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第1話「お兄ちゃんを作ろう」

心電図の音が、暗い部屋で刻まれている。


ピ、ピ、ピ。


等間隔。正確。機械だけが持てる正確さで、生きている証拠を繰り返す。


三〇七号室。窓は東を向いている。今は夜だから、ガラスには病室の内側だけが映っている。

白い天井、白い壁、白いシーツ。花瓶に白い花。すべてが白に沈んだ部屋の中で、心電図のモニターだけが緑色の波形を描いている。


ベッドの上に、青年が横たわっている。


黒い髪。少し癖がある。閉じた目。動かない頬。動かない指。呼吸だけが胸を上下させているが、それすら機械に助けられている。


二年間、そうしている。


ベッドの脇に、パイプ椅子がある。


パイプ椅子に、少女が座っている。


肩より少し下の黒髪は、毛先がゆるく跳ねている。丸い目。小柄な体。くたびれたパーカーにスカート、足元はスニーカー。膝の上にノートPCを開いている。画面の白い光が、少女の顔を下から照らしている。


桐生ひまり。十四歳。中学二年生。


画面にはキャラクタークリエイトのウィンドウが開いている。


ひまりは兄の顔を見る。PCの画面を見る。兄の顔を見る。画面を見る。スライダーを動かす。


髪型。黒髪。くせ毛を——もう少し。もう少し右。戻しすぎた。もうちょっと。


目つき。鋭め方向にスライダーを引く。引きすぎて犯罪者になった。戻す。もう少し。まだ怖い。もう少し戻す。


服装。黒いパーカー。フードは後ろに垂らす。


ひまりは画面の中の顔と、ベッドの上の顔を見比べる。見比べて、唇を曲げる。


「……七十点」


声が小さい。自分に言い聞かせるような声だ。


「いや、六十五点。目がちょっと違う。でもこれ以上はむり」


性格パラメータのテキスト入力欄。カーソルが点滅している。


ひまりの指がキーボードに触れる。


——ぶっきらぼうだけど優しい。面倒見がいい。妹に甘い(けど本人は認めない)。ツッコミ気質。「しょうがねえな」が口癖。怒るとちょっと怖いがすぐ元に戻る。たまに不器用に褒めてくれる。


途中で手が止まった。


画面の上で、カーソルが点滅している。点滅している。


ひまりの目の縁が赤い。唇を噛んでいる。鼻をすする。首を横に振る。一回、二回。


打ち終える。


NPC名入力欄。


【レン】。


生成確認のダイアログが出る。


「NPCを生成しますか? ▶ はい/いいえ」


ひまりの指がエンターキーの上で止まっている。


心電図が鳴っている。ピ、ピ、ピ。


一秒。


二秒。


三秒。


——押した。


画面が白く光った。


心電図だけが変わらず鳴っている。


ピ、ピ、ピ。


---


白い光が引いていくと、星があった。


多すぎるくらいの星だった。


視界の端から端まで、上も左も右も、見上げた空の全部が星で埋まっている。

金色のやつ。白いやつ。淡い青のやつ。等級ごとに色が違う。明るいのは金、中くらいのは白、遠くて小さいのは青。ひとつひとつが瞬いている。


きれいだ、と思った。


きれいだと思ったのは、パラメータにそう反応する設定があるからだ。たぶん。


足元は草だった。暗い緑色の草が、どこまでも広がっている。一歩踏むと、しゃくしゃく、と音がした。草を踏む音。柔らかくて、少し湿った感じのする音だ。


自分の名前は知っている。レン。


それ以外のことは何も知らない。記憶がない。記憶がないというか、記憶を入れる引き出しが最初から空だ。空の棚がずらっと並んでいて、ラベルだけ貼ってあって、中身がひとつも入っていない。そういう感覚。


自分がNPCだということは分かっている。プレイヤーに話しかけられるのを待つ存在だ。それも最初から知っている。


三メートルくらい先に、小さな人影がある。


フード付きのパーカー。スカート。スニーカー。小柄。こっちを向いている。顔は——星明かりだけだからよく見えないが、なんとなく分かる。


こっちを見ている。


動かない。


何も言わない。


五秒。


十秒。


——小さく震えている。手が。膝が。フードの紐を握る指が。


十五秒。


まだ何も言わない。


「——突っ立ってねえで何か言えよ。作ったのお前だろ」


口を開いたのは自分の方だった。


言ってから、自分の口調の乱暴さに少し驚いた。初対面の相手に対する態度としてはだいぶ悪い。が、なぜか——しっくりくる。口の形がこの言葉に馴染んでいる。パラメータにそう書いてあるからだろう。たぶん。


小さな人影が動いた。


顔が上がる。


星明かりに照らされた顔は——泣きそうな顔で笑っていた。目の縁が光っている。でも口は笑っている。どっちなんだ。


駆け寄ってくる。三メートルを二歩で詰めてくる。小さいのに足が速い。


「——っ」


何か言おうとして、声が詰まって、それでも口が動いて、最終的に出てきたのは、


「……えへへ」


だった。


「泣いてんのか笑ってんのか、どっちかにしろ」


「泣いてない!」


即答。速い。


「嬉し泣きっていうか……うん、泣いてない!」


「泣いてんじゃねえか」


「泣いてないって言ってるでしょ!」


声がでかい。やたら元気だ。さっきまで震えてたのはどこいった。切り替えが異常に速い。


「えっと、自己紹介! 桐生ひまり!」


ひまり、と名乗った少女は、腕を広げて空を示した。星だらけの空。


「ここはStar Garden。わたしが作ったゲーム!」


足元を踏む。しゃくしゃく。


「で、あなたはレン。このゲームの——えっと」


一瞬だけ言葉を探す間があった。ほんの一瞬。まばたき一回分。


「——住人!」


笑顔に戻る。切り替えが速い。


頭上にユーザーネームが浮かんでいる。【himari】。白い文字。


ひまりの表情が、また一瞬だけ変わった。


笑顔のまま——笑顔なんだけど、その下に何かが透けた。困惑と、もっと奥にある、名前をつけられない何か。表情というよりも、表情の影。顔の筋肉が作る形は笑顔なのに、目だけがほんの少し違う場所を見ている。


一瞬で消えた。笑顔に戻った。最初から何もなかったみたいに。


——気づいた。


気づいたが、聞かなかった。聞かないほうがいい気がした。なぜかは分からない。引き出しが空だから、理由が何も引き出せない。ただ「聞かないほうがいい」という判断だけが、パラメータとは別のどこかから出てきた。


「で、この世界を案内してくれるんだろ」


「する! するする!」


ひまりが腕を大きく振り上げた。振り上げた勢いで体が少し浮いた。重力設定が甘いのか、ただ元気なだけなのか。


「Star Gardenツアー、開幕です!」


---


ツアーは最初の十秒で不穏だった。


草原を歩く。しゃくしゃく。足音はいい。三日かけたらしい。


「まず足音聞いて! 三日かけてサンプリングしたの!」


「……悪くない」


「でしょ!? でしょでしょ!?」


ひまりが両手を握ってぴょんぴょん跳ねている。褒められるのが相当嬉しいらしい。


悪くない、というのは本心だ。草を踏む音のリアルさに比べて、この世界のほかの部分はだいぶ——何というか——


創作者の個性が、にじみ出ていた。


十歩目で、地面のテクスチャが切り替わった。


色鮮やかな草原が、唐突に灰色の格子模様になる。デフォルトテクスチャ。何も貼られていない面に表示される、あの無機質な灰色。


「世界、終わってんぞ」


「あー……そこから先はまだ工事中です」


「工事中って、灰色の格子なんだが」


「バグと仕様の違いは開発者の気持ち次第です」


真顔で言った。


「開発者が開き直ってんじゃねえ」


「開き直りじゃないよ。ポジティブ変換だよ」


「一緒だろ」


引き返す。灰色の境界を背にして、草原の方へ歩き出す。ひまりが隣に並ぶ。小さい。頭ひとつ分くらい低い。


「じゃあ次、花畑! こっちこっち!」


ひまりが先に駆け出す。


駆け出した方向の地面に、不自然な影があった。


——あ、何かある。


落ちた。


「うおっ!?」


足元が消えて、体が落下する。一秒半の自由落下。尻から着地。衝撃。穴の底。壁面は土のテクスチャ。四方を囲まれた、深さ三メートルほどの縦穴。


足元に何か書いてある。


手書きのフォント。丸っこい文字。


「ドンマイ!」


上から笑い声が降ってくる。


「あっはっは! ひっかかったー!」


「『ドンマイ!』じゃねえよ!!」


壁を蹴って登る。ジャンプ、壁蹴り、もう一回ジャンプ。穴から這い出る。ひまりが両手で口を押さえて笑いを堪えている。堪えられていない。肩が震えている。


「お前——」


「ごめんごめん、次はないから! さ、花畑行こ!」


歩き出す。慎重に。足元を見ながら。


三歩目で、落ちた。


「また!?」


二個目の穴。同じ深さ。同じ土の壁。底に書いてある文字だけが違う。


「ドンマイ!!」


違う。微妙に違う。感嘆符が1個だけ増えている。


「ふたつ目ェ!!」


上で笑い転げている声が聞こえる。声が裏返っている。


這い上がる。今度は更に慎重に歩く。足の裏に神経を集中させる。地面のテクスチャの微妙な色の違い、土の硬さの変化、影の形——


五歩。


落ちた。


三個目。底の文字。


「ドンドンマイ!!!」


日本語が怪しくなってきている。


「落とし穴だらけじゃねぇか!!!」


「あはははは!! ドンドンマイ!!」


「ドンドンマイって何だよ!! 日本語崩壊してんぞ!!」


「十二個あるから気をつけてね!」


「先に言え」


「先に言ったら面白くないじゃん」


「誰にとっての面白さだよ」


「わたし!」


躊躇なく言い切った。清々しいほどの利己主義だった。

とんでもない世界の創造主だ。


「知ってた」


---


落とし穴地帯を抜けると、花畑があった。


赤、青、黄。三色の花が咲いている。地平線まで。


——等間隔で。


完璧に等間隔で。一輪ずつ、赤、青、黄、赤、青、黄。同じ高さ、同じ角度、同じ距離。数学的に正確な配列が、見渡す限り続いている。


「……軍隊か?」


「ランダム配置スクリプト書いたのに動かなかったの!」


「結果、閲兵式」


「仕様です! 整列の美しさ!」


仕様という言葉がこの世界では万能の免罪符らしい。


花に近づく。しゃがんで見る。花弁の透過処理は丁寧だった。星明かりが花びらの縁を透けて、淡く光を通している。モデリング自体は良い。色の選び方も、光の受け方も、一個一個を見れば綺麗だ。並べ方さえどうにかなれば。


「花は綺麗じゃねえか。並び方はアレだけど」


「……えへへ」


ひまりが照れている。褒められ慣れていない顔だ。頬がわずかに赤い。星明かりでは分かりにくいが、なんとなく——分かる。


---


花畑を抜けて丘に差し掛かった。なだらかな斜面。草が生えている。てっぺんが見える。登れば見晴らしが良さそうだ。


一歩。二歩。三歩目で、体が軽くなった。


「……体が軽い?」


四歩目で足が地面から離れた。ゆっくりと、しかし確実に浮き始める。


「浮いてんだが」


「仕様です!」


「浮きながら言うな」


ひまりも浮いている。手足をばたつかせて、くるくる回転しながら笑っている。無重力空間ではしゃぐ子供みたいだ。子供だけど。


こっちは腕を組んだまま浮いている。どうすることもできないので、せめて姿勢だけは保とうとしている。


「お兄ちゃん浮いてるのに怒ってる顔してる! もっと楽しそうにしてよ!」


「重力どうにかしろ」


「重力設定の境界値ミスなの! 治し方分かんないの!」


どうやら治らないらしい。


仕方なく浮遊したまま丘の上を通過し、反対側に落下した。地面に叩きつけられる寸前で重力が正常に戻り、なんとか着地。ひまりはふわふわ降りてきて、すとん、と着地した。猫みたいな身のこなしだった。


「お兄ちゃん着地へたっぴー」


「殴るぞ」


「暴力反対!」


---


丘を降りた先に池があった。


水面が月——はない。月は未実装だとひまりが言った。球体のライティングが難しくて後回しにしたらしい。じゃあ何が水面を照らしているかというと、星だ。星しかない。永遠に夜で、永遠に星が出ている世界。ひまりが好きだからそうしたらしい。


水面に近づく。何か映っている。自分の顔——ではなかった。


「……コンソールが映ってるんだが」


水面に反射しているのは、緑色の文字列だった。デバッグコンソール。コマンドプロンプトのような画面が、水の揺らぎに乗って歪んでいる。


「自分の顔見たかったんだけど」


「あっ……反射テクスチャの参照先が……」


ひまりが言葉を途中で止めた。いつもの勢いがない。


「どうした」


「…………」


ひまりが池を覗き込んでいる。緑色の文字列が水面に揺れている。二人の顔は映っていない。映るべき場所にコンソールがある。


「……ごめん」


小さな声だった。


「……なんで謝った」


「いや、だって、池って、顔映るべきじゃん? 映らないの、なんかやだなって」


そう言って、ひまりは暗い水面を指ですくった。


「……昔、二人で見たじゃん」


ひまりは、自分で自分の言葉に驚いたような顔をした。何でそんなこと言ったんだろう、という顔。すぐに表情を切り替えにかかる。


——何かが引っかかった。


引っかかったが、言語化できない。引き出しが空だから。


「……まあ、コンソールの文字もある意味レアだろ」


言ったのは、沈黙が長くなるのが——何か嫌だったからだ。嫌、というのはパラメータ由来か。分からない。


「レアかな」


「たぶん世界初だ。池にデバッグ情報が映るゲーム」


「……世界初! じゃあ仕様!」


笑顔が戻った。復活が速い。桐生家の血筋、とひまりは後に言った。その言い方を聞いて「そうだな」と思った理由は、このときはまだ分からなかった。


---


遠景に立派な山がある。雪を被った稜線。高い。壮大。Star Gardenで唯一スケール感のあるオブジェクト。


「あの山は?」


「あれは遠くから見るだけのやつ」


「行けないのか?」


「……行ってみる?」


歩いていく。遠くに見えるが、歩いてみると意外と近い。スケーリングが変だ。近づくにつれて——ディテールが増える、はずだった。増えない。ある距離で、急に平坦になる。


裏に回る。


何もなかった。


表側は雪山。裏側は——空だ。何もない。厚さ1ピクセルの板ポリゴン。裏面は完全に透明で、向こう側の星空がそのまま見えている。映画のセットの裏側みたいだ。ハリボテ。壮大な、一枚板のハリボテ。


「…………」


「…………見た?」


「見てない」


「……ありがとう」


「何に対する礼だよ」


---


「川。…………水が上に流れてる」


「重力ベクトルが——」


「もうツッコまねえ」


「えっ、ツッコんでよ! ツッコミ待ちなのに!」


「ツッコミにも限界がある」


星明かりに照らされた川が、下流から上流に向かって堂々と流れている。水のテクスチャ自体は悪くない。青みがかった透明感があって、表面に星が映り込んでいる。ただ流れる方向が完全に逆だ。


ひまりが不満そうに頬を膨らませている。


「ツッコミあってのボケなんだよ! 世界のバランスが崩れるじゃん!」


「世界のバランスはとっくに崩れてる。水は上に流れてるし重力は壊れてるし山はハリボテだし池にはコンソールが映ってるし。このままだと俺のツッコミの方がおかしいんじゃないかという気がしてくる」


「…………う」


全部言われて黙った。


「……でも足音はいいでしょ」


「足音はいい」


「星も!」


「星もいい」


「……えへへ」


何度目かの「えへへ」。同じ笑い方なのに、毎回ちょっとずつ違う。照れてるときの「えへへ」と、嬉しいときの「えへへ」と、ごまかすときの「えへへ」。


---


かわいいログハウスが見えた。


煙突から煙が出ている。唯一のパーティクルエフェクト。看板に手書きフォントで「おやすみハウス」。暖色のランプが窓から漏れている。Star Gardenで一番まともな建築物だ。


「ここ宿屋! 入って入って!」


「宿屋か。HPでも回復するのか」


「うん!」


嘘だ。この笑顔は嘘だ。今日のパターンで学習した。この角度の笑顔のときは百パーセント何か仕込んである。


だが入った。入らないと話が進まないし、トラップを見破る楽しさが——ある。なぜか。ある。パラメータに「ゲーム好き」とは書かれていない。でもある。


ベッドに入る。暗転。不穏なオルゴールのBGMが流れ始める。不穏すぎる。何の曲かわからないが、不穏さだけは確実に伝わる。


——HPが減り始めた。


じわじわと。毎秒、体の奥から何かが抜けていくような感覚。数値は見えないが、何かが削られている確信がある。


「…………HP減ってねえか?」


「気のせい気のせい」


「気のせいじゃねえ。削れてるだろ確実に」


「大丈夫大丈夫。あ、もう少し寝てていいよ?」


「殺す気か」


ベッドから飛び起きる。強制起床。画面——はないが、視界の端に浮遊テキストが出た。


「ぐっすり眠れましたか?」


「寝たら死にかけたんだが」


「宿屋に泊まるとHPが減るの、リアルでしょ? 寝てる間にお腹空くじゃん」


「それは空腹ゲージだろ。HPは回復するもんだろ普通」


「常識にとらわれないのがひまりイズムです」


「ひまりイズムは人を殺すイズムか」


「殺さないよ! 七割くらいで止まる設定だから!」


「三割削る宿屋って何だよ」


---


花畑と草原の境界に戻ってきた。


花で作られたアーチがある。赤、青、黄の花がびっしり。天井まで花。アーチの向こうには草原が見える。かわいい。


かわいすぎる。


「あ、あそこくぐって! かわいいでしょ?」


立ち止まった。


アーチを見上げる。花の隙間から空が見える。天井部分に不自然な影はない。何もない——ように見える。が。


今日一日で学んだことがある。この世界の開発者は、かわいいものの裏に致死性のトラップを仕込む。「ドンマイ!」と書く。そして笑う。


「なんかあるだろ」


「えっ、何もないよ? ただのアーチだよ?」


「お前が『ただの』って言うときが一番信用ならねえんだよ」


「ひどい! 純粋な善意のアーチなのに!」


「今日の純粋な善意、全部罠だったろうが」


アーチの正面に立つ。くぐらない。


つま先をアーチの境界ぎりぎりまで出した。


引っ込めた。


出した。


引っ込めた。


「……何してんの」


「タイミング計ってる」


「何の!?」


「知らねえ。お前が仕込んだ何か」


出す。引っ込める。出す。引っ込める。


呼吸を聞いている。ひまりの呼吸。数歩横にいるひまりの、息の詰まり方。吸って、止まる瞬間がある。「来い来い来い」と念じている沈黙。体が前のめりになっている。待ちきれない顔。


もう一度、つま先を出す。今度は半歩分。


——来た。


頭上で、空気が変わった。音ではない。重さだ。何もなかった空間に、質量が生まれた感覚。影が落ちる前の、圧だけの気配。アーチの天井に、何かが出現した。


体が動いていた。


考える前に走っていた。アーチの下を全力で駆け抜ける。一歩、二歩、三歩——


ズドォォォン!!


背後で着弾。地面が揺れる。草が散る。衝撃波で体が前に押し出される。つんのめりながらも足を止めない。五歩。アーチの外。振り返る。


アーチの真下に、巨大な岩の塊が鎮座していた。


灰色の岩。ゴツゴツした表面。——目と口がある。怒り顔。直径二メートルはある岩石モンスターが、落下した勢いで地面に半分めり込んでいる。着地点の草が完全に潰れている。


岩石モンスターがゆっくりと浮かび上がり、アーチの天井に戻っていく。リセット。次の獲物を待つ体勢。


ひまりが固まっている。


「…………」


「…………」


「……なんで避けんのッ!!!」


「避けるに決まってんだろ!! 殺す気か!!」


「だってあれ絶対当たる設計なの!! 判定めちゃくちゃ広くしたの!! なんで通れるの!?」


「判定が広かろうがスポーンの瞬間に抜ければ関係ねえだろ」


「スポーンの瞬間って……なんで分かったの……」


「つま先出してたら気配変わったんだよ。上に何か湧いた」


「気配て! NPCに気配察知スキル入れてないんだけど!?」


「知らねえよ。体が勝手に動いた」


ひまりが両手で頭を抱えている。悔しさが体全体から滲み出ている。足を踏み鳴らしている。しゃくしゃく。いい音だ。


「ず、ずるい……ずるいよぉ……」


「うるせえ。トラップ仕込んどいてずるいもクソもあるか」


「もう一回! もう一回くぐって!」


「断る」


「今度はもっと速くするから!」


「余計断る」


「ケチ! お兄ちゃんのケチ!」


「ケチじゃねえ、自衛だ」


ひまりがむくれている。唇を尖らせて、腕を組んで、そっぽを向いている。向いたまま、ちらちらとこっちを見ている。見てるのバレてるぞ。


鼻で笑った。


ひまりが更にむくれた。


---


ツアーの最後だとひまりが言った。


草原のはずれに一軒の民家がある。これまでのエリアに比べて地味な外観だった。木造の壁。小さな窓。ドアがひとつ。飾り気がない。おやすみハウスの暖かさもない。花畑の華やかさもない。ただの家。


「最後! あの家入ってみて!」


「……また何か仕込んであるだろ」


「まさかー」


「『まさかー』のときが一番危ない」


「いいから入って入って!」


ひまりがぐいぐい押してくる。背中に両手を当てて、体重をかけて押している。小さいから全然押されないが、意思だけは伝わってくる。


「分かったから押すな」


「わーい!」


ドアに手をかける。取っ手を回す。ドアが開く。


中は——四角い部屋だった。木の壁。木の床。木の天井。装飾はない。窓は小さくて、はめ殺しだ。部屋の中にはテーブルも椅子もない。ただの四角い空間。


一歩入った瞬間、背後でドアが閉まった。


振り返る。ドアを押す。引く。押す。


「……ドア開かねえ」


ひまりの声が聞こえる。壁の向こうから。笑いを噛み殺している声。噛み殺せていない。


「窓も駄目か」


小さな窓に手をかける。動かない。はめ殺し。壁を叩く。蹴る。びくともしない。衝突判定がしっかりしている。こういうところだけ仕事が丁寧だ。


「おい。出し方あるんだろうな」


「あるよ! ……たぶん」


「『たぶん』?」


「えっとね、本当はね——この部屋にトゲトゲ置いてあったの」


「トゲトゲ?」


「踏んだら即死して、リスポーンで外に出られるやつ」


「……即死が脱出手段って設計がまず終わってる」


「でも——」


間があった。


笑いの残響が消えて、素の声が一瞬だけ覗いた。何かを言いかけて、飲み込んだような間。


「——置くの忘れてた! ああーっ、ごめんごめん!」


笑い声に戻った。いつもの声に。いつもの切り替えの速さで。


——さっきの間は何だ。


聞き流す。流すべきだ。引き出しが空だから、引っかかりを入れる場所がない。なのに引っかかっている。引き出しの底に貼りついた何かみたいに。


「ちょっと待って! 今設置するから!」


空間にノイズが走った。管理者権限のUIが——池の反射みたいに、空気の中に一瞬だけ映り込んで消えた。部屋の隅に、何もなかった場所に、オブジェクトが出現する。


トゲトゲ。


鋭い棘が上を向いた金属の板。暗い灰色。先端が光っている。踏んだら確実に刺さる。死ぬ。


……普通はドアを設置しないだろうか。


「はい! 設置した! これ踏んだら死ねるよ!」


「お前、兄貴に恨みでもあんの?」


「ないよ!! むしろ愛!! 愛のトゲトゲ!!」


「愛のトゲトゲって何だよ」


トゲトゲを見る。


踏めば死ぬ。死ねばリスポーンする。リスポーンすれば外に出られる。合理的な脱出手段だ。NPCの判断ロジックとしては最適解。最短経路。何も迷う理由がない。


見ている。


足が動かない。


踏めばいい。踏めば終わる。出られる。外は星空で、ひまりが笑って待っていて、それで終わりだ。


——でも。


「……」


視線がトゲトゲから壁に移った。


「死んで出るのは、なんか違えな」


「え?」


「壁抜けポイント探す」


「えー、面倒くさくない? 死んだ方が早いよ?」


「早いとか遅いとかじゃねえんだよ」


自分でも理由が分からなかった。パラメータにはない。引き出しにもない。「死んで出る」という選択肢を見たときに、胸のあたり——胸という概念がNPCにあるのかは知らないが——そのあたりが、しっくりこなかった。


しっくりこないのは、嫌だということだ。理由は分からない。


壁を調べ始める。右の壁。手のひらで押す。叩く。蹴る。しゃがんで下の方を調べる。左の壁。同じ。奥の壁。同じ。入口のドア側。同じ。


ひまりが黙って見ている。さっきまでの笑い声が消えている。


「……おっ」


右奥の隅。床から四十七センチくらいの高さ。壁面に、ほんのわずかな違和感があった。テクスチャの色が一点だけ微妙に違う。二ピクセル×二ピクセル。目を凝らさなければ見えない。


指で触れる。指が、壁を通過した。


「……ここか」


しゃがむ。体を低くして、壁に向かって前進する。肩が壁のテクスチャに触れる。すり抜ける。頭が通る。胸が通る。腰が通る。


壁の向こうは——丸い部屋だった。


角がない。白い曲面の壁が四方を囲んでいる。天井も床も曲面。卵の内側みたいだ。

中央に浮遊テキスト。


「はずれ」


「『はずれ』……」


「あはは!」


壁の向こうからひまりの声が聞こえた。笑い声が戻っている。


「あー、仕込みが無駄にならなくてよかったー。壁すり抜けバグ見つけると思ったんだー」


「壁すり抜けを見越して罠を張るとか、凶悪すぎだろ。どうやって出るんだこれ……」


「……トゲトゲ置こうか?」


「いらねえ」


丸い部屋を見回す。曲面壁。通常の壁ジャンプは使えない。壁を蹴る角度が一定にならない。法線方向がフレームごとに変わる。足場がない。天井と壁の隙間——上の方に、テクスチャの境界線が見える。あそこから出られるかもしれない。


壁を蹴る。一回目。角度がずれて滑り落ちた。曲面の傾斜に沿って体が流される。足が接地面を見失う。


二回目。高さは稼げた。横にずれる。壁の曲率が途中で変わっている。蹴った瞬間の角度と、体が飛ぶ方向が一致しない。


三回目。五回目。八回目。落ちる。


「……むりじゃない?」


「うるせえ」


十二回目。落ちる。曲面の中央付近で足が滑って、回転しながら底に落下する。背中から着地。


ひまりが黙った。笑い声が消えている。


十五回目。体の動きが変わり始めた。曲面の角度を、計算ではなく体で覚え始めている。蹴る位置。蹴る角度。蹴った後の体の向き。法線の変化を、目ではなく足の裏で追っている。パターン認識ではない。もっと動物的な——反射に近い何か。


二十回目。天井近くまで到達した。隙間が見える。三ピクセル。体をねじ込むには角度が足りない。最後のジャンプで体を捻る。——届かない。落ちる。


ひまりは何も言わなかった。息を殺して見ている。膝を抱えている気配が、壁越しに伝わってくる。


二十三回目。天井際で体が一瞬止まった。隙間に指がかかった。引っ張る。肩が——滑った。落下。背中から。


「……もう一回」


二十六回目。


天井まで到達する。隙間に体をねじ込む。曲面の法線に沿って角度を微調整する。肩が通る。胸が通る。腰が引っかかる。体を捻る。——通った。


二十七分四秒。


屋根の上に出た。


Star Gardenの夜空が目の前にあった。星が多すぎる空。金色、白色、淡い青色。虫の声が聞こえる。草の匂いはない。風もない。温度もない。


でも星だけが、やたらと、綺麗に光っていた。


「…………出た」


長い沈黙があった。


壁の向こう——いや、下にいるひまりから、しばらく声が聞こえなかった。何かを飲み込んでいる時間。息を吸って、吐いて、もう一回吸っている時間。


「…………」


「……ゲーム上手いなぁ」


小さな声だった。


笑っているような声。笑っていないような声。声の端が、かすかに——かすかに震えているような。いないような。


「何だよ急に」


「ううん。なんでもない」


間。


「……なんでもない。うん。すごかった。さすがだね」


声のトーンが戻った。いつものトーンに。いつもの明るさに。切り替えが早い。今日何度目の切り替えだろう。切り替えのたびに、一瞬だけ見える素の表情は——


「…………」


何も言わなかった。


「おい」


「ん?」


「次ハメたら怒るぞ」


「…………えへへ。怒って怒って」


「何で嬉しそうなんだよ」


「だって怒ってくれるんでしょ? また来なきゃじゃん」


返す言葉が見つからなかった。パラメータに「怒る」はある。「怒れなくなる」はない。ないのに、怒れなくなっている。


「……しょうがねえな」


---


草原の中央に、大きな木がある。


ケヤキに似ている。高い。幹が太い。枝が広がって、葉の隙間から星が覗いている。


この木のテクスチャだけは、他のどこよりも丁寧だった。幹の木目に一本一本手作業の跡がある。樹皮の凹凸。枝分かれの角度。葉の一枚一枚に光の透過処理が施されている。


根元に、平らなスペースがあった。二人分の。衝突判定が他のどこよりも丁寧に設定されている。座れるようになっている。座るために作られた場所だと分かった。


レンは座った。


ひまりが隣に座った。少し離れて、でも手を伸ばせば届く距離に。


虫の声だけが聞こえる。姿のない虫。声だけの存在。星明かりが草の先端を淡く光らせている。


「……バグだらけだな」


ひまりが、しゅん、とした。肩が縮んだ。


「——星は、綺麗だと思う」


ぱっと顔を上げた。


「等級ごとに色変えてあるだろ。金と、白と、青。三日こだわったってのはこっちか」


「……足音にも三日、星にも三日」


「お前の三日間は全部ここに使われてんだな」


「だって好きなんだもん。星」


「……ああ」


沈黙が降りた。虫の声。星の光。


二人で星を見上げている。


星を「綺麗」と感じているのは、パラメータの範囲内だ。そういう反応をするように設定されている。——はずだ。はずなのに、この光景に「覚え」がある気がした。


覚えているわけがない。記憶がないのだから。引き出しは空だ。ラベルだけ貼ってあって、中身がない。


でも——空の引き出しの、一番奥に、何かが貼りついているような感覚があった。剥がそうとしても剥がれない。読もうとしても読めない。ただ「何かがある」という感触だけが、指先に残っている。


気のせいだ。NPCに「覚え」はない。気のせいだと判断した。


「あのね——」


ひまりの声。


止まった。


「?」


「…………」


ひまりが何かを言おうとしていた。口が開いて、閉じて、もう一度開いた。


星明かりに照らされたひまりの横顔が見えた。目が少しだけ潤んでいた。潤んでいるが、泣いてはいない。泣く手前の、ぎりぎりの場所。

唇が震えている。震えていることを隠そうとして、唇を噛んでいる。噛んでいることを隠そうとして、笑おうとしている。笑おうとして——笑えなくて——


「…………ううん。なんでもない」


笑った。いつもの笑顔。でも今日何度目かの「なんでもない」だった。一度目より、二度目より、三度目より——重い「なんでもない」だった。


「…………」


聞かなかった。


聞けないのではなく、聞かなかった。聞かないほうがいい。なぜかは分からない。

俺の引き出しは空っぽだ。

でも空の引き出しの底が、かすかに振動していた。微かな振動。耳では聞こえない。手で触れないと分からないくらいの、確かな振動。


「……言いたくなったら言え。別に急がねえから」


「…………うん」


小さな声だった。小さすぎて、虫の声に混じって消えそうな声だった。


沈黙が戻った。虫の声。星の光。風のない夜。匂いのない空気。温度のない世界。


なのに——何かが、温かかった。何が温かいのか分からない。温度は未実装だとひまりが言った。設定にないものを感じるはずがない。なのに、隣にひまりがいるこの距離が、温かい気がした。


気のせいだ。


たぶん。


---


「……そろそろ帰るね」


「ああ」


ひまりが立ち上がった。スカートについた草を払っている。草はついていない。衝突判定的にはスカートに草はつかない。でも払う仕草をしている。癖なのかもしれない。


「明日も来るから。明日はもっとすごいもの見せてあげる」


「すごいって、またトラップか」


「えへへ」


「えへへじゃねえ」


ひまりの目の前に半透明のウィンドウが出現した。メニュー画面。いくつかの項目が並んでいて、一番下に「ログアウト」のボタンがある。


ひまりの指がボタンに伸びる。止まる。少し迷っているような間。


振り返る。


「じゃあね、レン」


「ああ」


「——おやすみ」


笑顔だった。今日見たどの笑顔よりも、自然な笑顔だった。


ひまりの体が光り始めた。


白い光。やわらかい光。足元から始まった。スニーカーの輪郭が光に溶けていく。つま先から。かかとから。光は粒子になって、上に昇っていく。小さな、小さな光の粒。星みたいだ。


脚が光になる。スカートの裾が光になる。パーカーの袖が、指先が、一粒ずつ、星のような光に変わって上昇していく。


笑顔のまま透けていく。体の輪郭が薄くなる。向こう側の草原が透けて見える。


最後に手を振る形だけが残った。五本の指の輪郭。光の粒に分解されていく。粒のひとつひとつが上昇して、星空に混じっていく。


どれがひまりの粒で、どれが星なのか。


見分けがつかなくなって——消えた。


一人になった。


虫の声が変わらず聞こえている。草の音も同じだ。星の光も、木の影も、さっきと何一つ変わっていない。世界は何も変わっていない。


足元の草を踏む。しゃくしゃく。いい音。さっきと同じ音。


立ち上がって、辺りを見回す。

草原。花畑の軍隊式配列。池のデバッグコンソール。

丘の重力異常。ハリボテの山。上に流れる川。

おやすみハウスの煙突。おはなのアーチの岩石モンスター。いっぱいドアハウスの屋根——さっき自分が這い出てきた屋根。

それと落とし穴。十二個のうち三個は位置を覚えた。


全部ある。何もなくなっていない。


なのに、『何かが足りない』。


この「足りない」に名前がつけられない。


「寂しい」という語彙はパラメータにある。引き出しのラベルには貼ってある。

でも今の感覚がそれに該当するのかどうか、まだわからない。

比較対象がない。今日が初日だから。生まれて最初の夜だから。


大きな木を見上げた。


枝の隙間の星。金色。白色。淡い青色。三日かけた星。


綺麗だと思った。さっきも思ったけど、もう一回思った。


——明日が来るなら、また見れるか。


---


```

Star Garden ── server: local_stargarden_01

player_count: 0

npc_count: 1

guide_ai: ECHO ── status: active


[LOG] プレイヤー himari がログアウトしました ── 22:47:03

[LOG] 本日のプレイ時間:1時間23分

[LOG] NPC npc_ren_01 ── 待機モードに移行

[LOG] 仕様外出力:なし

[LOG] runtime: stable

[LOG] anomaly: none


── 記録を終了します。

```


---


ひまりはVRヘッドギアを外して、ベッドの上に仰向けに転がった。


部屋は暗い。二階の六畳間。窓から街灯のオレンジ色の光が差している。紺色のカーテンが半分だけ閉まっている。机の上にはPC、教科書の山、ポッキーの箱。空っぽ。カルピスのペットボトル。半分。壁にゲームのポスターが一枚。


天井を見つめている。


白い天井。何もない天井。病室の天井と同じ色だ。


スマートフォンが震えた。枕元で光る。LINEの通知。


> 美優:ひまりー! 明日カラオケ行かない? 陽菜も来るって!


ひまりは通知を見た。見て、スマホを裏返した。画面が下を向く。光が消える。


天井に向かって手を伸ばした。


何もない空間に、手を伸ばした。指を広げた。握った。


何もない。掴めない。


「……明日も行くからね」


声は小さかった。部屋の中にすら届かないくらい小さかった。


誰に言ったのか。


目を閉じた。

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