『拾った猫は、弱り切った猫又でした』—化け猫のくせに撫でられると溶ける
雨の日に、弱り切った黒猫を拾いました。
ただの保護のつもりだったのに、相手は猫又で、しかもやけに強がりで。
撫でれば溶けるくせに守ろうとして無茶をして、結局こちらが甘やかすことになる。
これは、存在感の薄い地味OL・三崎澪が、拾ったはずの化け猫に“番い”にされて、夫婦になるまでの話です。
雨は、会社を出た瞬間から本気だった。
傘の骨が一度ひしゃげて、澪は小さく息を吐いた。駅前の光は水たまりに滲み、信号も看板も、輪郭だけを残して揺れている。濡れたアスファルトの匂いが鼻の奥に刺さって、今日が終わったことを実感する。
三崎澪、二十八歳。事務職。地味。目立たない。自分から目立とうとも思わない。というより、目立つという行為の方法が分からない。職場ではいつも、気づかれないまま、いろいろが終わっていく。呼ばれるのはほとんど苗字で、会議では「さっきの資料どこだっけ」と誰かが言い、澪は黙って差し出す。受け取った相手は、礼を言う相手を見ずに次へ進む。
嫌われてもいない。好かれてもいない。無風。
コンビニで会計をするときも、店員の視線は一度澪を通り過ぎた。後ろに並ぶ人のほうへ「次のお客様」と声が向く。澪は小さく「私です」と言い、ようやく視線が戻る。謝罪も戸惑いもなく、ただいつも通りの顔でバーコードが読み取られて、レシートが渡される。
こういうのが、積み重なる。
澪はマンションへ曲がる角で、足を止めた。段ボールがあった。濡れた紙がふやけ、上からかぶせられたビニールが風でばたついている。にじんだ文字が見えた。「ごめんね」。たぶん、誰かが置いていった。
澪は一度通り過ぎた。こういうものに関わると面倒だ。病院、餌、トイレ、時間、責任。自分には余裕がない。余裕なんて最初からない。
なのに戻ってしまったのは、段ボールの隙間から見えた目が、あまりにも生きていたからだ。
金色だった。雨の夜に、明らかに異質な金。
澪はしゃがんで、慎重に覗き込んだ。黒い猫がいた。毛は濡れ、毛並みは荒れて、身体は骨ばっている。肋が浮いて、呼吸が浅い。威嚇のつもりなのか、口がわずかに開く。けれど鳴き声は出ず、喉の奥で掠れた息が漏れるだけだった。
「……生きてる」
言葉にした途端、猫の耳が微かに動いた。睨みつける視線は強いのに、身体がついてこない。怖いはずなのに、怖さより先に胸がきゅっと縮んだ。
澪は傘を肩に挟み、段ボールの中へ手を差し入れた。猫は反射的に噛もうとしたが、歯が当たらない。力がない。澪はそのまま、ふわりと抱き上げる。
驚くほど軽かった。布の袋を持ち上げるような重さ。生命の重さが足りない。
「病院、行こうね」
そう言いながら、澪は自分に言い聞かせていた。猫は澪の腕の中で、抵抗をやめる。諦めたのか、疲れたのか、判別できない。ただ金色の目だけが、澪の顔をじっと見ていた。
――見られている。
誰かに「見られている」という感覚が、澪の胸の奥をじわりと熱くした。怖いのではない。むしろ、そこに輪郭が生まれるみたいで。
澪は走った。雨が頬を叩く。足元が滑る。抱えた黒い塊だけは、絶対に落とさないように。
───
病院で最低限の処置をしてもらい、栄養剤と薬を抱えて帰る頃には、雨は小降りになっていた。
家に着いて玄関を閉めた瞬間、澪は呼吸を整えながら、キャリーの中を覗く。黒猫はほとんど動かなかった。目だけが開いている。金色の目が、部屋の暗さを測るみたいに揺れていた。
澪はカーペットの上にタオルを広げ、キャリーの扉を開けた。無理に引っ張り出さない。待つ。待つしかない。
数分後、黒猫はふらりと出てきた。体勢が低く、脚が震えている。澪が一歩近づくと、反射的に睨む。
「ごめん。怖いよね」
澪は距離を取ってキッチンへ行き、水とウェットフードを用意して戻った。皿をそっと置く。黒猫は一瞬だけ鼻を鳴らし、ゆっくり口をつける。最初のひと口が入ると、あとは止まらない。食べては息をつき、また食べる。澪はその様子を眺めながら、心のどこかが静かにほどけていくのを感じた。
食べ終えると、黒猫は倒れるようにタオルへ顎を落とした。眠りたいのだろう。澪はドライヤーを持ってきて、弱い風を遠目に当てる。黒い毛がふわりと浮く。黒猫は嫌がらなかった。嫌がる力がないというより、澪の手の気配を拒まない。
ふと、黒猫の耳が微かに動いた。澪のほうではなく、部屋の隅に向く。何かいるのか、と澪は目を凝らした。何もない。いつもの一人暮らしの部屋だ。なのに黒猫の目は、暗いものを見透かすように鋭い。
「……?」
澪が首を傾げた瞬間、低い声が部屋の中に落ちた。
「……拾ったのか。よりにもよって」
澪は息を止めた。テレビもスマホも鳴っていない。なのに確かに声がした。男の声。若いのか年上なのか判断できない、夜の底みたいな低音。
黒猫が澪を見た。金色の瞳がまっすぐ澪を射抜き、口が開く。
「猫だと思ったか」
澪は膝の上の手を握りしめた。怖さは不思議と遅れてくる。先に来たのは、困惑と、妙な納得だった。金色の目。異様な気配。最初から、ただの猫ではなかったのかもしれない。
「……喋れるの?」
黒猫はふん、と鼻を鳴らした。態度だけが伝わる。
「猫又だ。……いや、猫又だった」
過去形。澪はそこに引っかかった。
「だった、って」
「弱っている。力が戻らない。……このざまを見られるのは不本意だ」
言葉の端々に強がりが張りついている。なのに身体は小さく震えている。澪は怖さより先に胸が痛くなった。
「名前、教えて」
澪が言うと、黒猫は一瞬だけ固まった。名を問われるのは、何かの境界に触れる行為だと、澪はどこかで聞いたことがある。
「……黒夜だ」
「黒夜」
澪はその名を口に乗せてみた。暗いのに綺麗な音だった。黒猫はわずかに耳を伏せ、苛立ったように言う。
「軽々しく呼ぶな」
「じゃあ、呼ばない」
澪が素直に返すと、黒夜はさらに不機嫌そうに目を細めた。澪は小さく息を吐いて、そっと背中を撫でた。
黒夜はびくりと身を跳ねさせ、次の瞬間、喉の奥で低い音を鳴らした。
澪は目を丸くした。黒夜は自分でも驚いたように固まる。金色の目が揺れる。
「……今のは、違う」
「うん」
澪は笑わない。ただ、もう一度だけ撫でる。黒夜は抵抗せず、次第に力を抜いた。誇りを手放すのではなく、いまだけ預けるみたいに。
その夜、澪は初めて、誰かの呼吸を聞きながら眠った。
───
黒夜は、守ろうとした。
回復し始めた二日目の夜、窓がひとりでにかすかに鳴った。風だと思っていた澪の背筋に、遅れて嫌な寒気が走る。黒夜がタオルの上から立ち上がり、低く唸ったからだ。
「来るな」
誰に向けた言葉なのか。澪が問う間もなく、部屋の空気が重くなる。視界が少し滲む。耳元で、誰かの笑い声のようなものがした。目に見えないのに、確かにいる。
澪は息が詰まった。
その瞬間、黒夜が跳んだ。小さな黒い影が、空気の裂け目へ噛みつく。音もなく、何かが弾けた。耳鳴りが止み、空気が軽くなる。黒夜は床に着地して、ふらりとよろめいた。
「黒夜……!」
澪が駆け寄ると、黒夜は強がるように顔を上げた。
「問題ない」
その言い方が、あまりに無理をしていて、澪は胸が熱くなった。澪は黒夜を抱き上げ、ソファへ座らせるように自分の膝に乗せる。黒夜は抵抗しない。抵抗する力が、いまはもうない。
「無理しないで」
「……俺は、お前の家に入った」
黒夜は掠れた声で言った。守るのは当然だと言いたいのだろう。だが言葉は喉の奥で途切れた。
澪は黒夜の頭を撫でた。耳が伏せられる。目が細まる。プライドが、少しだけ崩れる。
「守ってくれて、ありがとう」
黒夜は睨むように澪を見上げた。礼など要らない、と言いたい目。なのに澪の指が耳の根元を撫でると、黒夜はあからさまに力を抜く。
「……やめろ」
「やめない」
澪は静かに言った。黒夜の目が揺れる。怒りではない。困惑だ。
「お前は、怖くないのか」
「怖いよ」
澪は正直に答えた。「でも、怖いだけで捨てられるほど、強くない」
黒夜は目を伏せた。小さな息が漏れる。
「……お前、変だ」
「たぶんね」
澪は笑った。誰にも言われたことはないが、自分でそう決めたほうが楽だった。
その夜から、黒夜は澪の布団の中へ来るようになった。最初は足元。次の日は腰のあたり。三日目には、澪の腕の中で丸くなった。眠りかけたころ、黒夜が小さな声で言う。
「俺の名を呼ぶなと言ったはずだ」
「呼ぶよ」
「……理由は」
澪は少し考えた。契約だとか守護だとか、格好いい理屈はいくらでも作れる。でも澪が出した答えは簡単だった。
「黒夜って呼ぶと、ここにいるってわかるから」
黒夜の呼吸が止まる。次の瞬間、喉の奥で、また低い音が鳴った。
───
回復の兆しは、突然だった。
夜中、澪が水を飲みに起きたとき、廊下に立つ影を見た。人の形をしている。背が高い。黒い髪が濡れた夜みたいに落ちている。
澪は声が出なかった。驚きと、どこかで予感していたことが同時に来たからだ。
影が振り返る。灯りの下で見えた顔立ちは、無駄に整いすぎていた。美しいというより危険な造形。人間が本能で距離を取る類の存在感。
なのに、その瞳が澪を映した瞬間、わずかに熱が混ざった。
「……見るな」
低い声。澪の耳の奥に残る、艶のある音。心臓が変な跳ね方をする。怖いはずなのに、足が動かない。
「黒夜……?」
名を呼ぶと、男は僅かに眉を寄せた。嫌がる顔なのに、反応は速い。半歩だけ澪に寄り、次に我に返ったように足を止める。
「……その名を呼ぶな」
「でも、黒夜でしょ」
「……ああ」
否定しない。澪は少しだけ安心した。
「戻ったんだね」
「完全ではない。夜だけだ。……日中は無理だ」
「じゃあ、無理しないで」
澪が言うと、黒夜は一瞬言葉を失ったように黙る。それから苦々しく笑った。
「お前は、命令するのが下手だな」
「命令じゃないよ。お願い」
黒夜の目が揺れる。揺れは澪の胸を少し苦しくさせた。強いはずの存在が、澪の言葉の前では妙に脆い。
「……澪」
黒夜が澪の名を呼んだ。
それだけで、澪の胸の奥が熱くなる。会社で呼ばれるのは苗字ばかりだ。下の名を呼ばれるのは、何年ぶりだろう。澪は瞬きをした。
「なに」
「……お前は、誰にも触れられていない顔をしている」
澪は息を止めた。見られていない、ではなく、触れられていない。言い方が妙に生々しい。
黒夜は澪の頬に手を伸ばし、触れる寸前で止めた。迷っている。自分の衝動を測っている。
澪はその手に、自分から触れた。黒夜の指先は熱い。猫の肉球とは違う、人の温度。そこに確かな力がある。
「触れられてないよ。誰にも」
澪が言うと、黒夜の目が少し暗くなる。
「なら、俺が触れる」
宣言みたいな声だった。祟り神の誓いのように。澪は、怖いのに、怖くない。目を逸らさずにいられた。
その夜、澪は黒夜に抱き寄せられた。言葉は少ない。けれど触れ方は丁寧だった。守るように、壊さないように。黒夜は強く、澪はその強さに身を預けるしかなかった。
澪の意識がふっと遠のきかけたとき、黒夜の声が耳元に落ちる。
「……大丈夫か」
心配の色が滲む声。夜の底の低音。
澪は弱い声で答えた。
「だいじょうぶ。……黒夜がいるから」
黒夜の腕がいっそう強くなる。守るのではなく、離さないための力だった。
───
朝、澪は溶けていた。
目を開けても身体が言うことを聞かない。筋肉が重い。熱が抜けたあとのだるさが全身に広がっている。喉も乾いている。仕事に行くという概念が遠い世界の出来事みたいに感じる。
隣で黒夜が起きていた。夜にしか人型になれないはずなのに、今朝の黒夜はまだ人の形を保っている。完全ではないと言っていたのに。昨日より回復したのだと、澪はぼんやり思った。
黒夜は澪の髪を指で梳き、静かに言った。
「……動けるか」
澪はかすかに首を振った。恥ずかしいという感情が追いつく前に、黒夜の表情が少しだけ困ったものになる。
「守るつもりだった」
澪は笑いたいのに、笑う力もない。代わりに息だけが漏れた。
「守ってくれたよ」
「結果がこれだ」
黒夜は澪の頬に触れる。触れ方が優しいのに逃げ道がない。澪は目を閉じる。黒夜の指先は熱い。昨夜の熱が、まだそこに残っているみたいだった。
「……澪」
名を呼ばれるだけで、澪の胸の奥がゆるむ。存在感がないはずの自分の輪郭が、黒夜の声で浮かび上がる気がした。
澪はかすれた声で言った。
「黒夜」
黒夜は僅かに目を細めた。嫌がっている顔なのに、満足の気配がある。矛盾だらけで可笑しい。
「呼ぶなと言った」
「呼ぶ」
「……理由は」
澪は昨夜と同じ答えを返した。
「呼ぶと、ここにいるってわかるから」
黒夜は黙り、澪の額に軽く触れる。口づけのように、誓いのように。澪の胸がじんわり熱くなる。ドロドロに溶けたまま、心だけが満たされていく。
黒夜は布団を直し、澪の肩に毛布をかけた。やけに手つきが丁寧だった。優しさを隠すように、ぶっきらぼうに言う。
「今日は休め」
「……仕事」
「どうせ、誰も困らない」
鋭い言葉なのに、澪は傷つかなかった。むしろ少し笑ってしまった。自分が薄いことを黒夜は見抜いている。見抜いたうえで、ここに置いてくれる。
澪はスマホを探して欠勤の連絡を入れた。電話口の相手は「承知しました」と淡々と言った。誰も困っていない。黒夜の言う通りだった。
通話を終えると、黒夜が言った。
「……お前は、ここにいろ」
命令の形をしていたけれど、実際は願いだった。澪は力の入らない指で黒夜の手を握った。
「うん。いるよ」
黒夜は少しだけ目を伏せる。自分の弱さを認めたくない顔。それでも手は離さない。
「……拾われたのは、俺のほうかもしれんな」
澪の胸の奥が痛くなるほど嬉しい。
「拾ったよ」
「……馬鹿だな」
黒夜はそう言って澪の髪を撫でた。指先が通るたび、澪の意識がふわりと溶ける。撫でられて溶けるのは黒夜だけじゃない。澪も同じだった。
澪は目を閉じたまま、弱く言った。
「黒夜、番いって……なに」
黒夜は一度息を止めてから、低い声で答えた。
「怪異の“帰る場所”を決める。守る相手を決める。……名と体温を、二度と捨てられない形で結ぶ」
「じゃあ、私は黒夜の……」
「そうだ」
即答だった。迷いがない。澪の胸が熱くなるのに、同時に少しだけ怖くなる。自分の薄さが、そんな重い言葉を受け止められるのか不安になる。
黒夜は澪の迷いを見抜いたように、声を落とした。
「嫌なら、やめる」
祟り神だったはずの存在が“嫌ならやめる”と言えることが、澪の心を揺らした。澪はゆっくり首を振る。
「嫌じゃない。……ただ、こわい。私がちゃんと番いになれるか、分からない」
黒夜は澪の頬に触れた。指先が熱い。優しいのに逃げ道がない。
「釣り合いなど要らん。お前は俺を生かした。それだけで十分だ」
黒夜は澪の手を取り、薬指の付け根を親指でなぞった。ひやりとした感覚が走る。痛みではない。夜の水が皮膚の内側へ染みていくような冷たさ。
黒い糸のようなものが一瞬だけ現れ、すぐに溶けた。
「それ……」
「印だ。外からは見えない。だが俺には分かる。お前がどこにいても呼べる」
澪の胸がきゅっと縮む。支配ではない。所有でもない。帰る場所が決まる、という意味での結びつきだ。
「じゃあ、私は黒夜を呼べる?」
「呼べる。名を呼べ。俺は必ず戻る」
澪は息を吐いた。誰にも必要とされないと思っていた自分が、誰かを“必ず戻らせる”鍵になれる。そんなことを経験したことがない。
澪は黒夜の胸元へ手を伸ばし、そこに触れた。黒夜がわずかに息を止める。強いはずの存在が、触れられるだけで揺れる。
「黒夜。私も、印をつけたい」
黒夜の目が細くなる。驚きと警戒と、嬉しさが混じる。
「お前、人間だぞ」
「うん。でも……夫婦って、そういうことでしょ」
澪が言うと、黒夜は小さく笑った。悔しそうに、嬉しそうに。
「……夫婦、か」
黒夜は自分の薬指に爪を立て、ほんの少しだけ血を滲ませた。澪が息を呑むと、黒夜は落ち着いた声で言う。
「怖がるな。これは誓いだ」
黒夜は澪の薬指に口づける。熱が落ちて、印が内側から灯るみたいに脈打った。
澪の視界が滲んだ。怖いのではなく、胸がいっぱいで。黒夜が澪の指を握り、低く囁く。
「契約完了だ。……澪は俺の妻だ」
澪は息を吐いて、やっと言葉にする。
「うん。黒夜は、私の夫」
黒夜の目が揺れた。誇りもあったし、安堵もあった。何より、飢えがほどける瞬間の顔があった。
その夜、澪はまた溶けた。けれど今度は、溶けることが怖くなかった。帰る場所が決まったから。
───
夫婦になってから、澪の朝は少し変わった。
会社へ行く準備をしていると、黒夜が玄関までついてくる。黒夜はまだ日中は猫の姿が多いのに、澪の靴紐を結ぶ指先に、黒い尾が絡むように寄ってくる。見上げる目は金色のまま、妙に真剣だ。
「……行くのか」
澪は笑って「行くよ」と答える。黒夜は不機嫌そうに息を吐く。けれど、澪の薬指に触れてから、ようやく渋々と引き下がる。
「無事に戻れ」
それが毎朝の挨拶になった。
職場では、少しだけ変化が起きた。挨拶が返ってくる回数が増えた。名前を呼ばれる回数が増えた。コピー機の前で誰かが「すみません」と声をかけるようになった。
澪は鏡を見ても、たいして変わっていない。髪もメイクも服も、いつも通り地味だ。ただ、目の奥に熱が残っている。夜に溶かされ、朝に抱き直される日々が、澪の輪郭を作ったのだと分かった。
帰宅すると、黒夜がいる。
玄関で黒夜は澪の指先を掴み、薬指の付け根を親指で撫でる。外からは見えない指輪の場所。
「今日も、無事か」
確認というより祈りみたいな声。
「無事だよ」
澪が答えると、黒夜は小さく息を吐いて、澪の額に触れる。口づけのように。誓いのように。
それだけで澪はまた少し溶ける。
ある日、澪は区役所の封筒を持ち帰った。婚姻届。澪が何も言わずにテーブルへ置くと、黒夜はそれを見て眉を寄せる。
「紙切れで縛るのか」
「縛るんじゃない。形にしたいだけ」
澪が静かに言うと、黒夜は黙って書類を指先で押さえた。
「……お前は欲が薄いと思っていた」
「薄いよ。今でも」
澪は正直に言った。「でも、夫婦って言ったのに、夫婦じゃないのは、ちょっと嫌」
黒夜の口元が僅かに緩む。
「……書け」
澪はペンを差し出す。黒夜は受け取り、慣れない手つきで文字を書く。人としての戸籍用の名。けれど澪は知っている。黒夜が本当に結ばれたのは紙ではなく、澪の薬指の内側だ。
提出した帰り道、澪は不意に言った。
「ねえ、黒夜」
「何だ」
「私、存在感がないの、少しはマシになったと思う?」
黒夜は即答した。
「最初から、俺にはお前しか見えていなかった」
澪は歩きながら、胸の奥が熱くなる。存在感がない女と闇の王。誰にも見られなかった人間が、最強の怪異の唯一の帰る場所になった。
そして闇の王は、守るつもりで抱いた夜に、毎朝、澪を溶かしてしまう。
澪が小さく笑うと、黒夜が不機嫌そうに言った。
「笑うな」
「笑う」
「……勝手にしろ。妻」
その言葉が、澪の輪郭を決めた。
澪は、溶けたまま、でも確かに答える。
「うん。……おかえり、夫」
黒夜は小さく息を吐いた。祟り神の誇りが、ようやく居場所を見つけたみたいに。
雨の日に拾ったのは、弱り切った猫又だった。
けれど本当に拾われたのは、澪のほうだったのかもしれない。
黒夜の声が、澪の耳元に落ちる。
「……澪。ここにいろ」
澪は溶けたまま、静かに返す。
「うん。……ここにいる」
その返事がある限り、黒夜は夜の底へ還らない。
澪もまた、誰にも見られない場所へ戻らない。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
気づけば自分の中で「怪異っぽい何か」が並び始めていて、半ばシリーズみたいな空気になってきたのですが――よく考えたら、女主人公がいなかったなと。なので今回は、存在感が薄い地味OLの三崎澪を真ん中に置いて、拾われたのか拾ったのか分からなくなる感じをやってみました。
黒夜は猫又らしく強がっているのに、撫でられると溶けるし、守るつもりで前に出ては甘やかされるし、気づけば番いの契約まで自分から結んでしまう。そういう「強いはずの怪異が、たった一人の前でだけ崩れる」関係性が書きたかった部分です。
また別の怪異でも、違う味の“拾う/拾われる”ができそうなので、気が向いたら増えるかもしれません。そのときはまた、お付き合いください。




