招かれざる客は早く帰りたい (1)
身なりを気にかけている余裕もなかったから、身支度などの世話を本当にやろうとするカシムに正直そんなことしなくても……と思ったのだが。
実際に風呂に入り、汚れを落として髪を洗ってもらい、ゆっくり湯に浸かると、身なりだけでなく荒んでいた心も落ち着くような気がした。
ラリサやミンカ、カシムだけの、気を遣う相手のいない空間になっているのも大きいのかもしれない。
ミンカとカシムに世話をしてもらっている横で、王子レオニートも桶に浅く湯を張って、ラリサに洗ってもらっている。
幼い王子が無邪気に水や泡と戯れている姿は、メイベルに少しの間だけ現実を忘れさせた。
「……カシム。私たちだけでここから逃げ出したいと思ってしまった時、あなたのことはどれぐらい頼りにしていいのかしら」
王子に丁寧に湯をかけながら、カシムのほうを見ることなくラリサが静かに尋ねた。
メイベルの髪を洗うカシムは、手を止めることなく声を落として答える。
「私でお手伝いできることなら……とお答えしたいところですが、私でどこまで力になるかどうか……。以前にもメイベル様に申し上げましたが、私、この城では新参者なのです。先ほどはなんとか王を言いくるめることができましたが……」
カシムが困ったように言葉を続ける。
「本来は、私なぞ王に意見することも許されぬ身。ただ、私はヴァローナに帰りたいと願うメイベル様たちのお気持ちには強く賛同致します」
「ノルドグレーンの人たちは、エリアス王が私をここへ連れてきたことをどう思っているの?」
メイベルが尋ねた。
他国の王妃と王子を連れ帰ってきて、とても彼らが歓迎しているとは思えない。ヴァローナとの戦争の火種になるだけだし、若く将来有望な未婚の王に、離婚もしてない人妻が相応しいとも思えない。
メイベルがノルドグレーン宮廷の人間だったら、こんなこと反対しかない。
――実際、エリアス王以外の誰も、メイベルのことを歓迎していない感情の色をしている。
「ブレンダ様を始め、陛下からヴァローナから大切な人を連れて帰ると知らされ――それがメイベル様と分かると、城中の者が仰天してひっくり返っておりました。知らせを受けても何かの間違いではないかと思い、お戻りになった陛下が実際にメイベル様を連れているのを見て、みな内心では激しく驚いていたぐらいで……」
ブレンダ様、とミンカが不思議そうに呟くので、宰相代理の女性です、とカシムが説明を付け加えた。
帰還したノルドグレーン軍を出迎えた人々の中で、一番に王に声をかけていた女性のことだ。
あの人も、メイベルのことを決して歓迎はしていなかった。
「とは言え……陛下のあのご様子では、臣下一同で反対しても聞き入れてくださるか……」
「ものすごくメイベル様に執着してる感じでしたもんね……」
カシムの言葉に、ミンカも憂鬱そうに同意する。
もとがこんなことをするはずのない真面目で誠実な男性だっただけに、その決断はとてつもなく固い気がするのだろう。それはメイベルも同意しかなかった。
「……でも、私がここにいることを望む人間はエリアス様ただお一人なのは間違いない」
メイベルがぽつりと呟いた。
女官たちの視線が自分に集まるのを感じたが、メイベルはそれ以上なにも言わず、風呂から出て着替えを進める。
浴室の外では数少ないノルドグレーンの女官たちがメイベルのための衣装を用意しており、ミンカがいまのメイベルに相応しいものを選んで、ラリサの指示のもとメイベルを着つけていく。
この後の展開がなんとなく予想で来たので、宝石などの装飾品は控えめにしておいた。
きっとすぐ脱がされることになる……というメイベルの予想に違わず、着替えを終えて一息ついた頃、エリアス王が部屋を訪ねてきたと女官が知らせに来た。
部屋に入ってきたエリアス王は、着替えたメイベルに見惚れている。
「――カシムの言う通りだ。これほどまでに美しい貴女に、身支度をさせる時間も手間も与えぬなど、許されざる愚行だった」
メイベルの美しさを改めて思い知ったかのようにエリアス王は言い、手を伸ばして、整えられた銀色の髪に触れた。
――そして寝室へと連れ込まれたメイベルのことを、エリアス王は三日三晩手放さなかった。
あの薬を飲ませることもなくなったので、メイベルは抵抗するようになった。
……が、可愛らしくも淫らな反応も返ってくるようになって、いっそうエリアス王はメイベルとの情事の虜となっている。
よくもいままで、人形を抱いて満足できていたものだ……と自嘲するような呟きも聞こえていた。
ノルドグレーンの城の人たちは、ようやく城に戻って来た王がすべての政務を放り出してただひたすら他の男の妻と情事に耽っていることに内心で難色を示し、寝室まで直接訪ねてきてやんわりと咎める者もいたが、エリアス王は何者の呼び出しにも応じない。
天蓋付きベッドのカーテンを引いて。
そのカーテンは、まるで大きく隔たれた王と臣下の関係を象徴しているようにも見えた。
四日目の朝。
いよいよ王を放置できぬとノルドグレーンの人たちも決心したのか、宰相代理の女性が許可も求めず寝室に入って来た。
「おはようございます、陛下」
カーテンで仕切られたベッドの上のエリアス王は、メイベルを抱き寄せたまま宰相代理の呼びかけにも答えなかった。
「戦からお戻りになられ、休養を望む陛下のお気持ちを尊重したいと考えてはおりますが、陛下でなければ結論を出せぬ議題も山積みゆえ……。今日は、執務室までお越しいただきたくお願い申し上げに参りました。メイベル様も長旅でお疲れでしょう。今日はお休みを取らせて差し上げるべきです」
きっと、本来は日々の政務にも真面目に励む王だったのだろう。
メイベルを連れ帰る選択をして以降、有能で善良だった王がどんどん変わっていく――城の人たちのそんな本音が、メイベルにも聞こえるようだった。
「……エリアス様。城にお戻りになられてすぐに私をお召しになり、いままでずっと私と一緒ということは」
メイベルが切り出した。
「あなたと同じように戦場から帰って来たばかりの兵士たちを、労うこともしていないということでは。あなたのために、あなたの命で彼らは命を賭けて戦ってくれた人たちなのに」
非難も込めてメイベルが言えば、表情は変わらなかったが、エリアス王の感情の色が揺れるのが見えた。
長く戦場に生きてきただけに、兵士たちを蔑ろにする罪深さはエリアス王もよく理解しているらしい。
メイベルとの情事に夢中になっていた頭にも、わずかに冷静さと――自分の都合に振り回されながら戦ってくれた者……命を落とした者たちへの罪悪感が戻ってきている。
「どうか、彼らにも憐れみを……。あなたのために戦ってくれた兵士たちをお見捨てになるような姿は、私も見たくありません」
こういったことについては、ルスランも配慮を欠かさなかっただけに、メイベルも非難せずにはいられなかった。
ただ自分から離れてほしいというだけでなく、純粋に、ノルドグレーンの兵士たちを憐れんだ。
自分を抱いて離すまいとしていた腕からも、力が抜けていく。
「……分かった。すぐに向かう」
エリアス王は、宰相代理に向かって答えた。
起き上がってベッドを出るエリアス王に、宰相代理の女性が静かに頭を下げる。メイベルにも視線を向けて頭を下げた彼女は、そのまま部屋を出た。
代わりに、侍従長らしき年配の男性がさっと入ってきて、王の身支度を始める。
最初の印象通り、エリアス王は着飾ることを好まない男のようだ。
動きやすく無駄な装飾のない衣装にささっと着替えると、ベッドの上のメイベルに長い口付けをして部屋を出て行った。
侍従長らしき男性は部屋を出ることなく、王を見送るとメイベルのいるベッドに戻ってきて恭しく頭を下げる。
「自己紹介が遅れてしまい大変失礼いたしました。私、この城で侍従長を務めておりますオロフと申します」
オロフと名乗る侍従長は、内心の複雑な感情など一切表に出すことなく、メイベルに礼儀正しく挨拶した。
「ノルドグレーンの城は長らく女主人不在の時期が続いておりましたゆえ、女官が少なく、女官たちの長を置くことなく私がまとめて取り仕切らせて頂いておりました。メイベル様には、何かとご不便をおかけしてしまうこととなりますが、どうぞお気軽に、私にもご命じください」
よろしくお願いします、とメイベルは答える。
「……また湯浴みをして、着替えをしたいから、カシムとミンカを呼んでください。それと……食事の用意を」
メイベルの要求に、かしこまりました、と侍従長は答えてすぐに行動に移す。
年配の見た目に反することなく、彼もかなり有能な人材らしい。
ようやくエリアス王から離れてメイベルが一人の時間を過ごせるようになった頃。
宰相の執務室にノルドグレーンの重鎮たちも集まっていた。
「まったく……。ようやく王はメイベル様からお離れになって政務に臨んでくださるようになったか……不吉な思いしかなかったが、陛下のご執心ぶりは予想以上だな」
将軍ホーカンが、眉間に深い皺を刻んでため息を吐く。宰相代理のブレンダも、眉間に皺を寄せて黙り込んでいた。
「ルバルノンの町で王からの突然の命令を聞かされた時にはそんな馬鹿な、と驚いたが……ウルリク、おまえは最初からこのことを知っていたのか?」
同じく部屋に集まった王の腹心ウルリクに、将軍が尋ねる。
いえ、とウルリクは静かに首を振った。
将軍ホーカンも、エリアス王がメイベルを連れ去るつもりだなんてこと、微塵も知らなかった。
ヴァローナ軍が到着するまでの間、ヴァローナ人たちを保護するだけ――そう思っていたのに。
ルバルノンの町で、ヴァローナ側に気付かれることなく急ぎノルドグレーン本隊と合流せよ、ノルドグレーンに帰国する、という命令を受け、将軍は首を傾げながらもそれに従った。
そしてドヴラートの町を出発していたエリアス王のいる本隊に追いつき……ヴァローナ王妃と王子を捕らえたまま帰国しようとしていると知って仰天した。
しかもエリアス王は本気でメイベルを自分の妻にしようと考えていることも知り、絶句した。そんなこと、一切聞かされていない。
「メイベル様は、陛下のお考えに賛同しているわけではなさそうです。どう控えめに見ても、陛下に望まれて困っていらっしゃるご様子」
侍従長のオロフが言った。
ヴァローナ人の女官たちも含め彼女たちの反応は注意深く観察していたが、エリアス王に肩入れして見ても、王の一方的な片思いであるのは認めるしかなかった。
ヴァローナ王妃は夫を献身的に支え、ヴァローナ王は妻を溺愛していることでも有名だ。
とても、ヴァローナを捨ててノルドグレーン王に嫁ぐことを望んでいるとは思えない。




