第1話:過労死した社長、第八王子に転生する
はじめまして。このたび、初めて小説を投稿させていただきます。
「力を隠していた第8王子、英雄になる」は、過労死した元IT企業社長が異世界の第八王子に転生し、隠していた力と前世の知識を武器に、弱小国を大陸有数の国へと押し上げていく物語です。
至らない点も多々あるかと思いますが、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。少しでも楽しんでいただけるよう、精一杯書きました。第一部は書き終えているのでさくさく投稿していきます。
よろしくお願いいたします。
蛍光灯の光が滲んで見えた。キーボードを打つ音、電話の呼び出し音、誰かの咳払い――そんな雑多な音が、次第に遠のいていく。
前世、彼は名もなき成り上がりの実業家だった。IT企業を起業し、眠る間も惜しんで技術者たちと共にシステムを組み上げ、社員数百人を抱える企業へと育て上げた。唯一の息抜きは、仕事の合間に読む歴史書だった。古今東西の国家の興亡、為政者たちの決断、経済の栄枯盛衰――そこには、目先の業務では得られない教訓が詰まっていると、彼は信じていた。「歴史は繰り返す。だからこそ、学ぶ価値がある」が、彼の口癖だった。
だが、その働き方の代償はあまりに大きかった。数ヶ月前から続く倦怠感、時折走る胸の痛み――気づいてはいた。だが、目の前の仕事を優先し、「落ち着いたら病院に行こう」と先延ばしにし続けた結果、ある朝、彼はオフィスの机に突っ伏したまま、静かに意識を失った。病院に運び込まれた時には、既に手の施しようがない状態だった。
気づいた時、彼は赤子だった。
「――ラディウス様、お目覚めになりましたか」
侍女の声。豪華な天蓋付きのベッド。窓の外には見知らぬ紋章の旗がはためいている。
(……は?)
思考が、まるで凍りついたように止まった。手を動かそうとしても、意思とは裏腹に、指先はもどかしいほどにしか動かない。視界は霞み、焦点を合わせることすら儘ならない。それでも、自分の意識が、確かにここにある――その事実だけは、疑いようがなかった。
(死んだはずだ。俺は、確かに、あの日……)
机に突っ伏した瞬間の記憶が、まざまざと蘇る。締め切りに追われた深夜のオフィス、鈍く痛む胸、そして、そのまま闇に沈んでいった感覚。あれが「死」というものなら、この温かなベッドの感触も、耳に届く侍女の声も、一体何だというのか。
(夢か? いや、こんなに鮮明な夢があるものか)
前世の記憶を保ったまま、彼はこの世界に転生していた。名はラディウス・フォン・エルダシア。弱小国エルダシア王国の、第八王子として。
侍女から告げられたその事実を飲み込むまでに、彼はしばらくの時間を要した。困惑、そして拭いきれない喪失感が、胸の奥にじわりと広がっていく。道半ばで終わってしまった会社、育て上げてきた社員たち、積み上げてきた事業――それら全てを置き去りにしてきたのだという実感が、遅れて重くのしかかってきた。
(あいつらは、どうなったんだ。あの後、会社は……)
考えたところで、答えの出ない問いだった。前世で築き上げたものは、もう二度と、彼の手には戻らない。その事実を噛み締めるほどに、言いようのない虚しさが込み上げてくる。
だが同時に、もう一つの感情が、静かに、しかし確かに胸の内に芽生えていた。
(もう一度、生きられる。俺は今度こそ――)
眠る間も惜しんで働き続け、身体の異変に気づいていながら、それでも「後で」と先延ばしにし続けた末に、全てを失った。あの選択を、悔いていないと言えば嘘になる。歴史書を読み漁っては「学びを活かす」と嘯いていたくせに、結局、自分自身の命という何よりも大切なものだけは、守れなかったのだ。
(第八王子か……)
弱小国の、それも八人兄弟の末端。王位継承権など、限りなくゼロに近いだろう。宮廷の片隅で、誰にも期待されず、誰にも急かされることなく、静かに生きていける立場――それは、前世で彼が最後まで手にできなかったものだった。
(……ちょうどいい)
込み上げていた喪失感が、その一言と共に、少しずつ形を変えていくのを、彼は感じていた。過去への未練を、完全に断ち切れたわけではない。それでも、二度目のこの人生だけは、同じ過ちを繰り返したくはなかった。
前世で命を燃やし尽くした男は、今度こそ穏やかな人生を望んだ。目立たず、期待されず、責任を負わされず、静かに生きる。それが彼の望みだった。
――◆――
ラディウスが自分の異常性に気づいたのは、三歳の誕生日を迎えて間もない頃だった。埃っぽい書庫の匂い、日に焼けた革表紙の感触――誰もいない静寂の中、城の書庫に忍び込み、初歩魔法の教本を開いた瞬間、彼の中で何かが弾けた。
ページに描かれた「魔方陣」――幾何学模様と古代文字が組み合わさったその図形は、彼の目に、見慣れたコードの構造として映ったのだ。外周に刻まれた文字群は変数の宣言、中心に向かって収束する線は関数の呼び出し、三重に重なった円は条件分岐。まるでプログラムそのものだった。
「起動条件、演算処理、出力……そのままじゃないか」
それからのラディウスは、表向きは「本が好きな大人しい王子」として過ごしながら、誰もいない時間を使って魔方陣を分解し続けた。この世界の魔法使いたちは、代々受け継がれてきた定型の魔方陣を、意味も分からず暗記して使っているだけだった。
(これは最適化できる。無駄な処理が多すぎる)
試しに、基礎の着火術式――教本通りに組めば、掌に収まる程度の小さな火種を灯すだけの、単純な魔方陣を分解してみた。詠唱に対応する起動条件の宣言部分、魔力を熱に変換する演算部分、そして発火させる出力部分――そう整理してみると、同じ結果を得るために本来必要な工程は、驚くほど少なかった。だが実際の魔方陣には、何百年も前の魔法使いが加えたと思しき、意味不明な迂回処理や、既に形骸化した安全装置、そして目的の判然としない重複した詠唱句が、幾重にも折り重なるように残されていた。まるで、増改築を繰り返した末に、配線がどこに繋がっているのかも分からなくなった古い建物のようだった。
(これじゃ、魔力の大半が、無駄な工程で消費されているだけだ)
試しに、同じ大きさの火種を、旧来の術式と、自分が組み直した術式の双方で灯し、消費した魔力量を比較してみる。
(……六分の一、か)
結果は、彼自身の想定を上回るものだった。旧来の魔方陣が消費していた魔力のうち、実に六分の五が、本来なら不要な工程に浪費されていたことになる。同じ威力の魔法を、六分の一の魔力で再現できる――それはつまり、同じ魔力量があれば、六倍の魔法を使えるということでもあった。
五歳になる頃、ラディウスは火の魔法陣に理科の知識を組み込んだ。「酸素濃度を局所的に高めれば、同じ魔力量でもっと強い火力が出せるはずだ」――従来の火球魔法よりも遥かに高温で燃える炎が生まれた。
七歳では、水の魔方陣を分解し、電気分解の術式を組み込むことで水素を生み出し、それを圧縮・着火して爆発を起こす術式を完成させた。風の魔方陣には空気を極限まで圧縮する術式を、光の魔方陣にはレンズの原理で光を一点に収束させる術式を組み込み、鋼すら貫くレーザーを生み出した。雷の魔方陣を分析する過程では、摩擦や化学反応から電気そのものを発生させる術式も編み出した。
(これは危険すぎる。人前では絶対に使えないな)
十歳になったラディウスは、既に王国のどの魔法使いよりも高度な理論を扱えるようになっていた。だが、それを誰にも悟らせなかった。魔法の授業ではわざと詠唱を間違え、平凡な威力の魔法しか使わないふりをした。「第八王子は才能に恵まれなかったようだ」――そう囁かれるたびに、ラディウスは内心で安堵の息を吐いた。
――◆――
馬車の車輪が石畳を叩く音が、城門の外から近づいてくる。十歳のある日、隣国リンデンヴァルド公国から使者団が訪れた。両国の関係強化のため、公爵家の令嬢エレインとの婚約が正式に決まったのだ。
「エレイン・フォン・リンデンヴァルドと申します。よろしくお願いいたします、ラディウス殿下」
淡い金髪を丁寧に編み込み、意志の強そうな碧眼を持つ、彼と同い年ほどの少女だった。
(……ただの政略の駒、ってわけでもなさそうだな)
型通りの挨拶をしながらも、ラディウスは内心で小さな意外感を覚えていた。多くの貴族の子女が、この年頃で既に「よそ行きの微笑み」を身につけている中、エレインの碧眼には、礼儀の奥に隠しきれない、強い好奇心の光が見え隠れしていた。値踏みするでもなく、怯えるでもなく、まっすぐにこちらを見据えてくる視線――前世で幾つもの初対面の商談をこなしてきた彼の勘が、「この子は、ただの飾り物にはならないだろう」と、静かに告げていた。
一方のエレインもまた、目の前の少年に、密かな違和感を抱いていた。
(……なんだか、掴みどころのない方)
事前に聞かされていた評判は、「大人しく、目立たない第八王子」というものだった。実際、ラディウスの立ち居振る舞いは、その評判通りに控えめで、当たり障りのないものだった。だが、時折見せる眼差しの奥に、年齢にそぐわない、静かな観察眼のようなものが潜んでいるのを、エレインは見逃さなかった。
ラディウスはいつも通り、当たり障りのない「凡庸な第八王子」として応対した。
エレインは、幼くして母を亡くしていた。以来、公爵家の一人娘として、父レインハルトのもとで、他の令嬢たちよりも遥かに厳しい教育――政治、経済、そして時には軍事にまで及ぶ教養――を叩き込まれて育った。「ただ着飾って嫁ぐだけの娘にはしない」というのが、レインハルトの口癖だった。その厳しさは、皮肉にも彼女に、並の貴族令嬢にはない好奇心と行動力を与えていた。
事件は、顔合わせから三日後の夜に起きた。月明かりだけが頼りの庭は、しんと静まり返っていた。滞在中のエレインが眠れぬ夜に城の庭を歩いていると、その足が城の奥にある古い井戸の跡地へと向かった。そこでは、ラディウスが誰もいないと思い込み、新しく組み上げた衝撃波の術式を試していた。的にした岩が轟音と共に粉々に砕け散り、砕けた石の破片が夜気を切り裂いて飛び散った瞬間、茂みから小さな悲鳴が聞こえた。
しまった、とラディウスは思った。ラディウスは膝をつき、震えるエレインと目線を合わせた。
「エレイン嬢。今見たことは、誰にも言わないでほしい」
「な、なぜ……殿下は、あんな力を……」
「僕は、目立ちたくないんだ。この力を知られたら、僕はきっと、僕でいられなくなる」
エレインはしばらく黙り込んだ後、静かに尋ねた。
「……怖くはないのですか。それほどの力を、誰にも見せずに隠しておくのは」
「怖いさ。でも、目立って担ぎ上げられる方がもっと怖い」
「……分かりました。誰にも申しません、殿下。その代わり」
エレインは涙目のまま、意を決したように顔を上げた。
「わたくしたちは、いずれ夫婦になるのでしょう。それならば、殿下が何をなさっているのか、知っておく権利があるはずです。今のうちに、もっと知っておきとうございます」
「……好きにするといい」
それから、婚約の儀に伴う二週間ほどの滞在の間、夜になるとエレインは井戸端の実験にこっそり付き合うようになった。魔方陣の術式をラディウスが説明すると、彼女は公爵令嬢らしからぬ好奇心で目を輝かせた。
「殿下、殿下、と毎回呼ぶのは、なんだか他人行儀な気がします」
ある夜、実験の合間に、エレインがふと思いついたように言った。
「これから夫婦になるのですから、もっと気安く呼んでも構わないでしょう。……殿下は、わたくしのことを、なんとお呼びになりますか」
「エレイン……以外に、呼びようがないと思うけど」
「もう。わたくしが申し上げたいのは、殿下の呼び方です」
エレインは、少し頬を膨らませながら続けた。
「わたくしは、殿下のことを、これから『ラディ』とお呼びしたいのです。堅苦しい『殿下』は、二人の時だけでも、卒業しませんか」
「ラディ……」
思いがけない愛称に、ラディウスは面食らったように瞬きをした。前世でも今世でも、そんな風に呼ばれたことは一度もなかった。
「変、でしょうか」
「いや……悪くない。じゃあ、僕も、君のことを――」
ラディウスは少し考えて、悪戯っぽく笑った。
「エリー、と呼んでもいいかな」
「エリー……」
今度はエレインが、意表を突かれたように目を丸くした。すぐに、くすぐったそうな笑みがこぼれる。
「……悪くないですね。それでは、これから二人だけの時は、ラディと、エリーで」
「ああ。約束だ」
その夜以来、井戸端での実験の時間は、魔方陣の話だけでなく、二人だけの呼び名で交わされる、ささやかな秘密を重ねる時間にもなっていった。
「どうして、これほどの力があるのに、誰にも見せないのですか」
ある夜、エレインがそう尋ねた。
「力を見せれば、期待される。期待されれば、応えなきゃいけなくなる。応え続けているうちに、僕は僕じゃなくなる気がするんだ」
「……もったいないと、思います。これほどの力で、救える命があるかもしれないのに」
エレインの言葉は、小さな棘のように、ラディウスの心の奥に静かに刺さり続けることになった。
滞在の終わりと共に、エレインはリンデンヴァルドへと帰国することとなった。
「殿下、わたくしはひとまず、国へ戻ります。婚礼までは、それぞれの国で過ごすのが両国の慣わしですから」
「……そうか。寂しくなるな」
「文は、欠かさずお送りします。魔方陣の話も、また聞かせてくださいませ」
帰国したエレインを、父レインハルトはすぐさま書斎に呼び出した。
「エレイン、エルダシアの第八王子は、どのような方だった」
「……大人しく、控えめな方でした。ですが、思っていたよりも、ずっと聡明な方だと思います。ただ、それを人前で見せることを、あえて避けていらっしゃるように感じました」
「ほう。控えめな評判とは、いささか違うようだな」
レインハルトは興味深げに眉を上げたが、それ以上は深く追及しなかった。
その夜、自室に戻ったエレインは、井戸端でラディウスが語っていた言葉を、一人静かに思い返していた。
「魔方陣というのは、無駄な工程が多すぎるんだ。本当に必要な部分だけを残せば、同じ効果でも、遥かに少ない魔力で発動できる」
彼のその一言は、エレインがこれまで教え込まれてきた魔法の常識を、根底から揺さぶるものだった。
(わたくしにも、同じことができるかしら)
翌日から、エレインは自室に籠もり、これまで習ってきた基礎の防御魔法を、一つ一つ分解する作業を始めた。何十回、何百回と詠唱を繰り返し、どの部分を省いても効果が変わらないかを、地道に検証していく。数ヶ月後、彼女は基礎の障壁魔法を、教本の半分ほどの詠唱句で発動できるようになっていた。
それから七年の間、二人は主に手紙を通じて交流を重ねた。エレインはリンデンヴァルドの公爵令嬢として教養を磨きながら、ラディウスから届く手紙――表向きは他愛のない近況報告に見えて、実際には新たに編み出した魔法の理論が、それとなく織り込まれた文面――を、誰よりも楽しみにしていた。
婚礼を数年後に控えた十七歳の年、両国の慣例に従い、エレインは正式な「輿入れ前の同居」のため、エルダシアの王城へと移り住むこととなった。
抜けるような秋晴れの朝だった。その日、王都エルダシアの正門前には、リンデンヴァルド公爵家の紋章を掲げた馬車の列が到着していた。ラディウスは城の正面階段で、その到着を待っていた。
(七年、か……)
十歳のあの日、井戸端で震えていた少女の姿を思い出しながら、ラディウスは自分でも意外なほど、緊張していることに気づいた。
馬車の扉が開き、従者の手を借りて降り立ったのは、記憶にある少女の面影を残しながらも、すっかり大人びた佇まいの女性だった。
「七年ぶりですね、殿下」
エレインは一礼し、静かに微笑んだ。
「エレイン……大きくなったな」
ラディウスがそう答えると、エレインは小さく吹き出した。
「殿下も。文の中の言葉遣いは、七年前とあまり変わっていらっしゃいませんでしたが、随分と背が伸びられましたね」
再会を果たした二人の間には、七年の空白を感じさせない、確かな信頼が既に築かれていた。そして、この再会から間もなく、ラディウスは十七年間隠し続けてきた力を、この国のために解き放つことになる。
――◆――
異変はラディウスが十七歳になった、ある晩秋の日に起きた。夕暮れ時、遠雷のような地鳴りと共に、鳥という鳥が一斉に空へ舞い上がった。国境の森から、大量の魔物が一斉に溢れ出したのだ。理性を失った魔物の群れ――スタンピード。
その一報は、まだ夕食の支度も済まぬうちに、慌ただしい足音と共にもたらされた。
「坊っちゃま! 一大事です!」
普段は物腰の落ち着いた執事のバジルが、扉を叩く間も惜しむように部屋に駆け込んできた。息を切らし、顔には隠しきれない焦りが浮かんでいる。ラディウスは、机に広げていた書物から顔を上げた。
「バジル、そんなに慌てて――何があった」
「国境の森より、魔物の大群が……! 既に砦が破られ、王都に向かっているとの報せが!」
その言葉に、ラディウスの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
一瞬、頭をよぎったのは、いつも通りの選択だった。目立たず、力を伏せたまま、静かに事態を見守る――十七年間、貫き通してきたその生き方が、反射的に彼の中で疼いた。だが、崩れかけているのは、紛れもなく自分が生きるこの王都であり、危険に晒されているのは、幼い頃から見知った民の顔だった。
「坊っちゃま、どちらへ!」
椅子を蹴るようにして立ち上がったラディウスに、バジルが驚いた声を上げた。
「城壁だ。この目で、状況を確かめる」
「なりません! 危険すぎます、坊っちゃまは……」
「バジル」
ラディウスは、扉に手をかけたまま、一度だけ振り返った。その目には、これまでバジルが見たことのない、静かな決意の色が宿っていた。
「詳しいことは、後で話す。今は、確かめなければならないことがあるんだ」
それだけ言い残すと、ラディウスは廊下を駆け出していった。
城壁へと続く階段を、ラディウスは一段飛ばしで駆け上がっていった。息は上がり、心臓は早鐘を打っていたが、足を緩めることはなかった。
エルダシア王国の兵力では到底抗えぬ数だった。国境の砦は一晩で陥落し、砕けた石材と煙を残しながら、魔物の群れは王都へと迫った。土埃と血の匂いが、風に乗って城壁の内側にまで届いていた。
王都の鐘楼が、これまで聞いたことのない甲高い音色で、絶え間なく警鐘を打ち鳴らしていた。城壁の上に駆け上がったラディウスの目に飛び込んできたのは、既に松明の炎と、魔物の群れの黒い波に覆い尽くされた平原だった。
「門が……門が破られるぞ!」
悲鳴にも似た叫びが城壁に響いた。巨大なオーガが城門に体当たりを繰り返し、その度に鉄の門が軋んだ音を立てて歪んでいく。門の内側では、若い兵士たちが槍を構えたまま、恐怖で足を震わせていた。
城壁の内側、崩れかけた瓦礫の陰で、一人の若い兵士が、槍を取り落としたまま尻餅をついていた。歳の頃は、ラディウスとそう変わらない。
「く、来るな……!」
震える声で叫ぶ兵士の眼前に、巨大なオーガの一体が、太い腕を振りかぶっていた。爪の先が、篝火の光を鈍く反射する。仲間の兵士たちは、それぞれの持ち場で手一杯で、誰一人、駆けつけられる者がいなかった。
「誰か……!」
兵士の悲鳴じみた声が、戦場の喧騒にかき消されそうになりながらも、確かにラディウスの耳に届いた。
その瞬間、時間の流れが、ひどく緩やかに感じられた。振り下ろされようとする太い爪。逃げ場のない兵士の顔に浮かぶ、諦めにも似た恐怖。ラディウスの脳裏に、七年前のエレインの言葉が蘇った。
(――もったいないと、思います。これほどの力で、救える命があるかもしれないのに)
守れるのに、守らない。それはただの怠惰であり、罪ではないか――ラディウスはようやく、その答えに辿り着いた。心臓が、これまで感じたことのない速さで鼓動を刻んでいる。
「――もう、いいか」
口の中で小さく呟いたその言葉は、震える喉から絞り出されたものだった。十七年間、後生大事に守り続けてきた「凡庸な王子」という仮面を、彼は自らの手で脱ぎ捨てた。
「下がってください!!」
叫ぶと同時に、ラディウスは瓦礫を蹴り、兵士とオーガの間に躍り出た。周囲の兵士たちが、何事かと目を見開く。長年の猫背も、地味な服に紛れさせてきた線の細い体も、今この瞬間だけは、まるで別人のように伸びやかに映った。濃紺の髪が夜風に揺れ、灰色がかった瞳に、これまで誰も見たことのない強い光が宿る。彼の右手に幾何学模様の光る紋様――魔方陣が展開する。淡い光が、暗い戦場を一瞬、昼のように照らし出した。
「――『圧砕』」
見えない大槌が振り下ろされたかのように、振り上げられたオーガの腕が、まとめて弾き飛ばされる。骨の軋む音と、地面が抉れる轟音が、同時に響いた。すんでのところで難を逃れた兵士は、へたり込んだまま、目の前で起きたことが信じられないというように、ラディウスの背中を見上げていた。
「だ、第八王子様……?」
「怪我はないか」
ラディウスは短くそう尋ねただけで、もう次の敵へと視線を向けていた。彼が助けたのは、この兵士一人だけではなかった。城門に群がっていたオーガの群れも、まとめて数メートル吹き飛ばされていたのだ。
「あれは……第八王子様が……!?」
兵士たちのざわめきをよそに、ラディウスは休むことなく次の魔方陣を展開する。空を覆うように群がる翼竜型の魔物には、光を一点に収束させる術式――
「――『閃光』」
まばゆい光条が奔り、翼竜の群れを次々と貫いた。焼け焦げた翼竜の骸が、次々と地に落ちてくる。
「囲まれた……!」
側面から回り込んできた狼型の魔物の群れに、ラディウスは即座に地面に手をつき、円形に広がる魔方陣を展開する。
「――『業火』」
地面から噴き上がった炎の壁が、狼の群れを瞬時に包み込んだ。
だが魔物の数は減らない。奥から次々と新手が湧き出てくる。ラディウスの額に汗が滲んだ。それでも、彼は止まらなかった。両手を大きく広げる。電気分解によって生み出した可燃性の気体を、圧縮した空気の中で一気に点火させる術式――
「――『轟爆』!!」
轟音と共に、城壁前の平原に巨大な爆発が広がった。土煙が晴れた時、そこに立っていた魔物の大半が、地に伏していた。
ラディウスは最後の力を振り絞り、雷の魔方陣を展開する。
「――『雷轟』」
大地を這うように広がった稲妻が、残った魔物たちを一掃した。断末魔の声すら上げる間もなく、群れは沈黙する。
崩れかけていた城門の残骸を、ラディウスは最後の力で素手で受け止め、押し戻した。荒い息を吐きながら、彼は膝をついた。
「……第八王子様が……たった一人で……」
これまで「凡庸な王子」と侮られていた少年が、圧砕、閃光、業火、轟爆、雷轟――多彩な魔法を自在に操り、たった一人でスタンピードを鎮圧してみせたのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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次回もよろしくお願いいたします。




