【第九章】 神髄
「炎の障壁!!」
怒声とも雄叫びとも取れる大きな声を響かせたサラマンダーは余裕ぶった笑みなど欠片もなくなった殺気に満ちる目を見開き、両腕を大きく左右に広げた。
すると突如として辺り一帯から嫌な音が耳に届き始める。
轟々と、バチバチと、いかにも何かが燃え盛っている様な不穏さと身の危険を感じさせるその音は徐々に激しさを増していき、やや遅れて視界からも僕達に降り懸かろうとしている異変を伝えてきていた。
当然ながらサラマンダーから完全には目を逸らすことが出来ずにいる中、外周を取り囲む様に生えていた燃え盛る木々の炎が急激に体積を広げていく。
視界の端で葉の代わりに枝の至る所に灯っていた炎が爆発的に火力を増したかと思うと一気に上下左右に広がり、やがて幹をも飲み込み、更には左右の木と連なって瞬く間に屋敷全体を囲む炎の檻と化していった。
「……これは」
直方体の炎の壁、或いは箱と言った方が近いか、そんな異様な何かが四方を覆っている。
今や木の奥にあったはずの塀は完全に隠れており、高さを取っても倍はあろうかという真っ赤な、触れただけで丸焦げになってしまうのではないかという業火が少しの隙間もなく広がっていた。
必然、その中にいるせいで恐ろしいまでに温度が上がっていて日本の真夏など比ではない蒸し暑さが危機感を増長させる。
「ふむ、出口まで塞がっているトラな」
そんな恐るべき状況下で、すぐ前にいる虎の人が一度左右を見渡すと別段慌てる様子もなくボソリと呟いた。
さすがと言うべきか、他の二人も同じく冷静さに微塵の乱れもない。
ジャックもまたキョロキョロと辺りに視線を向け、呆れた様な声で肩を竦める。
「あーあー、んなことしちまったら立派なお屋敷が丸焦げになっちまうぜ?」
「無くなったならまた作らせればいいだけの話だ。下民の存在価値など神に尽くすこと以外にはない」
「そうかよ、どこまでもクソったれた野郎だなおい。てめえみたいなもんの下で暮らさなきゃならねえ民が不憫過ぎて泣けてくらあ」
「外界のうつけ者共が、他人の心配をしている場合ではないことになぜ気付かん」
「ああ?」
「見ての通り、これで俺を殺さない限り外には出れないわけだが……」
「ほう、つまりは当初の予定通りってわけだ」
「その威勢の良さをいつまで保っていられるかな」
「生憎と、てめえなんぞよりもよっぽどバケモンじみた連中と命からがらやりあって来たもんでな。今更肩書きやらぶっ飛んだ能力にビビる程ヌルい生き方はしてねえよ」
「ならばその教訓を生かさず無謀にも神に挑もうとしたことを悔いながら死んでゆけ!」
嘆きの焔
感情的な言葉から一転、呟く様な声が聞こえたかと思うとサラマンダーは降ろした腕を今度は片方だけ真上に向ける。
必然的に警戒心が上空へ向く中、目に入ったのは真上から降ってくる球状の炎の雨だった。
バレーボール程の大きさのオレンジ色の炎……だと一瞬思えたが、どこかおかしい。
今までに見てきた炎の魔法と比べて形が綺麗過ぎるのだ。
大別するならば球体に近い、というだけのそれらとは違い、本当に綺麗なボールの様な形状……あれは炎の塊というよりは、どちらかというと液体や粘液に近い物にも見える。
事実はどうあれ本体と真上の両方を警戒しなければならない状態で数にして二十はあるそんな何かはすぐに僕達の周囲に降り注いだ。
直接的な攻撃に用いる目的ではなかったのかまともに直撃する位置に落下してきた物はなかったが、地面に接触した正体不明の炎らしき物は消えることなくそのまま真っ赤な水溜まりと化していく。
土に吸収されるでもなく、表面が揺れたり波打ったりするでもなくそこに留まっている様を見るにやはり高濃度の液体や粘液なのか、はたまた固形だと考えてよさそうだ。
問題はこれが何を意味するのか……だが。
「なんだあ? アタシ達の足場でも奪おうってのか?」
僕から見て正面にいるジャックは前後左右に所狭しと散らばり嫌な存在感を放っている直径一メートル程の謎の液体を一瞥し眉をひそめる。
確かにこれが炎と同じ性質の物であったなら、僕達の側にとっては行動の自由を大幅に奪われることになるだろう。それは絶対に不味い。
「そのような下らぬ戦法が奥の手だとでも思うのか? ただの水ではないが、だからといって溶岩というわけでもない。見た目ほど熱を持っているわけではないから存分に闘い、俺に殺されることが出来るとも」
「そう言われて簡単に納得出来るとでも思ってんのかよ。何らかの仕掛けがあることが確定してんじゃねえか」
「心配せずともすぐに体感させてやるさ……お前達が呼び起こした絶望的までの力の差をな」
もう一度呟くように言うと、サラマンダーはゆっくりと数歩移動し自身の傍にある水溜まりの上に立った。
何をしようというのか。
それも当然気にはなるのだが、ああもしっかりと体重が掛かっているのに靴が浸っている様子がないあたりやはり液状の物ではないことが分かる。
「死を以て贖え、無謀にも天に挑もうとしたことを! これが神が神である所以だ!」
轟々と燃え盛る炎の壁が照らす敷地の中、再び絶叫に近い怒鳴り声が響き渡る。
その瞬間、サラマンダーの姿が消え去った。
これは一体どういうことだと、誰もが可能な限りの早さで視線を動かし続け居場所を探るもそれらしき影を見つけることが出来ない。
見たまま視界から消える能力と考えるべきか、それとも別の何かへの過程であると読むべきか。
いずれにせよ直前に立ち位置を変えている以上あの液体が無関係ではあるまい。
僅かな時間で必死に捻り出せた見解はその程度でしかなかったが、そこで強制的に切り替えさせられてしまう。
サラマンダーが消え去ってほんの数秒。
何の予兆もなくこの場に戻った神は立ち位置を大きく変え、どういうわけかアイミスさんの後ろに現れたのだ。
「なっ!?」
入り口があった場所の近くにいる僕の位置からは敷地のほぼ全体が見えているが中心付近に立つアイミスさんにとってはそうもいかない。
まさしく瞬間移動の如く何も無かった場所に出現したサラマンダーに対し、一瞬遅れて背後に回られたことに気付いたアイミスさんは反射的に振り返り剣を構えるが距離が近くあっさりと初動で先を行かれてしまう。
手を伸ばせば届く程の至近距離から浴びせられる火炎は力一杯振り抜こうとする腕の動きを止め、回避の動きを強いた。
「くっ」
アイミスさんは身を反らすことでぎりぎり直撃を避けるが、そのために膝を折ったために俊敏さが失われ体勢を崩した所にすかさず蹴りが繰り出される。
顔面を狙った渾身の蹴りにどうにか反応し左腕を割り込ませることで防御したアイミスさんは同じ理由で踏ん張る力が足りず、ガードごと吹っ飛ばされて地面を転がった。
それでも防戦に甘んじてなるかとばかりに受け身を取り、回転する勢いを利用して起き上がると同時に斬撃波を放ち接近を防ぐ。
片腕ながら横一線に空を切った剣から射出された白光を帯びる斬撃の筋が真っ直ぐにサラマンダーに向かって飛ぶが、それも効果的な結果をもたらすことなく標的の消えた無人の空間を通過していくだけに終わってしまっていた。
到達する寸前、またしてもそこにいたはずの男が忽然と姿を消したからだ。
最初の行動からもあの赤い印の上を自由に移動出来る能力だと見て間違いないだろう。
それは明らかだとはいえ、逆に言えばそれだけしか明らかになっていないこの状況下で再び周囲の全てが危険域と化した敷地内を四つの視線が追い続ける。
間髪入れずに現れたその姿を最初に認識したのは最も見晴らしの良い位置にいる僕と、少し前の方にいる虎の人だったはずだ。
サラマンダーは音もなくジャックの真横辺りに出現している。
その存在を声で伝えるよりも本人が気配に気付く方が早くはあったが、あの察知能力に長けるジャックですら瞬時に反応することが出来ずやはり攻撃の手は僅かに遅れてしまっていた。
炎を纏った右腕が鷲掴みにせんとばかりに顔面へと伸びる。
頑なに顔を狙いたがるのはあの男の嗜虐的な性格ゆえか。
即座の攻撃に出る時間的な猶予のないジャックは剣を逆さに向け、柄の先端でその掌を受け止めた。
「ち……あっちいなクソが!!」
流石に十センチそこらの位置で燃え盛る炎と接していては熱さがダイレクトに伝わってしまうらしく、ジャックはその状態を嫌う様に左足を真上に蹴り上げることで攻撃と距離を置こうとする意図を兼ね備えた反撃を見せた。
しかし瞬間移動をしたり炎を駆使するだけではなく体術にも長けているサラマンダーは顎を狙ったのと思われる密着状態でしかもほぼ真下からの鋭い蹴りをローブに掠める紙一重かつ最小限の動きで躱すと片足立ちになったことで生まれた隙を見過ごすことなく、逆に空いた布一枚と守る物の無い剥き出しの腹部へと膝を叩き込む。
胃の付近へまともに膝蹴りを受けたジャックは横腹を押さえ苦しげな息を吐き出しながら足を折ったが、それでも追い打ちだけはさせまいと屈んだ状態で剣を振った。
が、まるでそれを予測していたように既にサラマンダーは姿を消し、またも行方を眩ませてしまったために虚しく空振るだけに終わってしまう。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
三度、この場全体に声一つ漏らせない緊張感が走る。
どうにかしたくとも対策を練る暇など与えて貰えるはずもなく、短い消失の時間を経てアイミスさんの斜め後ろに現れたことが否応なく目の前の展開に集中せざるを得ない状況を生み出していた。
それでも死角に移動してくるであろうことを予測していたのか、先程とは違いアイミスさんは即座に反応する。
何度も同じ手を食うかという意地と、半ば確信があったのではないかとさえ思わされる迷いのない動きで振り向き様に放たれた素早い突きは傍目にも絶妙のタイミングに映る鋭い一撃で、そこに確かな瞬間の希望を抱かせたものの、ここでも相手が一歩上を行ったとしか言いようのない結果を残していた。
行ける。
そんな祈る気持ちも虚しく切望する未来が実現に至ることはなく、突き出された剣はただ無人の空間を通過した。
そうなったのはサラマンダーもまた、同じ戦術を繰り返す中で対応されてしまうことを想定していたからなのだろう。
伸びきった腕の先から敵の姿は消えている。
あの位置に現れてからアイミスさんが体の向きを変える僅かな間に消えているのだから予め陽動目的だったと考える以外に思い当たる理由が見つからない。
ならば真の狙いは何なのかと、次に出てくる場所をいち早く察知することに全神経を集中する短い時間がまた静寂へと変わる。
ここまでの流れが安易な憶測を招いたのか、或いはそれすらもがあの男の策略だったのか、自然と一番の候補であるジャックの周辺に全ての目が向いたその時。
全く違った方向から届いた土を擦る音がいかに愚かな思い違いをしていたかという現実を無慈悲にも僕達へと突き付きた。
二人の背後を繰り返し狙ってきていたことから次に狙われるのはジャックになるはずだと半ば決め付けてしまっていた軽率な読みを全否定するかの様に、サラマンダーは再びアイミスさんの背後に立っている。
先程とは別の位置でこそあるが、アイミスさんが体の向きを変えたことで真後ろになってしまった目印の上に現れたサラマンダーは胸部を守る鉄製の胸当て、その首根っこの辺りを後ろから掴み、反射的に振り返ろうとするも不覚を取ったために反応しきれていない体を屋敷の外壁に向かって力任せに投げ付けた。
宙に浮いた状態で数メートル飛ばされ、背中から壁にぶつかったアイミスさんは息が詰まったのか苦しげな息を漏らして地面へと崩れ落ちる。
「アイミスっ!」
相当な衝撃であろうことに加えて受け身も取れずに落下したダメージは見るからに軽いものではない。
僕とてジャックと同じ様に名を叫びそうになったし、今すぐに駆け寄りたいという気持ちだってある。
だが、それをしてしまえば現状放置されている僕に矛先を向けるきっかけを作ることになりかねないということもあり痛い程に下唇を噛み、爪が食い込むまでに両の拳に力を入れて必死に自制するしかない。
そうなってしまえば余計に状況を悪化させるだけだ。
堪えるしかない、我慢するしかない。
それが何よりも……もどかしい。
「ちっ……確かに、こいつはムカつくぐれえ厄介な力だな。少々ナメて掛かってたようだ、こうなりゃ方針を変更するっきゃねえか」
片手と片膝を突き、どうにか起き上がったアイミスさんは代わりに駆け寄ろうとするジャックを左手で制する。
やや四肢が震えている辺り、生半可な痛みではないだろう。
それでも敵の姿を捕らえて離さない目は闘志を失っていない。
ジャックも戦闘の続行が困難な事態にまでは至っていないと判断したのか、ペッと唾と混じった血を吐き同じく孤立した位置で嘲笑う様にその姿を見ているサラマンダーへと改めて向き直った。
「これが絶対的な力の差というものだ。諦めて命乞いでもしてみるか? 何かが変わることはないと分かった上で」
「いいや、天帝とやらをぶっ殺すつもりでいたが、そいつはひとまずやめだってだけの話さ。てめえをぶっ潰せりゃその後はどうなってもいい、そういうつもりでやる」
先を見据えた、長い道のりの第一歩ではなく今この瞬間に全てを懸ける。
その決死の覚悟を表明する宣言に異を唱える者はおらず、皆がほぼ同時にコクリと頷いていた。
例え僕達がここで死んだとしても、地上と呼ばれる世界にはまだ後を託せる人がいる。
いくつもある関門の中の一つだとしても、あるのとないのでは大きな違いだろう。
大事なのは後に繋ぐこと、それが全てだ。
「トラ! テメエは取り敢えず相棒の護衛に戻れ!」
「任されたトラ」
目線はサラマンダーに向けたまま、ジャックは剣の先をこちらに向けた。
即答とも言える了承に痛む心がより強く締め付けられる。
僕のことは気にせずに三人で力を合わせてください。
そう言いたいのに、それが出来ないことが悔しくて仕方がない。
僕の周りにも赤い水溜まりは複数存在している。
正面切って攻撃される分には幾らか盾で防ぎようもあるのだろうが、あんな風に消えたり出たりして不意打ちで至近距離だったり死角から攻撃されては僕には為す術がないから。
「すいません……毎度足を引っ張るばかりで」
少し前の方に居た虎の人が僕のすぐ前まで戻ってくる。
僕を庇う様に、僕を守るために。
「そんな風に思っている者などいない。マスターにはマスターにしか出来ない役割があるはずだ。誰一人諦めていないからこそ、一瞬の勝機を見逃さないためにオイラ達がいるのだろう。その時が来たと判断すればオイラも加勢に向かう、気を落としている暇はない…………トラ」
「そうですね……弱気になってる場合じゃない。僕はやるべきことをやる、そのためにここにいるんだ」
例えその結果……死んでしまったとしても。
「ふう……」
過去にも何度かあったけど、死ぬ覚悟が出来ると意外と怖さよりも冷静さが勝るのはどういう理屈なのだろうか。
皆が生き残れるのならば。
仲間が勝利を掴めるのならば。
そう思えば思う程に、それが自分の命なんかよりも大切なことなのだと何の迷いもなく、何ら葛藤する必要もなく割り切れてしまうからなのかな。
よし、と。
心で呟き、目の前の全てを何一つ見逃すまいと五感と思考回路の全てを注ぎ込んだ。
例えばあのメロ・リリロアが門の力で影から出てくる様に頭部から徐々に姿が現れるのであればその瞬間に察知し対処のしようもあるが、そうではなく本当に瞬間移動みたいにその場に移動しているせいでそれが困難になっている。
ただその認識との違いは消えて、次の瞬間に別の場所に現れる、というわけではないという点だ。
二度目からはずっと数えていた。
結果として分かったのは消失から出現までの間に例外なく二秒ほどの消えたままの時間を経ているということ。
その法則が何らかの突破口になればいいのだけど……ああもリスクを限りなく避けたヒット&アウェー戦法に徹してこられるとこちらのダメージや消耗が増していくばかり。
つまり長期戦に勝機はない。
どれだけの危険があろうとも全員が死んで終わるか、全員が死んででも勝つか、はたまた全員でなくとも何人かが生き残った上で勝利を掴むか。
仮にその三つから未来を選ばなければならないのだとしても2/3でこちらの目的が果たせるのなら可能性はゼロではない。
恐らくは……いや確実と言えるだろう。
僕以外の三人とてそのつもりでいるはずだ。
ならば絶対に諦めない。
諦める理由なんてない。
諦めさせられる筋合いもない。
あんな風に罪のない人々が殺し合い、謀殺される世界なんてもうたくさんだ。
だからこそ、今に全てを捧げてやる。




