世界で一番醜い、綺麗な人
見知らぬ天井――ではない。
見慣れた夜空だった。焚き火から立ち上る細い煙。その向こうで、星々が瞬いている。
僕には、幼い頃の記憶がない。
正確には、母さんに拾われる以前の記憶が、ほとんど抜け落ちている。
ただ、ときどき不思議な夢を見る。
空を突き刺すようにそびえるガラスの塔。夜なのに昼のように明るい街。黒く平らな道を、馬もいないのに走っていく四角い箱。
知らないはずなのに、なぜか懐かしい。
そしてもう一つ、僕には昔からおかしなところがあった。
「アレン。あんまり見ちゃ駄目よ」
以前、母さんと立ち寄った街でそう注意されたことがある。
大通りを歩いていたのは、一人のオークの女性だった。
大きな顔。太い鼻。分厚い唇。口元から伸びる立派な牙。丸太のような腕。
彼女が歩くたび、男たちが振り返った。
「すげえ……美人だ」
「あれほどの美女、王都でも滅多に見ないぞ」
僕には、その感覚がまったく分からなかった。
むしろ、その少し後だった。
ぼろぼろの外套を深く被った女の人が、道の端を歩いていた。
風が吹いて、外套がめくれた。
白い肌。細い鼻筋。すらりとした手足。そして長く尖った耳。
綺麗だ、と思った。
その瞬間、周囲から罵声が飛んだ。
「うわっ、エルフだ!」
「気持ち悪い。顔を隠せよ!」
女の人は慌てて外套を被り直し、俯いて去っていった。
僕には、どうして彼女が罵られるのか分からなかった。
この世界では、僕の「綺麗」と、みんなの「綺麗」は反対らしい。
どうして僕だけ違うのかは、分からない。
「アレン、まだ起きているの?」
隣から優しい声がした。
「うん」
母さんが、ずれた毛布を掛け直してくれる。
母さん――そう呼んではいるけれど、本当の母親なのか、僕には分からない。
物心ついた頃には、もう彼女と二人で旅をしていた。
僕が昔のことを尋ねても、母さんはいつも困ったように笑うだけだった。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
「僕たち、いつか街に住めるかな」
母さんの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……そうね」
少し悲しそうに笑って、僕の頭を撫でる。
「あなたは、人間として生きなさい」
「え?」
「いつかきっと、自分の足で立てる日が来るわ」
意味が分からなかった。
僕は人間だ。
少なくとも、自分ではそう思っている。
「母さん、それって――」
「さあ、もう寝なさい。明日も歩くわよ」
「……うん」
聞きたいことはたくさんあった。
僕をどこで拾ったのか。
僕の本当の両親は誰なのか。
どうして母さんは、街から街へ旅を続けているのか。
そして――どうして僕に「人間として生きなさい」なんて言うのか。
でも、いつでも聞けると思っていた。
明日でも。
明後日でも。
いつか母さんが話してくれる日が来るのだと。
だから僕は、その夜も安心して目を閉じた。
それが、母さんと交わした最後の会話になった。
――森の奥から、獣の咆哮が響いた。
「アレン! 起きて!」
肩を揺さぶられ、飛び起きる。
焚き火の向こう。
闇の中に、いくつもの赤い目が浮かんでいた。
黒い毛皮。大人ほどもある巨体。剥き出しの牙から、粘ついた涎が滴っている。
「ブラックウルフ……」
僕は震えながら呟いた。
何度か遠目に見たことがある。森に生息する肉食の魔物だ。
無意識に【鑑定】を使う。
【鑑定不能】
「……え?」
見えない。
僕が持っている唯一のスキル、【鑑定Lv1】。
自分自身と、自分と同程度かそれ以下の相手なら、名前やレベルといった簡単な情報を見ることができる。
だが、自分より明らかに強い相手には――何も見えない。
つまり。
目の前の魔物は、一匹ですら僕より強い。
それが何匹もいる。
自分自身へ意識を向ける。
名前:アレン
Lv:1
職業:なし
筋力:3
魔力:1
敏捷:4
スキル:【鑑定Lv1】
称号:【迷い子】
何度見ても変わらない。
戦う力なんてない。
「アレン」
母さんが僕の前に立った。
「私が合図したら走りなさい」
「母さんは?」
「すぐ追いつくわ」
嘘だ。
なぜか分かった。
「嫌だ」
「アレン」
「一緒に逃げよう」
「聞きなさい」
母さんが振り返った。
その顔は笑っていた。
「あなたは、生きるの」
「母さん……?」
「何があっても」
赤い目が動いた。
「走って!」
ブラックウルフが飛びかかる。
母さんが僕を突き飛ばした。
「――っ!」
何かが裂ける音がした。
温かいものが頬に飛んだ。
地面に倒れた僕の目の前へ、母さんの身体が崩れ落ちる。
「……え?」
赤い。
母さんの服が、見る間に赤く染まっていく。
「母……さん?」
返事がない。
「母さん」
伸ばした手が震える。
「起きてよ」
動かない。
「母さん……!」
ブラックウルフの低い唸り声が聞こえた。
逃げなければならない。
母さんが命を使って作ってくれた時間だ。
頭では分かっていた。
でも、足が動かなかった。
怖かったからじゃない。
目の前の魔物が、母さんを殺した。
それだけで、頭の中が真っ白になった。
「う……」
地面に落ちていた太い枝を握る。
「うああああああっ!」
ブラックウルフへ飛びかかった。
枝を振り下ろす。
当然、届かなかった。
前脚が動いたことすら見えなかった。
「がっ……!」
身体が宙を舞った。
背中から木に叩きつけられる。
何かが折れる、嫌な音がした。
息ができない。
手足に力が入らない。
地面に倒れたまま、それでも枝を探した。
ない。
武器すらなくなった。
ブラックウルフが近づいてくる。
【鑑定不能】
赤い文字だけが、滲む視界に浮かんでいた。
悔しかった。
何もできなかった。
母さんを守れなかった。
仇を討つことすらできない。
弱いから。
僕が、あまりにも弱いから。
――強くなりたい。
初めて、心の底からそう思った。
もし生きられるなら。
もう一度立てるなら。
ハンターになろう。
魔物を狩る。
戦う術を覚える。
強くなる。
母さんを殺したこいつらを、自分の手で倒せるくらい。
もう二度と、大切な誰かが目の前で死ぬのを、見ていることしかできない自分にはならない。
ブラックウルフが牙を剥いた。
死ぬ。
そう思った瞬間――銀色の光が、夜を裂いた。
「――?」
何が起きたのか分からなかった。
目の前にいたブラックウルフの首が、ずるりと落ちる。
遅れて、血が噴き出した。
一匹。
二匹。
三匹。
銀色の光が走るたび、赤い目が消えていく。
ほんの数秒だった。
僕には【鑑定】すらできなかった魔物の群れが、何が起きたのか理解する暇さえなく地面へ転がっていた。
「……チッ」
女の声がした。
「一足遅かったか」
月明かりの下に、誰かが立っていた。
長い髪が風に揺れる。
その姿を確かめるより先に、僕の意識は闇へ沈んだ。
* * *
パチッ、と薪の爆ぜる音がした。
「……ここは?」
目を開けると、岩の天井が見えた。
身体を起こそうとした瞬間、胸に激痛が走る。
「いっ……!」
「動くな」
女の声。
「肋骨が三本折れている。死にたいなら好きにしろ」
見ると、胸や腕には包帯が巻かれ、傷には薬草らしきものが貼られていた。
洞窟の中らしい。
焚き火を挟んだ向こう側に、一人の女性が座っている。
僕は、その姿を見て息を呑んだ。
長い金色の髪。
透き通るような白い肌。
すっと通った鼻筋。
驚くほど小さな顔に、華奢な身体。
髪の間から伸びているのは、長く尖った耳。
エルフだ。
僕は思わず彼女を見つめた。
綺麗だった。
街で美人ともてはやされていた誰よりも。
いや、これまでの人生で見た誰よりも綺麗だった。
「……何だ」
女性がこちらを見る。
冷たい目だった。
見つめていたのが気に障ったのだろうか。
慌てて目を逸らしかけ――ふと気になった。
あのブラックウルフたちを倒したのは、この人なのだろうか。
意識を集中する。
【鑑定】。
【鑑定不能】
「……え?」
思わず声が漏れた。
まただ。
いや。
ブラックウルフとは違う。
あの魔物たちを僕は鑑定できなかった。
そのブラックウルフの群れを、この女性は一瞬で殺した。
つまり、僕と彼女の間には、どれほどの差がある?
「何をしている」
「い、いえ……」
「私を鑑定したのか?」
心臓が跳ねた。
「ご、ごめんなさい!」
「別に構わん」
女性は興味なさそうに焚き火へ薪を放り込んだ。
「どうせ何も見えなかっただろう」
「……はい」
「なら、それがお前と私の差だ」
さらりと言われた。
でも、不思議だった。
自慢しているようには聞こえない。
ただ事実を告げているだけだった。
「あの……あなたが助けてくれたんですか?」
「たまたま通りかかっただけだ」
「ブラックウルフも?」
「ああ」
やっぱり。
僕には一匹すら鑑定できなかった魔物を、あっという間に。
「母さんは……」
口にした瞬間、胸が締めつけられた。
女性が少しだけ黙った。
「……すまない」
それだけで分かった。
「私が着いたときには、もう手遅れだった」
「……はい」
涙が出ると思った。
でも出なかった。
まだ、母さんが死んだということを頭が理解できていないのかもしれない。
「お前は生き残った」
女性は淡々と言った。
「傷が塞がったら街まで送る。孤児院でもギルドでも、その先は好きにしろ」
「……ギルド」
「何だ?」
「僕、ハンターになれますか」
初めて、女性が僕をまっすぐ見た。
「やめておけ」
即答だった。
「どうしてですか」
「弱いからだ」
胸に突き刺さった。
でも、事実だった。
「お前には才能がない」
さらに刺さった。
「身体も弱い。魔力もほとんど感じない。あの程度の魔物一匹にすら勝てないだろう」
「……はい」
「ハンターになれば、遠からず死ぬ」
何も言い返せない。
この人は正しい。
それでも。
母さんの血に染まった手が浮かんだ。
「それでも、なりたいです」
「…………」
「強くなりたいんです」
女性はしばらく僕を見ていた。
「好きにしろ」
それだけ言って、再び焚き火へ視線を戻した。
横顔は冷たい。
まるで他人と関わることそのものを避けているようだった。
そういえば、名前を聞いていない。
「あの」
「今度は何だ」
「名前、聞いてもいいですか?」
少しだけ間があった。
「……セレスティア」
「セレスティアさん」
「呼び捨てで構わん」
「じゃあ、セレスティア」
「……本当に呼び捨てにする奴があるか」
「えっ」
「もういい」
怒らせてしまったらしい。
でも、なぜだろう。
少しだけ怖くなくなった。
僕は改めてセレスティアを見る。
金色の髪。
白い肌。
細い身体。
長い耳。
この世界で「醜い」とされる特徴ばかりだった。
エルフは醜い。
子供の頃から何度も聞いてきた。
なのに僕には、どうしてもそうは思えない。
むしろ――。
「……何だ」
また見ていたことに気づかれた。
「さっきから人の顔をじろじろ見るな。気分が悪いなら見なければいい」
「違います」
「何がだ」
「綺麗だなって思って」
セレスティアの手が止まった。
「…………何?」
「え?」
「今、何と言った」
低い声。
怒らせた?
「綺麗だなって……」
「誰が」
「セレスティアが」
「…………」
焚き火の薪が、パチッと爆ぜた。
セレスティアは完全に固まっていた。
「髪も綺麗だし、顔もすごく整ってるし……僕、こんなに綺麗な人を見たの、初めてです」
「…………」
「何か変なこと言いました?」
長い沈黙のあと、セレスティアが口を開いた。
「お前」
「はい」
「頭も打ったのか?」
「たぶん打ってないと思います」
「……そうか」
それきり黙ってしまった。
「セレスティア?」
「寝ろ」
「でも」
「怪我人は黙って寝ろ」
やっぱり怒らせたらしい。
僕は仕方なく毛布へ潜り込んだ。
目を閉じる直前、もう一つだけ思い出す。
「セレスティア」
「…………何だ」
「助けてくれて、ありがとう」
返事はなかった。
目を閉じる。
すぐに母さんの顔が浮かんだ。
胸が痛い。
悔しい。
もっと強ければ。
僕に力があれば。
母さんは死ななかったかもしれない。
――強くなりたい。
今の僕は弱い。
たぶん、どうしようもないくらい弱い。
それでも、強くなりたい。
そう思いながら、僕は眠りへ落ちていった。
だから知らなかった。
焚き火の向こう側で、僕には到底強さを測れない女性が、長い耳を真っ赤にしていたことを。
そして。
「……綺麗、だと?」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟き、自分の頬へそっと触れていたことを。
世界で最も醜いと蔑まれるエルフと、世界で最も弱い少年。
この夜、僕は後に「師匠」と呼ぶことになる女性と出会った。
そして僕はまだ知らない。
この出会いを境に、自分の中に眠っていた「何か」が、静かに目を覚まし始めていたことを。
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