彼と彼女の和解
「そうか……」
イルドはため息をついた。
彼は『ラグラン』が関わる話だと知ったとたん、リセラの話を最後まで黙って聞いてくれた。先程までとは、人が変わったように真剣な態度だった。
寝台に隣り合って座り、自分が出会った『ディオル』の話をし終わったリセラも、ふっと息をついて何気なく部屋に視線を移す。
話し込んでいるうちに、部屋からレパスは引き上げていったようだ。
熱気がしそうなほど白い獣に埋め尽くされていたせいか、部屋の中が閑散として見える。掃き出し窓は律儀なレパスの誰かが閉めてくれたようだ。
「兄は――」
イルドがとつとつと語り始める。
「確かにヴェルテラとの紛争に参加していた。神国の汚名をすすぐための戦いだからという理由で、神の寵愛を受けていた兄は引きずり出されたようなものだった」
元々、紛争の発端を作ったのはヴェルテラの貴族だった。
アルンの山へ入ろうとしたところを見つかり、神に祈る儀式を受ければ良いと言った精霊司の申し出を拒否しただけならまだしも、罵った上でその精霊司に斬りつけたのだ。
蛮族の怪しい術を受ける気はないと言って。
だから神を奉じる国アルンは報復を行なった。そんな戦いだからこそ、神の使いに好かれたラグランは戦いに狩り出されざるをえなかったのだという。
「でも神の寵愛を受けた人は戦争に行く慣習があるの? なんだか普通は大事にされそうな気がするんだけど」
ヴェルテラで、神の教えを説く神官達は従軍などしない。そう思って言えば、
「兄が庶子だったからだ」
イルドが自嘲するように笑った。
「本来、アルンでは庶子に王位継承権は与えられない。成人した後は王子ではなく臣下としての扱いになる。それは序列のせいで国を混乱させないためだ。けれど長兄の第一王子は病弱。そして同い年で庶子のラグラン兄上は健康な上、神の寵愛を受ける者だった」
そんなラグランを、第一王子よりも推す者が次第に増えていった。
国王は『序列を乱さないために』ラグランを第二王子として、称号を与えたのだという。
「曖昧だからこそ混乱が起きるのだからと、第一王子が一番上であることを示そうとしたんだ。けれどラグラン兄上を王にすることを諦められない者達が、戦功を得ればラグラン兄上の存在を他の国民も無視できなくなると、戦場へ向かわせたんだ」
ラグランを支持するのは皆、敬虔な神の信仰者だった。当時の精霊司の最長老までその中にいた。
神への信仰と国体が一つであるアルンでは、精霊司たちの意見を無視することなどできない。だから王は泣く泣くラグランを戦場へ送ったのだ。
そしてラグランは帰ってこなかった。
王がラグランを呼び戻すために、前精霊司の最長老を政略でその座から追い落とした直後に、ラグランの戦死の報が届いたのだ。
そしてある意味、そのおかげで紛争反対派の力が強まった。神の寵愛を受ける者でさえ、戦を望まない神の意に反したから死んだのだと、アルンの人々は考えたからだ。
「俺も、兄上を庇ってやれなかった。ラグラン兄上は、野心などなにもなかったんだ。むしろ俺が王に相応しい姿を見せることができたら、もし上の兄が亡くなっても俺に王位を任せればいいと皆安心して、庶子のラグラン兄上に頼ろうとは思わなかったはずなのに」
そう言ってうつむくイルドの姿に、彼の兄への敬慕が痛いほど感じられた。
「でもその頃はまだ、あなたも小さかったんだから仕方ないわ」
リセラと同じ年齢なら、ラグランが戦に加わったころイルドはまだ十三歳だ。成人していたはずのラグランの代わりにはなれない。
するとイルドは苦く笑った。
「ラグラン兄上と同じことを言う。兄上も俺が成人したら代わって貰うとわらっていた」
おもむろに立ち上がり、彼はリセラに手をさしのべた。
「先ほどまでの態度をまず詫びよう。ラグラン兄上の恩人に失礼なことをした」
アルン人らしく恩に対して礼を述べたイルドに、リセラは笑う。
「私こそラグランには何もしてあげられなかったから、いいの」
イルドは握手をしたいのだろう。そう思ってリセラは彼の手を握った。ラグランの家族ならば、きっと彼と仲良くできそうだと思いながら。
「そうか。でも兄上が少しでも穏やかな日を送れた事を感謝している」
彼は手を握ったままその場にひざまずく。礼を言うときも尊大だったイルドが膝をつくとは思わず、リセラは慌てた。
「え? そんな大したことじゃ」
「これも兄上の結ばれた縁だ。代わりにこれからは俺がお前を守ろう。約束する」
そう言ってイルドは握ったリセラの手の甲に、口づけを落とす。
「なっ!」
心構えをしていないところへ口づけを受けて、リセラは慌てて自分の手をひっこめた。イルドは訝しげに尋ねてくる。
「なんだ。これがヴェルテラの男女の流儀だと聞いたのだが」
「や、その。わかるんだけどだって、急だったから、恥ずかしくて……」
顔が熱くなりながら、リセラはしどろもどろに弁解した。
するとイルドは面白いものを見たように口元をほころばせた。
「では、次はアルンの流儀でいこうか。それでは今日の所は失礼しよう。成婚の儀はまだ七日先だというのに、深夜に済まなかった」
そう言って、イルドはあっさりとリセラの部屋から出て行った。
再び一人になったリセラは、まだ熱をもった頬を抑えながらぼんやりとしてしまった。
別に命の危機があったわけではない。
けれど寂しくて哀しくてどうしようもなかったリセラの心は、イルドの『約束する』という言葉を思い出すだけで、ひどく暖かくて、そして胸が騒ぐのだった。
※※※
一方のイルドも、部屋を出てから思わず壁に背をつけて深呼吸した。
まだ彼女の手の感触が残っている気がして、思わず右手をにぎりしめてしまう。
アルンの女性達より小さく細い手。手綱を握ったこともなさそうな柔らかさに、別な生き物に触れたみたいに、妙に心に残る。
「それにしても、兄と知己だったとは……」
これには驚かされた。と同時に、ヴェルテラ人はアルンを蛮族だと恐れていると聞いていたイルドは、あのか細い彼女がほぼ単身でアルンへ嫁いできた理由が腑に落ちた。
「あの娘は、兄に会いに来たのか」
だから自分が『ディオル』と名乗ったのを聞いて泣き出したのだ。想う相手と違ったから。
イルドは、胸の奥がつきりと痛んだ気がした。
「兄上は……」
彼女を愛していたのだろうか?
そんな疑問が心に浮かんだ彼は、もう一度右手を開き、さらにきつく握りしめる。いずれにせよ兄ラグランの恩人ならば、守らねばならない。そう自分に言い聞かせ……。
イルドは庭の先で、踏みつけられたように倒れている男を見つける。見かけない顔だが、衛兵らしい緑の上着を着ている。
「おい?」
イルドは死んでいるのだろうかと、足先でつついてみた。すると倒れていた男がゆっくりと目を開き、
「うわぁぁぁ、神のお怒りだぁぁぁ!」
叫んで走り去っていった。
一体何だろうと呆然としたイルドだったが、ふと男が倒れていた近くに、抜き身の短剣が落ちていたのを見て納得した。
なるほど。リセラを狙っていたところを、歌を聞きつけて集合したレパスの大群に踏まれたらしい。しかも相手が神の使いだったため、男は無抵抗で踏まれるしかなかったのだ。
杞憂が現実になったようだと考えながら、イルドは放置された短剣を見つめていた。