表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

『拾った猫は、弱り切った猫又でした』—化け猫のくせに撫でられると溶ける

作者: 月白ふゆ

雨の日に、弱り切った黒猫を拾いました。

ただの保護のつもりだったのに、相手は猫又で、しかもやけに強がりで。

撫でれば溶けるくせに守ろうとして無茶をして、結局こちらが甘やかすことになる。


これは、存在感の薄い地味OL・三崎澪が、拾ったはずの化け猫に“番い”にされて、夫婦になるまでの話です。

雨は、会社を出た瞬間から本気だった。


傘の骨が一度ひしゃげて、澪は小さく息を吐いた。駅前の光は水たまりに滲み、信号も看板も、輪郭だけを残して揺れている。濡れたアスファルトの匂いが鼻の奥に刺さって、今日が終わったことを実感する。


三崎澪、二十八歳。事務職。地味。目立たない。自分から目立とうとも思わない。というより、目立つという行為の方法が分からない。職場ではいつも、気づかれないまま、いろいろが終わっていく。呼ばれるのはほとんど苗字で、会議では「さっきの資料どこだっけ」と誰かが言い、澪は黙って差し出す。受け取った相手は、礼を言う相手を見ずに次へ進む。


嫌われてもいない。好かれてもいない。無風。


コンビニで会計をするときも、店員の視線は一度澪を通り過ぎた。後ろに並ぶ人のほうへ「次のお客様」と声が向く。澪は小さく「私です」と言い、ようやく視線が戻る。謝罪も戸惑いもなく、ただいつも通りの顔でバーコードが読み取られて、レシートが渡される。


こういうのが、積み重なる。


澪はマンションへ曲がる角で、足を止めた。段ボールがあった。濡れた紙がふやけ、上からかぶせられたビニールが風でばたついている。にじんだ文字が見えた。「ごめんね」。たぶん、誰かが置いていった。


澪は一度通り過ぎた。こういうものに関わると面倒だ。病院、餌、トイレ、時間、責任。自分には余裕がない。余裕なんて最初からない。


なのに戻ってしまったのは、段ボールの隙間から見えた目が、あまりにも生きていたからだ。


金色だった。雨の夜に、明らかに異質な金。


澪はしゃがんで、慎重に覗き込んだ。黒い猫がいた。毛は濡れ、毛並みは荒れて、身体は骨ばっている。肋が浮いて、呼吸が浅い。威嚇のつもりなのか、口がわずかに開く。けれど鳴き声は出ず、喉の奥で掠れた息が漏れるだけだった。


「……生きてる」


言葉にした途端、猫の耳が微かに動いた。睨みつける視線は強いのに、身体がついてこない。怖いはずなのに、怖さより先に胸がきゅっと縮んだ。


澪は傘を肩に挟み、段ボールの中へ手を差し入れた。猫は反射的に噛もうとしたが、歯が当たらない。力がない。澪はそのまま、ふわりと抱き上げる。


驚くほど軽かった。布の袋を持ち上げるような重さ。生命の重さが足りない。


「病院、行こうね」


そう言いながら、澪は自分に言い聞かせていた。猫は澪の腕の中で、抵抗をやめる。諦めたのか、疲れたのか、判別できない。ただ金色の目だけが、澪の顔をじっと見ていた。


――見られている。


誰かに「見られている」という感覚が、澪の胸の奥をじわりと熱くした。怖いのではない。むしろ、そこに輪郭が生まれるみたいで。


澪は走った。雨が頬を叩く。足元が滑る。抱えた黒い塊だけは、絶対に落とさないように。



───


病院で最低限の処置をしてもらい、栄養剤と薬を抱えて帰る頃には、雨は小降りになっていた。


家に着いて玄関を閉めた瞬間、澪は呼吸を整えながら、キャリーの中を覗く。黒猫はほとんど動かなかった。目だけが開いている。金色の目が、部屋の暗さを測るみたいに揺れていた。


澪はカーペットの上にタオルを広げ、キャリーの扉を開けた。無理に引っ張り出さない。待つ。待つしかない。


数分後、黒猫はふらりと出てきた。体勢が低く、脚が震えている。澪が一歩近づくと、反射的に睨む。


「ごめん。怖いよね」


澪は距離を取ってキッチンへ行き、水とウェットフードを用意して戻った。皿をそっと置く。黒猫は一瞬だけ鼻を鳴らし、ゆっくり口をつける。最初のひと口が入ると、あとは止まらない。食べては息をつき、また食べる。澪はその様子を眺めながら、心のどこかが静かにほどけていくのを感じた。


食べ終えると、黒猫は倒れるようにタオルへ顎を落とした。眠りたいのだろう。澪はドライヤーを持ってきて、弱い風を遠目に当てる。黒い毛がふわりと浮く。黒猫は嫌がらなかった。嫌がる力がないというより、澪の手の気配を拒まない。


ふと、黒猫の耳が微かに動いた。澪のほうではなく、部屋の隅に向く。何かいるのか、と澪は目を凝らした。何もない。いつもの一人暮らしの部屋だ。なのに黒猫の目は、暗いものを見透かすように鋭い。


「……?」


澪が首を傾げた瞬間、低い声が部屋の中に落ちた。


「……拾ったのか。よりにもよって」


澪は息を止めた。テレビもスマホも鳴っていない。なのに確かに声がした。男の声。若いのか年上なのか判断できない、夜の底みたいな低音。


黒猫が澪を見た。金色の瞳がまっすぐ澪を射抜き、口が開く。


「猫だと思ったか」


澪は膝の上の手を握りしめた。怖さは不思議と遅れてくる。先に来たのは、困惑と、妙な納得だった。金色の目。異様な気配。最初から、ただの猫ではなかったのかもしれない。


「……喋れるの?」


黒猫はふん、と鼻を鳴らした。態度だけが伝わる。


「猫又だ。……いや、猫又だった」


過去形。澪はそこに引っかかった。


「だった、って」


「弱っている。力が戻らない。……このざまを見られるのは不本意だ」


言葉の端々に強がりが張りついている。なのに身体は小さく震えている。澪は怖さより先に胸が痛くなった。


「名前、教えて」


澪が言うと、黒猫は一瞬だけ固まった。名を問われるのは、何かの境界に触れる行為だと、澪はどこかで聞いたことがある。


「……黒夜だ」


「黒夜」


澪はその名を口に乗せてみた。暗いのに綺麗な音だった。黒猫はわずかに耳を伏せ、苛立ったように言う。


「軽々しく呼ぶな」


「じゃあ、呼ばない」


澪が素直に返すと、黒夜はさらに不機嫌そうに目を細めた。澪は小さく息を吐いて、そっと背中を撫でた。


黒夜はびくりと身を跳ねさせ、次の瞬間、喉の奥で低い音を鳴らした。


澪は目を丸くした。黒夜は自分でも驚いたように固まる。金色の目が揺れる。


「……今のは、違う」


「うん」


澪は笑わない。ただ、もう一度だけ撫でる。黒夜は抵抗せず、次第に力を抜いた。誇りを手放すのではなく、いまだけ預けるみたいに。


その夜、澪は初めて、誰かの呼吸を聞きながら眠った。



───


黒夜は、守ろうとした。


回復し始めた二日目の夜、窓がひとりでにかすかに鳴った。風だと思っていた澪の背筋に、遅れて嫌な寒気が走る。黒夜がタオルの上から立ち上がり、低く唸ったからだ。


「来るな」


誰に向けた言葉なのか。澪が問う間もなく、部屋の空気が重くなる。視界が少し滲む。耳元で、誰かの笑い声のようなものがした。目に見えないのに、確かにいる。


澪は息が詰まった。


その瞬間、黒夜が跳んだ。小さな黒い影が、空気の裂け目へ噛みつく。音もなく、何かが弾けた。耳鳴りが止み、空気が軽くなる。黒夜は床に着地して、ふらりとよろめいた。


「黒夜……!」


澪が駆け寄ると、黒夜は強がるように顔を上げた。


「問題ない」


その言い方が、あまりに無理をしていて、澪は胸が熱くなった。澪は黒夜を抱き上げ、ソファへ座らせるように自分の膝に乗せる。黒夜は抵抗しない。抵抗する力が、いまはもうない。


「無理しないで」


「……俺は、お前の家に入った」


黒夜は掠れた声で言った。守るのは当然だと言いたいのだろう。だが言葉は喉の奥で途切れた。


澪は黒夜の頭を撫でた。耳が伏せられる。目が細まる。プライドが、少しだけ崩れる。


「守ってくれて、ありがとう」


黒夜は睨むように澪を見上げた。礼など要らない、と言いたい目。なのに澪の指が耳の根元を撫でると、黒夜はあからさまに力を抜く。


「……やめろ」


「やめない」


澪は静かに言った。黒夜の目が揺れる。怒りではない。困惑だ。


「お前は、怖くないのか」


「怖いよ」


澪は正直に答えた。「でも、怖いだけで捨てられるほど、強くない」


黒夜は目を伏せた。小さな息が漏れる。


「……お前、変だ」


「たぶんね」


澪は笑った。誰にも言われたことはないが、自分でそう決めたほうが楽だった。


その夜から、黒夜は澪の布団の中へ来るようになった。最初は足元。次の日は腰のあたり。三日目には、澪の腕の中で丸くなった。眠りかけたころ、黒夜が小さな声で言う。


「俺の名を呼ぶなと言ったはずだ」


「呼ぶよ」


「……理由は」


澪は少し考えた。契約だとか守護だとか、格好いい理屈はいくらでも作れる。でも澪が出した答えは簡単だった。


「黒夜って呼ぶと、ここにいるってわかるから」


黒夜の呼吸が止まる。次の瞬間、喉の奥で、また低い音が鳴った。



───


回復の兆しは、突然だった。


夜中、澪が水を飲みに起きたとき、廊下に立つ影を見た。人の形をしている。背が高い。黒い髪が濡れた夜みたいに落ちている。


澪は声が出なかった。驚きと、どこかで予感していたことが同時に来たからだ。


影が振り返る。灯りの下で見えた顔立ちは、無駄に整いすぎていた。美しいというより危険な造形。人間が本能で距離を取る類の存在感。


なのに、その瞳が澪を映した瞬間、わずかに熱が混ざった。


「……見るな」


低い声。澪の耳の奥に残る、艶のある音。心臓が変な跳ね方をする。怖いはずなのに、足が動かない。


「黒夜……?」


名を呼ぶと、男は僅かに眉を寄せた。嫌がる顔なのに、反応は速い。半歩だけ澪に寄り、次に我に返ったように足を止める。


「……その名を呼ぶな」


「でも、黒夜でしょ」


「……ああ」


否定しない。澪は少しだけ安心した。


「戻ったんだね」


「完全ではない。夜だけだ。……日中は無理だ」


「じゃあ、無理しないで」


澪が言うと、黒夜は一瞬言葉を失ったように黙る。それから苦々しく笑った。


「お前は、命令するのが下手だな」


「命令じゃないよ。お願い」


黒夜の目が揺れる。揺れは澪の胸を少し苦しくさせた。強いはずの存在が、澪の言葉の前では妙に脆い。


「……澪」


黒夜が澪の名を呼んだ。


それだけで、澪の胸の奥が熱くなる。会社で呼ばれるのは苗字ばかりだ。下の名を呼ばれるのは、何年ぶりだろう。澪は瞬きをした。


「なに」


「……お前は、誰にも触れられていない顔をしている」


澪は息を止めた。見られていない、ではなく、触れられていない。言い方が妙に生々しい。


黒夜は澪の頬に手を伸ばし、触れる寸前で止めた。迷っている。自分の衝動を測っている。


澪はその手に、自分から触れた。黒夜の指先は熱い。猫の肉球とは違う、人の温度。そこに確かな力がある。


「触れられてないよ。誰にも」


澪が言うと、黒夜の目が少し暗くなる。


「なら、俺が触れる」


宣言みたいな声だった。祟り神の誓いのように。澪は、怖いのに、怖くない。目を逸らさずにいられた。


その夜、澪は黒夜に抱き寄せられた。言葉は少ない。けれど触れ方は丁寧だった。守るように、壊さないように。黒夜は強く、澪はその強さに身を預けるしかなかった。


澪の意識がふっと遠のきかけたとき、黒夜の声が耳元に落ちる。


「……大丈夫か」


心配の色が滲む声。夜の底の低音。


澪は弱い声で答えた。


「だいじょうぶ。……黒夜がいるから」


黒夜の腕がいっそう強くなる。守るのではなく、離さないための力だった。



───


朝、澪は溶けていた。


目を開けても身体が言うことを聞かない。筋肉が重い。熱が抜けたあとのだるさが全身に広がっている。喉も乾いている。仕事に行くという概念が遠い世界の出来事みたいに感じる。


隣で黒夜が起きていた。夜にしか人型になれないはずなのに、今朝の黒夜はまだ人の形を保っている。完全ではないと言っていたのに。昨日より回復したのだと、澪はぼんやり思った。


黒夜は澪の髪を指で梳き、静かに言った。


「……動けるか」


澪はかすかに首を振った。恥ずかしいという感情が追いつく前に、黒夜の表情が少しだけ困ったものになる。


「守るつもりだった」


澪は笑いたいのに、笑う力もない。代わりに息だけが漏れた。


「守ってくれたよ」


「結果がこれだ」


黒夜は澪の頬に触れる。触れ方が優しいのに逃げ道がない。澪は目を閉じる。黒夜の指先は熱い。昨夜の熱が、まだそこに残っているみたいだった。


「……澪」


名を呼ばれるだけで、澪の胸の奥がゆるむ。存在感がないはずの自分の輪郭が、黒夜の声で浮かび上がる気がした。


澪はかすれた声で言った。


「黒夜」


黒夜は僅かに目を細めた。嫌がっている顔なのに、満足の気配がある。矛盾だらけで可笑しい。


「呼ぶなと言った」


「呼ぶ」


「……理由は」


澪は昨夜と同じ答えを返した。


「呼ぶと、ここにいるってわかるから」


黒夜は黙り、澪の額に軽く触れる。口づけのように、誓いのように。澪の胸がじんわり熱くなる。ドロドロに溶けたまま、心だけが満たされていく。


黒夜は布団を直し、澪の肩に毛布をかけた。やけに手つきが丁寧だった。優しさを隠すように、ぶっきらぼうに言う。


「今日は休め」


「……仕事」


「どうせ、誰も困らない」


鋭い言葉なのに、澪は傷つかなかった。むしろ少し笑ってしまった。自分が薄いことを黒夜は見抜いている。見抜いたうえで、ここに置いてくれる。


澪はスマホを探して欠勤の連絡を入れた。電話口の相手は「承知しました」と淡々と言った。誰も困っていない。黒夜の言う通りだった。


通話を終えると、黒夜が言った。


「……お前は、ここにいろ」


命令の形をしていたけれど、実際は願いだった。澪は力の入らない指で黒夜の手を握った。


「うん。いるよ」


黒夜は少しだけ目を伏せる。自分の弱さを認めたくない顔。それでも手は離さない。


「……拾われたのは、俺のほうかもしれんな」


澪の胸の奥が痛くなるほど嬉しい。


「拾ったよ」


「……馬鹿だな」


黒夜はそう言って澪の髪を撫でた。指先が通るたび、澪の意識がふわりと溶ける。撫でられて溶けるのは黒夜だけじゃない。澪も同じだった。


澪は目を閉じたまま、弱く言った。


「黒夜、番いって……なに」


黒夜は一度息を止めてから、低い声で答えた。


「怪異の“帰る場所”を決める。守る相手を決める。……名と体温を、二度と捨てられない形で結ぶ」


「じゃあ、私は黒夜の……」


「そうだ」


即答だった。迷いがない。澪の胸が熱くなるのに、同時に少しだけ怖くなる。自分の薄さが、そんな重い言葉を受け止められるのか不安になる。


黒夜は澪の迷いを見抜いたように、声を落とした。


「嫌なら、やめる」


祟り神だったはずの存在が“嫌ならやめる”と言えることが、澪の心を揺らした。澪はゆっくり首を振る。


「嫌じゃない。……ただ、こわい。私がちゃんと番いになれるか、分からない」


黒夜は澪の頬に触れた。指先が熱い。優しいのに逃げ道がない。


「釣り合いなど要らん。お前は俺を生かした。それだけで十分だ」


黒夜は澪の手を取り、薬指の付け根を親指でなぞった。ひやりとした感覚が走る。痛みではない。夜の水が皮膚の内側へ染みていくような冷たさ。


黒い糸のようなものが一瞬だけ現れ、すぐに溶けた。


「それ……」


「印だ。外からは見えない。だが俺には分かる。お前がどこにいても呼べる」


澪の胸がきゅっと縮む。支配ではない。所有でもない。帰る場所が決まる、という意味での結びつきだ。


「じゃあ、私は黒夜を呼べる?」


「呼べる。名を呼べ。俺は必ず戻る」


澪は息を吐いた。誰にも必要とされないと思っていた自分が、誰かを“必ず戻らせる”鍵になれる。そんなことを経験したことがない。


澪は黒夜の胸元へ手を伸ばし、そこに触れた。黒夜がわずかに息を止める。強いはずの存在が、触れられるだけで揺れる。


「黒夜。私も、印をつけたい」


黒夜の目が細くなる。驚きと警戒と、嬉しさが混じる。


「お前、人間だぞ」


「うん。でも……夫婦って、そういうことでしょ」


澪が言うと、黒夜は小さく笑った。悔しそうに、嬉しそうに。


「……夫婦、か」


黒夜は自分の薬指に爪を立て、ほんの少しだけ血を滲ませた。澪が息を呑むと、黒夜は落ち着いた声で言う。


「怖がるな。これは誓いだ」


黒夜は澪の薬指に口づける。熱が落ちて、印が内側から灯るみたいに脈打った。


澪の視界が滲んだ。怖いのではなく、胸がいっぱいで。黒夜が澪の指を握り、低く囁く。


「契約完了だ。……澪は俺の妻だ」


澪は息を吐いて、やっと言葉にする。


「うん。黒夜は、私の夫」


黒夜の目が揺れた。誇りもあったし、安堵もあった。何より、飢えがほどける瞬間の顔があった。


その夜、澪はまた溶けた。けれど今度は、溶けることが怖くなかった。帰る場所が決まったから。



───


夫婦になってから、澪の朝は少し変わった。


会社へ行く準備をしていると、黒夜が玄関までついてくる。黒夜はまだ日中は猫の姿が多いのに、澪の靴紐を結ぶ指先に、黒い尾が絡むように寄ってくる。見上げる目は金色のまま、妙に真剣だ。


「……行くのか」


澪は笑って「行くよ」と答える。黒夜は不機嫌そうに息を吐く。けれど、澪の薬指に触れてから、ようやく渋々と引き下がる。


「無事に戻れ」


それが毎朝の挨拶になった。


職場では、少しだけ変化が起きた。挨拶が返ってくる回数が増えた。名前を呼ばれる回数が増えた。コピー機の前で誰かが「すみません」と声をかけるようになった。


澪は鏡を見ても、たいして変わっていない。髪もメイクも服も、いつも通り地味だ。ただ、目の奥に熱が残っている。夜に溶かされ、朝に抱き直される日々が、澪の輪郭を作ったのだと分かった。


帰宅すると、黒夜がいる。


玄関で黒夜は澪の指先を掴み、薬指の付け根を親指で撫でる。外からは見えない指輪の場所。


「今日も、無事か」


確認というより祈りみたいな声。


「無事だよ」


澪が答えると、黒夜は小さく息を吐いて、澪の額に触れる。口づけのように。誓いのように。


それだけで澪はまた少し溶ける。


ある日、澪は区役所の封筒を持ち帰った。婚姻届。澪が何も言わずにテーブルへ置くと、黒夜はそれを見て眉を寄せる。


「紙切れで縛るのか」


「縛るんじゃない。形にしたいだけ」


澪が静かに言うと、黒夜は黙って書類を指先で押さえた。


「……お前は欲が薄いと思っていた」


「薄いよ。今でも」


澪は正直に言った。「でも、夫婦って言ったのに、夫婦じゃないのは、ちょっと嫌」


黒夜の口元が僅かに緩む。


「……書け」


澪はペンを差し出す。黒夜は受け取り、慣れない手つきで文字を書く。人としての戸籍用の名。けれど澪は知っている。黒夜が本当に結ばれたのは紙ではなく、澪の薬指の内側だ。


提出した帰り道、澪は不意に言った。


「ねえ、黒夜」


「何だ」


「私、存在感がないの、少しはマシになったと思う?」


黒夜は即答した。


「最初から、俺にはお前しか見えていなかった」


澪は歩きながら、胸の奥が熱くなる。存在感がない女と闇の王。誰にも見られなかった人間が、最強の怪異の唯一の帰る場所になった。


そして闇の王は、守るつもりで抱いた夜に、毎朝、澪を溶かしてしまう。


澪が小さく笑うと、黒夜が不機嫌そうに言った。


「笑うな」


「笑う」


「……勝手にしろ。妻」


その言葉が、澪の輪郭を決めた。


澪は、溶けたまま、でも確かに答える。


「うん。……おかえり、夫」


黒夜は小さく息を吐いた。祟り神の誇りが、ようやく居場所を見つけたみたいに。


雨の日に拾ったのは、弱り切った猫又だった。

けれど本当に拾われたのは、澪のほうだったのかもしれない。


黒夜の声が、澪の耳元に落ちる。


「……澪。ここにいろ」


澪は溶けたまま、静かに返す。


「うん。……ここにいる」


その返事がある限り、黒夜は夜の底へ還らない。

澪もまた、誰にも見られない場所へ戻らない。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


気づけば自分の中で「怪異っぽい何か」が並び始めていて、半ばシリーズみたいな空気になってきたのですが――よく考えたら、女主人公がいなかったなと。なので今回は、存在感が薄い地味OLの三崎澪を真ん中に置いて、拾われたのか拾ったのか分からなくなる感じをやってみました。


黒夜は猫又らしく強がっているのに、撫でられると溶けるし、守るつもりで前に出ては甘やかされるし、気づけば番いの契約まで自分から結んでしまう。そういう「強いはずの怪異が、たった一人の前でだけ崩れる」関係性が書きたかった部分です。


また別の怪異でも、違う味の“拾う/拾われる”ができそうなので、気が向いたら増えるかもしれません。そのときはまた、お付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ