第39話 星を読む手
翌朝、春の光が治療室の窓へ差し始める頃、カイは熱を出した。
王宮の寝室ではなく、客間に近い治療用の部屋へ運ばれた。
長椅子、湯、薬草、清潔な布。
汚れた靴を脱がせると、足は長い道中で腫れていた。
「カイ殿が熱を出しました」
侍女のミレイが告げた。
医師は熱の原因を一つに決めなかった。
雨の中を歩いた疲労、眠らずに村々を回った消耗、長い旅の緊張。
どれも重なっているのだろうという。
原因が一つなら、その一つを取り除けばよい。
だが医師が挙げたものは、どれもカイがここへ来るまでに背負ったものだった。
アステルは部屋の前を歩き回っていた。
入るべきか、医師の邪魔になるか、それさえ決められない。
治療室では、いくつもの手が休みなく動いていた。
アステルは、治療室の中で横たわるカイの手を思った。
水門を動かした手。泥を掻き出した手。
魚を運んだ手。
そして王宮で異議を述べた手。
その手を、王宮はふさわしくないと言った。
だが王宮にも、記録を書く手、病を治す手、食事を作る手、魂を読む手がある。
誰の手が見え、誰の手が記録から消えるか。
その違いを作っているのは、手の美しさではなかった。
治療室では、名のない働きが途切れず続いていた。
侍女が湯を替え、薬師が葉を量り、下働きの少年が濡れた布を運ぶ。
医師の指示だけで人が治るわけではない。
それでも記録には医師の名だけが残りやすい。
アステルは母の記録から削られた産婆を思った。
手を動かした者の名が消え、権威を持つ者の判断だけが歴史になる。
その仕組みは、星読みの塔だけにあるのではなかった。
「お加減はいかがですか」
夕方、リディアが見舞いに訪れた。
カイが眠っていると知ると、彼女は治療室へ入らず、廊下の窓辺に立った。
「王宮で、あれほど率直に異議を述べる方は多くありません」
「私の味方だから言ったのではありません」
「ええ。だからこそ、聞く価値があるのでしょう」
貴族たちは、東方へ穀物や荷車を出すことを慈善としてなら受け入れるが、
王宮の失策への償いと言えば財布を閉じるだろう、と彼女は言った。
「言葉を飾ることが正しいとは思いません」
「飾るのではありません。相手が逃げ込む場所を一つ残すのです。
名誉を保ったまま倉を開けられるなら、まず開けさせる。
その後で、なぜ閉じていたかを記録すればいい」
アステルには容易に受け入れられなかった。
だが正しい言葉を正面から投げ、届かなければ相手のせいにするだけでは、
村へ麦は運ばれない。
リディアはその不完全な橋を架けようとしていた。
「あなたは、私のやり方では王宮を動かせないと思っているのですか」
問いは鋭くなったが、勝敗を確かめるためではなかった。
リディアはすぐに答えなかった。
「わたくしなら、別の動かし方ができると思っています」
「私の言葉を弱めるのですか」
「いいえ。強い言葉を、相手が逃げずに聞ける場所まで運ぶのです」
それは屈服でも、補佐官になるという申し出でもなかった。
リディアは自分の立場を捨てず、別の方向から王宮を動かそうとしていた。
アステルはすぐには全面的に信じず、リディアもそれを求めなかった。
「わたくしなら、きっと言えません。ですが、言ったあとに何が起きるかは考えられます」
「王宮にいた方が安全です」と言いかけて、アステルは口を閉じた。
誰にとっての安全か。熱が下がらない今は旅に出せない。
だが回復したあとまで留めれば、保護は拘束へ変わる。
リディアが貴族家へ穀物や荷車を出すよう頼むため帰ったあと、
アステルは治療室へ入った。
やがてカイが目を覚ました。
「ここ、どこですか」
「王宮」
「最悪だ」
弱い声に、アステルは思わず笑った。
だが、笑いだけでは終えなかった。
「村へ戻りたいですか」
「戻ります」
「熱が下がってからです」
「熱が下がっても、再儀式が終わるまで留めるつもりですか」
「神殿は、再儀式まで王都に留めたいと考えています」
「殿下もですか」
アステルは、すぐには答えられなかった。
「俺は帰りたいです」
カイの熱に潤んだ目は、それでも迷っていなかった。
アステルは、彼を王宮へ置いておきたいと思った。
近くにいれば、彼の言葉を聞ける。
自分が誤ったとき、止めてもらえる。
だが、それはカイを一人の人間ではなく、
自分を正すための道具にすることでもあった。
「今夜は医師の判断で休んでください。
熱が下がったあと、神殿が再儀式を理由にあなたを留めることは認めません。
帰路の安全と馬車も用意します」
「熱が下がれば、帰れるんですね」
「あなたが帰ると決めたなら」
報告書の数字は、改善と呼ぶには小さかった。
アステルは成果だけを抜き出した発表を許さなかった。
届いたものと届かなかったものを同じ紙面に置かせた。
成功だけを記せば、次の命令はまた完全に届いたことになる。
カイが運んだ泥は、王宮の失敗を汚れとして隠すためではなく、
何が足りないか測る印になり始めていた。
翌朝届いた東方の報告は、カイの諫言後に出した修正命令への返答ではなかった。
それ以前に発送されたもので、穀物庫が二つ開き、
井戸掘りの道具が三組運ばれた一方、支援の届かない村も残ると記されていた。
水路修復班は、三日遅れで現地へ着いた。
改善と呼べる数字はあった。
それでも、食糧も道具も届かない村は残っている。
カイが王都で倒れているあいだにも、東方では次の報告がまだ街道の途中にあった。




