第1話 第百一代女王候補
夜明け前の王宮は、石の匂いがした。
ヴェルタ王国の王宮は、白灰色の石でできている。
百代の女王が歩いた回廊は朝の冷えを深く吸いこみ、靴音を低く返した。
壁には歴代女王の名が刻まれていた。
初代から第百代まで。名の列は、まだ薄闇の中で眠っている。
その前を、アステル・デ・ヴェルタは一人で歩いていた。
十八になったばかりの身体は、王宮で育てられた者らしく整っている。
背筋は自然に伸び、歩幅は乱れず、袖口の揺れさえ礼法の範囲に収まっていた。
女王候補にふさわしい、と誰もが言う。
ふさわしい。
その言葉は、幼い頃からアステルの肩に置かれていた。
絹のように軽く、王冠のように重い。
稽古場では、すでに炉に火が入っていた。
石造りの広間の中央に薄く砂がまかれ、壁際には木剣と真剣が並んでいる。
騎士団長ガラードが片膝をついた。
「お早うございます、殿下」
「お早う、ガラード。今日は遅れなかったでしょう」
「アスターに限って、そのような心配はしておりません」
その呼び名に、アステルは少しだけ息をしやすくなった。
アスター。近しい者だけが使う愛称。
王宮の大広間では許されない名。
けれどガラードは、剣を教える時だけ、時折そう呼んだ。
王冠を被る前の、ひとりの子どもを覚えているように。
木剣を取る。掌に馴染んだ重みがある。
朝は剣ではじまる。
女王は戦場に立たずとも、剣を知らねばならない。
痛みを知らぬ者に、兵の命は預けられない。そう教えられてきた。
打ち込みは淡々と続いた。
木と木がぶつかる乾いた音。炉の火が弾ける音。
冷えた空気が喉を通り、身体の奥から熱が上がる。
「迷われましたな」
「次は迷いません」
「その答えは、迷った者のものです」
アステルは息を整えた。汗がこめかみを伝う。
「昨日、神殿から使者が来ました」
「星読みの儀のことでございますか」
「ええ」
ガラードは木剣を下ろさなかった。
「いよいよですな」
いよいよ。それもまた、最近よく聞く言葉だった。
第百一代女王候補。
アステルの名の前には、いつもその数が置かれる。
百代続いた玉座の、次に立つ者。
百は完成の数であり、百一は新しい環の始まりであると神官たちは言う。
環の始まり。
そう呼ばれるたび、アステルは足元に見えない円を描かれていく気がした。
踏み出すための円ではない。踏み外させないための円だった。
湯で身を清める頃には、窓の外が明るくなっていた。
中庭の霜が銀色に光り、噴水の縁には薄い氷が張っている。
侍女長ミレイが淡い青の朝服を用意していた。
胸元には小さな星の刺繍。袖口には銀糸の蔓草。
「本日は、朝食の後に歴史講義、続いて政務院で租税記録の閲覧。
午後は神殿長との面会でございます」
「その後は?」
「儀礼用の歩法の確認と、晩餐でございます。北方使節がお見えになりますので」
「自由な時間は」
ミレイの手が一瞬止まった。
「星読みの儀が終わりましたら、少しは」
鏡の中の自分は、よく整えられていた。
欠けているものなど、どこにも見えない。
それなのに息を吸うたび、胸の奥で何かが薄く軋んだ。
朝食には、焼きたての白パンが出た。
王宮のパンは白い。雪のように白く、指で割ると湯気が立つ。
バターは黄色く、蜂蜜は琥珀色で、梨の煮たものには香辛料の甘い匂いがした。
一口ずつ、王女の礼儀でしとやかに食べていると、教育係のユーリス卿が向かいで言った。
「今年の南部の麦は、実りがよかったそうです」
「税の報告で読みました」
「では、南部第三管区の収穫量は」
「平年比で一割二分増。雨期が短く、病も少なかったためです。
ただし東方辺境の一部では、水路と橋の修繕が遅れています」
「よろしい」
ユーリス卿は満足げに頷いた。
アステルは白パンを見た。
数字は知っている。
地図も覚えている。
どの管区で麦が採れ、どの街道が冬に閉ざされるかも言える。
けれど、その麦を刈る手のひらの硬さを知らない。
水路が詰まった村で、誰が夜中に土を運ぶのか知らない。
王宮の厨房に届く白い粉が、どんな音を立てて石臼に落ちるのかも知らない。
「殿下?」
「いえ。続けてください」
朝食後に向かった政務院では、国が数字と封蝋の姿をして積み上がっていた。
インク、蝋、乾いた革、冬の外套についた湿り気。
アステルが入ると、羽根ペンの音が一瞬止まる。
「東方辺境の遅れは?」
「冬の道が崩れたためです。荷車が二台、泥にはまりまして。
加えて、星雨の夜に橋が傷んだとの報告が」
「修繕費は?」
「申請は出ておりますが、審査中です」
「審査中とは、どのくらい」
「三か月ほど」
三か月。
地図の上なら、東方辺境は王都から指三本ほどの距離でしかない。
けれどそこには、壊れた橋を待つ村がある。
その村の顔は浮かばない。
ただ、朝食の白パンだけが妙にはっきりと思い出された。
午後、神殿長オルフェとの面会は、星見の塔へ続く小礼拝堂で行われた。
香の煙が青白く揺れ、祭壇の奥には初代女王が星を受けたとされる天盤が掲げられている。
「三日後、月の欠けが最も細くなります。その夜、塔の天窓が開かれます」
「はい」
「恐れておいでですか」
アステルは少し黙った。
「恐れている、というより。待たれていることに、疲れているのかもしれません」
言ってから、自分で驚いた。
オルフェは咎めなかった。
「百代は長い。けれど、星にとっては瞬きほどです」
「人にとっては?」
「長すぎる時もあるでしょう」
アステルは天盤を見た。
子どもの頃は、星を見るのが好きだった。
あの光のどれかが自分を見つけるのだと信じていた。
いつからだろう。
星を見るたび、選ばれることより、逃げ場のなさを思うようになったのは。
「私のかたわれは、どこにいるのでしょう。
王都の誰かでしょうか。神殿の者か、騎士団の誰かか」
「多くはそう望みます」
「望む?」
「星が示すものと、人が望むものは、同じとは限りません」
オルフェの声は静かだった。
「星は身分を読みません。星が読むのは進路です」
その夜、アステルは自室の窓を開けた。
冬の夜気が肌を刺す。王都の灯りの向こう、空には星があった。
知らないものを、どう愛せばいいのだろう。
教師たちは民を知れと言う。
神官たちは民を愛せと言う。
政務官たちは民のために決断せよと言う。
けれど、顔のない誰かのために決断することを、正しさだけで続けられるのだろうか。
三日後、星読みの儀が始まる。
その夜、アステルは黒石の塔の扉に手をかけた。
背後には百代の名が並んでいる。
まだ王冠はない。
けれど王冠の影は、すでに額に触れていた。
鐘が三度鳴る。
アステルは振り返らず、星見の塔の扉を押した。




