追う者、逃げる者 (2)
ルスランが説明した通り、国境目指しての逃亡の旅は、さほど困難でもなかった。
ルスランの部隊も何度かノルドグレーンの偵察部隊に見つかったものの、どれもすぐに逃げ切っている。
きっと彼らは、その後、エリアス王にヴァローナ軍を発見した場所を教えに行っているだろうが……。メイベルとレオニートは物資を乗せた荷馬車の片隅で身を潜め、ノルドグレーン軍に発見されないよう気を付けていた。
そうして二手に分かれていた将軍アンドレイたちとも合流し、夜明けと同時に一気に国境越える、とルスランが決定した夜。
馬車の中で王子を抱き寄せ、ラリサ、ミンカと共に仮眠を取っていたメイベルは、乱暴に馬車の扉を開けて入って来たルスランによって起こされた。
「メイベル、起きろ――来い!予定変更だ、ノルドグレーンの斥候に発見された!」
寝ぼけながらもぞもぞと起き上がるメイベルの腕を引っ張り、ルスランが叫ぶ。
ラリサとミンカはすぐに目を覚ましていた。
寝起きの良くないメイベルも、ルスランに息子を取り上げられて覚醒した。
ルスランは、幼い我が子をラリサに託そうとしている。
「君は私の馬に乗る。私と共に。二人揃っていれば、エリアス王の狙いを集中させることができる。言っている意味が分かるか?」
厳しく問い詰めてくるルスランに、メイベルはハッとなって頷いた。
国境越えは最大の難所。エリアス王の目的は、メイベルを取り戻すこと……あるいは、ルスラン王を討つこと。
そのどちらもが同じ馬に乗り、彼の目標を絞る……。
――ルスランは、メイベルと共に自らを囮にしようとしているのだ。他の者を逃がすために。
もちろん王子のことだって含まれている。そうなれば、メイベルが反対するわけがなかった。我が子を逃がすために、自分を囮に――迷う余地もない。
ラリサたちは王や王妃が自ら囮役を引き受けることに反対したそうな様子であったが、ルスランは彼女たちを一顧だにすることなく馬車の外に集まる男たちに命令を飛ばした。
「アンドレイはラリサを、バルシューンはミンカを乗せて行け。ファルコ、護衛を頼むぞ。ラリサ、王子の命は君たち夫婦に託したからな」
ラリサは王子を改めて抱きしめ、頷く。自分に課せられた大きな使命をしっかりと背負いながら。
ミンカを乗せることになったバルシューンは、ちょっと不満そうだ。
「てめえに構ってる暇はねえからな。死ぬ気でしがみついてろ」
「はい!死ぬ気で死なないように頑張ります!」
ミンカはバルシューンの後ろに、ラリサは幼い王子をしっかり抱いて将軍アンドレイの前に、それぞれも馬に乗り、メイベルはルスランに引っ張られつつ彼の馬のもとに急いだ。
ルスランに手伝ってもらってメイベルが先に馬に乗り、ちょっと不安定に座っているメイベルの後ろにルスランが座って、手綱を握る。
「メイベル、今回は君も自分で私にしがみついていろ」
メイベルが頷くのも確認することなく、ルスランは馬を走らせ始めた。全速力で走るルスランの馬に、ヴァローナ軍も続く。全員が林を抜け、国境へ。
事前に教えられた情報では、ルスランたちはノルドグレーン、ヴァローナの境となっている川を越えるそうだ。
それなりに大きな川だが、干潮時には徒歩で渡ることも可能な程度の浅さ。女子供を連れての国境破りなら、そこが一番安全だ――もちろん、そんな川だから国境警備兵もしっかり待機している。
警備が一番手薄になる場所、タイミングを狙って国境越えのはずだったが、時間はすでに計画からズレてしまっていた。
それでも構わずヴァローナ軍は国境越えを決行し、林を抜けて川を目指す。
地を駆け、草木を蹴散らして、数千という馬が走った。
林に住むすべての獣たちを起こしてしまうのではないかという騒音の中で、メイベルの耳は遠くから近付いて来る音を拾った。
林の中は暗く、何も見えない。揺れる馬の上で必死にルスランにしがみつくメイベルでは、周囲を見回している余裕もない。
それでも、木々の合間から遠くの川が見えた。あの川が、ノルドグレーンとヴァローナの国境線だ。
林の出口が近付く。しかし、外へと飛び出す直前でヴァローナ軍の側面に突撃するかのようにノルドグレーン軍が飛び出してきた。
先頭を走るエリアス王を乗せた馬は、真っすぐルスランへと向かってくる。
エリアス王は、すでに剣を抜いていた。横から突撃するエリアス王は剣を振りかぶり、ルスランも左手で剣を抜いてエリアス王の攻撃をしのいだ。
何合か剣を撃ち合わせながらルスラン王は逃げ、エリアス王はそれを追った。
ヴァローナからノルドグレーンへと国境越えしたあの時と同じ状況。追う者と逃げる者が入れ替わっただけで。
ならばメイベルを乗せている分だけ逃げるルスランのほうが不利なのも、あの時と同じ……。
メイベルはただ身を縮こませ、ルスランの攻撃の邪魔にならないようできるだけ小さくなって、自分の手でルスランにしがみついていた。
エリアス王の激しい敵意の色が見える。ルスランが放つ色も劣っていない。一人の女を巡って、どちらの男も本気で斬り合っていた。
ただし、ルスランはエリアス王と戦うよりも逃げることを優先している。
それはそうだろう。メイベルを腕の中にかばっているこの状況で、エリアス王と戦って勝てるはずがない。
しかもエリアス王は利き手で武器を扱っているのに対し、ルスランは利き手ではないほうの手で武器を握っている――そうなるように、エリアス王はわざとこちらの方向からルスランを襲撃したのだ。
エリアス王を相手にそんなハンデをつけて勝てると思うほど、ルスランも愚かではなかった。
ノルドグレーン軍の追撃を受けながらも逃亡を続けるヴァローナ軍は林を抜け、川を出た。
ルスランとメイベルの馬は、他のヴァローナ兵の馬に次々抜かされていっている。エリアス王の猛攻をかわしながらでは、馬もどうしても速度が落ちてしまう。
あらかじめエリアス王から知らせを受けていたノルドグレーンの国境警備兵たちも加わり、川は乱戦状態だった。
戦線を伸ばしてノルドグレーンに侵入し、脱出しようとしているヴァローナ軍は、疲弊と消耗も大きい。馬たちも疲れ果てて……川辺のぬかるんだ地面や、動きが鈍る水の中を最後の力を振り絞って走り……ノルドグレーン軍を振りきることはできずにいた。
陛下、と叫ぶ声が聞こえた。誰がどちらの王を呼んでいる声なのかは、その時のメイベルには分からなかった。
「陛下、撤退を――!あれはハルモニア軍旗です!」
メイベルを女王と仰ぐ国ハルモニア。だったら……主に新たな敵の出現を知らせるこの声は、ノルドグレーン側のものだ。ハルモニアが、こちらの敵になるはずがない。
少し冷静さを取り戻したメイベルは、声の主がノルドグレーン将軍ホーカンのものであることにようやく気付いた。
ヴァローナ側の川岸から、ハルモニア軍旗を掲げた騎馬隊が突撃してくる。
東の空は朝の姿へと変わり始め、ヴァローナ側の岸辺は明るかった。ハルモニア軍を指揮するのは、メイベルもよく知っている男――ハルモニア副宰相アルフレート・プロイスだ。
「君の奪還だからな。彼らの協力を得るのは簡単だった」
メイベルの頭上で、ルスランがそう話す。顔を上げてみれば、彼は笑っていた。
ルスランを執拗に追いかけていたエリアス王は、ヴァローナの国境を守るべく加勢してきたハルモニア軍に阻まれ、憎しみを込めた目でこちらを睨むことしかできずにいた。
ノルドグレーン将軍は王を助け、ノルドグレーン側へと引き返すよう強く訴えている。
メイベルとルスランを乗せた馬はようやく岸へと上がり、ルスランはアルフレート・プロイスに向かって軽く手を振った。
「助力に感謝する」
ルスランは立ち止まることなく後方で指示を出しているアルフレート・プロイスの軍もすり抜け、馬を進ませた。
双方の間で了承済みだろう。ハルモニアの副宰相も、当たり前のようにルスランたちを見送っている。
気が付けば、ルスランとメイベルはヴァローナ軍の最後尾となっていた。ミンカを乗せたバルシューンや、ファルコの姿も前のほうに見えた。馬の速度を落として、将軍アンドレイが近付いて来る。
彼の前には、目をぱっちり覚ました王子を抱くラリサが。
――ようやく、全員で無事にヴァローナに帰ってくることができた。
大きな安堵のため息を吐くメイベルを、ルスランが支えてくれた。
国境を越えてヴァローナへと戻ってきたメイベルは、国境近くの小さな町に入った。
この町に入るのは一部の兵士たちだけで、他はもっと手前の、ハルモニア軍が用意してくれてあった陣で腰を落ち着け、休息を取っている。
ルスランとメイベルがわざわざ足を延ばして町まで向かったのは、ちゃんとした宿に泊まりたかったからだろう。
ちゃんとした宿に泊まって……その先のことは、誰もが同じことを考えている。
「しっかり汚れを洗い落としておきませんとね。今日一日は、もうお風呂に入れないかもしれないんですから」
ミンカは、ルスラン王のためにメイベルを美しく仕立て上げるという、ヴァローナ女官として真っ当な仕事ができるのが嬉しくて堪らないらしい。
中途半端に染めていたメイベルの髪も綺麗に洗い、はりきって磨き上げて。
……着飾るのは、どうせすぐ脱いじゃうから要らないかな、と独り言を呟いてメイベルと共に浴室を出た。
部屋にいたのは、ラリサが一人だけだった。
ラリサはレオニート王子の湯浴みをして、先に浴室を出、王子を休ませていたはず。だがいまは、王子の姿もない。
ミンカが不思議そうに眼を瞬かせ、メイベルがきょろきょろとしていると、ラリサは意味ありげな微笑みを浮かべて静かに部屋の奥を指した。
部屋の奥は寝室になっている。
メイベルがそっと覗くと……大きなベッドの上に、大の字で眠っているルスランと、父親の大きな胸の上にぺしょんとうつ伏せになって眠っているレオニートが。
「陛下と遊んでいるうちに、レオニート様はお父上様の胸元で眠ってしまいまして。しばらくは陛下も満足そうにレオニート様を眺めていらっしゃったのですが……私が気が付いた時には、あのように」
「メイベル様と安心して過ごせるよう、わざわざ町にまで来たのに」
ルスラン王が寝落ちしてしまうという意外な展開にミンカは驚き、ラリサが語る。
「夫の話では、メイベル様たちを奪われて以来、陛下はろくに眠っていないそうです。兵士たちの前ではそのようなそぶりを一切お見せにならなかったけれど……本当はとても、王妃様と王子殿下の身を案じていらっしゃったのだと……」
メイベルは寝室へと入り、ルスランたちを起こさないようにベッドに腰かける。
よく似た寝顔が並んでいる――母親似の息子だが、ふとした表情は父親に似ているところもあった。
そっと、ルスランの腕を枕に、メイベルも横になる。すーすーと二つの愛しい寝息を聞くうちに、メイベルも眠りに落ちていた。




