなぐらいで終わるからありがたいんだけど」
ゆっくりと駐車場から車を出しながら純一は小さく呟いた。
「大変だなぁ、Ωって」
「まぁ、そうね」
背もたれに身体を預け、悠人はカーナビの地図を眺めていた。
ここからだと車では十分と出ている。
「俺の場合は本当、あの時以来ヒートは薬で抑えられてるから、まぁいいんだけど」
「でも、それはそれで身体に負担あるんじゃないっけ?」
「らしいけど。わかんない。俺はヒートの方がイヤだよ。あんなの味わう方がイヤだ。」
ため息と共に吐き出した本音がとけていく。
悠人は変わる風景をボンヤリと見つめていた。
程よく冷房が入っている車内は涼しかった。そういえばと思い出し、部屋の中も涼しかったから純一はずっと空調を効かせてくれていたのだろう。
「なんだっけ。αもそういうのあるんじゃないっけ」
「あー、なんか、ヒートに誘発されてなんかあるってのは聞いたことあるけど……」
純一はそう言うと、前を向いたまま口を歪めて笑った。
「俺、昨日言ったとおり本当になーんも感じないんだよね。他のΩを前にしても」
「……マジで?」
アレは嘘ではないのかと思うと同時に、それはそれで自分の所為かと思うと申し訳なく感じる。
あの時のことがなければ、純一は今のように自分を探してこなかっただろうし、こうして会うこともなかっただろう。
その方が絶対に良かったと思う。
「ヒートになってるΩを前にしても、平気なんだよ。なんでかって聞かれた時に、知るかってしか答えられなくってさぁ」
「恋人とか……は?」
「いないよ。いるわけないじゃん」
そう言って純一は心底、おもしろそうに笑った。
「ただ友達のΩとかがね、唐突にヒートになった時とかそういうのを前にしても何もなかったり。あーあとは、こっちは気がないのに何度も何度も告白してきてウザいのはいたかなぁ」
そう言うと純一は、αはαなりに大変なのだと付け加えた。
「Ωほどじゃないけどさ。αだっていうだけで、こっちに気がないって言っても向こうはΩだからって、それを利用してどうにか落とそうとするんだよね。他のα相手にもそういうことやってたり。まぁそれでうまくくっつく場合もあるけど。なんだかなぁって俺は思うけど。でもさ、ある意味仕方ないのかもしれないって思うし」
「仕方ない?」
「それが第二性の性質みたいなもんでしょ? もちろん全員が全員、そうじゃないって分かってるけどさ。生存本能っていうか。そうやって番を見つけて子どもを産まなきゃっていう。普通の男女性とは別の本能」
「だとしたら、俺はそれを否定して生きてきてるってことか。なんかそれはそれで納得するな」
「だからってわけじゃないけど、俺は悠人のことが好きだし、それで結果的にはもちろん番になりたいって思うし。でも、悠人が自分からイイって言うまでは、俺は何もしないし、その時まで待つだけだから」
窓際に肘を突いて、悠人は純一を横目に見た。
視線を感じてか、信号が赤に変わり速度を落とすと、ふと、悠人に瞳が向けられた。
「俺はαだけどそのことにあんまイイ思いはしてないよ。でも分かった時、悠人がΩだってことは分かってたから、だからそこだけは『やった!』って気分になったけど」
「なんで、やった! なんだよ」
「結婚できる。更に強力な番になれる。ついでにβだったら無理な子どもまで産める。もちろん悠人がイイっていうならだけどね、これも」
「お前の前向き加減凄いな」
呆れた声で言うと、純一は悠人の方を向いて言った。
「あの時、俺はまだαて分かってなかったけど、悠人はΩだって分かったわけよ。俺の絶望分かる?」
「絶望?」
「だって、もしかしたら悠人は他のαと一緒になるかもしれない。それは絶対嫌だなって思ったんだよ」
悠人は少しだけ目を見開いて純一を見つめ返した。
あの時、悠人にはうっすらとだが純一がαであることは分かっていた。その匂いを求め、Ωの本能で欲したのだから。
だが純一は違った。その時はまだ彼自身がαである確証はなく、ただ目の前に欲情している自分がいて、それを見て手を伸そうとしていただけなのだ。
もしかすれば、その根底にはαであるという種子があったかもしれない。でもまだ理解出来ていなかった当人からすれば、悠人がΩと分かったことに対する絶望しかなかったのだ。
「絶望……ねぇ。Ωだって分かった時の俺もそれだったけど」
「Ωは、大変すぎるよな」
ハンドルを握り、純一は前を見た。車をゆっくりと発進させてルート案内に従い進んでいく。
外を見つめたまま悠人は気になったことを口にしていた。
「αって別にそういうの大変ことなさそうだよ……な? でもその、Ωから言い寄られるとか、あるから、大変か」
「それもそうだけど、俺はαだって分かってからマジで地元いたくなくて、早く出たかったから。悠人と同じだよ、そこ」
「なんで? 別にαなら問題なくない?」
「血筋的にαがずっと出てる家とかだったらさ、金持ちだし有名だし、そういうのあんま問題ないんだろうけど。俺みたいな隔世遺伝だと、異端な存在みたいな感じで。あとやけに期待されるっていうか。親は別にそこまでじゃなかったけど。でもやっぱ、何をして上手く出来ても、αだから当り前。さすがαってなるのはイヤだった」
低く嫌悪を滲ませる物言いに、悠人ははっとする。その言葉に思い当たる節があった。
大学でもまさに、αに対する視線はそういうものだった。
αもΩも、性が確定したときから少しずつ外見にもその兆候が現われてくる。故に、αもΩも目をひくのだ。
どうしてもαは「さすがα」という評価につながりやすい。こればかりは、潜在的な意識として根付いてしまっていて、誰もがそれを差別の一つだとは思っていない。ただの賛辞だと思っている。だがこれも、当事者からすれば一つの差別に過ぎない。
冬真はまさに、そういうものがイヤだったタイプのαだ。そして、ならばそれを上手く使ってやろうと、好き勝手にしながらも天性の個人的才能と努力によって、今の店がある。
「純一もそんな感じだったんだ、高校時代?」
「うん。イヤだったけど、まぁ仕方ない。とにかく進路は難しめの県外にして、悠人を探したい一心だったし。何か良い方法はなかってずっと考えて実行して今までやってきたって感じ」
そう言い終わる頃に、ちょうど目的地付近になっていた。
悠人のマンションは純一のマンションに比べれば小さく、駐車場なんてものは契約していないのでもちろんない。
純一が車を停止させハザードランプをつけてくれたのでシートベルトを外した。
「ちょっと待ってて。すぐ戻ってくる」
そう言ってドアを開けて外に出た。
エントランスを抜け、階段を駆け上がって部屋に着く。中に入って薬を掴むとそのまま外へと戻る。
昨日の夜の水の残りが少しだけカバンの中にある。半日も経っていないし、水が傷んではないだろうと思い、それで飲むことにした。
車に戻って助手席に座るとシートベルトをして、カバンの中のペットボトルで薬を飲んだ。慌てて戻ってきたこともあり、少し息が上がっていた。
その一連を見届けながら、純一は嬉しそうに口角を上げていた。
「なに、どしたの」
「いや。イヤならこのまま部屋に帰える手もあるのになって思って」
「そんなことしたって、無駄だろ? それに……」
「それに?」
ペットボトルの水を全て飲もうとして、口元に近づけて悠人は言葉を止めた。
視線は合わせないまま呟く。
「話をまだ全部聞いてないから」
生ぬるい水を一気に飲み干すと、車は再びゆっくりと走りだした。




