【第十四章】 出発の朝
目が覚めたのは、枕元で呼び掛ける声と体を揺すられている感覚を認識したのと同時のことだった。
どうにも眠り足りない感じが否めないながらもどうにか片目を開くと、視界にはベッドの傍らに屈んでいるイザベラさんだけが映っている。
僕が起きたのを確認するなり微笑と共に朝の挨拶を口にするこの家の侍女さんは今日も今日とてきっちりとした身なりで何だか非の打ち所のないメイドさんという感じだ。
昨日の朝やサントゥアリオ城での生活がそうだったように、客として寝泊まりをしている身である場合基本的に侍女さんが無断で部屋に入ってくることはない。
それゆえに朝起こしに来てくれる時もノックと扉越しの呼び掛けというのが定法なのだが、グランフェルトの城で寝泊まりしている時がそうである様に、仕えている相手であったり専属の侍女がいる場合にはこうして部屋にまで起こしに来てくれる。
そういう理屈を頭では理解しているけど、日によって変わるせいであんまり慣れられてはいないのが率直なところだ。
「ん……おはようございます、イザベラさん」
「おはようございます旦那様。あら、お嬢様ったらなんて格好を」
あんまり寝相がよろしくないのか、掛布団を独占して僕とは反対側の隅っこで丸まっているリズを起こそうとするイザベラさんだったが、同じく体を揺すられ寝がえりを打ったために半分露わになったその姿に驚きの声を漏らした。
そういえばほぼ素っ裸だったね……そのせいで僕が若干寝不足なんだよそもそも。
「すいません、服を着るようにと注意はしたんですけど……」
「あらあら、お二人共お若いだけのことはありますわね」
「いや、ご想像している様なことは何もなかったですよ?」
「そうなのですか? お嬢様があれだけウキウキしていらしたのでてっきり」
「今日からのことを考えると、やっぱりそういう場合ではないかと説得しました」
「そうだったのですか。てっきり盛り上がっているものだとばかり……とは言っても、旦那様の言い分もごもっともではありますが」
「こういう関係になってはしまいましたけど、やっぱり出会って間もない女性と……というのは倫理的にいかがなものかという話ですしね。この先どうなるにせよ、もう少しお互いを知る時間が必要だと思いますから」
「なんとまあ、誠実さもここまでくると聖人君子ではないかと恐縮してしまいますわ」
「誠実さというよりは自分の中の道徳観の問題な気もしますが……」
「それで少々寝不足のご様子なのですね」
「ええ……理性と戦ったり我慢したからというわけではないのですけど、さすがにこんな格好で横にいられると中々寝付けずという具合で」
「奔放なお嬢様にはお互い頭が痛いですわね。わたくしとしましては旦那様と共にお過ごしになる時間がきっと大人に変えてくださると信じておりますけど。ああ、大人になるというのは破瓜を比喩しているわけではありませんのであしからず」
「……笑えないのでそういう下ネタはやめてもらえませんかね」
「うふふ、場を和ます話術もメイドの嗜みというものですわ」
さあ、お食事に致しましょう。
そう言って壁際のチェストの上に置いてあるリズ本人が昨日のうちに用意していた今日着るための衣服を手に取ると、イザベラさんは少し強めに肩を揺すって今度こそリズを起こした。
勝手なイメージだけど、つい一昨日まで送っていたと思われる本人の言うところの酒に溺れていた日々から察するに規則正しい生活とは程遠い毎日を過ごしていたことだろう。
それが関係しているのかどうかも、何だったらその印象が事実がどうかも分からないが、そんなリズは早寝早起きに体が順応していないのかものすごーく不機嫌そうな声で起床の声を漏らすなり悪態を吐きつつ重い動作で上半身を起こした。
眠たいのは僕も同じなので気持ちは分からないでもないけど、年頃の女の子が『うるっせえなクソッタレ』というのはいただけないよ?
思いつつ、半裸どころか五分の四裸のリズが起き上がったためそっちを見てしまわない様に僕も背を向け、昨日貰ったファーっぽい襟の黒い戦装束へと着替えることに。
これ一着しかないので洗濯しなかったんだけど……そもそも二、三時間しか着ていないからまあ大丈夫だろう。
「先に下に行ってますね」
「ええ、お嬢様に服を着せたらすぐに参りますので」
まだ寝惚け気味のリズと背中越しながら一応の挨拶を交わすと、先に着替えが終わった僕はそそくさと部屋を出る。
そして顔を洗い二人が下りてくるのを待って三人で朝食のパンとスープをいただき、イザベラさんは外に洗濯に、リズはソファーでくつろぎ鼻歌を鳴らしながら、そして僕はその横で不安と緊張に負けてなるかと精一杯自分に言い聞かせ、考えを巡らし、色んなことを頭でシミュレートしながら迎えの兵がやってくるまでの時間を過ごした。
〇
「行ってらっしゃいませ。どうかご無事で」
と、門の外まで見送りに来てくれたイザベラさんに別れを告げると、僕とリズに加え迎えに来てくれた若い兵士の三人でシルクレア本城を目指して歩く。
大通りや商店区域、一般居住区から外れた位置にある屋敷だとはいえここから城に向かうだけのことに案内は必要ない気がするが、リズの性格や態度など諸々を考えると『放っておいたらどうなるか分からない』と思われても無理はない。
あとはまあ、それだけその存在が重要視されていることの証明でもあるのだろう。
「あ~、めんどくせ」
案の定、隣を歩くリズは既にやる気がなさそうである。
曰く『喧嘩は好き』だが『働くのは性に合わん』という単純で分かりやすいテンションみたいだけど、今この場においてはそれよりも徒歩での移動が気に食わないという意味合いが大部分を占めていそうだ。
これに関しては昨日の帰り際に馬車を送ると言われたものの、なんだか仰々しい気がして遠慮してしまった僕の責任と言えよう。
相変わらずへその出た短い丈と袖のシャツに後ろから見るとミニスカートを履いているいるみたいに見える腰布と一体化したホットパンツという拘りの格好であったが、昨日や一昨日の上下で白と黒の組み合わせではなく今日は両方を黒で統一している。
そして一番の違いはというと、肩から斜めに付けているやや太めの白いベルトだ。
背中の部分がホルダー状になっていて、そこには何か黒く棒状で金属製の何かが収められている。
ただの棒というわけではなく所々がぐにゃぐにゃと曲がっている歪な弧の形の、例えるなら弦の張っていない弓みたいな形状だ。
両先端にダイヤみたいな透明の宝石が埋め込まれているが……これがリズの言う武器なのだとしたら一体どの様に使う物なのだろう。まさか打撃用ってわけじゃないと思うけど。
「ねえリズ」
「おー?」
「その背中のって昨日言ってた武器だよね?」
「そうだぜ~」
よっ、と。
背中から金属棒を抜くと、リズはそれを僕に差し出した。
受け取ってみると見た目程の重量感はなく、金属であることは間違いなさそうだが片手でも軽々振り回せそうな感じだ。
「これはどう使う物なの? やっぱり殴り付ける用?」
「勿論そういう使い方もすっけど、これはウチの杖さ。魔法を使うためのな」
「……魔法の、杖?」
「ああ、おかしな形してると思うだろ? でも色々試した結果、これが一番しっくりきたんだなこれが。普通に先っぽ持って振り回しても使えるが、こうしてまんま弓を構える様に使うのさ」
差し出された手に本人の言う杖を返すとリズは中心付近を握って縦に構え、もう一方の何も持っていない拳を顔の横に持ち上げた。
その格好全てがさながら矢を放とうとする体勢そのものだ。
「弓を撃つイメージで魔法を使うってこと?」
「おうよ。このスタイルが一番自分のイメージを強く幅広く具現化出来んだ。ただ火を出す風を起こすってんじゃなくどんな応用でも効くし、威力も倍増、組み合わせや使い方も自由自在だぜ?」
「へ~、そう言えば初めて会った夜に僕を殺そうとした時も、杖は持ってなかったけどそういうフォームだったもんね」
「おいおい、そいつは酷い意趣返しだぜダーリンよぉ。ウチが自分の旦那を殺そうとするわけねーだろ? ありゃ酔いどれのほんのお戯れさ」
「そうかなぁ……」
別に意趣返しというわけではなくちょっとからかってみただけなのだけど、実際は割と洒落にならないレベルの大爆発が起きていたからね?
何なら直前の台詞からして周りの建物ごと吹き飛ばそうとしていた風だったけどね?
なんてツッコみたいこと山の如しではあるが、がっくりと肩を落とすリズが反省しているのならしつこく言うこともなかろうとそれ以上は言わなかった。
そうしてあれこれと中身のある話ない話をしながらしばらく首府の中心を歩き、やがて巨大な城へと到着。
門を潜り、中庭を渡り、城内へと続く扉を通って集合場所であるらしい玉座の間へ向かって足を進めていく。
どうでもいい話だけど、門番やすれ違う兵士達の僕を見る時とリズを見た時の反応の違いときたらもう……いかにリズが傍若無人と畏れられているのかを言葉無くして理解させられるな。
「なあおい、もう御姫達は集まってんのか?」
階段を上る途中、前を歩く案内の兵士の背にリズが問い掛ける。
集合場所としか聞いていない僕達は確かに誰が集まるのかも、何をするのかも把握出来ていない。
「いえ、招集を命じられた方々は既に待機しておりますが陛下は準備が整い次第向かうとのことで」
「ほーん」
方々、ということはある程度人数がいるということになるのか?
僕達二人とハイクさん、他には誰だろう。
なんてことを考えながら二人に続いて廊下を歩く足が人知れず、不意に驚きを理由に止まった。
理由は単純。
突然進行方向の突き当り付近から壁を貫通する様にいきなり人影が現れたからだ。
完全に宙に浮いた状態で壁を通過してきたのはえんじ色のワンピースを着た優しく温厚そうな二十代と思しき女性の姿。
それすなわち、クロンヴァールさんの今は亡き姉ミルキアさんである。
ああいった場面を目にしたのは二度目なのだが、当然かつ必然的にびっくりし過ぎて心臓が飛び出そうになった。
やっぱり心臓に悪いよそれ……とか心で文句を言いながらも思わず立ち止まりただジーっとその様を見つめている間にあちらも僕に気付いたらしく『おはよー♪』とか言いながら手を振ってこちらに近付いて来る。
その声は僕にしか聞こえないためここで返事をしてしまうとどう考えても不自然な光景が出来上がってしまうので会釈を返すことしか出来ない。
そんな僕を見て初めてその理屈に気付いたのかミルキアさんは『あ、そうだった』みたいなリアクションを見せたのち、立ち止まって……というか浮き止まってひょいひょいっと手招きをして門の向こうへと消えて行ってしまった。
「すいません、ちょっと先に言ってて貰えますか? すぐに追い掛けますので」
「お? どしたよダーリン」
「ちょっと知り合いを見掛けたから挨拶しておきたくて。ほんとすぐに行くから」
「あいよ~」
前を歩いていたからか特に怪しむ様子のないリズの了承を得て、僕は慌ててミルキアさんが消えた方へ小走りで駆けていく。
どこに行ったのだろうかとか、あんまり時間が無いんだけど、とかといった心配も杞憂に終わり、ミルキアさんはすぐ目の前の門を曲がった所で相変わらず宙に浮いたまま僕を待っていた。
周囲に人影が無いことを確認してようやくちゃんとした挨拶を返してみる。
「おはようございますミルキアさん」
そう言われたからこちらもおはようと口にしてみたものの、そもそも幽霊って寝るのだろうか?
失礼な気がしてとてもじゃないが直接確認してみようとは思えないけども。
「おはよーコウヘイちゃん。まさか他の家に行っちゃうなんて思ってなかったよ~、ずっとここで過ごしてくれたらいいのにさ。お姉さん寂しいぞ~」
「すいません、諸事情が色々とありすぎた結果そうなってしまいまして……」
「素直だなぁコウヘイちゃんは、わがまま言うつもりじゃないから困った顔しないでよ。今後もこうして城には顔を出すだろうし、見掛けたら話し相手をしてね」
「ええ、そのぐらいなら全然」
「それから、次からはあんな風におっかなビックリな反応しちゃダメだからね? 私だって顔を見て驚かれたら少しはショックなんだから。あと他の人が見たら変な子だって思われちゃうしさ」
「慣れれば大丈夫だと信じたいところですけど、壁の向こうから出てこられるとさすがに平然としているのも難しいものがありまして……」
「あはは、それもそっか」
「というか、物質には触れられると仰っていましたよね? でも壁はすり抜けちゃうんですか?」
「触れようという意思を持って接触すれば触れることも出来るよ? 持ち上げたり移動させるのは軽い物じゃないと全然無理なんだけど」
「へぇ~……」
「手に握り込めるぐらいの物だったら周りから見えなくすることも出来るんだよ?
ほら、と。
ミルキアさんは脇に置いてあるフラワースタンドの上に乗っている花瓶の花から花びらを一枚ちぎって右手で握り込んだ。
要するに人には姿が見えない存在であるがゆえに、その見えない体で包み込むことでその物質や物体も同じく人からは見えなくなってしまう、ということなのだろう。
言っている意味は何となく理解したけれど、同時にこの人はやっぱり若干抜けているんだなぁということも理解した。
「仰る理屈は分かりますけど、ほらと言われてもミルキアさんが見えている僕にはミルキアさんの手が見えているだけですけどね」
「あ、そっか。うっかり♪」
テヘっと、舌を出して笑う姿は何だか愛嬌の塊だった。
他人に好かれる人間というのはこういう人のことを言うんだろうな、という感想しかない。
「要するに花びらを指で掴んでいるだけなら他の人には花びらが浮いている様に見えて、そういう風に手で包んでしまえば丸ごと見えなくなってしまう、ということですよね?」
「そう、それが言いたかったの!」
「何と言いますか、幽霊というのは不思議なものですね」
「私自身がそう思ってるからね~。でもそのおかげでコウヘイちゃんの手助けが出来たと思うと幽霊も捨てたものじゃないと思わない?」
「手助けというと?」
「ありゃ? もしかしてまだ気付いてなかった?」
「えっと……」
「ほら、ベルちゃんを助けてくれた時にさ、何かあの不気味な喋るネックレスと相談してたでしょ? 牢の鍵がないとどうしようもないって」
……
…………
………………
……………………
…………………………
………………………………は?
「あれってミルキアさんが開けてくれたんですか!?」
無意識に大声が出ていた。
この国に来て以来、色々ととんでもない経験が続いたけどその中でもダントツで一番の衝撃だった。
「そだよ~。こっそり聞いてたらそんな会話が聞こえたからさ、慌てて拝借に行ったんだもん」
「……ミルキアさんと出会って以来最大の驚きが今ここにという感じですよ。ずーっと謎だったんですから」
牢を脱出し、ベルトリー王子を脱獄させてくれという無理難題を押し付けられたあの日。
予定していた時間が近づいた頃に初めて自分が入っている牢を抜け出す方法がないことに気付くという大問題が発生した。
ミルキアさんの言う様にジャックとどうしたものかと相談……というか、むしろどうしようもないと結論を出すところまでいってしまったのだが、そんな中で独りでに鍵が開いたのだ。
僕は当初依頼者であるAJが何かしらの仕込みをしてくれていたのだとばかり思っていた。
だが、別れ際に受け取った彼からの手紙に記されていた二つの文章にその推察は否定される。
『鍵の事をすっかり忘れていた』と。
『自力でどうにかしてくれて助かった』と。
結局は謎が謎のまま終わったものの、考えても分かりっこないし済んだことだと考えるのをやめてそのままになっていた。
その謎が今、この瞬間に明かされようとは……。
「へへ~、驚いた?」
「それはもう、とてつもなく。しかし……ミルキアさんは勝手に拝借するのがお好きなんですね」
「ぶ~、そういうこと言う? コウヘイちゃんのいじわる」
「はは、冗談ですよ。僕だけじゃどうにもならなかったので助かりました。まあ、あの場合本当に助かったのは誰になるのかという感じですけど」
「ふふ、そうだね。本当に助かったのは私とベルちゃん、それからラブちゃんだねきっと」
拗ねた様に唇を尖らせる表情から一転、にこりと笑うミルキアさんはやっぱり家族思いであることがよく分かる。
ふと、そこで人が来る気配がして二人で揃って廊下の奥側に視線を向けた。
「おっと、誰か来たみたいだね。わざわざコウヘイちゃんを呼んだのはね、きっと無事に帰って来てね。それから私の妹とこの国を支える皆の事よろしくねって伝えておきたいと思ってさ」
「はい。命を懸けて、自分に出来る全てに力を尽くすつもりです」
「うん、でもコウヘイちゃんも帰ってこなきゃダメだからね。絶対だよ」
最後にそう言って、ミルキアさんは近付いて来る足音が到達する前に手を振り、壁の向こうに消えて行った。
〇
その後、急いで玉座の間に向かった僕は衛兵に促され中へと足を踏み入れた。
玉座にクロンヴァールさんの姿はまだ無かったのが幸いではあるが、それでも少しばかりピリっとした空気を感じる。
中に居たのは全部で六人。
ハイクさん、リズ、そして名前も知らない三十前後の兵士が一人と他とはややデザインの違う鎧を身に着けた壮年の兵士が二人、そして大臣みたいな格好……つまりは政務補佐を役職とする官吏と思われる男性が一人の計六人だ。
ハイクさん以外は初めて会う人ばかりだと一瞬思ったが、あのデザインの違う鎧の二人は確かサントゥアリオで別れる際にシルクレアの船でクロンヴァールさんに会った時、同じ部屋にいた人達だったのではなかろうか。
となれば顔に見覚えはあるとも言えるけど、結局のところ名前その他は何も知らないことに違いはない。
「すいません、遅くなりました」
玉座の前に整列する面々を前に、慌てて合流しようと駆け寄っていく。
僕はどこに並べばいいのかと悩みながら走る最中、ハイクさんが『お前はここだ』とばかりに親指で自分の横を指してくれた。
「随分遅かったじゃねえか、緊張で腹でも下したか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」
ほぼ全ての視線が集まっているせいでリズの軽口も今ばかりは少々空気を読んでくれまいかと思ってしまう。
初めて顔を合わせる二人は物珍しげな顔で、一度見たことのある二人は揃って軽く頭を下げてといった具合なので敵意を向けられていたり胡散臭いと思われているといった感じではないのがせめてもの救いだ。
その様子からするに、少なくとも向こうは僕の事を知っているらしい。
普通に考えれば当たり前なのかもしれないけど、いきなり他所の国からやってきて同行することになった謎の人物と思われていないだけどこかホッとした。
「よお若大将、よくこの跳ねっ返りを連れてこれたな。正直そこまで期待はしていなかったんだが」
一つ大きめに息を吐き、気を落ち着けたところで横に立つハイクさんがこちらを見るでもなくそんなことを言った。
やはりあの場に居なかった人も昨日ここで行われた話については把握しているようだ。
「あれだけ念を押されてしまうとさすがに僕も一生懸命になりますし、それ以前に勝手に取引が成立していましたからね……」
警告というよりは脅迫みたいなやり口であったが、そんなのがなくても多分リズは僕と一緒に来たはずだ。
だったら僕の努力や管理は必要ないのではという理屈と、それを必要とせずにクロンヴァールさんに従うのは僕の存在有りきなのでそんな理屈が意味を成さないジレンマとの間に挟まれる複雑な心境である。
「おいスカシ野郎、御姫は何やってんだよ」
もう待つのに飽きたのか、リズは首を回しながらダルそうな顔でハイクさんを見る。
こういった協調性の無さと無遠慮さは何だかサミュエルさんを思い出すな。
というかスカシ野郎って……また失礼な。
「不在の間の引継ぎに奔走してんだろ。言っている間に来るだろうから心配するな、国を開けるってのは思いの外大変なもんだ」
「別に心配なんざしちゃいねえけど、完全無欠の女王サマってのも存外働き者なんだな」
「その女王様に楽をさせてやるのが俺達の仕事だ。お前もそこに加わると決めた以上はきっちり働けよヤンチャ娘」
「敵さんをぶっ殺す仕事なら喜んでやってやるぜ~。生憎と使う頭がねえもんで正義だの大義だのを持ち出さりゃ唾を吐き掛けることしか出来ねえがなぁ」
ひゃっひゃっひゃと、愉快そうに笑うリズにハイクさんも呆れ顔だ。
恐らくは誰もが本当に大丈夫なのだろうかと思ったことだろう。
同じ例えになるが、この人もサミュエルさんと同様にきっと集団行動とか組織に属するとかそういうのに向いてないタイプだ。
そう思ったのが僕だけではないことを証明するが如く目の前に並ぶ四人も少々げんなりした顔であったり値踏みする様な目を向けている。
それが気に食わなかったのか、リズはリズで若干不機嫌そうな顔を浮かべた。
「おいスカシ、さっきからチラチラと物言いたげに見てきやがるこの野郎共は誰なんだよ。特にそっちのオッサン二人、てめぇ等だコラ」
「左から順に近衛隊のヨハン隊長、ルドルフ副隊長と通信兵チーフのニコラス。んで官吏のまとめ役をやってるスコット大臣だ。お前はそっちの男とは違った意味で有名人だからな、好奇の目の一つや二つは仕方がねえさ。サッサと慣れちまえ」
「けっ、そんなもんとっくに慣れっこだよクソッタレ。程々にしときゃ皆ハッピーだって簡単な理屈も分からねえ馬鹿がウチの気分を損ねてボコボコにされるところまでなぁ」
「リズ、ストップ」
指をパキパキ鳴らしながらオラ付いた表情で目の前の四人に詰め寄ろうとするリズの腕を慌てて掴んだ。
通信兵のニコラスさん? と大臣さんは普通にドン引きしているぐらいの反応だったが、隊長副隊長と紹介された二人が完全に眉根を寄せていたからだ。
クロンヴァールさんの部下は誰もが絶対的な忠誠心を持っているのは有名な話だし、僕だってこの目で幾度となく見てきた。
そのクロンヴァールさん本人やハイクさんが許容し、そうある様にと厳命が下っていたとしても他の全ての人が心からの納得をしているかといえばきっとそうではないのだろう。
二人のその顰めた顔がはっきりと礼節を欠く言動を快く思っていないと言っていたし、それどころか国王の家臣に加わることを『相応しくない』と感じているのではとさえ匂わせていた。
いかにも真面目そうな人達だし、近衛隊といえば国王直属の部隊だ。
そのトップとナンバー2ともなればクロンヴァールさんを悪く言われるのは気に入らないだろうし、王や国の品格を損なう存在は頭では看過すべきと思っていても心が受け入れに抵抗しているのかもしれない。
ただ飛び抜けて強いだけの人ならまだしも、多くの功を立て人々の尊敬を集めていたセラムさんの身内であることが余計に難しくしている部分もあるはずだ。
だからこそ今後この中で生きていくリズが人間関係で苦労したり、人に苦労させたりするのを防がなければならない。それが僕に与えられた最初の役目だから。
「この人達はこれから先リズの同僚になって、色々とお世話になったり助けてもらったりすることになるんだから喧嘩は駄目。失礼なことも言っちゃ駄目」
「自分より弱えぇ奴に助けて貰うことなんてあるかぁ?」
「はぁ……」
やっぱりそういう価値観なのか……こりゃ最初っから前途多難だなぁ。
いや肩を落としている場合ではなく。
「あのねリズ、強いことも勿論大事だしリズに求められているのは強さなのかもしれないけど、強いことが仕事ではないんだよ? 立場の違いはあっても大勢の人が合わさって、それぞれの役目を果たすことで組織があって体制があって国があるんだから。ご飯を食べに行くにしたって『一番料理が上手い人』だけが居るだけじゃ店は成り立たないでしょ? サービスをする人、下拵えをする人、お酒を注ぐ人、掃除や買い出しをする人、それぞれが存在して初めて商売が成立するわけだから」
「そういうもんか? 難しい話は分かんねえけど、ダーリンがやめろってんなら今日の所は引いといてやらぁ」
「うーん……」
納得してくれたはいいけど、やっぱり理解まではしてくれない。
ベースとなる【普通】が違い過ぎるせいなのだろうけど……僕が言ったからそうする、というだけでは改善、成長には繋がらないのではなかろうか。
今日の所は、って言ってる時点で疑問ではなく確信してしまいそうになる僕だったが、それでもこれまでに比べれば大きな進歩ではあるらしくハイクさんは意外そうにしていた。
「何だエリザベス、やけに聞き分けが良くなったじゃねえか」
「ばーか、てめぇの男にゃ恥を搔かせねぇのが良い女ってやつなんだよ」
「そいつは金言だ。まさかお前が言葉と文字、魔法以外に何かを学ぶ日が来ようとはな」
「あんまりホメんじゃねえよ、思わずブン殴りたくなっちまうからよぉ」
「たった今言われたことを会話が終わる前に忘れてんじゃねぇよ」
……うん、もう一つサミュエルさんとの共通点あったね。
病的なまでに挑発に弱い。
言わずもがな大人なハイクさんはうんざりした顔を浮かべるだけで苛立ったりはしない。
「つーか一個聞きてぇんだけどよ」
「ああ?」
「ウチのダーリンってこの国でも有名人なのか? グランフェルトの人間なんだろ?」
「何だ、知らねえのか。お前が行方不明になっている間に色々あったんだよこっちは、サントゥアリオに向かう前に何度も呼びに行った件は後から聞いてんだろ」
「誰が行方不明だ、こちとら巨大イノシシを狩りに山ん中を数日彷徨ってただけだっつーの」
「それを世間では行方不明ってんだ。知りたきゃ道中にアルバートの旦那にでも話してもらうんだな」
「なーに勿体付けてんだよ唐変木。誰もてめぇの武勇伝なんぞにキョーミはねぇよ」
「誰が語るかそんなもん。単にそんな時間はねぇって話だ」
ほれ、と。話の最後にハイクさんは顎で入り口の方を指し示した。
その向こうからは足音らしきカツカツという音が響くのが聞こえて来ていて、はっきりとこの部屋に近付いて来るのが分かる。
地面を鳴らす音を一瞬止めたものの衛兵が両の扉を開くのと同時に姿を現したその誰かとは、真っ赤な髪を靡かせ、凛とした表情で赤い絨毯の中心を進んでくるラブロック・クロンヴァールその人だった。