ヴァローナ王の敵 (1)
秋も深まった頃、メイベルは大きなお腹を抱え、王城にて夫の帰りを息子と共に待ち続けていた。
城の外が見える部屋で友達のイグナートと無邪気に遊ぶ息子を眺めていたのだが、女官のオリガに呼ばれ、窓へと近づく――王旗を掲げた軍隊が城へと入ってくるのが見えた。
「本当に……ルスラン、もう帰って来たんだ……」
メイベルは目を丸くして呟く。それから女官たちに振り返って言った。
「ルスランを出迎える準備を――リオン、おいで。お父様が帰ってきてくださったよ」
幼い王子はちょっと不思議そうに母親を見上げていたが、メイベルに抱きかかえられて共に玄関ホールへと向かう。
すでに臨月となっているメイベルの身を案じて王子レオニートを抱っこすることは女官たちがやんわりと反対してきたが、メイベルも譲らなかった。
――戦から帰って来た夫を出迎える時だけは、どうしても我が子と一緒でいたいから。
しかし……今回は驚くほど早く帰って来たものだ……。
「お帰りなさい、ルスラン。皆様も……無事にお帰りくださって、とても安心いたしました」
ルスランや将軍アンドレイ、ファルコ、バルシューン……他にも、メイベルが知っている限りではほとんどの人が無事に帰ってきているように見える。出迎えの場には、宰相ガブリイルも駆けつけてきていた。
もう帰るという前触れは受け取っていたから、彼も出迎えの用意はしていただろうが……メイベル同様、彼も本当に早く帰って来た、という意外な思いを抱いているようだった。
「ああ……ただいま……」
笑顔で出迎えるメイベルに対し、ルスランも笑顔で返している……が、こっちもまた不可解な感情の色だ。
母の腕に抱かれ、久しぶりに会う父親をニコニコしながら見上げる王子の頭ををルスランが撫でる。将軍アンドレイも、嬉しそうに自分に抱きつく息子イグナートを抱きかかえながらも、その笑顔はぎこちない。
ファルコは笑顔を作ってもいないし、バルシューンもそっぽを向いている。
メイベルのそばで、女官たちも彼らの様子に戸惑っているのを感じた。
「……負けたのか?」
「いや……そういうわけではないのだが……」
宰相が声を落とし、こそっと将軍に尋ねる。将軍は首を振り、耳ざとく聞きつけてルスランが振り返った。
「急ぎ、その話をしたい。私の執務室に来てくれ――リオンはまた後でな。メイベルも……兵士たちを労ってやってくれ。彼らも大変だったことは間違いない」
そう言ってメイベルの頬にキスした後、ルスランは宰相と将軍を連れて行ってしまう。
残されたメイベルは、去っていく父親の後ろ姿をじっと見つめる我が子をぎゅっと抱きしめた。
「お父様はお疲れなんだよ。また今度、遊んでもらおうね」
兵士たちもそれぞれの隊の長が指示を出して引き上げさせている。ファルコもバルシューンと共に自身の隊の兵士たちに解散を命じているのが見えた。
迷惑になってしまわないかタイミングをうかがい、メイベルはそっとファルコたちに話しかける。
「みんな大きな怪我とかはしていないみたいだし……負けた……わけじゃないんだよね?」
やはり敗戦には触れてほしくないだろう。だからメイベルも、戦に負けたのならその話題は出すべきではないということぐらいは心得ている。
ただ、今回は負けたというには奇妙な雰囲気だと思う。勝てなかったのは明らかだが……負けたのなら、見える感情の色はもっと重苦しいものになっているはず。
「負けたわけじゃないかな」
心配そうにするメイベルのためにファルコが笑顔を取り繕いつつ、それでも苦々しい内心がにじみ出た表情で言った。
「戦うことができなかったんだよ」
「スヴィルカ騎士団が裏切った」
執務室に入るなりそう言い切るルスランに、宰相は目を瞬かせる。
返事ができないでいる彼に対し、将軍アンドレイが口を挟んだ。
「正確には、スヴィルカ騎士団が動かなかった。約束していた時間に……敵を挟撃して追い込むはずがそれが叶わず、我々は敵を前にして撤退するしかなかったんだ」
「……あの男の場合は裏切りというより怠慢では?どちらにしろ非常に腹立たしいことではありますが……陛下を裏切るほど、愚かではありますまい」
宰相が言ったが、ルスランはイライラした様子で執務室内をうろうろと闊歩し、自分の思考に沈み込んでいるようだった。
「そうだ。やつとて――いくら聖堂騎士団と言えど、このヴァローナで、ヴァローナ王に逆らって生きていけるわけがないことぐらいは計算できる男だ。その男が、私を裏切った……」
ブツブツと独り言をつぶやいている。
宰相は王の思考が危うい方向に進んでいるように思えてならず、甚だ不愉快ではあるが、スヴィルカ騎士団――そしてその団長のことを擁護するしかなかった。
「ガストーネは自身の欲に忠実な男ではありますが、それだけに、陛下に表立って逆らう利がないことも分かる男です。なにより、やつがそこまで暴走し始めたのなら、イリヤから報告があるはず。陛下も、彼のことまでお疑いで?」
「……いや。イリヤは信頼できる男だ。それは揺らぐべきではないと……私も思っている」
将軍アンドレイをちらちらと見ながらルスランが言い、将軍は苦笑いする。
アンドレイの身内を疑っているのかと咎められたような気がして、ルスランもバツが悪いらしい。アンドレイとしては、身内であろうと王への背信は許さないし、本当に不信があるのなら、自分の血縁者だろうと遠慮なく裁いてくれていいと考えているのだが。
「――だからこそ、私も危険視しているのだ。自身の利にならぬことをしない男が、利にならぬはずの行動を取った。ならばその背景には……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
きっとこの意見には賛同してもらえないと、ルスランも悟ったのだ。
……たしかに。いつもの自分らしくない、いささか杞憂の過ぎる思い付きだと……冷静になると、他ならぬルスラン自身がそう言いたくなるような発想だった。
夏に伯父から不穏な情報を聞いたものだから、つい繋げて考えてしまっているのでは、と。
――いたずらに部下を不安にさせるべきではない。なにひとつ確証の得られぬ話なのだから。
ルスランは立ち止まり、宰相たちに振り返ることなく言った。
「……少し休む。二時間ほど起こすな」
「御意に――ゆっくりお休みになってください。戦後処理は私のほうでまとめておきますゆえ」
宰相は労わるような口調で言った。
思うように進まぬ戦から帰って来たばかりなのだ。ルスランには間違いなく、休息が必要――宰相は心からそう思い、執務室を出て行く王に向かって頭を下げる。
眠れば頭も心も落ち着いて、王もつまらない妄執に囚われていたと思い直すかもしれない。
宰相は将軍を見た。
「そっちも休んで来い。それからいとこ殿に手紙を送れ――陛下の手前ああ言ったが、この怠慢はたしかに裏切りも同然だぞ」
「分かっている。もはやいつもの怠慢と見逃すこともできん。ガストーネのことを何も報告してこなかったイリヤも含めてな」
ヴァローナ王のために働くべき騎士団が動かなかった。
ルスランの主張とは少し意味合いが異なるが、ヴァローナ王への裏切り行為であるのは間違いない。
一人、寝室に戻ったルスランは、侍従を呼びつけることもせず自分で適当に装備と服を脱ぎ、乱雑に床に投げ捨てて、仰向けにベッドに横になる。
戦場から帰って来た姿のまま執務室に行って、着替えも風呂も忘れていた。そしてそのまま寝転んで。
ベッドの天蓋を、一人じっと見上げる。
執務室で話したことがぐるぐると頭の中を駆けまわり、目を閉じて、身体を横に体勢を変えた。
本当に不貞寝でもしてやろうかなと思ったが、結局、頭の中でぐるぐるするものが邪魔をしてくれるので、ルスランは起き上がる。
寝室をうろうろと闊歩して。
ふと、部屋の窓から中庭が見えた。
中庭では、メイベルが王子レオニートを連れて散歩をしている。
秋の花々が咲く庭を王子はちょこちょこ走り回り、時々小さな手で花を取って、母親のもとへ駆け寄っていた。
――思えば、少し前まで歩くのもよたよたしていた子が、いまはしっかりとした足取りで走るようにまでなっている。その成長を、ルスランはいままでまったく気付くこともなかった……。
適当な上着を羽織り、ルスランは寝室を出る。
向かった先はメイベルの部屋。
女官に声をかけられたメイベルが、王子を連れて城の中へと入って行くのが見えたから、きっと彼女たちも自分の部屋に戻っているはず。
その予想に違わず、ルスランが訪ねてみれば、メイベルが部屋の中から夫を出迎えてくれた。
「休まなくて大丈夫?ルスランだって大変だったんでしょう?」
自分たちのもとへやって来たルスランを、メイベルは真っ先に気遣ってくれて。
出迎えた自分たちへの挨拶もおざなりに済ませ、さっさと自分の用事をしに行った薄情な夫を、メイベルは一切責めない。
いつもその優しさに甘え、本心では、今回もその優しさを望んで彼女のもとを訪ねたルスランは、妻を抱きしめて口付けた。
息子レオニートは、おもちゃの木馬に乗って遊んでいる。木馬にまたがったまま、ルスランを見てはしゃぐ。
「ちちうえ」
「……いま、僕のことを呼んだか?」
聞こえてきた単語に、目を丸くしてルスランがメイベルを見る。
ふふ、とメイベルが悪戯っぽく笑った。
「戦から戻ってきたら、ルスランに披露して驚かせようと思ってた隠しワザだよ。もうちょっと、とっておきのタイミングを考えてたのにな」
ルスランはレオニートに近づき、しゃがんで、じっと息子を見た。
もう一回、とルスランが言ってみれば、ちちうえ、とレオニートはにこにこしながら答えた。
ルスランはレオニートを抱き上げ、息子の頬に何度もキスする。
「子の成長は早いものだ。兄になどなれるのかと心配していたが、リオンもずいぶんしっかりしてきた」
メイベルは微笑み、大きくなった自分のお腹に触れて視線を落とす。レオニートも、母のお腹に何か大切なものがあることは、少しだけ理解できるようになっていた。
それが自分と同じ人間で……自分の弟か妹、というのはまだよく分かっていないようだが。
「腹の子は……間もなく生み月だったか」
「こればかりは時の運任せだからお医者様もはっきりとは断言できなかったけれど、早ければ今日明日にも陣痛が始まっても不思議じゃないんだよ。生まれてすぐ、ルスランに抱いてもらうことができるだなんて……この子は幸せ者だね」
メイベルの言葉に、そうか、とルスランが頷く。
片手でレオニートを抱いたままメイベルに近付いて抱き寄せ、また彼女に口付ける。
聡明で寛大な王妃に公私共に支えられ、ヴァローナ王ルスランは自身の足元を順調に固めていた。
――だから、ほんの些細なヒビも、気になって仕方がないのだ。




