【第三十三章】 不干渉の男
ドスンと、巨体が倒れ込む大きな音が響くと共に地面が振動し、その二つが収まると一帯に静寂が広がった。
アルバートさんによって脳天を串刺しにされた怪鳥コカトリスは完全に絶命し、もはや動く気配はない。
クロンヴァールさんの言うところの石化というか、身体硬直の作用をもたらす魔法……なのか別の何かなのかは分からないがともかく、その効果は所謂『術者が死ぬことで解ける』タイプの魔法であったらしく視界に映るアルバートさんやハイクさんは自らの力で立ち上がっている。
それを認識した途端にどうにか全員が無事で終わったことに安堵する気持ちでいっぱいになり、それと同時に全身から力が抜け、座ったまま大きく息を吐いた僕の体がひっくり返った。
背中が地面にぴったりと接し、真上を見上げる所謂仰向けの状態だ。
一応の弁明をするならば気が抜け過ぎてそうなったわけでは決してなく、言ってしまえば体の自由が戻ったリズに押し倒されたからに他ならない。
「ったく、一体何度惚れ直させりゃ気が済むんだスウィート・ハート!」
両肩を押し付ける様にして僕を寝転がらせたリズはそのままぼくの上に跨り、やけにハイテンションのままその行動の意味を問うよりも先に顔を近付けてきている。
そして動けないのをいいことに……というわけではないのだろうが、それでも問答無用とばかりに僕の口に自分の口を押し付けた。
「~~~!?」
ヌルヌルとした感触が口全体に広がっていく。
キスをしているというよりは唇に吸い付かれ、歯茎や舌を舐めまわされている様な状態にゾクゾクと身震いしてくるやら屋外であり人前であることに羞恥心が沸いてくるやらで頭がこんがらがってきつつもどうにか抵抗しようと体を押し返すこと数秒。
やっとの思いでやめさせようとする意志が伝わったのか、はたまた満足したのか、リズは顔を離し体を起こした。
唾液で光る下唇を指で拭うその表情を見るに、後者だった感が否めない。
「げほっ、げほっ……ちょっとリズ、何やってんのこんな時に」
「こんな時だからこそウチの愛が留まることを知らねぇんだろうよ。鳥野郎をぶっ殺せたのは全部あんたの功績だぜマイハニー」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、僕にはサポートしか出来ないから結局倒せたのは皆の力だよ。それより、僕達もあっちに合流しよう」
体を起こすなりビシビシと上機嫌に僕の背中を叩くリズの関心をしれっと逸らしつつクロンヴァールさん達の方へ目を遣ると、ユメールさんも含め無事に立ち上がっているのが分かる。
幸いにもユメールさんが騒いでいるおかげで羞恥プレイには気付かれていないみたいだ。いや、単に見て見ぬふりをされているだけの可能性も大いにあるのだけど。
「しゃあねえ、続きは夜のベッドまでとっておくか」
何やらとんでもない発言が聞こえた気がしてならないがとにかく、ようやくリズが腹の上からどいてくれたので僕も上半身を起こすに至った。
そもそも昨夜が例外なだけであってこんな環境でベッド付きの夜を迎えることはそうそう無いとは思うのだけど……今それを口にしても聞く耳を持ってくれなさそうだからもういいか。
「僕達も合流しようか」
「あいよ」
リズに手を引かれてようやく立ち上がると、他の人達が集まっている入り口側へと歩いていく。
当然ながら既にハイクさんやアルバートさんも合流しており僕達が最後である。
「コウヘイ、エリザベス、お前達も何か問題があれば報告しろ」
戦闘を終えた現状の確認をしていたのか、傍に寄ると誰の支えもなく自力で立っているクロンヴァールさんがこちらに目を向けた。
わざわざ代わりに回収した僕のバッグを手渡してくれるアルバートさんに一言お礼を述べたところでクロンヴァールさんの遠回しに『何をのんびりしている』という叱責を孕んでいそうな雰囲気の言葉が飛ぶ。
「僕は何も問題はありません」
「ウチも特に痛いだ痒いだは無いぜ~」
「いや、おでこに血が流れた跡があるけど……それは大丈夫なの?」
頭部であるため傷その物は外から見えていないけど、ここに来た時には血の跡があったということは直前の戦いで負った怪我なのだろう。
とはいえ本人にそれが影響している様子や痛みを抱いている素振りがないので負傷の程度が分からず、こちらの態度も難しいものがある。
アイミスさんやサミュエルさんもそうだけど、刺されようが斬られようが痛がったり苦しんだりを中々してくれないので受け入れて我慢しているだけというパターンが大いにあるだけに尚更だ。
「ん? ああ、そういやそうだった。来る前に食らったやつだからすっかり忘れてたぜ。ま、そもそも掠っただけハナクソみたいな傷だしよ」
少々言葉遣いはアレだけど、表情や口調も然り、忘れているというぐらいだから少なくとも深刻な怪我ではないみたいだ。
そんなリズは『ほいっ』と謎の掛け声を発し、眼球を自身の額に向ける。
そして頭部が一瞬光を放ったかと思うと最後に血の伝った赤い跡を手首で拭き取った。
久々に生で見たため少々戸惑ってしまったけど、なるほど回復魔法か。
「これで万事オーケーだぜ」
「それならよかった。ハイクさんも側頭部に傷を負ってるみたいだからお願い出来る?」
「あー、わりぃな。そいつは無茶な相談だぜダーリンよ」
「……え? なんで?」
「このウチがヒトサマを治してやるための魔法なんざ習得するわきゃねえだろって話さ。ウチの回復魔法は体内の魔法力を変換するタイプだからよ、てめぇ専用なんだなこれが」
「えぇぇ……」
そんなパターンあるんだ。
魔法の性質にも性格って反映するんだなぁ。って、言ってる場合ではなく。
そうなると負傷に対する備えはほとんど無い一団ということになるわけで、それは中々の誤算な気がしてならない。
といってもアイミスさんやジャックと行動している時もそれは似た様なものだけど、そう考えてみると門の力があるわ中級の回復魔法を扱えるウェハスールさんがいるわというユノ一行の総合力に今更ながら感嘆するばかりである。
比較するのもどうかと思うけど、このシルクレア王国一行はそれぞれタイプが違うものの攻撃力に全振りって感じのイメージだ。
といっても少し前までは世界一の魔法使いであるセラムさんがいたのでその辺りも賄えていたのだろう。
んん? そういえばユメールさんって確か回復魔法を使えたんじゃなかったっけ?
「ったく、このアンポンタン共め、です。クリスがいなかったらどうなっていたことやらです」
どうやら僕の記憶は確かだったらしく、指摘するよりも先にユメールさんが謎のドヤ顔でハイクさんの頭に手を当てていた。
恐らくは回復を施すために必要な動作ではないと思われる頭部をガシガシと乱暴に揺さぶるという行為に露骨にイラっとした表情を浮かべるハイクさんだったが、治療してもらっている立場であるがゆえか文句を言いたそうなのを我慢してジッと待っている。
性能の差なのか、或いは傷の度合いの差なのかリズの時よりも少し時間が掛かりつつもこちらも治癒が完了したらしく、最後にハイクさんの頭を無意味にペチンとはたいて戻って来た。
案の定より一層のイラっと感を声に出して示すハイクさんだったがユメールさんは当たり前の様にどこ吹く風。
そしてこういった光景が日常茶飯事なのか他の二人も特に気にする様子もなく、一言『さて』と前置きをしてクロンヴァールさんが隣に立つ僕の方に体を向けた。
「各々良くやった、聞いていた話が事実ならばこれで面倒な化け物退治も終わりだ。とりわけコウヘイの働きは特に貢献度が高かったと言えるだろう。が、だからこそはっきりさせておかねばならんことがある。コウヘイ」
「はい?」
「何故お前だけが奴の能力の射程内にいながらにしてあれだけ自由に動き回れた?」
「僕も是非聞かせて欲しいね。あれだけの強力な能力に対して君だけが明らかに影響を受けていなかった。おかげで僕は危機的状況から救ってもらったし、姫様の言う通りあれを倒せたのは君の働きが何よりも大きかったというのも間違いない。とはいえさすがに驚きを軽く通り越す光景だったよ」
すかさずアルバートさんも乗っかってくる。
間違っても責められている感じではないけど、思い返してみるとタックルかました時に随分と目を丸くしていたっけか。
別に隠していたつもりはないのだが、こうなっては説明しておくしかあるまい。
「どうやら僕は普通よりもずっと効果耐性というのが強いみたいなんです。そのおかげではないかと」
「効果耐性……か。後天的に身に付ける、効能を上昇させるといったことは基本的に不可能だったはずだが」
「実は……」
と、こうなっては曖昧に濁すわけにもいかないのでその体質を得ることが出来た経緯を話すことに。
ありのまま偶然知り合ったドラゴンに鱗を譲り受け、それを体内に入れたことで身に付いた。というある程度詳細を省きつつも嘘偽りの無い説明だ。
幸いにも何度かドラゴンの背中に乗って登場したシーンを見られているだけあって疑われるようなことはなく。
万が一にも後々問題になったり迷惑を掛けたりするのは避けたいのでカノンや妃龍さんという個人名(個龍名?)は出さなずに話したものの特につっこまれることもなかった。
といっても妃龍というのはそもそも個人名ではないのだろうけど……ドラゴン族の長とかと自分で言っていたし、称号みたいなものなのかな。
「なるほど事情は理解した。が、そうならそうと事前に説明しておけ馬鹿者」
「すいません……普通よりもと自分で言ってはみたものの誰かと比較する様な機会がまずもってなかったですし、こういった状況に身を置くことがそもそも少ないので自分がそういう体質であることを自覚するタイミングがそうそうないもので」
「お前らしいと言えばそれまでだが、あれこれ頭を使うのがお前の役どころだろう。今後はもう少し自覚を持て」
叱責というよりは呆れた風に言って、こちらの反応を待つことなくクロンヴァールさんは体の向きを変える。
「ひとまず話はこれで終わりだ、疑問も解決したところでいい加減不この愉快な穴蔵とおさらばするとしよう」
そしてアルバートさんが回収してきた最後の鍵を僕が預かっていた分と合わせて掌に集め、鞘に収めた剣を腰に掛け直すとやっぱり返事を待たずに出口へ向かって歩いていく。
そこにアルバートさんの御意とユメールさんの元気な声だけが返り、様々な苦労と難局に見舞われたこの天界を二分する大きな洞窟を後にするに至るのだった。
〇
洞窟までの道のりや入ってからの歩いた距離や時間、そして数々の戦闘を踏まえても疲労度はそれなりという感じなのだが僕以外の皆さんは国を背負い戦うことを仕事の一つとしているだけあって小休止を挟むでもなく出口に向かって進んだ。
もっとも、本来ならば一息吐くぐらいの時間は確保するところを土地柄や長逗留すべきではないという事情を踏まえて敢えて強行軍を敢行しているだけかもしれないのだけど、声に出さないだけで素人の僕には中々に大変なものがある。
それでも本当にキツくなるまでは弱音など吐くまいと皆の後ろに続くこと十分少々、僕達は数時間ぶりに太陽の下へと戻ってきた。
最後のコカトリスのいた空間を通り過ぎ、少し進んだ先にあった分厚く頑丈な鉄扉を開いた先に広がっていたのは夕暮れ時に差し掛かろうとする空と砂埃の舞う広めの砂利道だ。
出て早々に襲撃を受けるという最悪の事態はどうやらなさそうではあるが、左右には雑草が生えている何もない原っぱがどこまでも広がっているだけというやや殺風景な景色の道は終点が見えないぐらい遠くまで続いていて本当に何もない。
見渡した感じから特に危険な雰囲気が無いことや久しく味わう新鮮な空気にホッと安堵したのも事実ながら日が暮れそうになるまでに時間を要していたのかということに驚きである。
洞窟などという閉鎖的な空間にいれば時間の感覚なんて曖昧になったとて致し方ないけど、別問題として夜になってしまっては野宿も視野に入れなければならなくなるのでそれまでに目的地に到達したいのが本音なのだが……ここまでの旅を考えると町なり村なりを見つけたとして、それで野宿の心配が無くなるかというと全くそんなことはないのが悩みの種といったところか。
それぞれの土地を治める神にとって僕達は侵略者という扱いと認識なのだ、そうなるのも無理はないし、ウィンディーネさんの時が特殊過ぎた。それは僕にでも分かる。
とはいえ、そのウィンディーネさんの話では今から向かうフォウルカスという地にいる神【時の番人クロノス】は好んで争いをする人物ではないというのに加えて中立の立場を宣言表明しているとのことだ。
バーレさんによるとその地には民も部下もおらず、神一人が暮らしているらしいのでこちらが積極的に争いをしようと思っていない以上そう危険な展開にはなるまい。
いや……結局それも話し合いでオーブを譲ってもらえなかった場合にどう転ぶか分からないんだけど。
とまあ、そんな具合で色々と不安が尽きないながらも相変わらずのリズとユメールさんのやや幼稚な言い争いやアルバートさんとハイクさんの真面目な話を横で聞きながら歩くこと大体二時間前後といったところだろうか。
ようやく僕達は目的地と思しき何かへと辿り着いた。
疲労と空腹で途方もない旅路に思えた時間も少なからずあったけど、なにぶん遮蔽物が何も無い大地であるがゆえに半ばからは目的地が目には見えていたというのがせめてもの救いだと言えるだろう。
しかし、だからといってそれで『ああよかった』という感想が出てくるかどうかは別問題だった。
その巨大な物体を前に僕達は一様に立ち止まって見上げ、ただ言葉を失う。
だだっ広い砂地の真ん中に建っていたのは、いかにも歴史的建造物といったピラミッド型の神殿と表現して相違ない石段状の建物だ。
四隅にはどこに繋がるでもない柱が立っていて、周囲一帯に他の建物は一切無く、人影も全く無い。
幅や奥行きは数十メートル、高さも軽く二十メートルはあろうかという神秘的かつ不気味な神殿にはいくつか内部に繋がっていると思われる通路の入り口らしき物は見られるが……果たして勝手に入ってしまってもいいものなのだろうか。
今までは誰かしらが迎え撃とうと自動で現れていただけに、何もないままというのはどうにも判断に困る。
「だからといってここで誰かがお出迎えにやってくるのを待っていても仕方がねえだろうよ」
「それは仰る通りです」
こればかりはハイクさんの言う通りだ。
危険は承知の上で、僕達は進まなければならない。それは今なお変わらない。
「ひとまず傍に寄ってみて、例のクロノスという名の神が姿を現わさなければ中に入ってみる。ということでよろしいですか姫様?」
「そうする他あるまい。中に入る場合は二手に分かれ片割れは外で待機だ」
クロンヴァールさんもその提案に異論はないみたいだ。
躊躇っている時間はないと、意思確認が出来たところであまりの静けさが不吉さを増長させている中で揃って神殿の方へとゆっくり足を進めていく。
柱の脇を通り過ぎて十歩程歩いた辺り、何の予告も無く不可解な現象が僕達を襲った。
まず最初に異変を知らせたのはピタリと動きを止めた前を歩くハイクさんとリズだ。
ただ歩くのをやめたのではなく、踏み出したまま固まってしまったかの様に。
「リズ? どうしたの?」
思わず後ろから問い掛けるも、反応はない。
よく見ると手や首も、呼吸に伴って動くはずの肩や背中からも一切の動きが失われている。
「…………」
何かおかしい。
そう感じて咄嗟に振り返るも、後ろを歩いていたはずのクロンヴァールさんやユメールさん、アルバートさえも全く同じ状態と化していた。
呼び掛けても、軽く肩を揺すってみても固まったままの三人の姿に一体全体どうなっているのかと、戸惑う頭で考えたところですぐに答えが見つかるはずもなく。
瞬き一つしない二人の姿に、まるで時間が止まってしまったみたいじゃないかという感想を抱いた瞬間に全てを理解した気がした。
ここにいるの神の名はクロノス。二つ名は……時の番人だ。
「ふぅ……」
冷静になれ、取り乱すな。
何度も何度も自分に言い聞かせる。
こんな時こそ僕がどうにかしなければならない、そのために来たはずだろう。
情報など皆無に等しい今、それでも推測出来ることが三つある。
恐らくはあの四方の柱が何らかの領域を形成する役割を果たしていて、そこに足を踏み入れたことで何らかの魔法や能力を発動させてしまったのであろうこと。
そして言わずもがなそれは神の能力であろうこと。
最後に、僕一人が何の影響も受けていないのはやはり身に付いた効果耐性のおかげであること。この三つだ。
魔法使いである分普通の人よりはその要素が強いというリズですら完全に固まってしまっている辺り相当強力な魔法なのだろう。
コカトリスの石化でも立っているのが困難な状態でこそあれ全く動けないとまではいかなかったというのに、神の力がそれを上回っているのだとしたら末恐ろしい話だし、そうでありながら何ら影響を受けない自分自身が与えられた力の絶対性もまた末恐ろしい話だ。
とにかくこのままでは不味い。
ならば一旦柱の外側まで運び出してみるか?
そんなことを考えついたまさにその時、背後から聞こえてきた足音がクロンヴァールさんへと伸ばし掛けた腕を止める。
迂闊に振り返ることすらも躊躇われ、意図せず固まってしまうこちらの焦る気持ちなど露知らず。
カツカツと、小さな音を響かせながらゆっくりと近付いてくる誰かは僕のすぐ後ろで立ち止まった。
考えるまでもなく相手は神。
そう思えば思う程、一つ間違えば死ぬことになりかねず安易に行動することが出来ない。
それでも黙っているわけにはいかず、このまま攻撃されてしまうよりはと様子見の一手としてまず言葉を投げ掛けることを選んでいた。
「あなたが……時の番人クロノス、ですか」
「その通り、僕がこの地の守人でありクロノスの称号を持つ神だ。さて地上の者よ、君がそうしない限りこちらも敵意を持つことはない、まずはこちらを向き給え」
どこか若さを感じさせる高めの声が返される。
言葉の通りそこに敵意や警戒心は感じさせず、普通に会話をしてくれたことに安堵の息が漏れると同時に体が半分忘れていた呼吸を再開させた。
それでも恐る恐るで振り返る。
目の前に立っていたのは見たところ二十代半ばぐらいの、整った顔立ちをした若い男性だ。
その見目と肩まで伸びたサラサラの黒髪が中世的な雰囲気を感じさながらも、ところどころに銀色の刺繍で模様を作っている丈の長いワンピース型の黒く長いローブが神秘的な雰囲気をも醸し出しているといった何とも形容し難い外見をしている。
声音や表情からは温厚さや平静さが見受けられるが……。
「そう不安がることはないよ、僕は無意味に危害を加えたりはしない。君が賢明であったならば、五体満足でこの時の神殿から出ることが出来るだろう」
クロノスという名の神……と思しき人物は特に身構えたりする様子もなく落ち着いた声といかにも無害そうな表情でそんなことを言った。
敵だとカテゴライズしないところまではまだしも向こうにとって不審者であることは否定のしようがないはずの僕にこういった態度であることにむしろ恐ろしさの片鱗を感じ取れなくもないが、話し合いが出来る相手であるならばこちらにとっては願ってもない。
「まず無断でお邪魔してしまったことに関してはお詫びします。こちらも話を聞いてもらえればと思いやって来た次第なので、そうであると助かります」
「ならば話を続けるとしよう。いくつか質問をしても構わないかな?」
「はい、何なりと」
下手に機嫌を損ねたり顰蹙を買って話をややこしくしてしまわないために言葉を選び余計なことを口走らない様に気を付けつつ、相手の出方を窺う意味でも僕はそれを受け入れる。
まずは敵意が無いことを理解してもらうのが優先事項。そして結果的に話し合いで済むのならそれが最善だ。
というか、そうしない限り僕以外の三人が無事に済まなさそうな気がするので選択肢は無いと言えば無いし。
「ではまず一つめ、君と会うのはこれが何度目のことになるのかな?」
「……はい? えーっと、まず間違いなく初対面だと思いますけど、なぜそんなことを?」
「そうだったなら失礼をしたね。何百年と生きていると顔や名前を記憶しておくのも限度というものがあるんだ。気を悪くしたのなら非礼を詫びよう」
「いえ、そこまでのことではないので全然お構いなくという感じではあるんですけど、こちらも一つ質問をしてもいいでしょうか」
「何だろう」
「失礼でなければあなたの年齢を教えてもらえないかなぁと」
「五百近く、という答えで納得してくれると助かる。正直に言って、正確な数字はもう自分でも把握していなくてね」
「普通の人間はそんな歳まで生きられないと思うんですけど……それって天界の人だからという理由になるんですか? ここに来る途中で会ったウィンディーネさんという方も三百歳とか言ってましたけど」
「まさか、生物としての寿命に天界の人間も地上の人間もない。長寿であるのは偏にこの神殿で受ける儀式によるものだ」
「……儀式?」
「そう、神とその親族は二十歳になるとここ【時の神殿】で魔術を用いた儀式を受けとある術式をその身に組み込むのが通例なんだよ。分かりやすく説明するならば僕が扱う魔法によって肉体の老化速度を常人の十分の一程度にする、というものだ」
「なるほど……それで」
と、納得してしまえる次元の話なのかどうかは相当怪しいところだが、魔法だの能力だの門だとと言われてしまえばそれまでなのがこの世界であり僕の経験則でもある。
相手が神ともなればそのぐらいは出来てしまいそうに思えるのだから自分の中の常識がどんどん壊れていく気がしてならないなぁ。
「納得してくれて何より。ではこちらの質問を続けさせてもらうよ。なぜ君は神殿に足を踏み入れてなお自由を維持しているのかな? 僕の門による結界の作用で内部の全ての時が止まっているはずなのだけど……」
……ああ、やっぱりこれも妃龍さんのおかげなんだ。
本当に凄いな、この体。
「そういう体質なんです。効果耐性の最上級とでも言えばいいのでしょうか、ほとんど魔法? の類の影響を受けない体でして」
「なるほど、地上にはそんな人間がいるんだね。では最後の質問だ」
「はい」
「君は、君達はどういった目的でここに?」
「あなたにお願いがあって来ました」
「ほう」
「楽園に進むためのオーブを譲っていただきたいんです。ここに来るまでに二つのオーブを手に入れました。僕達は何が何でも楽園に行って、天帝という人物と闘わなければいけないんです」
「まあ、地上の民が乗り込んでくる理由には察しが付く。だけど僕は誰の味方もしない、中立であることが誰よりも長い時を生きた僕の在り方なのだから」
「そういう話は聞いています。あなたは敵対もしないが協力もしないだろう、と」
「その反応を見るに、元より僕のことをある程度知っていたということになるのかな?」
「いえ……それもさっき言ったウィンディーネさんから聞いたというだけなんですけど……。あとは天界に来る前の話ですけど、知り合いに名前だけは聞いたことがあるというぐらいで」
「ふむ、地上に僕のことを知っている者などそうはいないはずだけど」
「あの、ナディア・マリアーニという女性をご存じでしょうか」
「勿論知っているとも。むしろ君があの子の名を出したことに驚きではあるが……」
「彼女が少し前に話の中で口にしていたんです。この門……名前は確か【掌中回癒】というのでしたか、あれは天界の神の一人であるクロノス様から授かった物だ、と」
「ほう、あの子がそう簡単にそれを他者に教えるようなことがあるとも思えないけど、君とはどういう関係なのかな」
「えーっと……」
説明し辛いなぁ。
言ってる場合でもないけどさ。
「一応は恋仲というか、夫婦ということになっていまして」
「そうだったのか。それは祝辞を述べるべきだね」
「いや、まあ……どうなんでしょう」
初対面の人に祝われても反応に困る。
それで警戒心や拒絶の意志が少しでも揺らいでくれるのなら望外の展開だけども。
「真偽の程を君の話だけで判断すべきではないのだろうけど、あの門の名を知っているということが半ば事実たらしめていると言ってもいいだろう」
独白の様に言って、クロノスは目を閉じ何かを考える素振りを見せる。
そして懐から既に持っている二つと同じ、ゴルフボールぐらいの大きさのある無色透明な水晶を取り出すと、躊躇無くこちらに差し出してきた。
「ご所望の物だ、持っていくといい」
「い、いいんですか?」
「どう扱うも僕の自由、それがこの聖門の宝珠が持つ性質だ。君があの子の身内であるならば、僕の所有物を譲るぐらいのことはしてあげてもいいだろう。しかし、まさか地上の民に施しを授けることになるとはね……数百年ぶりのことだよ。懐かしくもあり、昨日のことのように思い出される大事な友との良き記憶だ」
恐る恐るオーブを受け取ると、なぜかクロノスは僕から目を逸らし空を見上げる。
何か言葉が続くものだと敢えて黙ってみたが、その様子はない。
「あの……こちらの世界にご友人がいらっしゃるんですか?」
「自分でも不思議に思ったものだよ。地上の民と天界の神である僕、本来相容れない存在であるはずなのに、妙に気が合う男だった。この神殿を作るのにも協力してくれたことも含め優れた魔法の腕の持ち主でもあった。別れを告げて三百と余年……彼は元気にしているだろうか」
「いや、さすがに三百年前の人物なら生きてはいないと思いますが……」
「そうでもないさ。彼は僕の門の力で不老の肉体を得ている、少なくとも寿命で死ぬことはない」
「不老の……肉体、ですか」
「そう、不死というわけではないが肉体の成長を止める効果を持つ最上位の能力だ。僕は感謝と友情の証にその肉体と門を一つ送った。卓越した技能を持ち、一人間としても素晴らしい人格者だった。自分で言うことではないかもしれないけど、この僕と気が合う人間というのは心底珍しい」
クロノスはどこか懐かしむ様な表情で視線を遠くに向ける。
本来僕には無関係である回顧の数々……そのはずなのに、少しの引っ掛かりが曖昧なリアクションを喉元で飲み込ませた。
三百年前に存在し、かつ今においても生きていることが出来る人間。
神を以てして称賛するだけの魔法の腕を持つ人間。
そして送られた友情の証。
「その門は……どういった物だったんでしょうか」
「危険な代物である、とだけ言っておくよ。大きなリスクを伴うが、意外にも彼はそれを欲しがった。国のため、世界のため、仲間のため、残せる物があるのならと」
「…………」
ああ、やっぱりそうか。
そう結論付けた途端に数々の疑問が解けた気がして、それと同時にその偶然、その奇跡に僕の方が泣きそうになってきた。
「その門は……その門の名前はもしかして……【血の代償】というのではありませんか?」
「なぜ……君がそれを知っているのかな?」
「僕の、僕達の恩人であり師であり同志でもあったある人物が聞かせてくれたことがありました。自身の血を特殊な魔法力に変換し門をも生み出すことが出来るのだ、と。この右手の門もその方が残してくれた物なんです」
「その人物の名前を……聞かせてもらってもいいだろうか」
「エルワーズ……ノスルク」
釣られてしまってと言っていいものかどうか、感傷的になりそうなのを堪えながらその名を口にするとクロノスは目を閉じ、小さく息を漏らした。
お互いが会話の中で同じ人物を思い浮かべ、相手の言葉から同じ人物を連想している。それが僕の勘違いではなかったと証明するかの様に。
「まさか君達が彼の知り合いだったとは、巡り合わせというのは何と不可思議なことか」
「僕も、地上で待っている仲間である二人の女性も、ノスルクさんには大恩があるんです。本当に偉大な方で、色々な物を与えてもらいました。身を守る術を、方法を、手段を、知識を、意志を……あの人がいなかったらとっくに死んでいたと断言出来るぐらいに、ずっと助けてもらってきたんです」
「その口振りでは彼は……」
「はい……しばらく前に、戦争の最中のことでした」
「そうか」
クロノスはもう一度目を閉じ、悲哀の表情を浮かべる。
噛み締める様に、受け入れるために、頭の中でも過去の記憶が回顧されているのだろう。それは僕だって同じだ。
「あの人は数え切れないぐらい色々な物を残して、最後に僕達に意志を託してくれました。それこそ国や世界に、仲間や教え子達に」
「僕の知るエルワーズという男もそういう人間だった。君達の存在が彼の遺産であるのなら、少々施しを与えることへの後悔はせずに済みそうだ。宝珠は既に譲り渡した、僕は去るから神殿から出て好きにするといい。僕は時の趨勢を見守る神クロノスだ、君以外の者と顔を合わせるつもりはない。今日は彼を懐かしんで一献注ぐとしよう」
「分かりました、色々と感謝します」
「そこに見える森の中に入ってすぐの場所に小屋が一つある。じき日も暮れるだろう、必要であれば使うといい。すぐ裏には温泉もあるが、無人のこの地に用意があるのはそのぐらいのものだ。飲食物は自分達で調達してもらわなければならないし持て成すつもりもないが、寝床や風呂程度ならば見て見ぬ振りをするぐらいは構わないだろう。森に入れば小動物や果実が多少なりは取れる、川には魚もいる。良識の範囲内であれば自由にしたまえ」
「はい、何から何までありがとうございます」
「応援はしてやれないが、無事を祈っているよ。旧友の形見である地上の民達に神のご加護を」
最後ににこりと微笑んで、クロノスは背を向ける。
話は終わりだと言われているも同じなんだろうけど、それでも僕は後ろ姿に反射的に声を掛けていた。
「あの、周りで固まっている方達と少しでもお話をしてもらうことは出来ませんか? 味方をしてくれとまでは言いませんけど、聞きたいこと知りたいことがまだまだ……」
「いや、やめておこう。僕は時の番人、本来他者との関わり合いを避けるべき存在だ。これまでも、そしてこれからも、一人静かに見守ることにするよ……絶えず流れ続け、そして繰り返される時の因果を」
こちらの台詞を遮る様にそう言って、クロノスはそのまま離れていく。
そして神殿内部へ繋がっていると思われる空洞の手前で足を止めると、そのまま姿を消してしまった。
「天帝を討ちたければ、まずは彼が生み出した七つの分身を倒すことだ」
最後に、そんな言葉を残して。