【第二十四章】 女達の秘め事
時の番人ことクロノスなる神が鎮座する神殿を離れて少しの時間が経った頃。
一行はすぐ傍にある森の中へと足を踏み入れていた。
康平の働きによって知らず知らずの内に全てが終わっていたことを知った三人は大凡の事情を聞かされたものの、その怪奇さや末恐ろしさ、或いは機運に対する驚きを完全に消化するには至っていない。
数百年もの昔に親交を温めたノスルクとの関係。
時間を停止させるという異様で異質な力。
そしてその無敵かつ対処不可能に思える能力に対してただ一人影響を受けず神と相対した康平。
その全てがにわかに信じがたい事実であり、気付けば全てが終わっていたという現実は何とも言い表せぬ感情を残している。
特に二人の女勇者の驚きは大きい。
康平とラルフが小屋で火や寝床の用意をしている間に森の奥へ入り、食料を調達する役目を担うアイミスとアネットは道中でもあれこれと感想を述べ合っていた。
「時間を止められてたっつー実感も大してねえが、闘わずに済んだってのは僥倖なこったな」
キョロキョロと視線を左右に泳がせながら口に出来そうな物を探すアネットは両手を天に向け、お手上げのポーズで言った。
隣を歩くアイミスも同じ意見ではあったが、そんな中でも康平が自分達に出来ないことをやってのけたことがどこか誇らしい。
「ええ、私達とは会うことすらしませんでしたからね……上手くやってくれたコウヘイに感謝せねば」
「それはその通りだけどよ、時間をそのまま停止させちまうなんざどう考えてもおかしいだろ。普通の人間がそんな奴に勝てるかってんだ」
「門……マジックアイテムや同類の武器を遙かに凌ぐ天界由来の武具の総称、という話でしたが、どれもこれもが我々の世界では考えられない能力ばかり。末恐ろしい限りです」
「空を飛んだり心を読んだり、だったか。サミットの時に聞いた話じゃあよ」
「ユノ王国の連中のことですね。あとはフローレシアの守護星なる者達も所持しているという話でしたが」
「そういやそんな話もあったな、氷を操るだの鳥を召喚するだの言ってたっけな。赤髪の王やユノの女王によるとそいつらも大概化け物じみてたっつー話だが、こんなにキツいなら一人二人借りてこりゃよかったぜまったく」
「あの国がそう簡単に他国への協力を受け入れるとも思えませんがね。サミットに参加したというだけでも予想外の出来事と言っていいぐらいでしたから」
「あのキャミィとかって女ならユノの女王や相棒が頼めば首を縦に振ってくれそうなもんだが、どうあれ今になってあれこれと言っても仕方がねえって話さな。お、川が見えたぞ」
事前に聞いていた川の存在。
少し前からうっすらと聞こえていた水の流れる音を頼りに何となくその方向に進みながら散策を続けていた最中、木々の隙間から確かにそれらしき物を二人の目が捕らえていた。
「川を見つけたはよいですが、道具も無しにどうなさるので?」
「お? 魚釣りしたことねえのか?」
「は、山籠もりの経験はそれなりにあるつもりですが、魚を捕って食料としたことは生憎と」
「日も暮れちまった今、餌に釣られて出てくる魚はそうはいねえもんさ。道具は必要ねえ」
「ほう」
「岩や草の陰なんかを見てみな、ちらっと尾ひれが見えてんだろ」
すぐ傍まで来て立ち止まると、アイミスは言われた通り水辺から静かに流れる川を見渡した。
一見した限り生物の姿は見当たらなかったが、確かに隅の方や岩の傍には魚の一部と思しき部位が見え隠れしている。
とはいえ、それがどう今の説明と繋がるのかはアイミス自身理解出来ていない。
そうであろうことを表情から察したアネットはニヤリとしたり顔を浮かべ、腰から剣を抜いた。
「こんな時間は奴等も油断してるってこった、そこを狙えば針も竿もいらねえのさ」
じゃらんと刃が擦れる音を残して鞘から取り出された剣を川へと向けると、アネットは突きによる斬撃波を放つ。
普段と違い威力の抑えられた一閃は水面を吹き飛ばし、辺りに水しぶきを舞わせた。
それだけではなく、遅れる様にして魚が数匹二人の間に落下している。
手の平大の魚は原型を維持したまま、打ち上げられたことで逃げる術を失い地面を小さく跳ねているだけだ。
それらの光景を目にして初めて、アイミスは得心がいった。
「なるほど、これはお見事」
「サバイバル経験の差ってなもんだな。自給自足は嫌と言うほどやってきたからよ」
「お見逸れしました、と素直に申しておくとしましょう。これを釣りと呼んでよいのかはいささか疑問ではありますが」
「細かいことは気にすんな。魚が取れりゃ針だろうが銛だろうが網だろうが突きだろうが釣りさ。一人二匹も取りゃ晩飯は何とかなるだろう、あとは果物でも持って帰れば事足りる」
「来る途中に目星を付けておいた果実ですね」
「ああ、天界の果物ってのも乙なもんだろ。今日はお供の酒がねえのが残念だぜまったく」
こんなことならババアん所から貰って来ておけばよかったぜ。
そう付け加えるアネットに、アイミスは苦笑を返すことしか出来ない。
そうして方や潜んでいる魚を探し、方や打ち上げられた魚を木の枝に突き刺し持ち運べる様にしたり周辺の木に生っている赤い果物を採集したりといった役割分担をそれぞれがこなし、特に問題無く食料の調達という任務を終える。
知らず知らずのうちに寝泊まりするための小屋から離れてしまっていたことに気付いた二人は敢えて更に奥へと進み、明日に備えた下見として半ば程まで歩いてから康平達の元へと帰る道を辿っていた。
その道中、森の中とは思えぬ明るさをもたらしている空を見上げながら今ばかりは戦いを忘れ他愛のない話を交す二人の空間にあって、予告無くおかしな方向へと舵を切ったのは他ならぬその片割れアネットであった。
「ところでアイミスよ」
「はい?」
両手一杯の果物を落とさない様にバランスを取り直しつつ、アイミスは何気ない返事を返す。
続いた言葉は思わず噴き出してしまう程の、ここ数日すっかり影を潜めていたアネットの本性を思い出させるには十分過ぎる突拍子もない問い掛けだった。
「昨夜はしっかり楽しんだのかい?」
「楽しんだ、とは?」
「そりゃおめえ男と女が同じベッドで寝たとありゃお楽しみなんざ一つしかねえだろう」
「な……なぜ唐突にそのような下世話な話題になるのです。第一それはおいそれと人に語って聞かせる様なことではないでしょう」
「おいおい、新婚早々そんなんじゃ先が思い遣られるぜ?」
「我々は闘い、平和を勝ち取るための旅をしているのです。敵地とまではいかずとも、その旅先でそのようなことが出来ようはずがありますか」
「もっともらしい言い訳にしか聞こえないがね」
お得意の、と思える、下品な、としか思えない話に最初は戸惑っていたアイミスであったが、康平不在の間に夫婦の心得を指南してもらったことが思い出され、不覚にも言葉に詰まる。
だが、夫婦であるという矜持が言い負かされることを嫌い、半ば意地になって反射的に強がりを返していた。
「心配なさらずとも出立の前日にはきちんと妻の勤めを果たしております。といっても……正直に申しますと、私が初めてだったせいかあまりうまくいきませんでしたが」
むきになって反論したものの、明らかに途中から勢いが失われていく。
そんなアイミスを見て、アネットは愉快そうに笑った。
「初めてってのは得てしてそんなもんさ。本来なら男が、この場合相棒が上手くリードしてやれりゃいいんだろうが、あいつ自身そういったもんを身に着けることに積極的じゃねえし、まだまだ拙いっつーか手慣れてねえっつーか」
「それが理由なのかどうかまでは私には分かりませんが、確かにコウヘイは頑なに遠慮する姿勢でいたのは間違いない……と、思います」
「ほう。それで、お前さんはどうしたんだい」
「アネット様に教わった通り、そこで引き下がっては女としての沽券に関わると思いどうにか説き伏せて納得と了承を得て……」
「無事に純潔を捧げた、と」
「まあ……有り体に言えば」
「例の相棒の世界でのルールだの常識だのってのがまだ引っ掛かりになってる部分もあるんだろうが、あいつの場合照れているというよりは単純に恥ずかしがって嫌がってる部分があるからなあ。アタシから見りゃそこも初々しくてそそるんだが……何にせよ、アタシがもっと積極的に仕込んでやる必要があるってことだ」
「はあ……そういうもの、なのでしょうか」
「アタシも満足、お前さん達夫婦も円満、これぞ皆が幸せってもんだろうよ」
「そのお言葉に同意してしまうのはいよいよ女としての敗北宣言に他ならない気がするのですが……」
「そう思うならお前さんが満足させてやれるだけの経験を培いそれを以て愛情を捧げてやるこったな。務め、なんて言ってるようじゃまだまだその域には程遠いってなもんさ」
「ぬ……」
「つーことでだ、お前さんにその気がないなら今日はアタシが借りてもいいよな?」
「聞くまでもないのでしょうが、何をなさるおつもりで?」
「そいつは至極簡単だ、たったの三言で済む。久々に・相棒と・ヤる」
「コウヘイは私一人の物ではありませんし、それを拒否するつもりはありませんが……アネット様の頭はそればかりなのですね」
「欲求不満を溜め込むのは美容の敵ってなもんだ。アタシにとっての男女の仲なんざそれありきだからよ」
「愛情を育む行為であることは理解出来たつもりでいますが、何がそうもアネット様の欲求を駆り立てるのかは、やはり私などにはまだまだ分かりそうにもありませんね」
アイミスはやれやれと呆れた様に首を振り、帰りを待つコウヘイの顔を思い浮かべる。
アネットがコウヘイを気に入り、傍に置きたがる姿をいつも見てきた。
二人の間にある絆や信頼関係が、この世界で言えば自分に次いで長い付き合いを経て培われたものであることを誰よりも知っている。
だからといって自分の様に夫婦になることを望むでもなく、時折酒を酌み交わし、時折体を重ねるぐらいの関係が気楽で居心地が良いと言うその感覚を理解するには百年の歳月が必要なのだろうか。
そんなこをと考えながら、アイミスは一方的に持論を展開するアネットに曖昧な相づちを返しつつその康平の元へと戻っていくのだった。