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星の進路  作者: 春凪とおる
第4章 星の進路が曲がる

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第37話 命令が届く前に

報告書を開くと、乾ききらない泥が卓上へ細く落ちた。

紙の端には、何度も折り直した跡がある。

書記は汚れを拭おうとしたが、アステルは止めた。


泥まで取り除けば、東方から届いたものが、

初めから王宮の机にふさわしい清潔な文書だったように見えてしまう。

窓の外では春雨が石畳を洗っている。

しかし東方では、その雨が水路を壊し、冠水した畑へ人を入れなくしていた。


春へ移っても雨は止みきらなかった。

嵐の後の長雨で水路の一部が崩れ、低地の麦畑は冠水していた。


葉は黄ばみ、根は泥の中で弱り始めている。

街道も数か所で崩れ、荷車が通れないという。


報告書には、排水を急ぐ村、食糧を求める村、

種麦を失った村の名が並んでいた。


だが、限られた人手と資材をどこへ先に送るべきか、

現地だけでは決められなかった。


王宮の政務会議で、マグナス、農務官、軍務官が、

東方へ送る救援の順番を決めることになった。

地図には、崩れた水路、通れない街道、開けられない備蓄倉が街道沿いに記されていた。


「水路の修復を先にすれば、麦を残せる畑があります」

農務官が言った。


「ですが、街道を直さなければ、資材も食糧も運べません」

軍務官が返した。


人足を水路へ送れば街道が遅れる。

街道を優先すれば、排水を待つ畑が水の下で傷んでいく。


マグナスは、復旧に必要な日数を尋ねた。

水路は最短で三日。雨が続けば五日。

街道は崩れた場所によって、それ以上かかるという。


会議にいる全員が数字を持っていたが、確実な数字は一つもなかった。

アステルは、決めないこともまた決定になると悟った。

すべてを救えるだけの人手も、荷車も、時間もなかった。


食糧の保管場所について問うと、軍務官は街道沿いの倉を挙げた。

しかし倉の一つは屋根が傷み、別の一つは領主の印がなければ開けられない。

種麦の量も、家畜を移す柵の数も足りなかった。


「水路を直せという命令だけが届いても、人手も道具もなければ動けません」


アステルが言うと、室内が静まった。

命令は一枚の紙で走る。

救済には荷車、人手、乾いた道、鍵を持つ者が要る。


「ならば同じ文書へ書きます。どの水路を直すかだけでなく、

 誰が人足を集め、誰が道具を渡し、誰が穀物庫を開けるのかまで」


書記の筆が止まった。そこまで定めれば発令が遅れる。

それでも、救済を付記に追いやれば、現地では付記から省かれる。


アステルは窓を流れる春の雨を見た。

水路を直せと書くのは簡単だった。

だが、水の下にある麦畑には、それを育てた手と、

次の冬を待つ家族がいる。


現地裁量を認める一文には、強い反対が出た。

村ごとに人足や資材の送り先を変えれば、統制が崩れる。

だがアステルは、王宮に届いた地図ですら、

村ごとの水位を同じ色では塗れないと指摘した。


「変更を罪にすれば、現地の者は畑を見ず、

 紙だけを守ります。変更した理由を残してください」


水路を先にした理由も、街道を先にした理由も、後から確かめられるようにする。

正しさを先に決めず、誰が何を見て判断したかを消さない。

それは前日の神殿会議で選んだ記録の方法と、思いがけず同じだった。


会議は、崩れた街道の最低限の補修と、

冠水した低地の排水を同時に進める方針へまとまった。

王都からは橋材、道具、保存食、種麦を送り、

橋の手前までは荷車、その先は人足と小車で運ぶ。


現地責任者には、地図と実際の水位が異なる場合、

送り先を変更し、その理由を記録する権限を認めた。

それでも、命令の速度に人手と資材が追いつく保証はなかった。


アステルは、すべてを確かめてからでは間に合わない

というマグナスの言葉を聞き、自分も、何を先に救うか決める側へ入ると知った。


署名欄の前で、アステルの手は一度止まった。

女王候補の印は命令を重くする。

だが印を押さなければ、自分だけが責任の外へ立つことになる。

マグナスは急かさなかった。


「署名すれば、救援の順番を決めた責任も、届かなかった責任も問われます」

「署名しなくても、決定の場にいた事実は消えません」


アステルは答えた。

彼女は報告書の余白に、次の報告期限を書き加えた。


修復した水路の長さだけでなく、通れるようになった道、

開いた穀物庫、渡した食糧と種麦を報告すること。

失敗を隠さないための欄も設けた。


共同承認の文書へ、マグナス、農務、軍務の印が続いた。

最後にアステルも、東方を見た者として、

そして決定に加わった女王候補として署名した。


使者は小さな布袋を置いていった。

中には泥のついた麦粒が十数粒入っていた。

芽を出せる種なのか、もう蒔けない粒なのか、王宮では判別できないようだ。


アステルは袋を掌に載せた。軽かった。

こんな軽いもののために、人は一年働き、冬を越し、次の春を待つ。

王宮で決める救援の順番は、その時間を残せるかどうかまで左右する。


会議が終わっても、彼女はすぐ席を立てなかった。

窓の雨筋の向こうに、見たことのない村の煙を想像した。




その夜、署名済みの命令書が複写されるあいだ、アステルは政務室に残った。

書記たちは、水路修復、街道補修、食糧輸送、種麦配布の宛先ごとに封を分けていく。


どれか一通が遅れれば、決定全体の意味が変わる。

マグナスは、記録を増やしても荷車は速くならないと言った。


「分かっています。でも遅れが見えなければ、次も同じ順番で送られます」


窓の外で雨が弱まり、軒から落ちる雫の間隔が広がった。

東方の空も同じように明るくなる保証はない。


署名を終えたアステルの指にはインクがついていた。

泥でも雨水でもない。その清潔さが、彼女には耐えがたかった。


命令だけが届き、人手や食糧が遅れた時、誰が責任を負うのか。

答えは署名の下には書かれていなかった。




出発前、使者の一人が、現地で命令に従えない時はどうすればよいかと尋ねた。

アステルは、勝手に破棄せよとも、必ず従えとも言えなかった。


「見たものと、選んだことと、その結果を戻してください。

 王宮の文面が現地に合わなかったなら、それも書いてください」


使者は不安そうに礼をした。

責任を記録するという言葉は、責任を現地へ押しつける脅しにも聞こえる。


アステルは命令書へ、最終責任は共同承認者が負うと追記させた。

現地で判断した者だけを罰して終わらせないためだった。




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