00
人類が築き上げたデジタル文明は、情報の真偽を物理的に担保する手段を失い、音もなく崩壊した。
その引き金となったのは、単一の量子コンピュータの完成ではない。複数の技術的特異点が合流した結果だった。生成AIによる暗号解析の確率論的突破。自律型脆弱性合成スウォームによる世界規模のバックドア展開。そして、個人の実存を寸分違わず模倣するディープフェイク技術の完成。
デジタル署名も、生体認証も、オンライン上の預金残高も。
すべてがAIによって捏造可能となったとき、社会を支えていた「デジタル信用」は跡形もなく蒸発した。
それは後に、量子ショックと呼ばれるようになる。
After Shock 一〇年代。
情報というものが無意味であり、その価値が失われたと誰もが共通認識してしまった世界。人々が唯一縋ることができたのは「熱」だった。
実体のない数字に過ぎなくなった通貨に代わり、高密度なフッ化物イオン電池が価値の基準となるエネルギー本位制が提唱されるようになった。
A.S.二〇年代。
銀行という情報の仲介者を介さず、デバイス同士を直接接触させてジュール(J)を移動させるDPT――直接電力移譲が一般化する。
改ざん不可能な物理的エネルギーの移動。それこそが、この地上に残された唯一の信用の証明となった。
A.S.五〇年代。
ハフニウム・セルの発明により、エネルギーは「流れるもの」から「蓄蔵される財産」へと決定的な変容を遂げた。
この転換期に、巨大な基幹エネルギー炉や発電インフラを力で接収し、送電網という名の血管を握りしめた者たちがいた。彼らはやがて、新たな支配者として君臨することになる。
彼ら領主連合は、自身の永遠の生を維持するため、世界の熱力学的収支をミリワット単位で管理するシステムを構築した。
あらゆる機器に真空封入されたエネルギー貯蔵体μセル。それは領主の持つ管理権限がなければ、ただの一滴の熱すら取り出せない「檻」として機能した。
同時に、領主連合は深刻なエネルギー資源の不足に対処するため、ある冷酷な最適化を断行する。
それが、統治される側の民衆に等しく課された設計寿命だ。
メンテナンスコストの高い老齢個体を社会から排除し、最もエネルギー生産効率の高い若年層のみを社会に循環させる。彼らの細胞は、四十歳前後で急速な自己崩壊を始めるよう、遺伝子レベルでプログラムされた。
こうして、人類は「管理者」と「資源」の二つに明確に分断された。
A.S.一一三年。
最下層都市、セクター・ラスト。
そこに生きる民衆は、自身の残り寿命をエネルギー残高として刻む寿命計のカウントダウンを唯一の現実として生きている。
最短距離の効率を追い求め、一秒が過ぎるごとに目減りしていく自身の価値に怯える、設計された消耗品として。




