古傷
リュシアとフォレストウルフの討伐を終えた翌朝、僕はいつものようにセレスティア師匠との剣の稽古に励んでいた。
ルクスの街外れにある訓練場には、朝露を含んだ草の匂いが漂っている。まだ日が昇りきらない涼しい時間帯だというのに、僕の額にはすでに汗が浮かんでいた。
「遅い。剣先ばかり見るな。相手の肩と腰を見ろ」
「はいっ!」
僕は鋼のショートソードを握り直し、師匠との間合いを詰めた。
昨日のフォレストウルフとの戦いでは、リュシアの魔法を援護しながら、なんとか一頭を仕留めることができた。以前の僕なら、三頭もの魔物を前にすれば、恐怖で足がすくんでいただろう。
少しずつだけど、確かに強くなっている。
そう思えることが、今は何より嬉しかった。
「踏み込みが甘い。もっと腰を落とせ」
「はい!」
師匠の白い剣が、僕の右肩を狙って滑り込んでくる。
もちろん、本気の一撃ではない。それでも僕には、目で追うのがやっとの速さだった。
僕は慌ててショートソードを立て、なんとか受け止めようとした。
その瞬間だった。
「……っ!?」
右腕の奥で、何かが弾けたような痛みが走った。
指先から力が抜け、ショートソードが地面に落ちる。
乾いた金属音が訓練場に響いた。
「アレン?」
師匠の声が聞こえた。
返事をしようとしたけれど、うまく声が出ない。
右腕が、動かなかった。
「……あれ?」
おかしい。
昨日までは、普通に動いていたのに。
腕を持ち上げようとしても、肘から先が自分のものではないように重い。指先には、細かな針で刺されているような痺れが広がっていた。
「アレン!」
次の瞬間、師匠が僕のそばに膝をついていた。
「腕を見せろ」
「だ、大丈夫です。ちょっと痺れただけで……」
「いいから見せろ!」
珍しく強い声だった。
僕が黙って右腕を差し出すと、師匠は革鎧の留め具を外し、袖をまくり上げた。
そこには、見覚えのない黒ずんだ痣が浮かんでいた。
肘の内側から肩に向かって、細い蔦のような模様が伸びている。
「……これは」
師匠の青い瞳が、わずかに見開かれた。
「師匠?」
「今日は稽古を終わりにする」
「でも、まだ始めたばかりで……」
「終わりだ」
有無を言わせない口調だった。
師匠は僕のショートソードを拾い上げると、左手で僕を支えながら立ち上がらせた。
その横顔が、いつになく険しかった。
*
「……古傷が、内側で癒着しているようですね」
ルクスの治療院で、白髪の老医師は難しい顔をした。
診察台に腰掛けた僕の右腕には、薄い青色の治療魔法の光が当てられている。
「癒着、ですか?」
「ええ。以前、大きな怪我をしたでしょう。それも、普通なら命を落としていてもおかしくないほどの」
僕は思わず師匠を見た。
師匠は腕を組み、黙って医師の言葉を聞いている。
始まりの迷宮で、あの骸骨剣士と戦ったときの傷だ。
あのとき、僕は全身に深い傷を負い、意識を失った。
けれど、目覚めてからは【再生Lv1】のおかげもあって、順調に回復していると思っていた。
「表面の傷は治っています。ですが、深い部分の組織が不自然な形でつながっている。神経の通り道にも負担がかかっているようです」
「治療魔法では治らないんですか?」
「軽い炎症なら抑えられます。しかし、無理につながった部分を元に戻すとなると、話は別です。少なくとも、この治療院では難しい」
医師は治療魔法を止め、僕の腕をそっと下ろした。
「日常生活に大きな支障が出るとは限りません。ただ、剣を振るうような激しい動作は避けたほうがいいでしょう」
「……どれくらい、ですか?」
「当面は安静です。専門の治癒術師に診てもらう必要がありますが、以前のように戦える保証はありません」
胸の奥が、すうっと冷たくなった。
「それって……」
言葉が続かなかった。
医師は少しだけ目を伏せた。
「残念ですが、冒険者として前衛を続けることは、勧められません」
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえた。
どこか遠くの出来事のようだった。
僕は膝の上に置いた右手を見つめた。
つい昨日まで、この手で剣を握っていた。
師匠に教わったことを一つずつ身につけて、いつか隣で戦えるようになりたいと思っていた。
ようやく、少しだけ前に進めた気がしていたのに。
「……そう、ですか」
不思議と涙は出なかった。
ただ、何を考えればいいのかわからなかった。
そんな僕の隣で、師匠が静かに口を開いた。
「治療できる者を探す。王都でも、エルフの里でも構わん」
「ですが、セレスティア様。治療できると決まったわけでは……」
「可能性があるなら、それで十分だ」
医師を見つめる師匠の眼差しは、剣を構えているときと同じくらい鋭かった。
けれど、僕の右手を包む彼女の指先は、ひどく優しかった。
*
治療院を出たあと、僕たちはしばらく無言で歩いた。
昼前のルクスは、いつもと変わらず賑やかだった。
露店から漂う焼きたてのパンの匂い。行き交う商人たちの声。荷車の車輪が石畳を転がる音。
昨日と何も変わらない街並みが、今日は少しだけ遠く感じられた。
「……師匠」
「なんだ」
「僕、しばらく剣の稽古はできないんですよね」
「ああ」
「依頼も、受けられないですよね」
「今はな」
師匠は即座に答えた。
その「今は」という言葉が、僕にはありがたかった。
「そうなると、借金も返せなくなっちゃいますね」
無理に笑ってみせたけれど、師匠は笑わなかった。
「銀貨十五枚のことなら、気にするな」
「でも、借りたものは返さないと」
「返済期限など決めていない」
「それでも……」
僕は言いかけて、口を閉じた。
師匠には、ずいぶんお世話になっている。
命を助けてもらって、剣を教わって、武器を買うお金まで貸してもらった。
そのうえ、これからも面倒を見てもらうなんて。
「……僕、何か仕事を探します」
師匠の足が止まった。
「仕事?」
「はい。剣が振れなくても、できることはあると思うんです。ギルドの雑用とか、宿屋の手伝いとか」
幸い、左手は問題なく動く。右腕だって、激しく使わなければ日常生活は送れそうだ。
それに、僕は料理や掃除が嫌いじゃない。
むしろ、誰かの役に立てるなら、そういう仕事も楽しそうだと思う。
「だから、師匠。今まで本当にありがとうございました」
そう言って頭を下げた。
師匠の純白の外套が、風に揺れる。
「……待て」
「はい?」
「なぜ、そうなる」
「え?」
「なぜ私のもとを離れる話になるんだ」
顔を上げると、師匠はひどく不機嫌そうな顔をしていた。
「だって、僕はもう剣の稽古もできませんし……」
「それがどうした」
「どうしたって……」
師匠は何かを言いかけ、口を閉じた。
そして、しばらく考え込むように眉を寄せる。
「……ポーターだ」
「はい?」
「私には、ポーターが必要だ」
突然の言葉に、僕は目を瞬いた。
「ポーターって、荷物持ちのことですか?」
「荷物の管理、野営の準備、食事の支度、装備の手入れ。冒険者には戦闘以外にも仕事がある」
「それは、そうですけど……」
「お前は私のポーターになれ」
師匠はまっすぐ僕を見つめた。
「報酬も払う。借金はそこから少しずつ返せばいい」
「でも、師匠は今まで一人で冒険していたじゃないですか」
「……今まではな」
「それに、僕なんかを雇っても……」
「アレン」
師匠の声が、少しだけ低くなった。
「お前は、私の役に立ちたくないのか?」
「そんなことありません!」
思わず大きな声が出た。
「僕、師匠の役に立てるなら、何だってしたいです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、本心だった。
師匠は僕に、たくさんのものをくれた。
だから、今度は僕が何かを返したかった。
「……なら、決まりだ」
師匠はそう言って、僕に背を向けた。
けれど、その耳がほんのり赤くなっていることに、僕は気づいてしまった。
「師匠?」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「……礼などいらん」
そう答えた師匠の歩幅は、いつもより少しだけ小さかった。
*
その日の夕方、僕は師匠の部屋で夕食を作っていた。
宿の主人に頼んで厨房の一角を借り、右腕に負担をかけないよう、ゆっくりと野菜を刻んでいく。
今日は鶏肉と根菜の煮込み、それから焼きたてのパンだ。
本当はもう少し凝った料理を作りたかったけれど、今は無理をしないほうがいい。
鍋から立ち上る湯気に、香草のいい匂いが混じる。
「……何をしている」
振り返ると、師匠が戸口に立っていた。
「夕食の準備です」
「見ればわかる。腕はどうした」
「大丈夫です。重いものは宿の人に運んでもらいましたし、痛みが出ないように気をつけています」
師匠は僕の右腕をじっと見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……無茶はするな」
「はい」
出来上がった料理をテーブルに並べると、師匠は少し不思議そうな顔をした。
「これは?」
「鶏肉の香草煮込みです。師匠、いつも干し肉とか硬いパンばかり食べているでしょう? たまには温かいものもいいかなって」
「……別に、食事に不満はない」
「そうですか。でも、せっかくなので食べてみてください」
師匠は渋々といった様子で椅子に座り、スプーンを手に取った。
一口。
そして、もう一口。
「……どうですか?」
「…………」
「師匠?」
「……悪くない」
その言葉とは裏腹に、師匠のスプーンは止まらなかった。
僕は思わず笑ってしまった。
「よかった。おかわりもありますよ」
「……そうか」
師匠は何事もなかったように答えたけれど、空になった皿を僕のほうへそっと差し出した。
なんだか、少し可愛らしい。
そんなことを思いながら、僕は二杯目をよそった。
「そういえば師匠、明日からポーターの仕事を教えてもらえますか?」
「……明日は休め」
「でも」
「まず腕を治せ。仕事はそれからだ」
「はい。じゃあ、今のうちに勉強しておきます」
「……好きにしろ」
そう言いながら、師匠は煮込みを口に運んだ。
窓の外では、夕日がルクスの街並みを茜色に染めていた。
こうして誰かと食卓を囲むのは、いつ以来だろう。
ふと、そんなことを考えた。
母さんが生きていた頃は、よく一緒にご飯を食べた。
旅の途中、焚き火を囲んで、母さんが作ってくれた温かいスープを飲んだ記憶がある。
あの頃のことは、なぜかところどころ曖昧だけれど。
『アレン。あなたは、人間として生きなさい』
不意に、懐かしい声が胸の奥によみがえった。
母さん。
僕は今、ちゃんと人間として生きているのかな。
剣士になる夢は、少し遠くなってしまった。
でも、こうして誰かの役に立てるなら、それも悪くないと思う。
「……アレン?」
「はい?」
「どうした。急に黙り込んで」
「いえ。なんでもありません」
僕は笑って、師匠の皿に残っていた煮込みを少しだけ足した。
「たくさん食べてくださいね。明日も元気でいてもらわないと」
「……お前は、私の母親か」
「ふふっ。そうかもしれませんね」
師匠は呆れたように息を吐いた。
けれど、その表情はどこか穏やかだった。
食事を終えたあと、セレスティアは窓辺に立ち、夜の街を眺めていた。
アレンは厨房で後片付けをしている。
いつもなら、食事を済ませればすぐに剣の手入れを始める時間だった。
それなのに、今夜は不思議とそんな気になれなかった。
部屋の中には、まだ香草煮込みの温かな匂いが残っている。
テーブルには二人分の食器が並び、椅子にはアレンが脱いだ上着が掛けられていた。
たったそれだけのことなのに、長年使ってきた宿の一室が、まるで別の場所になったように感じられる。
「……妙なものだな」
セレスティアは小さく呟いた。
今日、アレンが仕事を探すと言い出したとき。
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
あのまま彼が頭を下げ、別れを告げていたら。
そう考えただけで、なぜか落ち着かなかった。
だから、ポーターとして雇うことにした。
もちろん、合理的な判断だ。
冒険には荷物の管理が必要だし、野営の準備も誰かに任せられれば効率が上がる。
それに、怪我をした弟子を放り出すわけにもいかない。
そうだ。
それだけのことだ。
「師匠、お茶を淹れましたよ」
振り返ると、アレンが湯気の立つカップを二つ持って立っていた。
「……ああ」
差し出されたカップを受け取り、セレスティアは椅子に腰掛けた。
アレンも向かいに座り、嬉しそうにお茶を飲んでいる。
その顔を見ていると、なぜか胸の奥が温かくなった。
「……アレン」
「はい?」
「お前は……」
そこまで言って、言葉が止まった。
何を聞こうとしたのだろう。
なぜ、私のそばにいたいのか。
なぜ、私のためにそこまでするのか。
それとも。
「……いや、なんでもない」
「そうですか?」
アレンは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
その何気ない優しさが、今はありがたかった。
セレスティアはカップに視線を落とす。
紅茶の表面に、ぼんやりと自分の顔が映っていた。
細い顎。華奢な輪郭。大きすぎると言われ続けてきた青い瞳。
醜い。
幼い頃から、何度もそう言われてきた。
だから、自分の顔など見たくもなかった。
けれど。
今夜は、なぜだろう。
水面に映るその顔が、いつもほど嫌ではなかった。
「……?」
セレスティアは小さく眉を寄せた。
何かが違う。
けれど、何が違うのかはわからない。
「師匠?」
アレンの声に顔を上げる。
「お茶、熱すぎましたか?」
「……いや」
セレスティアは静かにカップを持ち直した。
「ちょうどいい」
そう答えると、アレンは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、セレスティアの胸に、またあの奇妙な温かさが広がった。
今まで感じたことのない、不思議な感覚だった。
そして彼女は、まだ知らなかった。
この日、何気なく口にした「ポーターが必要だ」という一言が、自分の人生を大きく変えていくことを。
お読みいただきありがとうございました。
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