【第九章】 延長戦
4/5 誤字修正 次女→侍女
「あ~……色んな意味で疲れた」
思わず声を漏らしながらベッドに倒れ込んだ僕は天井を見上げるなり脱力し、同時に動く気力も失った。
クロンヴァールさんとの対面だけでも多少の緊張が伴うというのに、それに加えて一時間を超える激戦の最中で絶えずこれでもかというぐらいに頭を使い続けていたのだ。
率直に言ってもう精魂尽き果てたと言ってもいい。
ゆっくりしたい、お風呂に入ってこのまま寝たい。
のは山々だし許されるのなら是非そうしたいところなのだけど、まあそういうわけにもいかないんだろう。
勝負を終えた後、これといって今後の話をすることなく城内の一室に案内され休むように言われた僕は言われるままメイドさんの後に続いてここまでやってきた。
食事は運ばせる、と言われただけなので実際問題これからどういう予定でいればいいのかも一切分からないままなのだ。
悔しそうな素振りを見せるでもなく、腹立たしく思っている様子もなく、ただ一言『結果に対して言い訳はせん。話の続きは後ほどするとしよう』としか聞いていないのだが……取り合えず明日になるまではここで過ごしていいのだろうか。
そうだとして、クロンヴァールさん達の予定も分からないままボーッとしているのもどうかと思うんだけど……後でと言ったからにはまた本人が呼びに来るなり尋ねてくるなりしてくれるのかな。
だからといってかれこれ一時間ぐらいを放置状態というのも昨日と同じ表現を使うならば手持ち無沙汰過ぎて困る。
「ん? どうぞ?」
やっぱりそれまではこのまま寝て過ごそうかなんて目を閉じかけた時、出入り口の扉が三度叩かれた。
お客様、食事をお持ちしました。
という女性の声が聞こえてきたからにはほぼ間違いなく先程の侍女さんだろう。
他所の国、人様の城なので仕方がないことなのだけど、そもそもが外部の人間という扱いではない上に顔見知りだらけなため態度や口調も含め気さくに接してくれる人ばかりのグランフェルト城とは違って表情一つ変えず出入り一つ取ってもものすごーく丁寧な所作と言葉遣いで接してこられるため正直に言ってこちらも気を遣う一方なのが悩み所である。
これはサントゥアリオ共和国でも体験したことだけど、日常生活でもてなされることなんてないのが当たり前だっただけに自分まで背筋を伸ばしてしまうのが庶民感覚ってものだ。
「ありがとうございます、いただきます」
サービスワゴンに乗っている焼いたパンと切った野菜や果物、ジャムなどをテーブルに並べてくれていることへのお礼を述べると、侍女さんは微笑と共に軽く一揖を返して部屋から去っていく。
再び独りぼっちになった僕は軽く両手を合わせ、いただきますと一言呟いて料理に手を伸ばすことにした。
こういった食事にもそろそろ慣れてきた頃合いではあるのだけど、美味しいと思う気持ちに偽りは無くともこんな僕でも一応は日本男児だ。
毎日朝も晩もパンが主食という生活が続くと無性に米が恋しくなってくるのは大和魂というものなのだろうか。
米自体はこの世界にも存在しているのだがポピュラーなのはどうしたってパンになるし、そもそも大衆向けの食堂などには備えてあるが城やバーには米を使ったメニュー自体がそもそも無いので中々口にする機会がないのが残念なところである。
これだけの城なのだから頼めば用意してくれるのかもしれないけども、お米が食べたいんですけど……なんて遠慮がちに恐る恐る聞いてみる自分の姿は情けなさ過ぎてちょっと受け入れられない偏屈な男、それが僕です。
野菜は好きだし味に不満があるわけではないのでただのわがままでしかないとはいえ、日頃喫茶店で調理をしている身からすると『自分で作ったらいいんじゃない?』という発想に至るのも無理からぬ事だ。
とまあ無駄に掘り下げて食事事情を語るのも話し相手もいなければイジる携帯も所持しておらず、読み耽る書籍も無いせいに他ならないわけだけど、ほんとこれ食べ終わったらどうするんだろう。
勝手に出歩いてもいいのかな。
いや、それが許されたところで顔見知りなんてハイクさんやアルバートさんぐらいしかいないし、そんな人達に暇潰しの相手をさせられるわけもない。
つまりはどうしたって無聊に耐えなければならないということですね。
「ご馳走様でした」
少しして、あらかた皿の上が片付いたところで食事の時間を締め括る。
さ~て、どうしたものかな。
と、前向き気味に考えてみても答えなんて見つからない。
こんなことならチェスのセットを借りておけばよかったかな……食後に一人で駒を並べる男というのは、それはそれであまりに虚しい光景が出来上がる気しかしないけど。
「よし」
分かった。
もう分かりましたよ。
大人しく寝てろってことですね、だったらそうしますよ。
余所様のお城に招かれて昼寝ってどうなの? とか思っていた僕が間違ってたんだねきっと。
といった具合で完全なる開き直りで自分を納得させつつ、今一度背中からベッドにダイブする。
ふかふかな布団は即座に眠気を誘発し、食事の直後とあって一瞬で目を閉じたくなってきた。
眠るなら歯を磨かないと、そう思ってはいても体は積極的に起き上がるための動作に移ってはくれない。
結局、先程の侍女さんが食器を下げに来てくれるまでの十分十五分の間をウトウトとしたまま過ごし、その姿が消えると今度こそ自制心は失われ、いつしか意識は遠ざかっていく。
どれだけの時間を夢の中で過ごしたのかはさっぱり分からないが、意識を取り戻したのは三度響いたノックの音に起床を促されるのと同時だった。
「あ……はい、どうぞ」
コンコンという音にぼんやり思考が呼び起こされ、扉越しに呼び掛けられる声を耳にしたことで急激に焦りが生じる。
咄嗟に上半身を起こすも既に侍女さんは『失礼します』と一言述べて部屋へ入ってきていて、状況からして惰眠を貪っていたのが丸分かりというとても気まずい空間が出来上がっていた。
勿論それを咎める様な言動が向けられるわけではないのだけど、この人も含め誰も彼もが忙しく働いているというのに一人寝息を立てていただなんてバツが悪いにも程がある。
というか、ここに通されてからこの人としか顔を合わせていないんだけど……。
「お休みのところ申し訳ございません。入浴の準備が出来ましたのでお迎えに上がりました」
「ありがとうございます、えっと、どこに行けばいいですか?」
出来るだけ自然に窓の外に視線を送ってみると、カーテンの向こうは既に暗くなっておりしっかり日が暮れているのが分かる。
寝惚けていることを悟られまいと無駄にハキハキとした口調になってしまいながら立ち上がると、侍女さんはこれといって気にしていませんといった風に扉の前まで移動し、
「大浴場にご案内するようにと陛下より仰せつかっておりますのでご準備が出来次第お声かけくださいませ」
「あ、そうなんですか。用意しておいた方がいい物ってありますか?」
「全てこちらでご用意させていただいております。上下お召し物から下着、ソックス各種、その他必要な物がございましたらお申し付けいただければと」
「分かりました。着替えは持参しているので体を拭く物だけお借りさせていただければ」
「承知いたしました」
受け答えの際のスマイルは標準装備ですとばかりにもう一度微笑んだ侍女さんの姿が逆に待たせることへの申し訳なさを生み、そそくさと自分の家から持ってきたショルダーバッグを開き替えのシャツとパジャマ代わりにするつもりでいたスウェット、下着を取り出し腕に抱えるとすぐに部屋を出た。
扉の開閉までやってくれるのはありがたいし、それが彼女達の仕事だと言われればそれまでなのだけど、何かをやってもらう度に僕の方も『ありがとうございます』『すいません』と全力で気を遣わなくてはならないのでいい加減メンタル的な疲弊も溜まりっぱなしである。
勿論、だからといって追い返すわけにもいかないので黙って先導するメイド姿の背中を追うだけなんだけど。
だけど、その道中に少し違和感を抱いた。
最初に行った玉座の間は三階に、客人用の個室は二階の端の方にあるのだが、階段を登って四階まで登って廊下を歩き、入り口に二人の兵士が見張り? で立っている他とは一風違った通路に入るとなぜか踊り場の無い一直線の階段をまたしばらく下りた先にある大きな扉の前まで辿り着いたところでようやく立ち止まる。
なにゆえ風呂に入るだけのことでこれだけ移動距離があるのかという疑問は勿論あるけども、それはこの城の造りだと言われてしまえばそれまでの話だ。
グランフェルトやサントゥアリオのお城では地下に兵士用の共用浴場と侍女用の浴場があって、それとは別に客人用であったり王族専用の浴室があるといった具合になっている。
余談を加えるなら出稼ぎに来ている人も多い兵士と違って大臣の方々は城下に自分の家があるので大臣用とかはないのだがそれはさておき、位置関係がどうとかの前に人気がやけに少ないのだ。
階段を上がって四階を過ぎた辺りから一切の人影がない。
二階でも三階でも廊下や階段では何度も人とすれ違ったのになぜだろう、あの見張りの人達以外誰一人見掛けることがなかった。
扉の様相を見るにここが客人用ということなのだろうけど、建物も敷地もこれだけ広い城だし距離があるのは仕方がないとはいえ……ここまでシーンとしていると案内がなければ迷うし怖いしで大変そうだな。
「それではごゆるりとおくつろぎくださいませ。こちらに控えておりますのでご入り用の際はお声かけくだされば」
「あ、はい。ありがとうございます」
出入り口を開き、中へと促してくれる侍女さんにペコリと頭を下げ脱衣所に足を踏み入れる。
宝物庫にでもなっているのかと言わんばかりの派手で頑丈そうな鉄の扉の印象とは打って変わってそこはそう広い空間ではなかった。
精々二人か三人も入ればいっぱいになってしまうぐらいの五畳程度の部屋に荷物や着替えを置く棚と脱いだ物を入れておくための竹籠が置いてあるだけだ。
そりゃ客人用なんだから何人もが一度に使うことなんてそうないか。
とか思いつつ、服を脱ぎタオル代わりの布も手拭いサイズから大きい物まで何枚も詰んであるの中から小さいのを一枚と体を洗うのに使うスポンジを一つ手に取り浴室に続く扉を押し開ける。
幅が半分程になっている外にあるのと同じデザインの扉の奥には、これまた予想とは全然違う光景が広がっていた。
脱衣所と比例していない恐ろしいまでの広さ、そしていくら掛かっているんだろうと言いたくなる様な凝った意匠、何から何までおよそ一般家庭には存在し得ない代物だらけの景色に思わず固まってしまう。
もうスパとかにある温泉ぐらいの大きさだし、足下はどう考えてもただの石じゃない大理石みたいな感触を伝えてきているし、なんか奥には滝みたいになっているのがあるし、所々に石像は建っているし、柱はパルテノン神殿みたいになっているし、こんなのもてなしの範疇じゃないでしょどう考えても。
「はぁ……気持ちいいなぁ」
そうは言ってもやることは入浴以外に何もない。
桶で湯を浴びて広い広い浴槽に浸かると、瞬く間に全身へ温もりが伝播し情けない声が漏れる。
いやそれはいいんだけど、昨日のホテル以上に広すぎて落ち着かないんですけど。
これだけ大浴場にポツンと一人って、意味不明過ぎるよもう。
スペースの無駄遣いにも程があるでしょ。
いくら賓客をもてなすためとはいえ、一家全員で使用しても余裕で余るよこれ?
普通の部屋、普通のお風呂、普通の食事でいいのに……ほんと孤独感が増すからせめて共用の所を使わせて欲しい。
どう考えても個人用ということはあるまいに、どうして僕一人なんだマジで。
「はぁ」
駄目だ、やっぱり落ち着かない。
これだけの湯を溜めてもらっておいて申し訳ないことこの上ないが、長居しても切なさが積もる一方なのでサッサと洗ってサッサと出てしまおう。
そう決めて、少々残念ではあるけど僕は湯から出て頭と体を洗うことに。
まさにカラスの行水といった感は否めないもののそれも体を流し終えるまでのこと、そのまま出て行こうかと考えていた足は少しの葛藤の末にあはり罪悪感に止められてしまう。
どうしても勿体なさと用意に掛かる手間暇や費用を思うと気が引けてしまって、せめて最後にちょっとだけ堪能させてもらおうと最終的に再び湯船に腰を下ろすに至っていた。
「…………ふわあ」
どれだけ理屈を並べても温泉の魔力に抗えないのが人の性。肩まで浸かるとすぐに心地の良いぬくもりに包まれ全身から力が抜けていく。
やっぱりいつの時代、どの世界でも温泉ってのはいいものだ。
こんな時と場合でなければもう少し感動もあっただろうに、どうしてもそれを邪魔するのはやはり明日からのことが常に頭の片隅に残っているからだろう。
いつ出発するのかはまだ聞いていないが、僕はこの国の人達と共に天界へと旅立つことになっている。
それはきっと命懸けの冒険で、また自分もそれ以外も含め多くの生き死にに直面することになるのは想像に難くない。
よく考えてみれば、これが人生最後の温泉になるかもしれないのに……後ろめたい気持ちを同居させてどうするというのか。
……駄目だ駄目だ、今からネガティブってどうする。自分に出来ることを最大限行動に移し、戦えないなら必死で考えて全員が無事に帰れるように最善を尽くす。
僕が求められているのはそういう役目だろう。出発する前から不安を抱き未知を恐れていては出来ることも出来なくなってしまうぞ。
「覚悟だ……そう、覚悟」
言い聞かせる様に呟き、湯船に顔面を突っ込んで余計なマイナス思考を無理矢理に吹き飛ばそうと必死に別の事柄を頭に思い浮かべた。
そんな状態で十秒か、二十秒か。
ようやく頭を空っぽにして再び体全部で温もりを感じていると脱衣所に繋がる扉が開く音がふと我に返らせる。
外で音がしていたのは微かに聞こえていたし、もしかすると侍女さんが湯加減でも確かめに来たのだろうかと咄嗟に布で局部を隠してその方向に目を向けてみると、湯煙と扉の奥から現れたのは憶測とはかけ離れた人物だった。
瞬時にそれを判断出来た理由など至極簡単。
なぜならその誰かは完全に素っ裸で、その上平均以上と思われるお胸と引き締まった肉体、そして真っ赤な髪の毛をお持ちだったからだ。
「な、何してるんですか!?」
何がどうなればこんな状況が出来上がるのか、体を隠す気ゼロのまま近付いてくる一国の王に精一杯の抗議を投げ掛けつつ慌てて顔を逸らす。
しかしそれでも、恥じらうでも謝るでも怒るでもなく、誰かさんことクロンヴァールさんはゆっくりと傍まで歩いて来たかと思うと掬った湯を浴び湯船に入り込んでくるなり普通に僕の隣に腰を下ろしてしまった。
「何を生娘みたいな反応をしている。ここは私専用の浴場だ、風呂に入る以外にすることがあるのか?」
「専用って……ここに案内されたんですけど僕」
「それはそうだろう、私がそうさせたのだ」
「……何を企んでおられるのですかあなたは」
説明を求めようにも、そして憤慨しようにも相手の方を見ることが出来ず顔と体を背けたままになっているせいで泣き言みたいな台詞しか出てこない。
クロンヴァールさん専用って、道理で無駄に豪勢なはずだよ。道理であのフロアに入ってから人気が消えるわけだよ!
「企むなどと人聞きの悪い。私以外でここを使った人間など過去にクリス以外にはおらん、光栄に思え」
「……一人でいる時以上に落ち着かないですし、心臓に悪いので今すぐ上がっていいですか?」
「本音で語らうには裸の付き合いというだろう。ここでは立場も年齢も性別もない、話が終わるまではゆっくりしていろ」
「ゆっくり出来る状況じゃないでしょう……誰がどう考えても」
「やれやれ、二人も妻を娶っておいて見た目通りの純真さを披露してくれるな馬鹿者。慣れるまではそうしていればいいが、せめて耳と頭だけは働かせておけ」
「働かせておけと言われても……」
いや、だから早急に出て行きたいんですけど。
話なら風呂から上がった後でよくないですか? と言わなくてはいけないのに、混乱している間にクロンヴァールさんは勝手に語り始めているし。
「思い返せば私とお前は……鉄格子を隔てて出会い、のちには共に魔王軍と戦い、また時を経て敵として戦場に立った」
「そう……ですね」
厳密には初対面はサミットの時だったけれど。
とツッコむ余裕はあんまりない。
「爆弾魔云々はさておき、敵であれ味方であれ同じ戦場に立ちながらもお前は常に私とは別の道を進んでいたな。分かるか? 拳一つ繰り出すことの出来ないお前が、曲がりなりにも世界一などと呼ばれる私と相反する道を選んできた意味が」
「…………」
「私は……今も昔も、自分の決断が間違っているとは思わない。自分で決めたことに後悔はない、後悔する資格もない。それはなぜだと思う」
「あなたが……王だから、ですか」
「その通り。兵士達は私の命令で戦地に赴き、私の命令で敵を殺し、私の命令で敵に殺されるのだ。その私が躊躇し己を疑っていてはその者等に顔向け出来るものか。だが……あのサントゥアリオでの抗争で私はお前に負けた。完膚無きまでに、全てにおいて上にいかれたと言えよう」
「そこまでのことでは……」
「この私が負けを認めるなどと人生でそうあることではない、要らぬ謙遜は捨てておけ。もっとも、つい先程あったばかりで格好も付かんが」
……さっき?
ああ、チェスの話か。
「あの時以来、こんな私でもふと考えてしまうことがある」
「な、何をでしょう」
「もしもお前がこの国に生まれ落ちていたならば、或いはもっと早くお前の才覚を見抜き力尽くでも部下に加えていたなら、パットやローレンスが落命することのない未来があり得たのだろうかと」
「そんな……買い被りすぎですよ。僕なんて本当に、いつだって何も出来ないなりに必死で、戦えない代わりに頭を使うことだけは貢献しようと精一杯で、周りの人達に助けて貰ってばかりで、運が良かっただけで今こうして五体満足でいられる様な人間なんです本当に」
「ふっ、所詮は凡百の男に過ぎぬとでも言いたいのか? お前がそういう自己評価しか出来ない男であるということはサミットの折に聖剣や二代目から聞いている。お前自身が口にした出生や育った環境がそうさせるのか、単に性格の問題か、穿った見方をすればそれすらもお前の生存戦略なのか。答えを求めようとも思わんが、どうにも他者からの期待や使命感が重荷になるようだな」
「重荷かどうかは……ちょっと自分ではよく分からないですけど」
「批難しているわけではない。それはお前が決めるお前の生き方であり、お前が成長する過程で乗り越えるべきものだ。コウヘイよ……こちらを見ろ」
「いやいや……それは無理ですって」
「たわけ、何も体を見ろと言っているのではない。私の目を見ろ」
「…………」
どうにかやり過ごそうと背中を向けたまま無言を貫いてみるが、クロンヴァールさんは何も言ってくれない。
こうなってはきっと僕が折れるまで解放されないであろうことは容易に想像出来るので僕は一度大きく息を吐き、意を決して振り返ることに。
勿論意地でも視線は下げない。あくまでクロンヴァールさんの顔を見る角度に目線を固定した上でだ。
ここ最近、僕にとってこの世界での鬼門なのかお風呂で恥ずかしい思いをしてばかりな気がする。
ジャックなんかと同じで今なお体を隠す気が全くないままだし、羞恥心とかないのかこの人達は。
「振り返るだけのことにそこまで覚悟が必要とは、顔立ちや体付きとは別の意味で少しは男らしさというものを身に着けて欲しいものだな」
「……お互い裸なのを理解していらっしゃいます?」
あと自分の顔面偏差値とかプロポーションとか。
「亡き姉とクリス以外に肌を晒すことはなかったが、お前には慣れて貰わねば困るのでな。それはさておき、言いたいことは一つだ。私に力を貸せ、我々がこの先やってくる戦乱の時代から秩序を守り平和を勝ち取ろうと思うならばこの国この世界にはお前が必要だ」
「取り敢えず、ですけど……昼に言った通り天界への遠征には一緒に行きます。僕の何が必要なのかはハッキリ言ってまだ理解が追い付いていない部分もありますけど、だからこそ僕に何か出来るのなら、本来そこにいるはずのない僕の存在が何かを変えることが出来るなら、それが僕の存在意義であるのではないかと思う気持ちは今でもありますから」
「取り敢えず、か。勝負に敗れた私が食い下がっては恥の上塗りだ、今日の所はそれで納得しておく他あるまい。少なくとも天界から帰るまでは私の部下ということでいいのだな」
「そうですね、他の皆さんがクロンヴァールさんを担いでいるのに僕だけその外にいるわけにもいかないので異論はないです」
それは当然の理屈なので不満もない。
という意志を伝えつつ、もう目を見ていなくてもよさそうなので背を向けないまでも正面に体の向きを変えておく。
肘と肘が触れそうな距離感がより平常心を奪うのでもう少し離れてはもらえないだろうか。
「結構、出発は二日後の朝だ。だがその前に一つお前にはやってもらいたいことがあってな」
「というと?」
「とある人物の説得に知恵を貸して欲しいのだ」
「とある人物、ですか」
「何度か口にしたと思うが、私に必要な二つのピースのもう一方だ。どうにもお前と同じく私の部下になるのが気に入らんらしくてな。いかにして説得したものかと苦労している」
「クロンヴァールさんの力業でも駄目なんですか?」
「力で押さえつけたからといって素直に膝を折る様な可愛げのある奴ではなくてな。だが私のみならずこの国に必要な人物であることは間違いない」
「なるほど…って、クロンヴァールさんに説得出来ないのに僕の話が通じるものですかねそれ」
「正攻法では中々難しいだろうな。まだ若く、世界の広さも知らん様な奴だが、その上で何を差し置いても天界に連れていきたい逸材だ。簡単ではないだろうが、お前の得意な小賢しさでどうにかする手段を考えておけ」
「小賢しさって…」
褒めてませんよねそれ。
もしかしたらチェスの件を根に持っているのかな?
「まあ、直接会ってみないとどうしようもないと思いますけど頑張ってはみます」
「明日この城で会うことになっている。その時にお前も立ち会わせるからそのつもりでいろ」
「分かりました」
「うむ、ならばそれはそれでいい。最後に一つ、先程の勝負の件だが」
「チェスのことですか?」
「左様、こちらの持ち掛けた勝負でお前はある意味で人生の岐路に立った。そして私も同等の物を賭けると約束したな」
「こちらとしては別にそれはもういいんですけども」
「ほう、余程私に負け犬の烙印を押したいらしいな」
「どういう解釈なんですかそれ…」
情けは無用、みたいなことなのか?
自分で言い出して見逃してもらうなんて恥の上塗りだ、的な。
「少しばかり考えてみて、一つ良い案が浮かんだ。というよりは、ふと思い付いたと言った方が正しいのだろうが……お前も知っての通りパトリオット・ジェルタールはこの世を去った」
「そう……ですね」
はっきりと言われると、記憶が呼び起されまた少し胸が痛くなる。
それが今の話にどう関係するのかはちょっと分からないけど。
「そんな顔をするな。私の手では救えなかった者もいるがお前に救われた者も多くいるだろう、言うまでもなく私もその一人だ。奴等には必ずやけじめを取らせる、我々の手で」
「はい……」
「そんな話がしたいのではない。残った事実だけを見るならば、この国の王である私が将来の伴侶を失ったということだ」
「それはまあ、そう言われれば言葉の通りであることは理解出来ますけど」
「その現実は到底甘受出来るものではないが、それを覆すことは誰にも出来ん。ならばどうするかという話から目を逸らすわけにはいかないことも然りだ。故人を偲んで未亡人を貫ける立場でもなければ、言い方は悪いが一般的な感覚で愛を育んでいたわけでも、ましてや奴に惚れていたわけでもないのでな」
「……え、そうなんですか?」
これは少し意外だった。
外から見る分には世界一お似合いの二人だったのに。身分だって両方が一国の王だしさ。
「元々が先代である父が勝手に持ち掛けた縁談だ、せめて王位を継ぐまではと我が儘を言って長らく兵士長をさせてもらっていた手前私もけじめとして同意したに過ぎん。次期国王である以上相手を選べるとも思っていなかったからな」
「なるほど……でリアクションが合っているのかは分からないですけど、それとチェスの話にどういう関係が?」
「嘆くつもりもないが、そんな私でも彼奴が逝くのを見送った際に約束したことがあってな。この先また別の誰かと婚約するつもりもなければ愛だの惚れた腫れたに現を抜かすつもりもない」
「はあ……」
「そこで丁度良いのが今回の件というわけだ。負けた私が背負う代償として、お前の子を産んでやろう」
「………………………………はい?」
「とはいえ今身籠るわけにはいかん。天界から無事に帰れたならば、という話になるが十や二十も褥を共にすれば自然と出来るだろう」
「いやいやいやいやいや…………いやいやいやいやいやいや」
「やかましい、人間の言語で話せ馬鹿者」
「あのですね……そんなの許されるわけがありませんし、チェスで負けたからという理由でそんなことをやっていたら大事件ですよ」
冗談だ、という台詞を期待するも横目で伺う顔色には呆れ顔しか浮かんでいない。
そのぐらいで取り乱すなと言わんばかりの表情をされても、むしろこの場面この状況で平静を保てる人間がどこにいるというのか。
「世継ぎのことを考えれば二人は産まねばならん、協力してもらうぞ」
「無理です。不可能です。色んな意味で許されるわけがありません」
「私を負けた上に自分で口にした条件を反故にする下衆に貶めたいのか?」
「そういうわけではなくて、もっと常識的にかん……」
「対等かつ正真正銘の真剣勝負をした結果だ。約束は守る、そして約束は守らせる、それが道理というものだろう。などと偉そうに言ってはいるが、正直に申せば少々卑怯なやり口なのだがな」
「卑怯、とは……」
「私が王である以上はどのみち世継ぎを作らねばならん立場だということさ。だが、言った通りもう結婚などするつもりはない。パトリオットに操を立てているわけではなく、元来そういうことには向かん質だ。となれば養子を取るか種だけ提供させるしかないわけだが、さすがに血の繋がりの無い者を次代の王にするわけにもいかん。つまりはチェスの結果に関係なく、お前であろうとなかろうと私にとっては解決すべき問題だったわけだ。負けるつもりなど毛頭なかったが、それならそれで丁度良いとついさっき思い付いた」
「そんな思い付きで決めていい問題ではないと百人に聞けば百人がそう答えると思うのですが……」
「心配せずとも生まれた子に対し責任や義務を押し付けたりはせぬわ。好き放題私を抱けると思えば悪い条件でもないだろう、役得とでも思っておけ。こちらにも職責があるので自由にとはいかんが……そうだな、戻ったのちは十日に一度私の寝室に呼ぶとしよう」
「理屈が滅茶苦茶過ぎる……上に、それを理由に僕をこの国に留まらせようという裏の意味が見え隠れするんですけど」
「はっはっは、よくぞ見破ったな。こんな状況でと言いながらもそういう頭はしっかりと働くではないか」
一転、クロンヴァールさんは高笑い。
どういう心理戦なんだこれは……僕に一杯食わせるためにわざわざこんな仕込みをしたのかこの人は。
「ちなみにですが、拒否権は……」
「言うまでもなくそんなものは無い。負けた私にこれ以上恥を掻かすな。己で持ち掛けた勝負に敗れた上に負うべきリスクを免除されるなど無様にも程があるわ」
「そんなことを言われても……」
「天界から帰るまでは私の部下であると、お前は先程はっきりと同意したはずだ。王の命に背いた臣下がどうなるかを知らぬわけではあるまい」
「狡猾にも程がある……わざわざこの話をする前に言質を取るなんて」
「負けっぱなしは性に合わんのでな。腕っぷしだけではなく頭の方でもお前と張り合えるぐらいでなければ世界を見据えることなど出来ぬわ」
「勝負を持ち掛けられたのがこの場所という時点で相当反則気味な気しかしないのですが……」
「いずれにせよ二人の妻とも子を成すのだろう、相手が二人でも三人でもさして変わらんではないか。それも聖剣と呼ばれる勇者にユノの女王だ、肩書に気後れする理由もなかろう。もっとも、その頃にはナディア・マリアーニはユノ王ではないのだろうがな」
「何一つとして納得がいきませんし、それで受け入れられる程の鷹揚さは生涯身に付くこともないと思いますけど、最後のはどういう意味ですか?」
ナディアがユノ王ではない?
というのは一体全体どういう理由だ?
「何だ、聞いていないのか?」
「僕はサミットにも参加しませんでしたし、サントゥアリオで別れて以来一度も会っていないもので……」
「ならば私が漏らすことは出来んな。驚かせようとしているのか直接会って話すつもりなのかは知らんが、帰ってきてから直接聞くといい」
それだけ言って、話はこれで終わりだと付け足しクロンヴァールさんは立ち上がった。
露わになる四肢からまた目を背けると、頭上からこれまた一転からかう様な声が投げ掛けられる。
「ついでに私の背中でも流していくか?」
「いえ……そろそろ羞恥心で死にそうなので勘弁してください」
「ならば戻ってゆっくり休め。寝酒が必要なら使用人に用意させればよいが、昼には時間を空けておけよ」
本当に何気ない風なその声音に、負けたのは頭脳戦や心理戦ではなく図太さの度合いなのではなかろうかと異議申し立てしたい気持ちに駆られるも、あまりにも負け犬の遠吠え感が強すぎて情けないのに加え一刻も早くこの場を立ち去りたい僕はただただそそくさと浴場を出ていくことしか出来なかった。
言うまでもなく、たった今強いられた事柄をどうやって回避し逃げてしまおうかと必死に考えながら。