【プロローグ】 晩夏漂う秋の午後
夏も過ぎ去り、季節は秋を迎えようとしている。
それでいて到底そうとは思えぬ常夏の気温にはどうにも地球の行く末を案じさせられてしまうが、この暑さにも年を追う毎に慣れてしまうのだろうかと考えると何だかもう嘆く意味すら見出せなくなってきてしまう。
何が悲しくてこの時期に熱中症で倒れる人間が出てくるというのか、世の中のお偉いさん方には是非とも環境問題の改善を急いで欲しいものだ。
九月も半ばだというのに昼前を迎えようという時間をどうにか扇風機で我慢しているものの室内も屋外もまだまだ暑く、寝苦しさが安眠を妨げていること山の如しである。
昨夜は遅くまで読書に耽っていたため今日は存分に寝るつもりだったというのに、こうも蒸し蒸ししていては二度寝もままならない。
こうやって眠りかけては暑さが気になって寝返りを打ってを繰り返していても時間の無駄だ。
自分が思っている以上に体は睡眠を欲しているが、顔を洗って朝食……というかもう昼食だが、腹を満たせば目も覚めるだろう。
「あー……起きるか」
ベッドの上で大きく伸びをして渋々ながらも起き上がると、あくびを一つ挟んでそのままリビングへと向かう。
扉を開くとソファーに腰掛け昼ドラ的な番組を見ている母が同時に振り返った。
一階にある喫茶店の店主である母さんは基本的に休日も働いていて中々この時間に部屋に居ることもないのだが昨日と今日、それすなわちシルバーウィークの頭二日は店を開けないことにしたのだそうだ。
まあ連休の初日や二日目ともなれば客も減るだろうし、たまにはゆっくりして欲しい気持ちもあるのでこれ幸いといった感じか。
「昼過ぎまでは寝てるんじゃなかったの? 随分と早いじゃない」
前述の理由で朝食は不要な旨を予め伝えておいたこともあって母さんは少し意外そうにしている。
僕だってそうしたかったさ、全然まだ眠いもの。
「そのつもりだったんだけど、暑くて二度寝どころじゃないから諦めた。あぁ~、こっちは涼しいし、ここで寝ようかな」
「何でここで寝るのよ、エアコン点ければいいじゃない」
「九月にもなってクーラーを使うのは負けた気がするから嫌なの」
地球温暖化に屈した感じがしてどうにも気が進まない。
加えて言えばいつまでも部屋にいる間ずっとエアコンを点けていたら電気代も馬鹿にならないし。
そんな内心を知ってか知らずか、母さんは「偏屈なんだから」と呆れた様に笑って腰を上げると冷蔵庫を開いた。
「朝昼兼用でいいでしょ? すぐ食べる?」
「うん、そうする」
もう一度大きなあくびをして差し出されたピッチャーとコップを受け取り、そのまま椅子に座って昼ご飯が出来るのを待つのだった。
「だった、じゃないわよ。なに座ってんの、お箸やらめんつゆやらが出てないでしょ」
「……はいはい」
何だろう、心を読まれたのかな。それともモノローグを読んだのかな。
色んな意味でおかしいよねそれって。
気にしても仕方がない……と片付けてしまうのもどうかと思うけど、サッサと席に着いた僕も僕なのでそこは黙って準備を手伝うことに。
そうして母と二人で素麺を平らげ、極力自分のことは自分でやるという我が家の方針に則って使った分の食器を洗って自分の部屋に戻る。
若干季節外れな感がしないでもないが、この暑さじゃ食欲もそうは湧かないしむしろ丁度いいとか思ってしまえるのだから世も末だ。
「さて……」
無事に腹も満たしたわけだけど、この休日をどう過ごしたものか。
再び惰眠を貪るか?
いやいや、それは貴重な休日の使い方としてどうなんだ。
なら読書の続きでもするか?
眠たさのせいで集中して文字を読めるとは思えないので無駄に時間を浪費してしまうだけで終わってしまうとしか思えない。
と言っても、部屋で過ごせば読書じゃなくとも同じ結末を辿るのではなかろうか。
となると外にでも出るか。
「あ」
そうだ、せっかくの連休なんだし買い物に行くとしよう。
少し前からキーボードを買い換えたいと思っていたところだったんだ。
つい先日十七歳の誕生日を迎えたため母さんから小遣いを貰ったし、使い道はそれに決定ということにすれば丁度良い。
特に熱心な趣味や物欲もなく、そう散財するような性格でもないのでこういう時でもなければコンビニと書店以外の店に出向く機会もないしたまには有意義に過ごすのもいいだろう。
そんなわけで僕は顔を洗い、着替えを済ませると母さんに一言告げて家を出ることにした。
雲の少ない空には燦々とした太陽が恐ろしいまでの存在感を放っており、本当に秋を迎える気があるのだろうかと言いたくなる程に蒸し暑く、夏休みの間と何も変わっていないじゃないかと愚痴を溢したくなる。
九月だよ九月。
すれ違う通行人も誰一人例外なく半袖姿で、何一つ夏じゃない要素が見つからないんだけど。
数年後には小中学生の夏休みが九月半ばまで延びていたりしないだろうな。
そんな馬鹿なことを考えながら、汗を流し駅前の繁華街へと向かう。
ほんの十分程の移動ではあるが、近いからと徒歩を選んだことを後悔するまでに掛かった時間はその三分の一足らずだ。
大きな家電量販店に到着し自動ドアを潜った瞬間の涼しい風はもはや極上と呼ぶに相応しい熱気からの解放をもたらし、いっそ何時間でもここに留まりたい気持ちすら湧いていた。
いやいや、そんなことはしないけども。
ウィンドウショッピングはしない主義だろうと揺れる心に言い聞かせ、階段を昇ってパソコンなどが陳列してあるコーナーへと向かう。
滅多に来ることがないからか、随分と目新しい物ばかりが並んでおり選ぶのにも中々苦労しそうだというのが最初の印象だった。
連休ゆえか多くの客で賑わう店内をゆっくりと歩いていくと、キーボード一つ取っても随分と見たことのないタイプの物ばかりで正直驚きである。
僕が使っている物の半分もないような薄さの物、どういう利点があるのかは定かではないがLEDが点いていてキーが光を放っている物、挙げ句の果てには折りたたみが出来る物まであって、少し見ない間にも時代は進んで行るんだなぁと実感させられている感じだ。
別にデザインに拘る理由もないし、ゲームをしたり持ち運んだりする予定もないのでそこまで高性能な物を求めているわけではないんだけど……こうも品数が多いとそれでも迷うな。
買い物に迷ったり長時間店内でうろうろするのが嫌いな僕ではあるが、ろくに知識もないので即断即決も難しいものがある。
とはいえあまり同じ場所でずっと眺めていると店員が声を掛けてきそうなので比較的オーソドックスで値段が手頃な物に決め、ついでにUSBメモリを購入してレジに向かうことにした。
またあの暑い中を歩いて帰るのかぁ……と思うと若干憂鬱ではあるが、基本的に家であり自分の部屋にいるのが一番好きな引き籠もり体質の僕にとっては最短時間で帰ることが大事なのだ。
別に人と出かけている時にそんなことを思ったりはしないし、そういう態度を取るほど残念な性格をしているわけでもないので誤解しないようにして欲しい。
普通に友達もいるし、どちらかというと協調性の塊と言っても過言ではないと自負してすらいる。
単に自発的に誰かを誘ったり出掛けたりといったことをしないインドアな人間だということだ。
何だか誰に対しての自己紹介なのかもよく分からなくなってきたし、だからといって歩いて帰宅するだけの道のりで他に語ることもないので以下省略ということにしよう。
それから特に何事もなく帰宅を果たした僕はさっそく買ったばかりのキーボードに交換する作業に取り掛かった。
ちなみに購入したのは今までの物とサイズや形状が似ている物で、違いはワイヤレスになったという部分ぐらいだ。
キーボードの交換なんて外して取り替える。
それだけのことだと思いきや、思いの外あれこれと時間を食ってしまったのは知識の無さゆえのことだと言わざるを得ないだろう。
元々パソコンであっても周辺機器であっても大して詳しくもないせいで説明書を見ても全然上手くいかないわけだ。
なまじワイヤレスの物を選んだせいで何かパソコン本体の方にも設定だのインストールだのが必要だとか言うんだもん、絶対そのせいだよ。
面倒臭いなぁ……と思いながらパソコンに向かい合うこと一時間近く。
説明書と睨めっこをしながらどうにか動作するまでに至り、色々と疲れたからもう今日はパソコン触らない、という意味不明な宣言を敢えて口にしてベッドの上に倒れ込んで夕飯までやっぱり読書の続きでもしようかなんて考えが頭を過ぎったその時。
頭上から微かに声が聞こえる。
決して傍に置いてある携帯が告げる音ではない。
それはベッドの上部の棚に置いてあるショルダーバッグの中から聞こえる、確かな女性が問い掛ける声。
幾度となく行き来し、数え切れない程に現実離れした様々な時間を過ごしてきた異世界から僕の名を呼ぶ声だった。