【第二十一章】 誘滅の陣
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二人の人柄や性格もあってか、緊張感や危機感といった重苦しい要素のない空間を維持したまま僕達はエル達の帰りを待った。
もしかしたら意図的にそうしてくれているのかもしれないとも思ったけど、あまりに普通に談笑しているので正直僕にもはっきりどちらとは言えない感じである。
いずれにしても気を緩めていられる時ではないにせよ変に気分が沈むだけのことに利点もないのでその辺りはありがたい限りだ。
といっても僕はあれこれと思考を巡らせ続けていたせいでほとんど会話に参加しておらず、振られた時だけ「ええ」とか「まあ」とか「そうですね」とかといった短い返事をしているだけという具合なのだが、何はともあれ二人は楽しそうなので良しとしよう。
楽しさ余って、というわけではないのだろうが、少なくともどこかでスイッチが切り替わったのか少し前までの遠慮がちに照れたり恥じらったりといった姿を捨て去り、明らかにウェハスールさんに乗せられたことも原因の一つであるものの積極性が芽生えたらしいナディアは今や僕の腕に抱き付いている始末である。
本人曰く、
「晴れて王子のお側に居られることになりましたし、これからはもっと自分に正直になろうと思いまして」
とのことだが、何かもう二人の中では新婚みたいな認識っぽいし、ナディアは目が合うと屈託のない笑みを向けてくるし、話し掛けられる度に僕の腕を抱く両腕の力は増すしと、こんな時だというのに僕の悩みの種が増えている気がしてならない。
女性を突き放すことも、やっぱり結婚は無理があるとはっきり告げることも出来ない僕の何と愚かなことか。
まあ……後者に関しては天秤に掛けられているのが命なのだから致し方ないかもしれないし、事情を考えれば断れない状況を作られた上での結果だというのにどうして自分が悪いことをしているような気分になるんだろう。
女性を傷付けるという最低な行為をしたくないがために言いたくても言えない、という自覚が逆に騙しているような錯覚を覚えるせいに違いない。
誰がこの外見、この性格、この身分の女性に微笑みかけられて冷たくあしらえるというのか。そんな男が居るなら連れてきてくれ。
身分の話で言えばどうして国王という身分であり十九歳、つまりは僕よりも年上なのに僕がタメ口でナディアが敬語なのかは甚だ疑問なのだけど……この人の敬語は歳云々ではなく立場上誰に対してでもそうなのでまた意味が違うのか。
「はぁ……」
自然と溜息が漏れる。
腕に伝わるやわらかな感触がどうにも集中力を乱してしまって考えが纏まらない。
信じるべきは何か、疑うべきは何か。
何が正解で何を疑い、どう対処するのが最善か。
どうにもはっきりとした答えは見つからない。
全てが可能性の大小という中での憶測であり、どちらに転んでもおかしくないといった材料から決断を迫られている状況と言っても過言ではないのだ。
あとは僕の性格の問題とでもいうのか、最悪の場合に備え、自分の勘と仲間を信じて選んだ道なら後悔はないという謂わば自分を無理矢理納得させるための理屈付けに頼っている有様である。
「王子? どうなさったのですか?」
ピタリとくっついているナディアが僕を見上げる。
さすがにあんな溜息を吐いてしまえばくっついていなくても気になるというものか。
「何というか、自分で出した結論なのに中々不安が拭えなくて」
敬語を使わないようにするもの一苦労である。
僕もどちらかというと誰に対しても敬語から入ることの方が多いだけに、急に口調を変えるというのは難儀な問題だ。
「きっと大丈夫ですよ、王子はいつだってわたくし達を導いてくださったではありませんか。少なくともわたくし達は何の不安も後悔もありません、王子に命を託すことになっても、例え運命を共にすることになったとしても」
そう言ってもらえるだけでどれだけ気持ち的に楽になることだろう。
性格柄あまり誰かに助けを求めたり弱味を見せたりといったことをしたがらない人間なだけに尚更だ。
「だったらその信頼を裏切らないようにしないとね。で、もう一ついいかな」
「はい?」
「結局のところ、何で僕のことを王子って呼ぶの?」
「何故と言われましても、王子はわたくしの王子様だからですけど」
「…………」
うん、全然分からん。
何かこの人独特の感性なのだろうか。
むしろどこに疑問があるのですか? みたいなきょとんとした顔されてもリアクションの取りようがない。
「うふふ」
と、横で楽しそうにしているウェハスールさんは由来を知っているっぽいなこれは。
後でこっそり聞いてみよう。
そんなことを考えていると、ふとナディアが何かに気付いた様な声を上げる。
「あら? 王子、ケイト、あちらを」
指差す先は木々の隙間から見える雲の多い空。
目を凝らしてみると、小さくはない何かが飛んでいるのが見える。
「どうやらエル達が帰ってきたみたいですね~」
皆で視線を集める中、接近してくる何かがその言葉通りエルとエルに両脇を抱えられながら飛んでいる神父さんであることを把握する。
こちらに向かって何かを叫んでいるエルの声は、一瞬何かを訴えかけてきているのかと肝を冷やしたものの近付いてくるにつれて僕達の名前を順に呼んでいるだけだったことが分かり一安心。
間もなくして僕達の前に着陸したエルは神父さんを降ろすなりウェハスールさんに飛び付いた。
「姉さんただいまっ」
「おかえりなさいエル。神父さんもご苦労様です。大事はございませんでしたでしょうか~?」
「ええ、こちらは滞りなく。まさかこの年になって人の力を借りて空を飛ぶことになるとは思いませんでした、大した能力をお持ちだ」
この場所を目指すのに必要だったと思われる手に持っていた地図をしまうと、風に煽られて若干乱れている祭服を正し、神父さんは周囲の兵を含む全員に一礼して人当たりの良い笑顔を浮かべる。
そのままウェハスールさんに促される形でこの地の結界針柱を確認してもらうと、僕達は全員で下山し、再びエレマージリングによってサントゥアリオの水軍基地へと移動するのだった。
○
朝方に出発した僕達がサントゥアリオ共和国本土の港に帰り着いたのは昼を迎える頃になっていた。
水軍基地から再び船に乗ったのだが、二組合同での移動となっているせいか僕達が戻った時には既に残っている船は二艘だけだったあたり他の組の大半は既に帰着していることが分かる。
恐らくではあるが、残る一組は守護星の人達だろう。
特にトラブルなどは起きていないと仮定すればあの人達も回り道をしている分だけ時間を食うはずだ。
そうしてまたしばらく海の上を渡る船上はどこか穏やかな空気のまま過ぎていく。
神父さんの方も間違いのないように針柱を設置出来たという話だし、僕達が担当した分もその目でしっかりと確認してもらっている。
ひとまず無事に任務を終えたことで緊張感から解放されたような気になっているのか、僕のみならずそれぞれが肩の荷が下りたといった様相だ。
うみねこ……なのかどうかは定かではないが、そんな感じの鳥が上空で舞っている青に挟まれた風景の中を進む船の上ではエルだけが長い移動で疲れたと言って部屋で寝ていて、僕達はデッキで海を眺めている帰路は取り立てて中身のある話をしているわけでもなく、ただただ途中でお茶の時間にしたりし他愛のない雑談などをしながら長閑に過ぎていった。
ちなみにだけど、エル達が帰ってきたぐらいからナディアは僕の腕から離れている。
さすがにこの緊迫続きの局面で他の国の人達に婚約云々などと言い出しては批難と反感を買うこと山の如しであるため今は伏せておこうということだ。
当然過ぎて涙が出そうになるぐらい当然の理屈なのでむしろそれに気付いてくれてよかったという感じですらある。
タメ口を使うわナディアなんて呼び方をするわとなれば周りの人達にしてみれば違和感だらけだろうけど……そこはもう指摘されないことを祈るしかかない。
とまあ、不安と憂いだらけながらもそんなこんなで船路も終わりを迎え、僕達は再上陸を果たした。
と、同時に予想外の光景を目の当たりにすることとなる。
どういうわけか港にはアルバートさんやハイクさん、セミリアさんにユメールさんといった他の班の人達だけではなくクロンヴァールさん、キアラさん、コルト君といった居残り組の面々までもが勢揃いしていた。
どういうことだろう?
その光景に全く同じ感想を抱いているらしいウェハスールさん、ナディアと目を見合わせるも揃って首を傾げる以外の行動に繋げられるはずもなく。
ひとまず行ってみましょうかと、ウェハスールさんを先頭に僕達も船を下りることにすることに。
「コウヘイ、無事か」
「はい、特に何事もなく」
陸地に足を着けるなりすぐにセミリアさんが寄ってくる。
キアラさんとコルト君も一緒だ。
「コウヘイ君、お帰りなさい。皆様も無事で何よりです」
その言葉を合図にそれぞれが挨拶や会釈を交し合い、自然とクロンヴァールさん達の居る位置まで揃って歩いていく。
当たり前の様に傍にはアルバートさん、ハイクさんが控えており、こちらは周りの目などお構いなしにユメールさんだけが左腕に抱き付いている状態だ。
「問題はないな?」
声の届く距離まで来るなり、クロンヴァールさんは僕を見る。
何故おまけで付いていった僕が責任者みたいになっているのだろうか。
「はい、何も問題はありません」
無理してハッキリとした口調で言ってはみたものの、内心はどきどきである。
実は勝手な事してました。なんてバレようものなら命が危うい。
いや、誤魔化したところで確実にあとで発覚するんだけど。
「残るはフローレシアの連中だけだ。まさかこのまま戻らぬ、などということはないだろうな」
僕を見る目付きが急に鋭くなった。
遺恨があるのは知っているけど神父さんのことも然り、だからなぜに僕が責任の所在であるみたいになっているのか。
あの人達がどういうつもりであろうと僕に説得することなんて出来るわけがないのに。
「さすがにこのまま投げ出すことは無いと思いますけど……マクネア王の命令で動いているわけですし」
「そうだといいがな」
大層気に入らなそうに舌打ちし、クロンヴァールさんはようやっと僕から目を逸らす。
聞きたいことがあるのはこちらも同じなのに話を打ち切られても困るのだけど。
「というか、どうしてクロンヴァールさん達はここに?」
「お前達が本城に戻るまでの時間を待つのは無駄でしかないだろう。道中で陣の撤収や武器兵糧の移送の様子を確かめる必要もあったしな」
「なるほど……」
とか言っている間にクロンヴァールさんは視線を海へと戻していた。
こうもあからさまに話は終わりだと言わんばかりの態度を取られては続けて問い掛けてみることも躊躇われ、結局エーデルバッハさん達が戻ってきた三十分後まで誰もが口数少なく待つこととなるのだった。
「お前達が最後だ、首尾を報告しろ」
やがて到着した守護星の四人が揃って船から下り、すぐ傍に固まっている僕達の元に合流するなりクロンヴァールさんがギロリと睨み付ける。
命令される筋合いなどない。と思っているのであろう心の内を隠そうともしないエーデルバッハさんは普通に睨み返しながら大層気に入らなそうに舌打ちをしたが、悪態が口を突くよりも先にキースさんが割って入りそれを阻止していた。
同じ船に乗った時にも思ったことだが、ノリの軽い人かと思いきや意外とこの四人の中では常識人なのかもしれない。正直……他三人が独特過ぎるだけだけな気もするけど。
「こっちは何の問題もなく終わったさ。地図の印の位置に間違いなくブッ刺した、現地の兵も立ち会ってるから下手を打ってるなんてことはねえよ」
必要な説明を分かりやすく簡潔に述べた報告ではあったが、クロンヴァールさんはクロンヴァールさんで「フン」と面倒臭そうに鼻を鳴らすだけで目を逸らしてしまう。
こんな時ぐらい大人な対応をしてくれればいいのに……なぜわざわざ波風が立つようなことをするのか。
と声を大にして言いたいところではあるが、そんなことをしようものなら二つの矛先がこっちに向きそうなので言えない。
「さあ神父よ、これで準備は万端整った。あとはお前の仕事を見届けるだけだ」
クロンヴァールさんはユメールさんの体を離し人集りに割って入ると、神父さんの目の前まで歩いていく。
対する神父さんもまた、小さく頷き数歩移動して全員と向かい合うように立った。
「まずはお礼から申し上げましょう。これで【人柱の呪い】発動の準備は整いました、皆様のご協力に感謝します」
にこりと、人当たりの良い笑顔を称えながら発せられた言葉を理解し違和感に気付くのに少しの時間を要し、誰もが咄嗟に疑問を口に出来ずに沈黙が生まれる。
その静寂を破ったのはジャランと金属が擦れる音だった。
「残念だが、この場面で洒落に付き合ってやれる程気の長い方ではない、少なくとも私はな。お前の言い間違いか、それとも私の聞き間違いか。互いのためにも出来れば後者であることを願いたいところだが?」
声の主であるクロンヴァールさんは僅かに眼を細め、剣を持つ左腕を神父さんに向けている。
しかし神父さんは微笑を崩さず、微塵も焦る様子を見せずに言葉を返した。
「随分と剣を抜くのが早いものですね」
「当然だろう、私は初めからお前を信用などしていない。初対面の相手に助けてあげましょうと言われて無条件に委ねられるほど平和な頭は持ち合わせておらん」
「流石は世界の王と言ったところですか。しかし、残念ながら言い間違いでも聞き間違いでもありません。私がわざわざやってきたのはそのために他ならないのですから」
「…………」
クロンヴァールさんは続きを促そうとしているのか、反応を見せない。
その間にアルバートさんやキアラさん、セミリアさんに加えウェハスールさんまでもが武器を抜き、エーデルバッハさん達は護衛という本分を果たそうとする意志なのかナディアの前に立った。
「誘滅の陣の真の効果は魔法陣の強制発動です。実を言いますと、私は自らの手で人柱の呪いを発動させるためにここに来たのですよ。これで人柱の生死など無関係に術を発動させることが出来る。この腐敗した世界をこの手で消し去ることが叶うのです」
「ふん、人畜無害な顔をして中身は畜生にも劣るものだな。ここで死ぬことになることも分からずにぬけぬけと語るあたり知能も同様か」
「人畜無害な顔、ですか。それはそうでしょう、わざわざそのように見える顔を作ったのですから」
「……何?」
「フローレシアの連中が来ると知って変装しておいたのですよ。もっとも、好きな顔に変えられるというわけではないのですが」
そう言うと神父さん……いや、もはや神父かどうかも定かではない男は右手を顔に当てる。
すぐに離れた掌の奥から現れたのは、全くの別人と化した何者かだった。
温厚そうな顔立ちは見る影もなく、頬にフードをかぶった髑髏のタトゥーらしき黒い模様が描かれている冷たい目をした顔へと変わっている。
「あいつ……何か見覚えがあるな」
そのあまりにも異様な光景に再び誰もが言葉を失う中、すぐ傍にいるキースさんがぼそりと呟いた。
反応したのはエーデルバッハさんだ。
「確か……何度かマクネアを訪ねて来たことがある男だ」
「素顔だったとはいえ当時とは格好が全く違う、君達にとってはその程度の認識でしょう。隣に居る子はそうもいかないようですが」
どこか嘲笑じみた表情を浮かべ、男は視線を僕の横に立つエルへと向ける。
目だけでエルの姿を追うと、どういうわけか両目を見開きながら愕然としていた。
「お前は……ダック!」
ダック。
それが何を意味するのかは分からないが、二人が見知った関係であることだけは明らかだった。
それでいて到底友好的なものではないことも、両者の遣り取りからしてはっきりと分かる。
「ようやく気付いてくれたかい。随分と久しぶりの再会だ、それも無理もないのかな。とはいえ、まだそんな生き方をしていたとは……君には失望させられてばかりだよ」
「ふざけんなっ、お前に……何が分かる。あの日からあたしがどんな思いで生きてきたか知らないくせに!」
そこでエルも背中から武器を取り、男にその先端を向けた。
初めて見る他人に感情を露わにするエルに僕のみならず他の全員が二人を交互に見ることしか出来ない。
といっても、その最中に人知れずシルクレアの面々に視線を向けるとどう考えても男を襲撃する機を伺っているようにしか見えないのだが……色々と対処に困ることだらけのこの状況で僕はどう動くべきか。
「知ったことではないよ。袂を分かった以上、あの日で私達の関係は終わった。今日までがそうだったように各々が選んだ生き方をするだけだ」
冷たい目で冷たく言い放った男に特に不穏な動きはない。
だからといって想定していた通り味方ではなかったことを自ら明かした今、このまま野放しにしておけるはずもなく、捕縛に出るのか或いはまた魔法や武器をつかって命の奪い合いに発展するのか。
この状態からどちらに転ぶにしても実践する術を持たない僕に左右出来る問題ではないが、だからこそいずれのパターンであっても臨機応変に動けるように心の備えをし、どういうことが起こりえるのかを想定しておくのが僕に出来る唯一の対処だ。
気を緩めないためという意味を込めて敢えて自分に言い聞かせ、ひとまず右手の盾だけはいつでも発動出来るようにしておかなければと男の動きに神経を注ぐ。その時だった。
瞬間の発光が視界を点滅させる。
何が起きたのかと反射的に男から目を逸らしそうになるが、そうするよりも先に同じく視界が答えを捉えていた。
一筋の稲光が男に向かって伸びた、それだけは確かだ。
雷、すなわち……キアラさんによるものか。
すぐにそれを認識するに至ったものの、理解した時には更に別の何かがほとんど時間差もなく男を攻撃している。
薄白い無数の針状の固形物らしき物がさながらマシンガンでも乱射しているかの如く幾十と襲い掛かったのだ。
まさかこんなタイミングで先手を打つとは思いもよらず。
あれがキアラさんと誰の手によるものなのかは分からないけど、双方が魔法なり武器なりを用いての争いとなればどう考えてもあちらには分が悪い。
そう思っていただけではなく、むしろ同じ人間の惨たらしい様を見る羽目になるのではないかと危惧してさえいたぐらいであったのだが、やがて収まった殺傷目的の攻撃が残した光景は何もかもが予想の反対をいっていた。
男は無傷のまま変わらずそこに立っている。
半ばから誰もが気付いていたはずだ。
まるで透明の壁にでも守られているかのように、全ての攻撃が男に届くことなく散っていった。
そう……それはまさしく、僕が生み出せる魔法の盾のように。
どういった方法で防いだのかは定かではないが、地面には針……もっと言えば槍状の何かがいくつも転がっている。
あれはガラス? いや、氷か?
誰のどういう能力なのかは僕には分からないし、それを分析している暇もない。
そんな中でもこの場を包む異様な雰囲気だけは誰一人例外なく感じ取っているのか、続けて攻撃を仕掛ける者はいなかった。
「やれやれ、気の短い方々だ。これだけの人数を相手に素性を明かした私がその程度の攻撃で倒されるわけがないでしょう。それに、私が一言発すれば【誘滅の陣】は発動させられることをお忘れなく。不用意な挑発は身を滅ぼしますよ」
男は何度目になるか、冷たい目の嘲笑じみた表情を浮かべる。
ザッザッと、ゆっくりとした足音で先頭に出たのはクロンヴァールさんだ。
「それはお前を逃がした所で同じことだろう」
「そうだとして、あなた方に私を捕らえることは出来ないかと思いますが?」
「余裕ぶっていられるのは先程の結界があるからか? 結界術に長けているとはよく言ったものだ、詠唱もなしにあの規模の盾を生み出すとはな」
「あなたも同類の術師であると伺っているのですが、目の付け所はよろしくないようだ。あの結界は詠唱どころか魔法陣すら必要としていません。絶対防壁と名付けた全く別の能力です」
「二番煎じの芸をひけらかしてイキがるなよ似非神父風情が。術式を必要とせずに結界を発動しているあたりは相応の技術を持っているようだが、その手の能力を扱う者など過去にも存在している」
「大魔王のことを言っているのであれば、なるほどご明察です。一応はあれをイメージして作ったものですからね。もっとも、単なる結界術と同列に語られるのは少々癇に障りますが」
「……何が言いたい」
「私の力は既にその域を超えている。空間変異、それこそが私の神髄だ」
さて。
そう付け加えると、男は手に持つ司祭杖を翳す。
すると先端に付いている透明の宝玉が光を帯び始めた。
「詳しく話して聞かせるつもりはありません、そろそろ終わりにするとしましょうか。私も暇を持て余している身ではないのでね」
何かしらの魔法を放とうとしているのか、それとも【誘滅の陣】を発動しようとしているのか。
男の事を知らない僕達に判断出来るはずもなく、いつしか男を包囲しようと少しずつ立ち位置を左右に広げていたこちら側の人間は身構え、攻撃に備えることが精一杯な状態に追いやられていた。
仮に【誘滅の陣】を発動したとして、世界を滅する規模の魔術はそこに至るまでにどれだけの時間を必要とするのか。
それすらも分からない状況では無闇に動けないのも当然だと言える。
息を飲む音まで聞こえてきそうな緊迫感に包まれる空間で不用意に動く者はいない。
ふとその静寂を破ったのは、僕の名を呼ぶ声だった。
「コウヘイ……どうすればいい」
隣に立つセミリアさんは両腕で剣を構えながらも、歯痒さの滲む表情で男を見ている。
困難に直面した時、他の誰でもなく僕を頼ろうとするのは自惚れでなければ信頼の証だと思っていいだろう。
どれだけ応えられているかと言われるとあまり自信はないが、何とも良いタイミングで声を掛けてくれたものだ。
流石は一番付き合いが長い、彼女の言葉を借りればパートナー様々といったところか。
いや、全然油断出来る状況ではないのだけど。
「落ち着いてください、あの人を逃がしさえしなければどうにかなります。少なくとも例の魔法は発動しませんから」
敢えて周囲に聞こえるように言葉を返す。
真っ先にリアクションを見せたのは、セミリアさんでもクロンヴァールさんでもなく、目の前で杖を掲げている男だった。
「はて、それは一体どういった意味でしょうか?」
男は僅かに目を細め、ジッと僕を見る。
自らの口で企みを明かしてくれたおかげで仕込みを隠したまま腹を探る必要もなくなったわけだけど、結論としてそれが生きる時が来たのであれば僕の判断は間違っていなかったということだ。
その上であちらがどう出るか、それをはっきりさせるためにも種を明かすことにしよう。
「率直に言いますと、こういう展開になることは想定の範囲内だったもので。念には念を入れて僕は予め対策をすることにしたんですよ」
内心ではびくびくしているものの、それを態度や表情に出さぬように努めてどうにか冷静を装った。
基本的にはポーカーフェイスなおかげか、特に怪しまれている気配はない。
「あなたの言う対策とは?」
「僕は預かった針柱を刺していない、ただそれだけの話です」
「何を馬鹿なことを。私はあなたと行動を共にしていたのですよ? しかとこの目で確認して帰って来たのです、そんなことはあり得ない。駆け引きのつもりならば、もう少し上手くやることです」
「あなたが顔を変えていたように、あり得ないと思えても意外と方法はあるものですよ」
高みから者を申せるのは完全に周りに世界最強の面子がいてくれるおかげではあるが、それでも主導権を渡すまいと精一杯虚勢を張り通した。
通用しているかどうかは何とも言えないが、男は続く言葉を待っているのか無言で僕を見ている。
いつしか他の視線までもが集まりつつあることを感じながら、僕は外から分からないように腰に隠していた結界針柱を取り出した。
「これがその証拠です。信じられないと言うのなら、いっそ実際に魔術とやらを発動させてみては?」
「…………」
男は冷たい目を鋭い目付きへと変え、降ろしていた杖を再び胸の前まで持ち上げる。
そして発動の合図であろう呪文らしき何かを小さく呟くと、杖の先端にある宝玉が光を放ち始めた。
男がこの場に居ながらそうしていることを考えればその瞬間に世界が滅ぶなどということにならないのは当然なのだろうが、それを踏まえても何らかの異変が起きた気配は露程もない。
男は腕を下げ、小さく鼻から息を漏らすと一度ゆっくりと周囲を見渡してから僕へと視線を戻した。
「なるほど、確かに魔法陣を作り出すことは出来ないようです。しかし、もしも私が本当に善人であったなら取り返しの付かないことになっていた可能性もあったはず。なぜあなたは迷い無くそのような暴挙に及ぶことが出来たのか、お聞かせいただいても?」
「迷わなかったわけではありません。それでもあなたを信用するべきではないと思えた理由は三つあります」
「ほう」
「先程クロンヴァールさんが言ったように、僕とて見ず知らずの誰かの都合の良い言葉を無条件で受け入れるような楽観的な性格はしていない。それが一つ目です」
「…………」
「そして二つ目、国を出る前に仲間が教えてくれました。五芒星を用いた魔法であるというだけで警戒しておいて損はない、と」
「それは随分と古めかしい知識であるはずですが、確かに古代の魔術である【人柱の呪い】にそれをベースに作った【誘滅の陣】、昨今の魔術ではない以上その理屈は十分に当て嵌まるというわけですか」
「そういうものなんですかね。僕はそういった事情に詳しくありませんので、聞いた以上のことはさっぱりなんですけど。どうあれ、この二つの要素によって僕の中ではあなたが敵か味方か、それが五分になりました。そして道中にあなたの通り名を聞いて決断することが出来た」
「……通り名、ですか」
「あなたは【肥満犬の誓い】という名を使っている、そういう話をそこで初めて知りました。この国に向かう前、僕はある人にこんなことを言われたんです」
『太った犬には気を付けろ』
そう、それはフローレシアを発つ時にマクネア王が僕に告げた言葉だ。
当初は何が言いたいのかまるで分からなかった。
だけどこの場にそんな風に名乗る人間が居る以上、もはや考えるまでもないことだと言える。
「それら全ての要素を踏まえて考えた時、あなたの言葉を信用に足るとは思えなかった。そういう理由です」
「どうにも変わったお知り合いがおられるようですね。とは言っても、こちらもそう簡単に事が運ぶとは思っていませんでしたが」
男が両手を広げ、小馬鹿にしたように鼻で笑う。
ネタばらしをした今、このまま膠着状態を維持するはずもない。
ならば先に動くのはどちらで、どう動くべきか。
後手に回ってはいけないと必死に頭を働かせる、その時。
続けて言葉を発しようと口を開き掛けた男の声を別の声が掻き消した。
「聖剣!!」
「承知!!」
怒声に近い合図が響くと同時にクロンヴァールさん、セミリアさんの二人が男に突進していく。
男には盾を生み出す能力がある。
物理的な攻撃に対しても有効なのかどうかは現時点では知りようもないが、それを踏まえての突撃には何か勝算があるのか、それとも感情が先走ったのか。
まさかあの二人に限って後者ではないだろう。
ならばどうするのかと、その他のほぼ全員が同様に臨戦態勢を取って見守る中、先に動いたのはクロンヴァールさんだった。
足を止めることなく、距離を詰めながら左腕で鋭い突きを放つ。
衝撃波と化した斬撃が真っ直ぐに男へと伸びたものの、やはり最初と同じ様に透明の壁に阻まれてしまい、当然ながら攻撃の届いていない男にダメージはない。
が、一連の攻防の間にセミリアさんが急激に接近し、両手で持った剣を斜め下から振り上げていた。
その全身は青白い光に包まれている。
そう、そこにはもう物理的攻撃がどうだという問題など存在していなかった。
剣までをも覆う青い光は微かに見える透明の壁を通過し、先端が反射的に後退した男の祭服を掠め前部を切り裂き素材の一部を舞い散らせる。
若干ながら驚きの表情を浮かべる男は距離を置こうと素早く後方に飛び退いた。
それをさせまいとセミリアさんは改めて地面を蹴るが、踏み出した幅の大きな一歩目が次の一歩を自ら止める。
「な……」
進行方向から消えた標的の有様に、セミリアさんは愕然とした声を漏らした。
目を疑い、言葉を失うといった反応に他の面々ですら例外はない。
これも何らかの魔法や能力の類なのか、男は上空数メートルの高さで僕達を見下ろしているのだ。
そう簡単に誰も彼もが宙に浮けるはずがない。
飛んでいるといった風でも、巨大な生物を召喚しているわけでもなく、ただ空中に立っている男の姿はそんな感想を抱く以外にまともな思考で理解することは出来なかった。
「流石は勇者を名乗る御仁であられる、あなたも中々に要注意人物のようだ。このままお相手を続けるのも一興ですが、ここであなた方を殺してしまうのは彼の本意ではないでしょう。目的も果たせたことですし、私は去るとしますよ」
「待て! お前は何者だ! 目的とは何なのだ!!」
武器を構えたまま見上げるセミリアさんの大きな声が響く。
逃がしてはいけないと、思っていてもどうしようもない状況に対する悔しさ、歯痒さが伝わってくるぐらいに怒りと焦燥感に満ちた声だ。
「私の目的は【人柱の呪い】の研究と解明ですよ。あなた方はご存じないかもしれませんが、あんなもの放っておいたところで発動するかどうかも分からないレベルの魔術なのでね。だからこそいずれ私の手で実現するためにこうして裏で動いたというわけです。【誘滅の陣】が成功すれば話は早かったのですが、物事には段階というものがある。成果は上々ということで今回はよしとしておきましょう。そう決着を焦らずとも必ずや皆様の前に戻ってきますよ。この手で、全てを無に帰すために」
危機感の欠片も無い落ち着いた口調で言うと、男は最後に僕を見た。
「コウヘイ、と呼ばれていましたね。その名、覚えておきましょう」
ほとんど一方的に言うと同時に未だ宙に浮く男の背後に目映い光が発生し始める。
その瞬間こそテニスボールぐらいの小さな円形だった謎の光は見る見るうちに面積を増していき、人一人をまるまる飲み込めるぐらいになることでようやく膨張を止めた。
「待てダック!!」
空中に佇んでいること、異様な光の存在、その両方が無闇に手出しをすることを躊躇させ構えた武器を向けたまま見上げているだけのこちら側の陣営にあって、唯一エルだけが叫ぶ様な声を投げ掛ける。
今にも飛び掛かって行きそうな剣幕であるように見えているのは僕だけではないらしく、隣に居るウェハスールさんが腕を掴んでそれを止めていた。
「待たないよ、もうあの頃とは違うんだ。君の我が儘を仕方なく聞いてあげる歳でもなければ、そんな関係でもない。お別れの時だよエル、二度と会うこともないだろう」
それでも男は、エルに対しては特にその度合いが増す冷たい目と冷たい口調を返すだけだ。
二人の間にどれだけ深い事情があるのか、耐え難い思いをギリギリと歯を食いしばる音が伝えてくる。
「勝手に話を終わらせるな愚物めが、飛行能力を持っているのが己だけだとでも思っているのか? ただ宙に浮けるだけのことを理由に易々と逃がすわけがないだろう」
あまりに普段と違う様子のエルを見ている内に別の声が割って入る。
その奥にいる軍服風の女性、エーデルバッハさんだ。
エーデルバッハさんは伸ばした右腕を男に向け、殺気に満ちた目で睨み付けている。
それだけではなく両脇には今になって背中の鎌を手に取ったシロと巨大怪鳥を召喚しているノワールさんが控えていた。
「あまり知性に欠けた発言をするものではないよフローレシアの戦士殿。先程も言いましたが、ここであなた方を始末するのは造作もないことです。同様にここから立ち去ることも。幸運にも生き存えることが出来たのです、束の間の無事を精々ご堪能ください」
冷笑を浮かべたまま告げると、男の体が背後に佇む正体不明の光の塊に覆われていく。
何をしようとしているのか、あれにどういう意味があるのか。
警戒心が勝って分析しようとする気持ちばかりが先行するも既にその必要は失われ、全身を飲み込む様に肥大した目映い光は徐々に体積と強さを失っていく。
やがて見上げる上空から光源が完全に消え去ると、そこに男の姿はなかった。