第ジュッハッチ章
邦之が案内されたのは、よくある地方公民館の様な建物だった。準和風の平屋建てで、2間間口の玄関から靴を脱いで中に上がるタイプである。
邦之は松山の案内で建物の中に通された途端眉を顰めた。手前は8畳、奥は10畳、合計18畳の襖で間仕切るタイプの和室に、所狭しと布団が敷かれ、そこには苦痛でうめき声を上げる男女十数人が寝かされていた。大抵の者が四肢欠損でシーツか何かを細長く裂いた不衛生極まりない包帯をされている。建物の中には、普通はするはずの消毒液の匂いはせず、腐臭の混じった生臭い匂いがする。
布団に寝かされている者達の間からは、うめき声やうわ言が滅々として上がっていた。
邦之の後から入ってきた可奈と洋子も青ざめた顔でそれを見ていた。
「可奈、君は『トリアージ』はできるか?」
邦之は後ろを振り返って可奈に聞いた。
『トリアージ』とは、災害時の緊急救命時に治療の優先順位を決めるためのルールで、疾患の重傷度で治療の優先順位を決める作業である。
可奈は薬剤師であったが、総合病院に勤務するに当たり、訓練を受けているはずであった。
「はい、なんとか……」
可奈は口を引き結んで答えた。
「邦之様、私も陸自で災害対策訓練を受けています。衛生士心得を持っていますのでお手伝いいたします」
洋子も邦之の目を見て自ら進んで言った。
「そうか、よし、治療は2種類の疾患になる。単純外傷・部位欠損はカテゴリーⅡ(待機的治療群)に、感染症合併症、主に敗血症、カリウムショック等はカテゴリーⅠ(最優先治療群)とする。各自、目視、触診、打診、圧診等を用いて判断しろ。判らない事は僕に聞け」
邦之は二人に具体的な指示を出すと、早速治療に取り掛かった。部屋の奥に歩み入った邦之に松山が心配そうに付いてくる。
「先生、いったいどうやって治療するんですか?」
彼の声から懐疑的な調子が聞き取れた。
邦之の能力を知らない他人には、聴診器も持たず治療用の薬も持たない無手の邦之はまるっきり医者には見えないであろう。
邦之は松山の言葉には全く取り合わず、奥の部屋に寝ていた虫の息の男の傍らに座り、その胸に手を当てた。男は左手下腕、左足をほぼ全て失っており、重症の敗血症に掛かっているようだった。
邦之は目を瞑り、『聴診』のスキルで各臓器の血流を診断した。肝臓と腎臓は殆んど動いていない。次に『アナライズ』を掛ける。すると、邦之の視界が捕らえる男の映像に重なるように体温、血圧、心拍数、血中酸素濃度、感染源の細菌名、その他諸々の情報が浮かび上がるように表示される。
ゲーム脳の厨房はヒールという呪文がさも万能であるかのように考えがちだが、身体の不調の原因を取り除かなければ怪我や病気は直らない。つまり、患者を治すということは正確な診断に基づいて全ての原因を取り除く事である。
邦之は高度な医学知識に基づいて、この男には5段階の治療が必要であると診断した。
1、失血や発汗に伴った脱水状態を改善する為、リンゲル液を男に投与する事。
2、敗血症を起こしている細菌を駆除する為、抗生物質を男の体内で生成する事。
3、欠損した左足を再生する事。
4、欠損した左腕を再生する事。
5、男の体内で増血剤を生成する事。
これだけやっても最低限の治療である。
邦之は迅速に次々と効果の違うヒールを都合5回掛けて行った。ヒールを行う度に、邦之の視界の隅で医薬品由来のガジェットがカチャカチャと消費され、頭の中では『ヒールを行います。よろしいですか?』という声がする。
邦之の様子を見守っていた松山が驚愕した顔で、それを見守っていた。死にそうだった男は顔色も良くなり、欠損した四肢も再生された。
「松山さん、この男は長期の敗血症の後遺症で、内臓にかなりダメージが残っています。僕は魔法使いではないので、弱った細胞を元気にする事は出来ません。後は、栄養のある、特にビタミン類の補給が必要ですね。あと3日程は安静にして下さい」
邦之は松山を振り返って言った。松山は目を剥いてガクガクと頷く事しか出来なかった。
「……神様……ありがとう御座います」
邦之がたった今治療した男は、涙をこぼし邦之に感謝の言葉を呟いていた。
「邦之様、こちらが次の患者です」
可奈が次の患者の枕元で邦之を呼んでいた。どうやらカテゴリーⅠの患者の管理は可奈が担当したらしい。
邦之は素早く可奈の下に移動して治療を開始する。
そんな慌しい治療風景が、小1時間続き、建物に収容されていた怪我人の治療が終わった。結局、感染症、内臓破裂、出血性ショック以外の骨折、単純部位欠損、創傷などだった患者10名程はその場で全快して、自分の足で外に出て行った。
邦之は最後の患者を治療して建物から追い出すと、額の汗を拭い大きくため息を付いた。
「松山さん、残り5名は3日間安静です。因みにこの建物内は、アルコール消毒し、安静患者の衣服や寝具も清潔な物と交換してください」
邦之はやれやれといった笑顔で、松山に言った。
「なんてこった! 先生! 本当にありがとう! この通りだ……」
松山は、クシャッと顔を顰めると入り口の土間に土下座をして言った。
「頭を上げてください。僕は当然の事をしただけです」
そう言う邦之を可奈と洋子は熱い目で見ていた。
◇ ◇ ◇
邦之達は松山の屋敷のソファに座り、コーヒーを飲んでいた。お茶請けに羊羹がついている。ガジェット化した今ではとんでもない贅沢な食べ物だった。
松山の家は、70年ほど前は元々この辺の地主だったそうだ。200坪ほどの土塀に囲まれた敷地内に二階建ての母屋と古びた漆喰製の2つの蔵がある。
コーヒーを旨そうに啜る邦之の前には、松山の他にもう一人の男が座っていた。
「寺田洋二です。松山さんの下でこの地区のまとめ役補佐をしています」
寺田と名乗った男は、丁寧に邦之達に向かって頭を下げた。40絡みのメガネを掛けた痩せた男である。
「この度は、私どもにご支援戴きまして、真にありがとう御座いました」
そして再び頭を下げる。
「ああ、もっと感謝していいぞ、感謝はただだからな」
邦之はソファにふんぞり返って言った。
「感謝ついでに色々と聞かせてもらいたい事があるんだが、いいかね?」
邦之は悪びれた様子も無く言う。
「はい、どうぞ私どもが知っている事であれば何でもお教えします」
「勿論だ、何でも聞いてくれ」
寺田と松山は相次いで答えた。
「この地区……まあ、お前らの仲間は何人いるんだ?」
「女子供合わせて36人だな」
松山が答える。
「川向こうの市内側に住んでた奴らはどうしたんだ? 俺達がここに来る途中では一人も見かけなかったが?」
「うーん、説明しにくいが、大体は線路沿いに北の方にいっちまったな」
松山が腕組みをして唸りながら言った。
「詳しく申しますと、ガジェットが起こりまして6日目辺りに、まず市内側に住んでいた住民の内素行の悪いグループが同じ住民を襲撃し始めまして、結構な人が殺されました」
寺田が松山の言葉の後にすかさずフォローする。
「ほう、それで?」
邦之は詳しい事情を説明しだした寺田を向いて言った。
「その時点で私共も、川向こうの事だと鷹を括っていたのですが、その直ぐ後に私共の住む地区を襲撃してきたのです。その時、松山さんを中心にした自警団が奴らを撃退したのですが、我々にも相当数の被害が出て、鋼伝寺様のご厄介に成った訳です。その後も、旧自衛隊のゴロツキがやって来たり、市役所のマフィア崩れや駅前モールのグループなどが襲ってきたりで、最初この地区で100人前後いた住民はたったの36人になってしまったんですよ。
因みに、川向こうの住民で北に逃げ出さずに踏みとどまっていた者達は、先日駅前モールのグループに全て連れて行かれたようです。ハイ……」
寺田は手を揉みしだきながら言った。
邦之は100人程いた住民がここ10日余りで、1/3になってしまった事に内心驚いていた。
「今の話に違和感を覚えたので尋ねるが、何故この地区の人間は『自分達に対する他のグループ』という観点で話をするんだ? しかも、『川向こう』などと別の国の事の様な話し方をするが」
邦之は首を傾げながら聞いた。
「ああ、その事か? 川のこちら側の地区は、元々一つの村だったからだな。十数年前の市町村合併で今の市に組み込まれたが、川のこちら側の住民の殆んどは当時の村民なんだよ」
松山は邦之にさらっとした口調で告げた。
「ほう、じゃ何かい? もしかして松山さんは、この地区の顔役って事かな?」
邦之はニヤッと笑って言う。
「まあ、そんなもんだな。俺の家は代々この辺の名主だった」
松山は照れた笑いを浮かべる。
「なるほど、これで尚更色々な事が聞き易くなった」
邦之は言った。
「では、聞きにくい事を聞くが、この地区では食料が足りているのか? いや、それをこちらに寄こせと言っているんじゃない。何でこの地区では、飢えとかが無いのかってことだ。他の地区では食料はもって6日位だからな、何か特殊な入手方法が有るのではないかなという素朴な疑問だよ」
邦之が食料の入手方法に付いて質問すると、二人はお互いに顔を見合わせて頻りにアイコンタクトを交わしていた。
「実はこの地区の奥には、通称『国通』国乃通運の集荷基地がありまして、そちらの倉庫から、当座の住民の食料を拝借しております」
寺田は松山を横目に見ながらおずおずと答えた。勿論、どれぐらい有るのかは明かさない。
「ふーん、じゃあ食料は足りてるんだな? そりゃ良かった」
邦之は俯いて薄く笑った。
「だが、38人じゃなあ? ……自衛隊は200人以上、旧市役所グループは500人、駅前モールの殺人鬼どもは100人近くいるんぜ? もしお前らの食料を狙って攻めてきたらどうするんだ?」
邦之は松山と寺田に現実を冷徹に指摘した。
「…………」
二人は困った顔で口を開く事が出来ないでいた。どうやら、近々の展望は持っていないらしい。
邦之は頭の中で色々と計算をしていたが、意を決して膝をポンと叩いてから話し始めた。
感想なんかが欲しいこの頃です。