3-5
◇◇◇
痛む体をさすりながら、幸来は廊下を歩いていた。向かう先は、デートの最後に訪れた鍛錬所だ。もしかしたら、彼女はまだあそこで剣を振るっているのではないか、と思ったからだ。
(まぁあれから一時間くらい経ってるから……流石にいないとは思うけど……)
だが、アリアの事だ。鍛錬に熱中し過ぎてついうっかり、という事もあるかもしれない。
(さっきもその、ついうっかり、のせいで死にかけたしな……)
「八刀式」を見せる、といった彼女はその言葉の通り、業の全てを見せてくれた。最初は、型をなぞる様なゆっくりとした動作だったのだが、次第に熱を帯びて来たのか、剣を振る速度が増していった。
最期の方は、最早全力じゃないのかと思うくらいの鋭い一振りだった。
(あれでまだ怪我が完治していない状態だっていうのが、信じられないくらいだぜ……)
首を振り、小さくため息をつく。彼女を超えるなんて、夢のまた夢だろう。
そんな事を考えているうちに、鍛錬所の前に辿り着いた。中の電気は既に消えていて、闇が拡がっていた。
(はは、やっぱりいないよな……ん?)
杞憂だった事にほっとしつつ部屋に戻ろうかと思った時、暗闇に慣れた目が、部屋の端に何かを見つけた。
(人? ……まさか)
部屋の中に入り、歩を進める。静かな空間に、足音だけが響いた。隅の方に近づくにつれ、幸来は自分の予感が当たっていた事を悟った。
(まったく……何やってるんだか)
淡い月光を反射する金髪が、暗闇の中で光っていた。壁に寄りかかり、アリアはぐっすりと眠っている様に見えた。
大方、疲れ果てて眠ってしまったのだろう。あのままでは風邪をひいてしまう。もっと自分の体を大事にして欲しい。
「隊長、起きて下さい」
声をかけても、アリアはぴくりとも動かない。相当深い眠りについている様だ。起こすのも可哀想だ。このまま連れて行こう。
苦笑いし、幸来は彼女を負う(おぶう)為、近づいた。
ぴちゃり、と。液体の様な物を踏んだ感触。
「……え?」
目の錯覚だろうか。
幸来の下に、赤い水たまりが拡がっていた。
それは、イ界の中で何度も見た光景。自分が何度も作り上げた光景に、酷似していた。
締め付けられるような感覚と共に、赤の出所を探る。
「そんな、馬鹿な……」
アリアは、聖徒屈指の実力を誇る剣士だ。その強さは聖徒内だけではなく、護ノたちの間に轟くほどだ。負けを知らず、幾度となく死線を乗り越え、強敵を駆逐してきた。
そんな、彼女が。
「た、……」
どうして、おびただしい量の血を流して倒れているのだろう。
「隊長――――――――っ!」
屈みこみ、アリアの体に触れる。恐ろしい程に、冷たかった。
「隊長、しっかりして下さい! お願いします、目を開けて下さい! 隊長!」
体中から血の気が引いて行く。その場に倒れそうになる体を叱咤し、アリアの体を大きく揺すった。膝をついたせいで、服に血が滲み渡っていく。
「隊長! アリア隊ち――」
「――――とう、じょう?」
か細い、弱々しい声で、アリアが自分の名前を呼んだ。今まで聞いた事が無い程力のない声だ。それでも、声が聞こえた事に、喜びと安堵のあまり、涙がこぼれそうになった。
「隊長! 事情は後で聞きます、とにかく、今は医者の所に……」
「いしゃ、ですか?」
「えぇ、早く治療してもらわないと、間に合わなくなります。今肩を貸しますから……」
早口で言い、アリアの脇から右腕を通そうとした。
だが、その腕をアリアはやんわりと振りほどいた。
「いいんです……とうじょう」
「なっ……」
一瞬の後、焦りと怒りが幸来を支配した。
「何言ってるんですか! もういいです、俺が勝手に運びますから!」
事態は急を要するのだ。
医者の所へは、いくら急いでも五分はかかる。
朦朧とした彼女の言葉を聞いている暇はない。アリアの体を持ち上げようと手を回し、足に力を入れる。
「……もう」
やっと従ってくれる気になったのか、アリアの手が幸来の首元にかかった。腕がきちんと回った事を確認し、立ち上がろうとすると
「いいって……いってるじゃ、ないですか」
首に回ったアリアの腕に、強い力がかかった。
予想だにしていなかった場所にかかった力に、幸来は咄嗟に身を引く事が出来なかった。アリアの顔が近付く。
「はむ…………ん……」
そのまま吸い寄せられるように、唇が重なった。
口の中に滑り込んできた生温かいモノが、艶めかしく動いた。
「隊っ……ん……」
時に激しく、時に切なく、行為は続いた。
混じり合い糸を引く唾液の中に、時折大量の血が混じった。
体はますます冷たくなり、弛緩していく。
幸来は――――悟った。
「はっ……はっ……どうして……こんな……」
目頭が熱くなり、温かい涙が零れた。
声は震え、鼻は詰まり、大好きな人の目の前で、醜態をさらした。
「こんな……事にっ……!」
「とうじょう……」
もう、力など残っていないはずなのに。
それでもアリアは、幸来の腕の中で右腕を動かし、優しく、頭を撫でた。
「隊長ぉっ……お、俺……俺はっ……」
「……なまえで……よんで?」
視界が歪む。呼吸が苦しい。声が、うまく出ない。
「あ、アリア……アリアぁっ……!」
アリアの美しい顔が見えない事に、芳しい甘い香りが感じられない事に、何の言葉も、紡げない事に。全てに憤りを覚え、幸来は泣いた。
「好きだ……愛してるっ、だから……だから行くなっ……行かないでくれっ!」
想いが力になれば、どれだけいいだろう。時に胸をかきむしり、時に甘く甘美に満たす、この想いで。彼女を引き留める事は出来ないのだろうか? ぐちゃぐちゃに顔をゆがめた幸来に向かい、アリアは微笑んだ。
「……ぎゅぅって……して……?」
躊躇いもなく、強く、強く抱きしめた。
そうすれば、彼女が行かない気がした。
また明日も、一緒に過ごせる気がした。
「ふふ……とうじょう……」
そんなのは幻想だ。
分かっている。
だけどもう、幸来には何もできない。
どうする事も出来ない。
音が鳴るほど奥歯を噛みしめた彼に、消え入りそうな声で、アリアが言った。
「ありがとう……」
ぷつりと。
まるで、糸の切れた操り人形の様に。
幸来の腕の中で、アリアがその重みを増した。
「あ、ぁ……」
彼女は、何に対してお礼を言ったのだろう。
(守るって、言ったのに)
視界が黒く染まる。
何も、見えない。
「あぁぁ……」
(絶対に守るって、言ったのに)
約束を守れなかった自分に、何故お礼を言ったのだろう。
「ああぁ……」
(何でだよ)
罵倒してくれれば良かった。
憎んでくれれば良かった。
「あぁああ……」
(そんな、幸せそうな顔で)
蔑んでくれれば良かった。
怒鳴ってくれれば良かった。
「あああぁぁ……」
(そんな満ち足りた言葉を残して逝かれたら)
「あああぁぁ……」
(俺はっ)
「あああああああああぁあああああぁっ――――――――――!」
(謝る事すら、出来ないじゃないかっ――――!)
拳を地面に叩きつけて、叫ぶ。
「誰だよ………………誰なんだよ!」
胸の奥でとぐろを巻く感情を。全てを吐き出したくて、声をあげた。
「誰が殺した! 何で殺した!」
後悔なのか、憎悪なのか、慟哭なのか、判別のつかない物が、後から後から零れ落ちる。
「いるんだろ? 聞いてるんだろっ! 俺の声が、聞こえてるんだろ? さっさと姿を――」
声が枯れ始めた。
「――現しやがれっ!」
「はいはーい。待たせてごめんねー」
幸来の視界に、影が落ちた。
「……嘘だろ」
この場にはそぐわない、可愛らしい声。その声の主を、幸来はよく知っていた。
「冗談は……よせよ……」
にこにこと、綺麗な顔で笑う彼女は、しかしいつもと雰囲気が違っていた。
「お前な訳、ないだろ……?」
髪をおろしているからだろうか。それとも、いつもよりもボーイッシュな格好をしているからだろうか。
「讃良」
呆然と彼女を見上げる幸来を、讃良はにっこりと見下ろしている。
「……なぁ……嘘だろ……? だってお前は……あの時、俺と一緒に居たじゃないかっ!」
連続殺人の現場に居合わせた時、彼女は確かに自分と一緒に居た。死んでいた隊員は発見される一時間以内に殺されていた。ならば、讃良に犯行は不可能なはずだ。
「ずっと、一緒に?」
「あぁそうだ! ずっと一緒だった!」
「……本当に?」
慈しむ様な、それでいて――蔑む様な、そんな笑顔を顔に貼りつけて、讃良はポケットから何かを取り出した。
「これ、なーんだ?」
「――――っ!」
それは、淡い桃色のシュシュ。幸来が讃良に隠れて選び、買った物。確かにあの時だけは、讃良と共に行動していなかった。
「まさか……あの時に……?」
幸来の問いかけに讃良は答えない。ただにこにこと笑い続けるだけだ。この場にそぐわない笑顔に、気分が悪くなる。
「俺がお前に隠れて買うって……分かってたって事か?」
「ぜーんぜん。だって、別にあの日に殺さなくてもよかったんだもん。たまたま一人になったから殺っちゃおっかなー、って思っただけだし。ほら、アリバイもある訳だし?」
確かに、狂戦士の機動力を持ってすれば、あの時間内に殺人を犯す事は可能だ。現場となった場所も、幸来たちがいた場所からそう離れていない。だが、たまたま、偶然、暇が出来たから。そんな理由で、讃良は人を殺したと言うのか。そんな――
「そんな軽い気持ちで、隊長の事も殺したって言うのかよ…………っ、讃良ぁあぁああ!」
喉が裂けるほどに叫んだ幸来の声を、しかし讃良は軽く微笑みつつ、受け流した。
「んーと、さっきから言いたかったんだけど――――」
「それ、誰の名前?」
「……は?」
何の――冗談だ?
「ふざけるのも大概にしろよ……」
「えー? だって知らないよそんな名前。誰の事?」
こんな戯言に付き合っている暇はない。
「馬鹿にしてんじゃねぇ! お前の事だよ、木埜讃良!」
「だーかーらー……」
「誰の事呼んでるの? ツラユキ」
一瞬、耳を疑った。背を流れ落ちる冷たい汗に、悪寒が走る。
そんなはずがない。何かの間違いだ。
「ツラユキー、聞いてる?」
しかし、無情にもその名前は繰り返された。
(嘘だろ……)
だが、それしか考えられない。
何故なら自分を、「東城幸来」を、その名で呼ぶ人間は、この世でたった一人しかいないからだ。
「何でお前が、ここにいるんだ……」
嘔吐感がこみ上げた。
怒りはどこかへ消えていた。
動悸は荒くなり、口の中に胃液の味が拡がった。
咳き込み、息を荒げ、そして力なく顔を上げた幸来に、優しく微笑みかける彼女
――いや
「貫之……」
彼の名は、一ノ瀬貫之。
世の人は皆、彼をこう呼ぶ。悪の王――邪楽、と。
◇◇◇
『君の名前、ひどいねー』
小学校五年。新しい学校に転入したばかりの頃、隣の席の男が喋りかけてきた。
『そんな事を言われたのは、初めてだ』
『えー本当にー? だって君の名前「辛い」が「来る」って書くでしょ? 不幸街道まっしぐらみたいな名前じゃん』
理由を聞き、幸来は思わず噴き出した。
『馬鹿。「辛い」じゃなくて、「幸せ」だろうが。「幸せ」が「来る」って書いて「ゆき」って読むんだよ。いい名前だろ?』
『あ、ほんとだー! 幸せと辛いって、何でこんなに似てるんだろうね?』
『さぁな。常に隣り合わせにあるからじゃないか?』
『なーるほどー。ツラユキは頭がいいねー!』
『……誰の事だ?』
『君の事! それから、僕の事!』
『訳がわからない』
『んー? こう言う事だよ』
おもむろに紙とペンを取り出し、文字を書いた。「辛」と「幸来」とが隣り合わせに並んでいた。
『「辛」と「幸来」、合わせてツラユキ! ほらね?』
得意げな顔で彼は言った。
『で、僕の名前も貫之。二人とも「つらゆき」って、何か面白くない?』
『……そうかもな』
不思議と悪い気はしなかった。世の中には色々な人間がいるんだな、と思った。
『えへへ、じゃぁ決まり! 僕の名前は「一ノ瀬貫之」』
差しだされた右手を、握り返す。
『よろしくね、ツラユキ』




