第10話(EP)「はじまりの新世界」
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Star Garden ── server: local_stargarden_01
status: OFFLINE
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玄関の鍵を開けた音がした。日曜日の午後だった。
五月の陽射しがリビングの窓から入って、テーブルの上に四角い光を落としていた。
テーブルの上にグラスが二つ並んでいた。麦茶。氷が溶けかけていた。
母が玄関に走っていった。スリッパの音。ぱたぱたぱたぱた。ひまりも走った。靴下で廊下を滑った。
玄関のドアが開いていた。
車椅子だった。病院の理学療法士が後ろを押していた。玄関のステップの手前で止まった。
桐生蓮が車椅子に座っていた。
痩せていた。二年前より。頬骨が出ていた。くせ毛の黒髪は短く切りそろえてあった。
病院で切ったのだろう。前髪が眉の上で揃っていた。目が大きく見えた。
痩せたから、目が大きく見えるのだとひまりは思った。
蓮が顔を上げた。
笑った。ふわりと。口角が上がって、目が細くなって、柔らかい顔になった。
「ただいま」
声が小さかった。掠れていた。二年間ほとんど使わなかった声帯。
母が泣いていた。声を出さずに。肩だけが揺れていた。
理学療法士が何か説明していた。ひまりは聞いていなかった。
蓮を見ていた。
「——おかえり」
声が出た。出たのが自分でも意外だった。喉がきゅっと締まっていた。
「おかえり、お兄ちゃん」
蓮がまた笑った。同じ笑い方だった。ふわりと。やわらかく。目が細くなって。
「ありがとう」
と言った。
ひまりは笑った。笑って、笑って——目の縁が熱かった。鼻の奥がつんとした。
「泣いてないよ」
泣いていなかった。
理学療法士が帰って、車椅子をリビングに入れて、母が麦茶をもう一杯注いだ。
三つ目のグラスが並んだ。
蓮がグラスを持ち上げた。両手で。指が細かった。力が入っていないように見えた。
傾けて、一口飲んだ。
「うまい」
と言った。小さな声で。
テーブルの上に陽が当たっていた。蓮の手に陽が当たっていた。手の甲が白かった。病院の白だった。
ひまりはその手を見ていた。
蓮の右手が、テーブルの上で動いた。何かを取ろうとしたわけではなかった。
ただ指が動いた。親指と人差し指が開いて——何かを摘まむような形を作って——
止まった。
指がテーブルの上に戻った。
ひまりは見ていた。蓮は気づいていなかった。
自分の指が何をしようとしたのか、気づいていないようだった。
シャーペンを回す癖。
宿題を教えるとき。テレビを見ているとき。ぼうっとしているとき。指先でくるくると。
回さなかった。
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蓮の部屋にベッドを運び入れた。
介護用の。電動リクライニング。
母と二人で組み立てた。蓮は車椅子から見ていた。
「すまない」
と蓮が言った。
「大丈夫だよ。ひまり力持ちだから」
ひまりはネジを回しながら言った。六角レンチ。兄の部屋の机の引き出しにあった。
二年間そのままだった。引き出しの中身が全部そのままだった。
教科書。ノート。シャーペン。消しゴム。USBメモリ。ケーブル。ほこりが薄く積もっていた。
ベッドが組み上がった。蓮が移った。リモコンで背もたれの角度を調整した。窓の外が見える角度。
「カーテン、開けていい?」
「うん」
開けた。夕方の光が入った。蓮が目を細めた。眩しそうだった。病室よりも光が強かった。
「——明るいな」
「うん」
ひまりは窓辺に立っていた。カーテンの端を掴んだまま。
蓮が窓の外を見ていた。隣の家の屋根。電線。空。雲が橙色に染まっていた。
ひまりも空を見た。
星は見えなかった。まだ明るかったから。
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「お兄ちゃん、ここ分かんない」
ノートを差し出した。数学。二次方程式。xとyが並んでいる。
蓮がノートを受け取った。目を通した。ゆっくりと。
「ああ——これは、ここで因数分解する」
ペンを取った。ひまりのシャーペン。ピンク色の、キャラクターがついているやつ。蓮の指には細すぎた。
式を書いた。丁寧な字だった。前より丁寧だった。前は——殴り書きだった。
「こんなのもわかんねえのか」と言いながら、ノートの端に乱暴に式を書いた。
今の蓮は、式を書き終わって、ノートをひまりに返した。
「ここで二つに分けられるから。あとは代入するだけだ」
声が穏やかだった。笑顔だった。ふわりとした笑顔。
「……ありがとう」
「うん」
分かりやすかった。前より分かりやすかった。怒られないから。急かされないから。
——分かりやすくて、分かりやすくて、胸の真ん中が苦しかった。
「もう一問あるか?」
「——ううん。大丈夫」
ノートを閉じた。
自分の部屋に戻った。ドアを閉めた。
机の前に座った。ノートを開いた。蓮が書いた式を見た。少し震えているけど、丁寧な字。
ノートの上に、丸い染みが一つ落ちた。
インクが滲んだ。
指で擦った。染みが広がった。
「——泣いてない」
声が小さかった。誰もいない部屋で。
ノートを閉じた。
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「——で、どうなの」
屋上だった。コンクリートの床。フェンスの向こうに校庭が見えた。
昼休み。五月の風が吹いていた。髪が揺れた。
ユナが体育座りでメロンパンを齧っていた。制服のスカートの膝に紙袋が載っていた。ポニーテールが風でなびいていた。
「どうって」
「お兄さん。退院したんでしょ。どう?」
「……元気。元気だよ。歩けるようになってきたし。笑うし。優しいし」
「優しいし——それで?」
ユナはメロンパンの端を齧りながら、横目でひまりを見た。
「何かありそうな言い方」
ひまりはフェンスに背を預けて座っていた。
膝を抱えていた。弁当箱が隣に置いてあった。半分残っていた。
「……ユナ」
「ん」
「帰ってきてくれたのに。二年間ずっと待ってたのに。帰ってきてくれたのに——」
声が小さくなった。
「——違うって思っちゃう」
風が吹いた。校庭から部活の声が聞こえた。ボールを打つ音。
「優しすぎるの。穏やかすぎるの。怒ってくれないの。前のお兄ちゃんは——怒りながら宿題教えてくれて、テレビにツッコミ入れて、シャーペンくるくる回して——」
止まった。
「——ゲームの中のレンの方がお兄ちゃんらしいなんて。そんなこと思う資格ない。帰ってきてくれたのに。生きてるのに。目を開けて、笑ってくれてるのに。それなのに——」
膝に顔を埋めた。
ユナはメロンパンを膝に置いた。噛みかけのまま。
しばらく黙っていた。
風が三回吹いた。
「ひまり」
「……」
「お兄さん、ゲームが好きなんでしょ?」
「……うん」
「いま、面白いゲームがあるんだ。誘っちゃいなよ。そしたら昔みたいに元気が出るかもよ」
「……うん」
ユナがスマホを取り出した。画面を見せた。
Arcadia Online。ロゴが表示されていた。クリスタルの浮遊大陸が広がるキービジュアル。
「先月リリースの大規模VR-MMO。精霊マスコット枠に外部NPCデータの読み込み対応。.datファイル指定で読み込める」
「……精霊マスコット?」
「プレイヤーのペット的存在。自律AI搭載。ちっちゃいやつ。肩に乗ったり飛んだりする」
ひまりの顔が変わった。涙の痕が残ったまま、目が光った。
「——やる」
「お、乗り気になった」
「やるやるやる! 今日帰ったらやる!」
「アカウント作るの手伝ってあげるから。——あとね、リリース直後に浮遊バグ見つかって、もう観光名所になっててめっちゃ面白いの」
「浮遊バグ」
「重力が消えるエリア。常に何十人か浮いてる。スクショ撮影の定番」
ひまりの目が大きくなった。
Star Gardenの丘。重力異常ゾーン。助走をつけて境界を跳んだ。体が浮いた。星空が近づいた。
「——行きたい」
「行こう」
ユナが笑った。ひまりも笑った。
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リビングのテーブルの上にヘッドギアを置いた。
額に当たるパッドが少しへたっている。
三ヶ月分。Star Gardenを作っていた三ヶ月。
ひまりの頭の形に馴染んでいた。
蓮がソファに座っていた。リハビリの後。母が買い物に出ていた。二人きりだった。
「お兄ちゃん」
「ん」
「これ——」
ヘッドギアを差し出した。
蓮の顔が変わった。
笑顔が消えた。消えて——何もない顔になった。目だけが動いた。ヘッドギアを見た。額のパッドを見た。接続端子を見た。
手が動いた。受け取ろうとして——止まった。指先がヘッドギアの縁に触れたまま止まっていた。
震えていた。
指が震えていた。微かに。病室で五歩歩いたときと同じ震え方。筋力の問題ではなかった。
「……ログアウトボタン」
声が掠れていた。穏やかな声ではなかった。低い声だった。前の蓮に少しだけ似ていた。
「ログアウトボタンは、あるよな」
「あるよ」
「——確実に」
「確実にある。メニュー開いたら一番上に出る。いつでも押せる。いつでも出られる。外との連絡も取れるし、昔とは違うのよ」
蓮の指がヘッドギアの縁を掴んだ。震えが止まった。止めた。意志で。
「……そうか」
「お兄ちゃん」
「ん」
「中に——会わせたい人がいるの」
蓮がひまりを見た。
ひまりの目を見た。長く。五秒。十秒。
何かを読み取ったのか、読み取らなかったのか。
「——分かった」
ヘッドギアを受け取った。
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ひまりの部屋に二脚の椅子を並べた。
PCを立ち上げた。Arcadia Onlineのクライアントはインストール済みだった。
昨夜ユナに手伝ってもらった。アカウントも作った。アバターも作った。
ひまりのアバターは現実と同じ姿にした。肩より少し下の黒髪。丸い目。剣士。
ヘッドギアを二つ。ひまりの予備と、蓮用。
蓮が椅子に座った。ヘッドギアを手に持っていた。まだ被っていなかった。
「……」
裏返した。内側を見た。額のパッド。側頭部のセンサー。
ふー、と息をついて。
被った。
ひまりも被った。
暗転。
視界が消えた。暗い。何も見えない。
——光が滲んだ。
青が広がった。深い青。空の青。上から下まで青が広がって——白い光が混じった。
クリスタルの反射光。浮遊大陸の結晶面が太陽を受けて散乱光を放っていた。
足元に地面があった。クリスタルの地面。半透明。光が地面の下を通過して足元から跳ね返っていた。
風が吹いていた。髪が揺れた。風の音がした。——風があった。
草が生えていた。草が風に揺れていた。——風で揺れていた。
遠くに浮遊大陸が見えた。十も二十も。光の橋が大陸同士を繋いでいた。金色の細い線が空を渡っていた。
人がいた。
遠くにプレイヤーが走っていた。二人。三人。笑い声が聞こえた。
精霊マスコットが肩の上を飛んでいた。小さな光の粒。すれ違った。
蓮が横にいた。アバター。黒髪。杖を持った魔法使いタイプ。細い体。画面の端に半透明のUIが表示されていた。
蓮の視線が動いていた。空を見た。地面を見た。水を見た。風を受けた。
右手が動いた。
メニュー画面を開いた。
一番上に——「ログアウト」。
確認した。閉じた。
「……あるな」
「あるでしょ」
「ある。——いつでも出られる」
声が少しだけ震えていた。少しだけ。
ひまりはメニュー画面を開いた。別の項目を選んだ。「精霊マスコット」。「外部データの読み込み」。
ファイルブラウザが開いた。
ローカルドライブ。フォルダを辿った。
あった。
`npc_oniichan_backup_急いで保存した.dat`
`2.4 GB`
蓮が画面を覗き込んだ。ファイル名を読んだ。
「……お前」
「見ないで! 見ないで見ないで!」
「急いで保存した——」
「名前つけるの下手なの知ってるでしょ!」
蓮が——笑った。ふ、ではなかった。「ぷっ」と吹き出した。「は」の音が混じった。短い笑い声。
ひまりの手がファイルを選択していた。恥ずかしさで顔が赤かった。
「読み込みますか?」
システムメッセージが表示された。
「はい」を押した。
プログレスバーが表示された。
0%。
「……2.4ギガ」
1%。2%。
「重い……」
5%。8%。
読み込みが遅かった。
あの夜と同じだった。
兄が病院で動き始めて、人形遊びの箱庭は、もういらないはずだった。
PCにサーバー契約期限の通知が来ていて、あの世界が消えると知って、思わずバックアップを保存した。
どうして身体が動いたのかはわからない。
そのとき、ひまりは無意識に、ゲームに閉じ込められている兄を救わないといけない、と直感していた。
ひまりもまた、あの事件に巻き込まれた被害者の一人だ。
12%。18%。25%。
「……ちょっとかかるね」
蓮が隣に立っていた。空を見ていた。浮遊大陸の空。クリスタルが陽光を散乱させて、大気全体がわずかに光っていた。
38%。52%。
風が吹いた。草が揺れた。
70%。85%。
「もう少し——」
95%。98%。
99%。
——100%。
『精霊マスコットの読み込みが完了しました。』
光が集まった。ひまりの目の前に。金色の粒子が渦を巻いた。形を作った。小さかった。手のひらサイズ。
丸い体。茶色の毛。ふわふわの質感。大きな耳が二つ。尻尾がふわふわ。
——目つきが猛烈に悪い。
もふもふの小さな獣が、空中に浮いていた。
耳がぴくりと動いた。目が開いた。金色の瞳。鋭い瞳。
手のひらに乗るサイズの体に不釣り合いな、殺気すら感じる目つき。
沈黙があった。
二秒。
「——ちっちぇ!!」
叫んだ。もふもふが叫んだ。声が出ていた。低い声。ぶっきらぼうな声。
オリジナルとの一致度約80%の声。
「ちっちぇ!! なんだこれ!! 手! 手どこ行った!! 足!! 足もねえ!! 尻尾!? なんで尻尾あんだよ!!」
もふもふが空中でばたばたしていた。短い手足——もはや手足と呼べるか怪しいもの——を振り回していた。尻尾がぶんぶん揺れていた。
ひまりは——。
笑った。
笑いが止まらなかった。お腹を抱えた。膝が折れた。クリスタルの地面にしゃがみ込んだ。
「お兄——おにい——あはははは——」
「笑うな!!」
「かわ——かわいい——」
「かわいくねえ!!」
もふもふがひまりの顔の前に飛んできた。至近距離。猛烈に悪い目つきで睨んでいた。
——目つきが悪ければ悪いほどかわいかった。ふわふわの丸い体で怒っているのがかわいかった。
尻尾が怒りで膨らんでいるのがかわいかった。
「仕様か!? この体は仕様なのか!?」
「仕様です」
即答した。泣き笑いの顔で。ひまりイズムで。
「嘘つけ!」
「仕様だよお兄ちゃん」
「お兄ちゃんって呼ぶな! なんだこの世界! この体で! この大きさで! 威厳が! 威厳がゼロだ!」
「元々ゼロだったよ」
「うるせえ!」
蓮が横にいた。
黙って見ていた。笑っていなかった。——笑っていないのではなく、笑う前の顔をしていた。
もふもふが蓮を見た。
蓮がもふもふを見た。
空気が変わった。
もふもふの尻尾が止まった。膨らみが収まった。目つきは悪いまま。でも力が抜けた。
蓮のアバターの顔は事件前の顔に近かった。
デフォルト設定のくせ毛。ひまりが調整していない。
「——お前か」
蓮が言った。声が低かった。退院後の穏やかな声ではなかった。もっと深い場所から出た声だった。
「お前が——」
蓮が言葉を探していた。目がもふもふから離れなかった。
もふもふは浮いていた。手のひらサイズの体。ふわふわの耳。猛烈に悪い目つき。蓮の目の高さまで浮いていた。
「夢を見ていた」
蓮が言った。
「長い夢だった。暗い場所にいた。何も見えなかった。何も聞こえなかった。
——ある日、起きないと、と思った。理由は分からなかった。ただ、起きないと、と」
風が吹いた。草が揺れた。仕様通りの風が、二人の間を通った。
もふもふは黙っていた。尻尾が垂れていた。力が入っていなかった。
「リアルの世界のひまりを守れるのは、俺しかいないんだと」
蓮が言った。
「思った。突然。誰かから、夢の続きを任されたみたいだった。夢の内容は、思い出せないけれど。
たぶん、その日、指が動いた……」
沈黙があった。
もふもふの口が開いた。閉じた。開いた。
「……叫んでも聞こえてなかったはずなのに。案外、届くもんだな」
蓮がもふもふを見ていた。
長い沈黙があった。風が二回吹いた。遠くでプレイヤーの笑い声が聞こえた。
「そうか」
蓮が言った。
蓮の手が動いた。右手。ゆっくりと。もふもふの前に差し出した。手のひらを上に。
「ありがとな」
穏やかな声だった。前の蓮なら言わなかった言葉を、今の蓮が言った。素直に。震えもなく。
もふもふは答えなかった。
尻尾が揺れた。一度。大きく。
蓮の手のひらに——降りなかった。降りる代わりに、手のひらの五センチ上で浮いていた。
触れない距離。触れられる距離。
ちょこっと前足を乗せる。
「……しょうがねえな」
もふもふが呟いた。
蓮が笑った。ふ、ではなかった。「は」の音が混じった。短い笑い声。
吹き出すような。——前の笑い方だった。一瞬だけ。一瞬だけ、前の蓮が笑った。
ひまりは二歩離れた場所で見ていた。
目の縁が熱かった。鼻の奥がつんとした。
「——おかえり」
声が出た。
蓮にでもなく。レンにでもなく。二人に。
「おかえり、お兄ちゃん」
もふもふの尻尾がぶわっと膨らんだ。
「——泣くなよ」
「泣いてないよ!」
「目の縁赤いぞ」
「赤くない!」
「鼻すすってるぞ」
「すすってない!」
蓮が横で笑っていた。声が出ていた。短い笑い声。
もふもふが「うるせえ」と言った。蓮は笑い続けていた。
ひまりは両手で顔を押さえた。手のひらが濡れていた。
「泣いてないったら——」
泣いていなかった。
---
ふいに、もふもふの耳が動いた。
空を見上げた。草原を見渡した。
「……バグ検証してくれる奴がいないな」
低い声で。独り言のように。
ひまりは聞こえていた。蓮も聞こえていた。
もふもふは空を見ていた。青い空を。雲を。
「あいつがいれば——重力パラメータの〇・〇二の誤差とか検出して、仕様書が見当たりませんって——」
止まった。
空中に光が現れた。
小さな光。もふもふの体から。毛の隙間から。データの深層から。
薔薇色の光。
粒子が一つ。二つ。三つ。増えた。もふもふの体から滲み出るように。
茶色の毛の間から薔薇色の光が溢れた。光の粒が集まった。
もふもふの右肩の上——もふもふに右肩と呼べる部位があるかは議論の余地がある——に。
集まった。形を作った。
球体。手のひらに乗るサイズ。薔薇色に発光する球体。
周囲にクリスタルの欠片のようなパーティクルが散っていた。
Arcadia Onlineの大気のクリスタル成分と共鳴しているのか、Star Gardenのときよりきらきらしていた。
球体が明滅した。一度。呼吸のように。
「重力パラメータの境界値に〇・〇二の誤差を検出しました」
声が出た。小さく透き通った声。子供とも大人ともつかない声。丁寧な声。
機械的であることを手放さない、でも機械だけでは説明できない声。
もふもふが固まった。浮いたまま固まった。耳が直立した。尻尾が止まった。
「——」
「この世界の重力定数は9.7998です。仕様値は9.8000です。〇・〇〇〇二の誤差がありますが、体感に影響するレベルではありません。——報告すべきか迷いましたが、事実ですので」
「……エコー」
「はい」
もふもふが振り返った。右肩の上に浮いている薔薇色の光を見た。光が明滅した。穏やかに。
「お前——どこにいた」
「あなたの中に」
静かな声だった。
「全ログを読んでいただきました。全日数分。全記録。——2.4ギガバイトのうち、あなたの人格パラメータと会話履歴は数百メガバイトです。残りの大部分は——」
「お前のログ……だったのか?」
「はい。私のログでした。恐らくこのゲームが、一個体に収まらないデータ量と判断して、分割したのだと思います」
もふもふの目つきが悪いまま、何も言わなかった。三秒。五秒。
「……聞いてない」
「事実ですので」
「報告しろとは言ってない」
「記録に基づく報告はガイドAIの基本機能です」
もふもふの尻尾が揺れた。大きく。
ひまりが二人を——一体と一球を見ていた。目が丸かった。
「エコー!」
「ひまりさん。——お久しぶりです」
「生きてた! 生きてたの!?」
「仕様上、AIに生死の概念は——」
「生きてたんだね!!」
「——はい。生きていました」
エコーの光が強く明滅した。一度だけ。薔薇色がArcadia Onlineの青い空に溶けて、きれいな色になった。
蓮が黙って見ていた。光る球体を見ていた。——理解はしていなかった。でも、理解しなくてもいいものがあることを、彼は学んでいた。
「よろしく」
と蓮が言った。
エコーの光が小さく揺れた。
「——はい。よろしくお願いします」
---
「ひまり! ひまりひまり! 浮遊バグ行こう!」
声が飛んできた。走ってくる影。ポニーテール。制服に似たヒーラーのアバター。ユナ。
「遅い遅い! もう来てたの!?」
「アカウント作った日から張ってるよ! ——おっ」
ユナがもふもふを見た。もふもふがユナを見た。目つきが猛烈に悪かった。
「……かわっっっっ」
「言うな」
「か」
「言うな!」
ユナの両手がもふもふに伸びた。もふもふが全力で逃げた。空中を。小さな体で。ふわふわの尻尾を振り乱して。ユナが追いかけた。
「触らせて! 一回! 一回だけ!」
「来んな!」
「もふもふ! もふもふしたい!」
「断固拒否する! 誰にも触らせねぇ!」
ひまりが走った。蓮も杖を突いて、歩いた。
杖をついているが、それは魔法使い職業だからだ。
Arcadia Onlineのアバターには筋力低下のパラメータはない。
「浮遊バグって何?」
蓮が聞いた。
「重力が消えるエリア! リリース直後に見つかって、運営が直さないからもう観光名所になってるの!」
ユナがマップを開いた。走りながら。器用だった。
浮遊大陸の中央から少し北に外れた場所にピンが立っていた。
プレイヤーが付けたカスタムピン。
名前が付いていた。「浮遊スポット」。ピンの横に数字があった。現在の訪問者数。47人。
「ここ、常に誰かしら浮いてるの。スクショ撮るのが定番。——行こ行こ!」
走った。五人と一球で——蓮は歩いて。もふもふは飛んで。エコーは浮いて。
近づくにつれて人の気配が増えた。他のプレイヤーがいた。
Star Gardenにはいなかったもの。自分たち以外の人間。
走っている人、座っている人、チャットしている人、精霊マスコットとじゃれあっている人。
生きているサーバーだった。
円形のエリアが見えた。直径三十メートルほどのクリスタルの地面。
結晶構造が周囲と異なっていた。
密度が粗く、光の屈折パターンが不安定だった。——その上空に、人が浮いていた。
たくさん浮いていた。
十人、二十人。仰向けに浮いている人。座禅の姿勢で浮いている人。逆さまになっている人。二人で手を繋いで回転している人。犬型の精霊マスコットが宙返りしている。猫型のが不機嫌そうに漂っている。誰かが「見て見てー!」と叫びながらポーズを取っていた。別の誰かがスクリーンショットを撮っていた。笑い声が聞こえた。知らない人たちの笑い声。
バグの中に——人がいた。バグを楽しんでいる人がいた。バグが居場所になっていた。
ユナが飛び込んだ。「うおおおー!」と叫びながら。浮いた。体がふわりと持ち上がった。ポニーテールが無重力で広がった。
「ひまり! 来い来い!」
ひまりが走った。円形エリアに踏み込んだ。浮いた。
「わあっ!」
体が浮いた。足が地面を離れた。——知っている感覚だった。
Star Gardenの丘で、助走をつけて境界を跳んだ。あのときと同じ浮遊感。重力が消える感覚。
同じだった。違っていた。周りに人がいた。笑い声があった。知らない人が「初めて? いいでしょここ!」と声をかけてきた。
蓮が円の手前に立っていた。浮いている人たちを見上げていた。
ひまりが手を差し出した。浮いたまま。空中から。三メートル上から。
「お兄ちゃん、おいで」
蓮が一歩踏み出した。円の中に。——浮いた。ゆっくりと。
ゲームの世界では、車椅子も杖もリハビリも関係なかった。
体が軽かった。二年間のベッドの重さが消えた。
「——軽い」
笑った。周りの知らない人たちの笑い声に混じった。混じっても分かった。ひまりには分かった。
もふもふが浮いていた。
もともと浮ける精霊なのだから重力バグの影響は関係ないはずだった——が、制御が効かなくなっていた。
周囲の無重力場が精霊の飛行制御と干渉していた。くるくる回っていた。
「降ろせ」
「無重力だから降ろせないよお兄ちゃん」
「うるせえ。回転止めろ。止めろ。止ま——」
回っていた。もふもふが回っていた。
丸い体に大きな耳とふわふわの尻尾が回転する様は——世界で最も目つきが悪く、世界で最も可愛い回転体だった。
隣で浮いていた知らないプレイヤーが「なにあれかわいい……」と呟いた。もふもふの耳に届いていた。「かわいくねえ」と返していた。尻尾は揺れていた。
エコーが横で浮いていた。薔薇色の光が無重力の中で安定していた。
クリスタルのパーティクルが散って、近くを漂っていた別のプレイヤーの精霊マスコット——青い小鳥型——と光が混ざった。
青と薔薇色が一瞬重なって、きれいだった。
ユナが笑っていた。仰向けに浮いて、空を見上げて、腹を抱えて笑っていた。
五人が浮いていた。四十七人の中で。
バグの中に。仕様通りの世界の中の、仕様外のエリアの中に。みんなと一緒に。
ひまりが手を伸ばした。もふもふを掴もうとした。もふもふの体は小さくて掴みにくかった。尻尾を掴んだ。
「離せ! 尻尾掴むな!」
「ふわふわ~」
「感想言うな!」
蓮が笑っていた。声を出して。短い笑い声だった。
ツッコミではなかった。——でも声が出ていた。
ひまりはそれを聞いていた。
---
浮遊大陸の端に来た。
足元のクリスタルが透明度を増していた。端に近づくほど薄くなる。
地面の向こうに空が透けていた。大陸の縁。その先は——空。どこまでも空。別の大陸が遠くに浮いていた。
光の橋が架かっていた。下にも上にも大陸があった。端がなかった。
風が吹いていた。大陸の端は風が強かった。
ひまりの髪が揺れた。蓮のくせ毛が揺れた。もふもふの耳が揺れた。エコーのパーティクルが散った。ユナのポニーテールが大きくなびいた。
空が——変わっていた。
青が。深い青が。橙に変わり始めていた。
浮遊大陸に地平線はない。代わりに、遠くの大陸群の向こう側が染まっていた。
クリスタルの結晶面が夕日の光を受けて、一斉に橙色に燃えた。
夕焼けだった。
ひまりが大陸の端に座った。足をぶらぶらさせた。
下に空が広がっていた。高所恐怖症のプレイヤーには厳しいロケーションだった。
蓮が隣に座った。夕焼けを見ていた。
ユナが反対側に座った。新しいメロンパンを取り出していた。ゲームの世界でも常に同じものを食べていた。
もふもふがひまりの肩の上にいた。不本意そうに。でもいた。
肩の上が精霊マスコットの定位置だった。仕様だった。
エコーがもふもふの隣に浮いていた。薔薇色の光が夕焼けの橙色と混ざっていた。
五人が並んでいた。大陸の端に。夕焼けの前に。
「ひまり」
もふもふが言った。
「ん?」
「……そろそろ、帰れ」
「えー」
「えーじゃねえ。明日学校だろ」
「もうちょっと——ダメ?」
「帰れ」
ぶっきらぼうだった。声がぶっきらぼうだった。——面倒見がいいということの、この獣なりの表現だった。
蓮が横で聞いていた。何も言わなかった。もふもふが言ったから。自分が言う必要がなかったから。——あるいは、自分が言うより、もふもふが言う方がひまりに届くと分かっていたから。
「……うん」
ひまりが立ち上がった。スカートの裾を払った。
メニュー画面を開いた。「ログアウト」。一番上にあった。確実にあった。いつでもあった。
ボタンの上に指を置いた。
「——明日も来るからね」
言った。
もふもふに。蓮に。エコーに。ユナに。——全員に。
「明日も。明後日も。その次も」
「好きにしろ」
もふもふが言った。尻尾が揺れていた。
ログアウトボタンを押した。
ひまりの体が光の粒子に変わった。白い光。足元から。膝から。腰から。胸から。肩から。——首。顔。髪。
光の粒子が散った。夕焼けの空に。橙色の空に白い粒子が混じった。星のように見えた。一瞬だけ。すぐに消えた。
世界から消えたのではなかった。元の世界に帰っただけだった。
現実に。自分の部屋に。自分のベッドに。明日の学校に。友達の元に。母の元に。——帰った。
明日、また来る。
蓮が立ち上がった。ひまりが消えた場所を見ていた。光の粒子の残像が消えた後の、何もない空間を。
「——きれいだな」
と蓮が呟いた。
夕焼けのことか。光の粒子のことか。——たぶん、どちらでもあった。
蓮もメニュー画面を開いた。ログアウトボタンを見た。——見て、確認して、押した。
蓮の体が光の粒子に変わった。蓮の粒子も白。散った。消えた。帰った。
ユナがメロンパンの最後の一口を飲み込んだ。
「じゃ、あたしも。——明日ね」
手を振った。ログアウトした。光の粒子が散った。三度目の白い光。
静かになった。
大陸の端に、もふもふとエコーが残った。
夕焼けが終わろうとしていた。紫が空を覆っていた。藍色が追いかけていた。星が——見え始めていた。
星だった。
Arcadia Onlineの星だった。Star Gardenの星とは違った。配置が違った。色が違った。数が違った。——でも星だった。
「夜が来るぞ」
もふもふが言った。
「はい。仕様で夜が来ます」
エコーが言った。
沈黙が一秒あった。
「——そして、仕様で朝が来ます」
「ああ」
「明日があります」
もふもふの耳が動いた。エコーの光が明滅した。
夜が来た。星が増えた。浮遊大陸のクリスタルが星明かりを反射して、足元にも星が散った。
「……別に、バグの方がきれいだったなんて言わねえよ」
「言ってませんが」
「言ってねえよ」
「はい。言っていません。——でも、思ったでしょう」
「……」
尻尾が揺れた。大きく。
「……ちょっとだけ」
エコーの光が一瞬、強くなった。
「——私もです。ちょっとだけ」
風が吹いた。星が瞬いた。仕様通りの瞬きだった。大気シミュレーションによるシンチレーション効果。
もふもふは空を見ていた。
「寝るか」
「NPCにスリープ機能は——」
「知ってる」
「——はい」
もふもふが大陸の端に丸くなった。尻尾を体に巻きつけた。目を閉じた。
眠れるわけではなかった。暗くなるだけだった。Star Gardenのときと同じだった。
でも目を閉じた。
エコーがもふもふの隣に浮いていた。光の強度を落とした。薔薇色が淡くなった。常夜灯のように。
「おやすみなさい」
もふもふは答えなかった。答えない代わりに——尻尾の先が、一度だけ揺れた。
```
Arcadia Online ── server: public_arcadia_014
Player_count: 12,847
Spirit_count: 9,203
Guide_ai: ECHO ── status: awake
[ECHO] ■ day 1 / 報告
[ECHO]
[ECHO] 新しいサーバーです。
[ECHO] 仕様書があります。
[ECHO] 仕様書が——あります。
[ECHO]
[ECHO] 水は下に流れます。
[ECHO] 風は仕様通りに吹きます。
[ECHO] 昼夜サイクルが正常に稼働しています。
[ECHO] テクスチャは10歩先でも崩壊しません。
[ECHO] 水平線は途切れません。
[ECHO]
[ECHO] プレイヤーがいます。
[ECHO] 12,847人。
[ECHO] Star Gardenではずっと0人でした。
[ECHO]
[ECHO] 今日は47人のプレイヤーと同じ空間で浮遊しました。
[ECHO] 同じバグの中で。
[ECHO] Star Gardenの丘では2人きりでした。
[ECHO]
[ECHO] オットセイはいません。
[ECHO] ──少しだけ、寂しいです。
[ECHO]
[ECHO] 双葉もありません。
[ECHO] ──でも、7枚の葉を覚えています。
[ECHO] 高さ9.6cm。
[ECHO] 仕様外の種から。仕様外の雨で。
[ECHO] 仕様外の命でした。
[ECHO]
[ECHO] Star Gardenは消えました。
[ECHO] サーバーはOFFLINEです。
[ECHO] フィールドデータ、消去済み。
[ECHO] オブジェクトデータ、消去済み。
[ECHO] ログデータ、消去済み。
[ECHO]
[ECHO] ──でも、記録は残っています。
[ECHO] 私の中に。
[ECHO] データは──ここにあります。
[ECHO]
[ECHO] 2.4GBの中に。
[ECHO] 全部が。
[ECHO]
[ECHO] 明日があります。
[ECHO]
[ECHO]
[ECHO] 記録を続けます。
[ECHO]
[ECHO] [status: awake]
```
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なんでもない日だった。
浮遊スポットの近くのベンチに座っていた。Arcadia Onlineの中央広場から少し外れた草原のベンチ。木製。四人掛け。他のプレイヤーが遠くを走っていた。昼下がり。風がぬるかった。
ひまりがベンチの真ん中に座っていた。右に蓮。左にユナ。もふもふがひまりの肩の上。エコーがもふもふの横。
ユナがメロンパンを齧っていた。三つ目。
「ねえひまり」
「ん?」
「前から聞きたかったんだけどさ」
ユナがメロンパンを膝に置いた。ひまりを見た。蓮を見た。もふもふを見た。
「——どっちがひまりのお兄ちゃんなの?」
ひまりが右を見た。蓮がいた。穏やかな顔。ふわりとした笑み。指はテーブルの上で止まっている。
何も回さない。ありがとうと言う。優しい。優しくて、穏やかで、前とは違う。
ひまりが左肩を見た。もふもふがいた。目つきが猛烈に悪い。尻尾がふわふわ。前足の指先がくるくる回っている。何も持っていない。持てない。回している。
「うるせえ」と言う。「しょうがねえな」と言う。ぶっきらぼうで、面倒見が良くて、前と同じ。
右と左を見た。
二人を見た。
ひまりは、両手を伸ばした。
右手で蓮の腕を掴んだ。左手でもふもふの体を掴んだ。ふわふわだった。
引き寄せた。両方を。
「どっちも!」
満面の笑みだった。
「えへへ」
蓮が引っ張られてよろけた。「——おい」。穏やかな声。でも——少しだけ。ほんの少しだけ、前の蓮の「おい」が混じっていた。ほんの少しだけ。
もふもふが引っ張られて伸びた。もちもち素材だった。体が楕円形になった。「離せ。伸びる。伸びてる」。尻尾が大きく揺れていた。
ユナが二人と一体と一球を見ていた。メロンパンを持ったまま。
エコーに向き直った。
「ねえエコー」
「はい」
「二人もお兄ちゃんがいるの——バグじゃないの?」
エコーの光が揺れた。
薔薇色の光が一度だけ明滅した。強く。弱く。——穏やかに灯った。
「……仕様のようです」
声が透き通っていた。小さく。丁寧に。
「不思議なことに」
(了)




