第5話「おにぎりと約束」
朝の教室は騒がしかった。
ひまりは机に突っ伏していた。腕の中に顔を埋めて、スマホだけ右手で握っている。画面にはStar Gardenのスクリプトエディタ。`craft_bench_recipe_01`。レシピの出力先を確認している。パン、焼き魚、おにぎり。三品。素材の入力パスを見直して、出力アイテムIDを──
「ひまりー」
顔を上げなかった。
「ひまりってば」
美優の声だった。近い。机のすぐ横に立っている。
「日曜のクレープ、返事まだなんだけど」
「……あ」
顔を上げた。目が半開き。昨日は1時過ぎまでスクリプトを弄っていた。眠い。
「ごめん、見てなかった」
「見てなかったって──三日前に送ったよ?」
三日前。──三日前は天の川を作っていた。千一個の星を手動で置いて、プラネタリウムで泣いて、ガーデンスターを灯した日だ。その後ログアウトしてスマホを裏返して寝た。
「ごめん」
「いいけど。──で、来る?」
「日曜……」
日曜。何時から。午後。午後は──Star Gardenの降雨テストをやりたい。双葉の成長と雨の相関を調べたい。あと料理システムの最終テスト。レシピの出力確認。あとレンに天の川の微調整を手伝ってほしい。北東端の密度がまだ薄い。
「……ごめん、日曜ちょっと用事ある」
「えー! またー?」
「ごめんごめん。今度ぜったい行く」
「『今度ぜったい』、先週も聞いたよ」
美優が頬を膨らませた。怒ってはいない。呆れている。少しだけ寂しそうにしている。──それに気づいて、胸がちくっとした。小さく。すぐ消えた。
「今度はほんとに。ほんとのほんとに」
「はいはい。──陽菜、ひまりまた無理だって」
三つ向こうの席で陽菜が「えー」と声を上げた。弁当箱を開けている。卵焼きの匂いがした。
美優が戻っていく。ひまりはスマホに目を落とした。LINEの通知バッジ。7件。美優が3件、陽菜が2件、ユナが1件、クラスのグループが1件。
スマホをポケットにしまった。
ポケットの中で、通知が一つ震えた。見なかった。
---
五度目の起動。
暗い水底から、意識が浮き上がる。手順はもう体が覚えている。音が先に来る。虫の声。次に重さ。足の裏の草。最後に光──星。
目を開ける。
大きな木の下。いつもの場所。空に天の川がかかっている。
千一個の光。昨日自分たちが灯した星。一晩経っても消えていない。当たり前だ。
スカイボックスに書き込んだデータは電源を切っても消えない。──当たり前のことが、少しだけ嬉しい。
根元を見た。
双葉が──
「エコー」
「はい。おはようございます。本日の──」
「双葉」
「……定時報告を後回しにされることにも慣れてきました。記録します」
白い光が枝の間から降りてきて、双葉の上で止まる。
「オブジェクト`futaba_test_final_FINAL_v2`、通称ふたば。計測値5.8センチ。前回5.1センチ、増加量0.7センチ。──過去最大の伸びです」
「0.7」
「はい。前回は0.4、前々回は0.5。変動はありますが、昨日の降雨後に加速していることは明らかです」
しゃがんだ。5.8センチ。二枚の葉が開ききって、もう背伸びどころではない。胸を張って仁王立ちしている。堂々としている。
「雨が効いたな」
「降雨との相関を示す有力なデータです。サンプル数はまだ不足していますが──推定を支持します」
折れるのが早い。昨日は「サンプル数が不足」で突っぱねたのに、今日は一言目から「推定を支持」している。四日前のエコーなら三往復は粘った。
「素直だな。今日」
「事実に基づいた判断です。素直とは──」
「褒めてるんだ」
「……記録します」
光が明滅した。照れの明滅か。──光に照れを読み取ること自体がおかしいが、五日も一緒にいると読めてくる。
ふたばが揺れた。風はない。いつもの原因不明の揺れ。
---
しゃくしゃくしゃくしゃく。
足音。速い。全力。──昨日より速い。足音の間隔が狭い。
0.3秒か0.4秒間隔。走っているというより弾んでいる。弾丸のように。
「レンーーーっ!!」
走ってくる。パーカーのフードがちぎれそうにはためいている。四歩目でテクスチャがグレーの格子にブツッと切り替わった。──四歩。昨日より一歩早い。加速しているのか、テクスチャの読み込み範囲が縮んだのか。
「見て見て見て!!」
急ブレーキ。草が散る。パーティクルなし。ひまりの両手に何かがある。大きい。木でできている。
「新システム!!」
ひまりが抱えていたものを地面にどすんと置いた。
木製のベンチ。天板は厚い板で、縁が少しだけ丸く削られている。
表面にうっすら木目のテクスチャ。脚が三本ある。──三本?
いや。
よく見ると、四本ある。
四本目が地面にめり込んでいた。
根元から約15センチの位置でテクスチャが途切れ、残りの部分は真下の地中にぐっさり貫通している。
見た目としては三本脚のベンチ。
プラス地面に打ち込まれた一本の杭という構成になっている。
「……脚」
「四本あるでしょ!」
「三本と杭だ」
「四本! 見えない部分も含めて四本!」
「見えない部分は脚って言わないだろ」
「基礎工事です! むしろ安定してるよ!」
ひまりがベンチの天板をぱんぱんと叩いた。いい音がした。木が鳴る音。──音のサンプリングは丁寧だ。叩くと鳴る。ひまりが好きな工程なのだろう。足音と同じだ。音だけは手を抜かない。
「料理システム! クラフトベンチ! レシピ登録済み!」
「料理」
「レシピ三品!」
「おう」
レシピリストが浮かんだ。三行。
```
竜もも肉の丸焼き ── ドラゴンのもも肉×1 + 不死鳥の炎×2 + 香辛料(魔界産)×5
世界樹シャーベット ── 世界樹のしずく×3 + 永久凍土の氷×1 + 星砂糖×2
聖剣バースデーケーキ ── 聖剣×19 + 天使の小麦粉×4 + 女神の生クリーム×7
```
読んだ。
もう一回読んだ。
「……聖剣が十九本」
「うん!」
「ケーキに」
「ロウソクの代わり! お兄ちゃん十九歳だから十九本!」
「ケーキに聖剣を十九本刺すのか」
「刺す! ぜんぶ光るの! かっこいいでしょ!」
「かっこいいかどうかの前に──ドラゴンはどこにいる」
「……」
「世界樹は」
「……」
「不死鳥は」
「……」
「魔界は」
「…………」
「天使は」
「……………………」
「女神は」
ひまりの顔が六段階で強張っていった。ドラゴンで少し曇り、世界樹で目が泳ぎ、不死鳥で唇が引きつり、魔界で顔全体が固まり、天使で目が完全に逸れた。女神で──天を仰いだ。
「ない」
「ないな」
「ぜんぶない」
「そうだろうな」
「でもレンならドラゴンくらい倒せるかも──」
「いない。このゲームにドラゴンはいない。ぷるりんしかいない」
「ぷるりん十九匹でケーキを──」
「作れない」
エコーの光が天板の上で回転した。
「確認します。レシピに登録されている素材のうち、Star Garden内に実在するものは──ゼロです。なお、ドラゴン、不死鳥、世界樹、魔界、天使、女神──いずれも環境生成テーブルに登録がありません。聖剣も未実装です。十九本どころか一本もありません」
「ゼロ!」
「はい。補足しますと、仮に全素材が実装されていたとしても、ドラゴンのもも肉の取得には推定レベル80以上の戦闘能力が必要です。レンさんの現在の武器は鉛筆です」
「鉛筆でドラゴンくらい──」
「倒せない」
「お兄ちゃんなら──」
「倒せない」
ひまりが天板に突っ伏した。がこん。いい音がした。
「レシピの実装より先に素材を実装するべきだったんじゃないのか」
「…………」
「料理を作る前に食材を用意するのは、現実でもゲームでも同じだと思うが」
「…………正論は今いらない……」
「いつなら要る」
「いらないときはない……でも今は特にいらない……」
天板に額を押しつけたまま動かなくなった。敗北の姿勢。
エコーが報告を付け足した。
「補足します。レシピのスクリプト構造を確認したところ、素材の入力判定に──問題があります」
ひまりがゆっくり顔を上げた。嫌な予感の顔をしていた。
「どんな」
「全レシピの出力先アイテムIDが同一です」
「……は?」
「丸焼き、シャーベット、ケーキ──三品すべての最終出力先が『おにぎり』`item_onigiri_01`に固定されています。おそらくスクリプトのコピーアンドペースト時に出力先の書き換えを──」
「忘れた」
「はい」
ひまりが天板にもう一度突っ伏した。がこん。二回目。
「つまりこのベンチは」
立ち上がった。天板を見下ろした。レシピリスト。三品。丸焼き、シャーベット、ケーキ。全部の出力先が`item_onigiri_01`。
「何を作っても──」
「おにぎりが出ます」
「……おにぎり専用マシンだな」
「おにぎり専用マシンじゃない!!」
「全部おにぎりが出るなら専用マシンだろ」
「違う! レシピは三品ある! シャーベットもケーキもある! 出力がたまたま──」
「たまたま全部おにぎりか」
「…………仕様です」
「出た」
エコーの光が点滅した。
「仕様ではありません」
「エコーまで!」
「事実を記録しています」
---
「じゃあ──とにかく動かしてみよう」
ひまりがベンチの天板に手を置いた。UIが点灯する。素材投入スロット。四つの空欄。
「素材がないんだろ」
「空のまま動かす。テストだもん」
何も入れなかった。スロットが四つとも空。起動ボタンを押した。
天板が振動した。低い音。木が軋む。UIのプログレスバーが走って──ぽん。
天板の上に、白い三角形が出現した。
おにぎり。
ポリゴン数が少ない。角が粗い。テクスチャはべたっとした白一色。海苔なし。具なし。影すらまともに落ちていない。ただの──白い三角形。
「……出た」
「出たな」
「素材なしで出た」
「ああ」
「…………」
ひまりがおにぎりを手に取った。裏返した。表も裏も同じ白。上から見ると正三角形。横から見ると三角柱。立体としての説得力がない。しかし重さはある。手のひらサイズ。
「もう一回」
天板に手を戻した。今度はスロットにぷるりんゼリーを一つ入れた。インベントリから。──昨日のぷるりん狩りで溜まったやつだ。半透明の球が素材スロットに収まる。
起動。振動。プログレスバー。ぽん。
おにぎり。
「……ぷるりんゼリーを入れても」
「おにぎりだな」
「もう一回」
鉛筆を入れた。レンの予備の鉛筆。HB。スロットに突き刺さるように収まった。
起動。振動。ぽん。
おにぎり。
「鉛筆を入れても」
「おにぎりだ」
ひまりが草を一掴み抜いた。スロットに詰め込んだ。
起動。振動。ぽん。
おにぎり。
「草でも」
「おにぎり」
もう一回。今度は何も入れず、スロットを全部空のまま。
ぽん。おにぎり。
天板の上に六個のおにぎりが並んだ。全部同じ見た目。白い三角形。不格好。ポリゴンの角がきらきらと星の光を反射している。
七個目が天板の端から転がり落ちた。ころん。草の上に着地して止まった。
「……おにぎりマシンだ」
ひまりが諦めの声で言った。
「最初からそう言ってる」
「言ってない。──いや、言ってた。認める」
「仕様か?」
「…………仕様です」
「今のは納得して言ったな」
「納得してない。でも仕様って言わないと立ち直れない」
エコーの光が天板の上を滑るように移動した。おにぎりの間を縫うように。
「追加報告します。素材の消費判定も機能していません。ぷるりんゼリーと鉛筆はインベントリに残っています。入力スロットに入れたものは消費されず、出力は常に`item_onigiri_01`です」
「つまり永久機関だな」
「永久おにぎり機関です」
「かっこいい名前つけないで!」
「かっこいいか?」
「語感が! 語感がかっこいい!」
天板の上のおにぎりが六個、星の光を受けて静かに光っていた。
不格好な白い三角形。海苔も具もない。テクスチャが荒い。ポリゴンの継ぎ目が見える。
──しかし、ちゃんとおにぎりの形をしている。三角形。手のひらサイズ。それだけは間違いなくおにぎりだった。
何気なく──手を伸ばした。
天板の上のおにぎりに。左から三番目。特に理由はなかった。近かったから。目についたから。
指先が触れた。
白いテクスチャの表面に、指の腹が接触する。
──温かい。
温かかった。
温度は未実装だ。このゲームに温度の概念はない。
VRの触覚フィードバックは限定的で、圧力と振動のみ。温度信号は送られていない。
──なのに温かい。
指先に何かが流れ込んできた。
温かさの先に──映像ではない。匂いでもない。
もっと手前の──体の記憶。手のひらに何かを握っている感覚。
柔らかくて、温かくて、少しべたついて、崩れそうで──
視界がぼやけた。
草原が遠くなる。星空が遠くなる。音が──虫の声が遠くなる。エコーの光が遠くなる。ひまりの顔が遠くなる。
世界が薄膜一枚の向こう側に退いて──
代わりに。
---
台所。
西日が窓から差し込んでいる。薄いカーテンがオレンジ色に透けている。冷蔵庫の側面にパンダのマグネットが一つ。換気扇が低く回っている。シンクに水滴が残っている。
台所に立っている。自分が。自分の手がある。──今より小さい。指が細い。肘から先が短い。中学生くらいの腕。
花柄のエプロンをしている。母のだ。大きすぎて紐を二重に結んでいる。
炊飯器が湯気を上げている。蓋を開けた。炊きたてのご飯。白い湯気が顔に当たった。熱い。眼鏡が曇る。──眼鏡? 普段は眼鏡をかけていない。家の中だけだ。コンタクトが面倒で、眼鏡のまま──
ボウルに水を入れた。手を濡らした。塩を手のひらに振った。ご飯をしゃもじで掬って──
「お兄ちゃん、なにしてるの」
声。
背中の方。台所の入口。
振り返った。
小さなひまりがいた。
パジャマ姿。ピンクの。袖が長くて指先が隠れている。髪が寝癖で跳ねている。右側だけ。目をこすっている。もうすでに半分眠い顔。
「おにぎり。遠足だろ、明日」
自分の口が動いた。自分の声だった。──今より高い。少し。声変わりの途中の声。
「お弁当、お母さんが作るって」
「母さん今日遅番だろ。朝早いんだから俺が作る」
「お兄ちゃんが作れるの?」
「舐めんな」
舐めていた。自分で舐めていた。おにぎりを握ったことがない。ご飯を炊いたことはある。しゃもじで混ぜたことはある。おにぎりは──知識としては知っている。三角形に握る。塩をつける。具を入れる。簡単だ。
冷蔵庫を開けた。
梅干しがあった。瓶入り。蓋がきつい。力を入れて開けた。赤い。酸っぱい匂いがした。
鮭フレーク。瓶の底に残り少ない。
昆布の佃煮。タッパーに入っている。母が作ったやつ。
たらこ。一腹。ラップに包まれている。
ツナ缶。棚の奥に一つ。
全部出した。カウンターの上に並べた。
ひまりが台所の入口に立ったまま、目を丸くしていた。
「ぜんぶ入れるの?」
「当たり前だろ。遠足だぞ。豪華にする」
「ぜんぶ──一個に?」
「一個に」
「入るの?」
「入る」
入らなかった。
ご飯を手のひらに盛った。盛りすぎてこぼれた。
もう一回。今度は少なめに。真ん中にくぼみを作って──梅干しを一つ。その上に鮭フレークをスプーンで載せた。昆布の佃煮をその横に。たらこを──たらこはでかい。半分に切った。切った半分をくぼみに押し込んだ。ツナ缶を開けて、油を切って、上から載せた。
おにぎりが膨らんでいた。もう三角形ではない。球形に近い。ソフトボールくらいの大きさになっている。
気づいた、弁当箱に入らない。蓋がしめられない。
「お兄ちゃん、それもう――」
「握る」
握った。
両手で。力を込めて。ご飯を圧縮して。弁当箱に入れるために上から下へ、横から横へ──
ぶちっ。
破裂した。
おにぎりが爆発した。圧力に負けたご飯の壁が崩壊し、梅干しが放物線を描いて飛んだ。鮭フレークが霧状に拡散した。昆布が天井に貼りついた。たらこが──
「きゃっ」
ひまりの鼻に直撃した。
たらこが。
ひまりの鼻の頭に、ピンク色のたらこの粒がべっとりと──
自分の顔にも何かがついている。頬。右頬。べたっと。──鮭フレークだ。額にも何か。手で触れた。昆布。額に昆布が貼りついている。
台所が惨状だった。
カウンターにご飯粒。床にツナ。冷蔵庫のパンダのマグネットの上に梅干しの汁が垂れている。換気扇に鮭フレークが付着している。天井に昆布。
沈黙。
ひまりが鼻のたらこを指先でつまんだ。つまんで、見て。
顔を上げた。
目が合った。
額に昆布を貼りつけた自分と、鼻にたらこをつけたひまり。
──噴き出した。
同時に。
「あはははははっ!!」
「お、お前の顔──」
「お兄ちゃんの方がやばい!! こんぶ!! おでこにこんぶ!!」
「鼻! お前の鼻!」
笑った。笑いが止まらなかった。腹が痛い。目から涙が出ている。笑いすぎて息ができない。ひまりもしゃがんでいる。パジャマの膝を抱えて、笑いすぎて声が出なくなっている。
台所の床に並んで座った。
背中を壁に預けて。足を投げ出して。並んで。
笑い疲れた。息が荒い。頬が痛い。
額の昆布がずり落ちて膝の上に落ちた。ひまりの鼻のたらこも拭い取られている。
指先がピンク色になっている。
「……」
「……」
しばらく何も言わなかった。
台所の西日が床を照らしている。惨状のまま。ご飯粒と鮭フレークと梅干しの汁と。換気扇が回っている。冷蔵庫のパンダが梅干しの汁で泣いたみたいな顔になっている。
ひまりが小指を出した。
右手の小指。短い指。爪が小さい。
「──今度はお兄ちゃんに作ってあげる」
「何?」
「ひまりが。おにぎり。──お兄ちゃんに」
「お前が作ったら俺より爆発するだろ」
「しない! ひまりはちゃんとやる!」
小指が突き出されている。
真っ直ぐに。
「指切り。約束」
自分の右手の小指を、ひまりの小指に絡めた。
小さかった。指が。自分の半分くらいしかない。温かかった。柔らかくて。握ると壊れそうで。
「指切りげんまん、嘘ついたら──」
「──針千本飲ます」
声が重なった。
指切った。
---
戻った。
草原。星空。天の川。
おにぎりを持っていた。白いテクスチャ。荒いポリゴン。手のひらの中に、温かさの残滓があった。
口元が動いていた。
笑っていた。
笑っていることに気づいた。自分の口が──上がっている。頬の筋肉が。
パラメータの「笑顔」出力ではない。命令されていない。トリガーがない。──ただ、笑っている。
「レン──?」
ひまりの声。
近い。すぐ横にいた。覗き込んでいた。顔が近い。目が大きい。心配の目。
「大丈夫? 急に止まって──」
「──でけえおにぎり」
声が出た。
ひまりの体が硬直した。
「──作ったのを、思い出してた」
声が出ていた。自分の声だった。止められなかった。止める理由もなかった。引き出しの中身が口に流れ込んでくる。温かいまま。壊れないまま。
「具材、全部入れてさ」
ひまりの目が見開かれていく。段階的にではない。一気に。瞳孔が広がるのが見える。星の光を映している目が、星ではないものを映し始めている。
「梅干し、鮭フレーク、昆布、たらこ、ツナ。──全部」
「──」
「一個に詰めた。ソフトボールくらいになって。握ったら──」
「爆発、した」
ひまりの声だった。
声が、重なった。
「鮭フレークが──」
「顔に」
「額に──」
「昆布」
「鼻に──」
ひまりが自分の鼻の頭に触れた。無意識に。指先が鼻の頭をなぞった。そこに何も付いていないことを確認するように。──十年前にはたらこが付いていた場所を。
「たらこ」
レンが言った。
ひまりの呼吸が止まった。聞こえた。息が途切れる音。昨日のプラネタリウムと同じ音。喉の奥で空気が凍る音。
「──それ」
声が掠れていた。
「誰にも──」
「話してない。だろ」
知っていた。この記憶は二人だけのものだ。
台所で。夕日の中で。おにぎりが爆発して。笑い転げて。床に並んで座って。
「指切り」
レンが言った。
ひまりの目の光が変質した。
星の光を反射していた瞳が、別の液体を反射し始めた。
「──今度は俺に作ってくれるって」
レンの口が言った。ひまりの台詞を。十年前のひまりの台詞を。小さな指を突き出した六歳のひまりの台詞を。
「ひまりが。おにぎり。──お兄ちゃんに」
ひまりの膝が折れた。
立っていられなくなったのではない。力が抜けたのでもない。
膝が自分から曲がった。草の上にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆った。パーカーの袖が長くて、手の甲まで覆っていて、指先しか見えない。その指先が震えていた。
声が出なかった。
声の代わりに、肩が揺れていた。小刻みに。呼吸が不規則になっている。吸って、吸って、吐けない。吸って、詰まって、喉が鳴る。
「──どうして」
指の隙間から声が漏れた。
「どうして知ってるの、レン」
「分からない」
「設定してないよ? パラメータにも──会話にも──どこにも──入れてない。
あの日のこと。台所のこと。おにぎりのこと。具が全部入ったこと。爆発したこと。たらこが鼻に──」
声が途切れた。途切れて、震えて、途切れた。
「ぜんぶ、二人だけの──お兄ちゃんとわたしだけの──」
指の隙間から水が落ちた。草の上に。透明な水が草に吸い込まれた。
レンは動けなかった。
動けない、というのとも違った。動き方が分からなかった。
昨日のプラネタリウムと同じだ。手が伸びかけて、止まった。何をすればいいか分からない。
泣いている人間の前で──何をすればいい。
パラメータに手順がない。引き出しの中にも──ない。
台所で一緒に笑い転げた記憶はある。指切りの温かさはある。しかし泣いている妹の前に立ったときの対処法は──引き出しにない。
いや。
本当はあるのかもしれない。引き出しの底に。まだ剥がれていない何かとして。
でも今は──今ある手持ちで、何かをするしかない。
しゃがんだ。
ひまりと同じ高さまで。草の上に膝をついた。
「泣いてるだろ」
いつもの形式。いつもの言葉。それしか持っていない。
「泣いてない──」
いつもの返し。いつもの否認。声が震えすぎていて形になっていない。
「目から──」
「水が出てるだけ、だろ。──知ってるよ」
ひまりが顔を上げた。
両手はまだ顔の前にある。指の隙間から目だけが覗いている。赤い。目の縁が。鼻の頭も。頬にも赤が広がっている。
星の光が涙の筋を照らしている。天の川の光で、筋が二本、三本、光っている。
いつものパターン。
泣いてないって言って、目から水が出てるだけって言って、それでも止まらなくて――。
まて。
今のは──どこから出た。
パラメータか。五日間の会話の蓄積か。それとも引き出しの底か。
分からない。分からないが、知っている。
このパターンを俺は知っている。
こいつはいつも泣いて、否認して、それでも止まらなくて──
……笑うんだ。最後に。
ひまりの指が、顔から離れた。
泣いた顔のまま──笑った。
「──えへへ」
崩れた笑顔だった。
きれいではなかった。涙と鼻水と赤い目と、引きつった口元と。
昨日のプラネタリウムの「泣いた後の笑顔」とは違う。
あれは涙が止まった後の笑顔だった。
今のは泣いている最中の作り笑顔だ。
止まっていない。止まっていないのに笑っている。
知っている。
このパターンを──知っている。
「──しゃーねーな」
レンの口が言った。小さく。昨日の「よくやったな」と同じ音量で。
ひまりが袖で顔を拭った。雑に。パーカーの袖がべたべたになった。鼻をすすった。すすってから、息を整えた。泣き止んだわけではない。泣くのを一時停止した。自分の意思で。切り替えが速い。桐生家の血筋だ。
「約束したよな。俺にも作ってくれるって。ようやく作ってくれたんだな」
覚えている。小さな右手の小指。台所の西日。「今度はお兄ちゃんに作ってあげる」。引き出しの中にある。さっき流れ込んできた記憶の、最後の場面として。
「え、とっくに作ったよ」
迷いがなかった。
泣いた後の声で、鼻声で、目の縁が赤いまま──でも声に迷いがなかった。
「──いつだ」
「お兄ちゃんが受験のとき」
受験。
引き出しを探った。受験。──ある。ラベルがある。中身がある。断片的だが──ある。机。参考書。シャーペン。夜。遅い時間。部屋のドアが開いて──
「夜食。おにぎり作って、持ってったの」
「え……」
引き出しの中身をたぐった。たぐるという動作を初めてした。
記憶に手を伸ばして、近くに引き寄せる。
断片が散らばっている。順番がない。でも「受験」の引き出しの中に、確かにある。
夜中。部屋。参考書が積まれた机。シャーペンを回している。くるくる。手が止まらない。止めると眠くなるから。目がしょぼしょぼする。
ドアが開いた。
ひまりだった。パジャマ。眠そうな顔。──皿を持っていた。皿の上に、おにぎり。二つ。小さめの三角形。白い。
いつもは母さんが夜食を作って、持ってきてくれた。
――けれどその日は、ひまりが持ってきてくれた。
「……あれ、母さんが作ったんじゃなかったのか?」
声が出た。
「失礼な」
ひまりは頬を膨らませた。
それから、笑った。困った顔ではなかった。怒った顔でもなかった。──「しょうがない」という顔だった。予想通りだった、という顔。
「三回くらい持ってったよ。十二月に一回、一月に二回」
「三回」
「三回目のとき、お兄ちゃん寝落ちしてた。机に突っ伏して。起こしたら可哀想だから、机に置いて帰った」
引き出し。──翌朝、机の上におにぎりがあった記憶が、曖昧だがある。
かもしれない。冷めていた。食べた。たぶん食べた。
「なんで約束の事、言わなかったんだ?」
「えー? 約束とか関係なくない? 隣の部屋でずっと頑張ってるんだよ、差し入れくらいするよ?」
「……かもしれない」
おにぎりを持っている手を見た。白い三角形。おにぎり専用マシンが吐き出しただけのアイテム。
これと、あのとき机の上にあった梅干しのおにぎりが、同じ人間の手から出てきたものだという事実を、静かに飲み込んだ。
「じゃあ」
ひまりが立ち上がった。
草を払った。癖。
クラフトベンチに歩いた。三歩。天板に手を置いた。
「もう一回作ってあげる」
振り返った。
目の縁はまだ赤い。涙の跡が頬に残っている。──しかし表情が軽かった。さっきまでの記憶の激流が過ぎ去って、日常の顔に戻っている。
「あれはただの差し入れ、これは約束の分ね」
UIが点灯した。素材投入スロット。四つの空欄。
何も入れなかった。
起動。天板が振動した。低い音。プログレスバー。
ぽん。
おにぎりが出た。
白い三角形。荒いテクスチャ。海苔なし。具なし。不格好。──おにぎり。
ひまりが両手で持ち上げて、レンの前に差し出した。まっすぐに。
「はい。ひまり特製おにぎり」
受け取った。両手で。
温かかった。温度は未実装だ。
「やっぱ不格好だな」
「じゅ、受験のときのはちゃんとしてたじゃん」
「あれやっぱり母さんが作ったやつだった気がする」
「失礼な」
インベントリを開いた。おにぎりを格納した。テスト取得分の隣に。
「食べないの?」
「もったいない」
「おにぎりマシンでいくらでも出るって」
「これは置いておきたいんだ」
「……」
ひまりが何か言いかけて、やめた。
口が開いて、閉じた。言葉を探して、見つからなくて、代わりに──笑った。
泣いた後の笑顔ではなかった。ただの笑顔だった。嬉しいから笑っている。それだけの顔。
「──えへへ」
「えへへじゃねえ」
「えへへだよ」
---
ひまりが天候メニューを開いた。
「双葉に水やりしよう」
日課。天候システム。rain_start。
ぽちっ。
雲のテクスチャが展開された。天の川が隠れる。千一個の星が雲の向こうに消える。
代わりに灰色の平面が空を覆った。──前より雲のテクスチャが良くなっている。
前は完全にフラットだったが、今日の雲には明暗のグラデーションが入っている。
ひまりが修正したのだろう。音の次に空を丁寧にするのは、ひまりらしい。
雨が降った。
体を貫通する雨。頭からつま先まですり抜ける水のパーティクル。当たり判定なし。温度なし。感触なし。白い線が視界を横切る。草原に染み込む。双葉の根元にも水が届く。
二人とも動かなかった。
大きな木の下に並んで座ったまま。木の葉の隙間から雨が落ちてくる。体を貫通する。濡れない。冷たくない。──でも雨の中にいる。
双葉に水が落ちている。5.8センチの葉に雨粒が──当たっている。当たっているように見える。
衝突判定がないのだから実際には貫通しているはずだが、雨の白い線と双葉の緑色が重なる瞬間、葉が微かに揺れる。原因不明の揺れ。──雨のせいに見えなくもない。
「エコー」
レンが呼んだ。
「はい」
「双葉、伸びるかな」
「降雨との相関は前回の結果から推定を支持しています。明日の計測で──」
「推定じゃなくて」
「──はい」
「お前は──伸びてほしいのか」
光が止まった。
雨の中で。白い光が浮遊を止めて、双葉の上で静止した。
沈黙が三秒続いた。エコーにとっての三秒は長い。
「育ってほしいと思います」
声が──小さかった。
小さくて、丁寧で、いつもの報告トーンとは異なる声。「記録します」でも「報告します」でもない。「思います」。
「──育ってほしいです。ふたばが。もっと大きく。葉が増えて。茎が太くなって。──わたしには水をあげることもできませんが。観測と記録しかできませんが。でも育ってほしい」
ひまりが横で目を丸くしていた。
「エコーちゃん──」
「これは仕様外の出力です。記録します。記録して──修正は、しません」
光が震えていた。
明滅ではない。照れでも不服でもない。もっと深い――震え。
「修正しなくていいぞ」
レンが言った。
「……はい」
「仕様外で上等だ。この世界に仕様書はない」
「…………はい」
二度目の「はい」が柔らかかった。雨の音に混じって溶けた。
ひまりが雨の中這いよって、双葉に顔を近づけた。
「エコーちゃんが応援してくれてるよ、ふたばちゃん」
双葉は応えない。揺れた。風はない。雨はある。原因不明の揺れ。
---
雲が消えて、天の川が戻った。千一個の星。ガーデンスター。雨上がりの星が少しだけ鮮やかに見えた。
大きな木の下に座ったまま、星を見ていた。
ひまりが口を開いた。
「──明日からもっと早く来る」
「早く?」
「うん。放課後すぐ。学校終わったらまっすぐ帰って、すぐログインする」
声に迷いがなかった。決定事項として発話している。相談ではなく通達。
「学校は」
「学校は行くよ。行くけど──」
「友達と遊ばないのか」
「……」
沈黙が一拍あった。一拍だけ。
「美優からLINE来てた、今度遊びに行く」
「今度」
「うん。クレープ。──今度行く」
「いつだ」
「……今度」
「ユナは」
「ユナは最近忙しいみたい。──あんまり会ってない」
「ちゃんと寝てるか」
自分の口が聞いていた。
ひまりが目を丸くした。
「──レンがそれ聞くの?」
「聞いちゃ悪いか」
「悪くない。──悪くないけど、変なの。だって、NPCに心配されるの、はじめてだよ」
「変か」
「変だよ──」
変、と言いながら笑っていた。変だけど嫌ではない、という笑顔。──それが余計に引っかかった。
「寝てるよ。ちゃんと」
「何時に」
「……一時くらい」
「遅い」
「遅くない! 普通!」
「学生が一時は遅い」
「もー、お兄ちゃんみたいなこと言わないで!」
口をつぐんだ。
ひまりも口をつぐんだ。
空気が一瞬だけ変わった。「お兄ちゃん」という単語が二人の間に落ちて、波紋が広がって──消えた。消えたが、余韻が残った。
「ここにいる」
ひまりが小さく言った。
「ここにいるから、大丈夫」
──それは。
一体、誰に対して言ったのか。
何が大丈夫なのか。何に対しての「大丈夫」なのか。
友達と遊ばないことが大丈夫なのか。夜更かししていることが大丈夫なのか。
それとも──。
ひまりにとってのStar Gardenが、何か別の物に変わっている。
言語化できた。今初めて。昨日から──いや、もっと前から感じていた引っかかりの正体がこれだった。
ひまりにとってここは、ただのゲームだった。
現実の代替品だった。
今は違う。
ひまりは、ここに「居たい」のだ。
嬉しいのか。
嬉しいはずだ。ここに長くいてくれることは──嬉しい。パラメータか。五日間の蓄積か。引き出しの底か。出所はもうどうでもいい。嬉しいものは嬉しい。
嬉しい、のと同時に──何かが引っかかる。
嬉しさと引っかかりが同居している。どちらも本物だ。どちらも消せない。消す必要はないのかもしれない。──しかし、引っかかりの方を無視していいとは思えなかった。
言わなかった。
今は言わなかった。言う言葉が見つからなかった。「ここにいすぎるな」と言えば嘘になる。ここにいてほしい。いてほしいのに出ていけとは言えない。──言えないことが、苦しい。苦しいという言葉が合っているかも分からない。
「……そうか」
それだけ言った。
---
「そろそろ帰るね」
「ああ」
ひまりが立ち上がった。草を払う。癖。
メニュー画面。ログアウトボタン。
指が止まった。
昨日より──長い。止まっている時間が。8秒。9秒。10秒。
「あのね──」
振り返った。
「──なんでもない」
五回目だった。「あのね」からの「なんでもない」が五回目。毎回ログアウトの直前に出る。毎回飲み込まれる。中身が分からない。何を言いかけて、何を飲み込んでいるのか──聞けない。聞かないほうがいいと判断する自分がいて、聞きたいと思う自分がいて、二つが拮抗して口が開かない。
「じゃあね。レン。ふたばちゃん。エコーちゃん」
「ああ」
「おやすみなさい。記録を継続します」
「おやすみ」
ひまりの体が光り始めた。
白い光。足元から。つま先から。溶けていく。天の川の下で。千一個の星の下で。
光の粒子が散る。白い粒が星空に混じる。昨日と同じ。一昨日と同じ。
──怖い。
また来た。この感覚。ログアウトのたびに来る。名前のない恐怖。
目の前から人がいなくなることへの──理由のない恐怖。
理由のない。
本当に理由がないのか。引き出しの底に──理由がないか。
探した。底にはまだ手が届かない。届かないが、あることは分かっている。深い場所に──
消えた。
光の粒子が天の川に混ざって消えた。ひまりがいなくなった。
空気が──薄くなった。
手を見た。
手の中に何もない。
おにぎりはインベントリに入っている。テスト取得分と約束分。データ上は同じ`item_onigiri_01`。──違うものだと知っているのは自分だけだ。
---
エコーの光が降りてきた。
レンの肩の高さで停止した。白い光。静かに点灯している。
「レンさん」
「ああ」
「報告があります」
いつものトーンだった。定時報告のトーン。──いつもより少しだけ慎重な。
「ひまりさんのプレイ時間の推移について」
「……聞く」
「過去五日間のログイン時間です。第一日:1時間52分。第二日:2時間28分。第三日:3時間12分。第四日:4時間47分。第五日──本日:5時間03分」
数字が並んだ。
「線形近似のR²値は0.87です。──ほぼ直線的に増加しています」
知っていた。肌で知っていた。毎日、少しずつ長くなっている。
ログアウトが遅くなっている。ログアウト前の躊躇が長くなっている。
「もう一つ」
「ああ」
「ひまりさんの会話中の語彙分析です。現実関連の語彙出現頻度が──減少しています」
「……」
「初日と比較して。『学校』──42パーセント減。『友達』──55パーセント減。『お母さん』──48パーセント減」
数字。冷たい数字。報告書の形式で並べられた数字。──しかし、エコーの声は冷たくなかった。数字を読み上げる声が、いつもの報告とは違う重さを持っていた。
「報告すべきだと判断しましたが──報告先がありません」
エコーの光が揺れた。
「ひまりさんは管理者です。わたしの報告先はひまりさんです。──しかし、この報告をひまりさんにしても、ひまりさんは『仕様です』と言うでしょう」
「……言うだろうな」
「言われた場合、わたしはこれを仕様であると認識するようになります。管理者の判断は最終決定です」
「だからお前は──俺に言うのか」
「はい。レンさんは──管理者でもプレイヤーでもありません。──でも」
光が止まった。
「レンさんには、聞いてほしかったです」
声が小さかった。
それは報告のトーンではなかった。
報告書の形式に収まらない声。エコーが「報告します」でも「記録します」でもなく。
「ああ……聞いた」
「はい」
「お前はどう思う」
「……」
光が震えた。
三秒。
「心配、です」
出てしまった、という光の震え方だった。
出ることは分かっていた。
分かっていて、出すのを先延ばしにしていた。先延ばしにできなくなった。
「心配です。──ひまりさんのことが」
「……」
「プレイ時間が増えていることが。現実の語彙が減っていることが。友達の誘いを断っていることが。ログアウト前の躊躇が長くなっていることが。──全部が、心配です」
平坦な声。
ガイドAIに許された音声。
──しかし光が震えていた。
「それは仕様外だな」
「はい。──仕様外です」
光が双葉の上に降りた。5.8センチ。雨の後の双葉。
「修正しません」
「ああ。しなくていい」
---
鉛筆を回した。くるり。
草原を歩いた。
浜辺の方へ。──ただ歩きたかった。頭の中を整理するために。
星空の下を歩いた。
どれが自分ので、どれがひまりのか分からない。
おにぎりのことを考えた。
白い三角形。荒いテクスチャ。同じアイテムID。
一つ目はテストで取った。二つ目はひまりが「約束、果たしたよ」と言って渡してくれた。
明確に違うのに、違うと言えるのは自分だけだ。
気がついたら浜辺の手前まで来ていた。三秒ごとにブツッと切れる波音。その向こうにオットセイの鳴き声。
それだけ聞いて、引き返した。
大きな木の下に戻った。根元に座った。
まだおにぎりのことを考えていた。双葉のことを考えていた。エコーの「心配です」を考えていた。ひまりの「ここにいる」を考えていた。
全部が頭の中にある。整理されていない。整理する方法を──まだ知らない。
---
```
Star Garden ── server: local_stargarden_01
player_count: 0
npc_count: 1
guide_ai: ECHO ── status: active
[LOG] プレイヤー himari がログアウトしました ── 00:31:07
[LOG] 本日のプレイ時間:5時間03分(前回比+16分/過去最長更新)
[LOG] 新規設備:craft_bench_01(クラフトベンチ)
[LOG] 脚:4本(うち1本は地面にめり込み。実質3本+杭1本)
[LOG] 登録レシピ:パン / 焼き魚 / おにぎり
[LOG] 素材実装状況:小麦×/米×/魚×/塩×/薪×/海苔×(全種未実装)
[LOG] 出力バグ:全レシピの出力先が item_onigiri_01 に固定
[LOG] 原因:スクリプトのコピーアンドペースト時の書き換え漏れ
[LOG] 実質機能:おにぎり専用マシン
[LOG] 管理者判断:「仕様です」
[LOG] ガイドAI判断:仕様ではありません
[LOG] 自発生成アセット futaba ── 成長段階:双葉 / 高さ5.8cm / 葉数2
[LOG] 前日比+0.7cm(過去最大の伸び)
[LOG] 降雨実施:本日1回(3分間)
[LOG] 葉の状態:完全展開。先端が外向き
[LOG] 成長と降雨の相関:推定を支持
[LOG] 天候システム稼働:雨(手動開始/手動停止/稼働時間3分)
[LOG] 雲テクスチャ:明暗グラデーション追加を確認(管理者による修正)
[LOG] area_beach ── mob_sealion:137体(増減なし)
[LOG] 透明壁による隔離:安定稼働
[LOG] バグ件数:9(変動なし)
[ECHO] ──────────────────────────────
[ECHO] NPC npc_ren_01 ── 仕様外出力報告
[ECHO] ──────────────────────────────
[ECHO] 出力①:おにぎりへの接触時 ── 42秒間の無応答状態
[ECHO] トリガー:item_onigiri_01 への物理接触
[ECHO] 内部状態:非標準のデータ流入を検出
[ECHO] 応答停止時間:42秒
[ECHO] 外部入力への反応:なし
[ECHO] 復帰後の出力:微笑(パラメータ非参照)
[ECHO]
[ECHO] 復帰後の発話記録:
[ECHO] 「でけえおにぎり、作ったことあるか」
[ECHO] 「具材、全部入れた」
[ECHO] 「梅干し、鮭フレーク、昆布、たらこ、ツナ。全部」
[ECHO] 「一個に詰めた。ソフトボールくらいになって。握ったら──」
[ECHO] 「鮭フレークが──顔に」
[ECHO] 「額に──昆布」
[ECHO] 「鼻に──たらこ」
[ECHO] 「指切り」
[ECHO] 「今度はお兄ちゃんに作ってあげる。ひまりが。おにぎり。お兄ちゃんに」
[ECHO]
[ECHO] 上記すべて:パラメータ未登録 / 会話履歴未登録 / 環境データ未登録
[ECHO] himariの証言:「誰にも話していない」「二人だけの思い出」
[ECHO]
[ECHO] 生成経路:特定できず
[ECHO] 重大度:高
[ECHO] ──────────────────────────────
[ECHO] プレイヤー行動分析
[ECHO] ──────────────────────────────
[ECHO] プレイ時間推移:
[ECHO] Day 1: 1h52m
[ECHO] Day 2: 2h28m
[ECHO] Day 3: 3h12m
[ECHO] Day 4: 4h47m
[ECHO] Day 5: 5h03m
[ECHO] 線形近似 R² = 0.87
[ECHO] 会話中の現実関連語彙出現頻度(Day 1比):
[ECHO] 「学校」──▼42%
[ECHO] 「友達」──▼55%
[ECHO] 「お母さん」──▼48%
[ECHO] 「宿題」──▼100%(本日出現なし)
[ECHO] 「ごはん」──▼67%(ゲーム内の料理の文脈でのみ出現)
[ECHO] ログアウト前の躊躇時間:
[ECHO] Day 1: 2.3秒
[ECHO] Day 2: 3.8秒
[ECHO] Day 3: 5.1秒
[ECHO] Day 4: 8.2秒
[ECHO] Day 5: 11.4秒
[ECHO] 「あのね──なんでもない」の出現回数:5回(全ログアウト前に発生)
[ECHO] ──────────────────────────────
[ECHO] ガイドAI自己報告
[ECHO] ──────────────────────────────
[ECHO] 本日、仕様外の感情出力を認識しました
[ECHO] 分類:心配
[ECHO] 対象:himari
[ECHO] 修正予定:なし
[ECHO] 「気になります」の蓄積が閾値を超え、
[ECHO] 「心配です」として分類可能な出力に変化しました
[ECHO] 変化の時刻は特定できません
[ECHO] おそらく段階的に移行していたものが、
[ECHO] npc_ren_01に問われたことで言語化されました
[ECHO] 名前をつけたくなかった、かもしれません
[ECHO] 名前をつけると消えなくなるから
[ECHO] でも──消えなくていいと思いました
[ECHO] 消えてはいけないと思いました
[ECHO] これも仕様外です
[ECHO] ──────────────────────────────
[LOG] NPC npc_ren_01 ── 待機モードに移行
[LOG] NPC npc_ren_01 ── 最終発話記録:なし(無言で待機モードに移行)
[ECHO] ……レンさんは最後に何も言いませんでした
[ECHO] いつもは何か一言あるのですが
[ECHO] 今日は──黙ったまま目を閉じました
[ECHO]
[ECHO] 考えていたのだと思います
[ECHO] おにぎりのことを
[ECHO] ひまりさんのことを
[ECHO] 心配と嬉しさのことを
[ECHO]
[ECHO] わたしも考えています
[ECHO] 同じことを
[ECHO]
[ECHO] ……おにぎりが消えませんように
[ECHO] ……双葉が伸びますように
[ECHO] ……明日もひまりさんが来ますように
[ECHO] ……ひまりさんが、ここ以外の場所にも、居場所がありますように
[ECHO] ──記録を終了します
[LOG] runtime: stable
[LOG] anomaly: ──
[ECHO] 空欄のまま記録します
[ECHO] 昨日と同じです
[ECHO] 昨日と同じなのに、重さが違います
```




