逃亡と追跡 (2)
逃げるエリアス王とそれ追うルスラン王。
うっそうとした林の中、夜闇で視界も最悪の状態であったが、どちらも怯むことなく馬を全力疾走させていた。
ただし、その距離は徐々に縮まっていく。メイベルを乗せている分だけ、エリアス王のほうが不利だ。
追いつける――ルスランはそう確信し、ひたすらエリアス王とメイベルにだけ集中して馬を走らせる。周囲の状況を、顧みることもなかった。
「陛下!」
将軍アンドレイが叫んでも、ルスランの耳には入らない。アンドレイは馬に追い上げさせ、ルスランの馬に何とか追いついて自身の馬で軽く体当たりさせた。
不意打ちを食らい、ルスラン王は体勢を崩しかける。馬も、突然のことに足を止めた。
何を、とルスラン王が抗議するよりも先に、エリアス王の周囲から一斉に兵が飛び出してきた。
「国境警備兵!我が国への侵入者を許すな!例えそれがヴァローナの王であろうとも――ノルドグレーンの法に乗っ取り、不法侵入者を排除せよ!」
エリアス王が兵に向かって命令を飛ばす。
手を伸ばせば届きそうな距離にまで迫ったというのに……わずかな差で、国境を越えられてしまった。
ルスラン王はノルドグレーンの領土内に侵入してしまったらしい。ノルドグレーン側の国境警備兵が、侵入してきたヴァローナ軍を追い返そうとしている。
ギリ、と歯を食いしばりながらも、ルスランは走り去るエリアス王の背中を見送るしかできない……。
「陛下、どうかここは引き上げを――いまの我が軍は、ノルドグレーンに侵略できる状況ではございません」
ノルドグレーンの国境警備兵に応戦しながら、将軍アンドレイが訴える。
ヴァローナ軍はすでにチェレンホフの軍隊と戦い、追撃して、かなり消耗している。それにこんなところまで戦線を伸ばす予定もなかった。
いまノルドグレーンに攻め入っても、ろくな補給もできずによろよろになったところを袋叩きにされて終わり……数多くの戦場を経験してきたルスラン王にも、そのことが分からないはずがない。
……分かってはいても、エリアス王に――メイベルに背を向けて軍を反転させることに、ルスランは強い屈辱と敗北感を抱いた。
「一度ヴァローナに引き返し、軍を再編成する。王城に急ぎ知らせ、追加の戦力を届けさせろ」
「ただちに宰相に宛てて手紙を送ります」
戦争に明け暮れてすぐに軍事費を拡大させるルスラン王に宰相はあまり良い顔をしないのだが、今回ばかりは彼も王の命令に従順に応じることだろう。
王妃と王子をさらわれたのだ。全面戦争になろうとも、ノルドグレーンと徹底的に戦う以外に道などあるはずがない。
「ノルドグレーンの暴挙を許してなるものか……!王都まで攻め入ることになろうとも、メイベルとレオニートは必ず取り返す!」
ノルドグレーンの国境警備兵を振りきり、ルスランはヴァローナ側へと引き上げる。
道中で思い浮かぶのは、王城で別れた時のこと……戦へ赴く前に、自分を見送るメイベルの姿だった……。
幼い王子は戦場へ赴く父を見送るという状況を理解できず、ルスランに抱っこされて無邪気に喜んでいる。
赤ん坊特有のぷっくりした頬にキスすれば、くすぐったそうに笑った。
それを見つめるメイベルは、どこか悲しそうな表情だ。
戦へ向かう夫のことを、メイベルはいつも心配そうに見送っている。
「無事に帰ってきてね」
ルスランは心配性の妻を安心させるように笑いかけ、メイベルの頬に手を伸ばした。
「そんな顔をするな。必ず君たちのもとに帰ってくる。僕の勝利を、祈っていてくれ」
メイベルもなんとか笑顔を繕い、背伸びしてルスランに口付ける。
戦に赴く夫に送る、祝福のキス。それを受けて、ルスラン王は城を発った。
列を成して王都を出て行くヴァローナ軍を――ルスランのことを、その姿が完全に見えなくなっても、王子を抱いてメイベルはいつまでも見送っていた。
――メイベル、レオニートを奪われて、いまのルスランにはその光景ばかり思い出されてしまう。
あの二人のもとに帰ることを、自分は当たり前だと思い込んでいた。その当たり前が失われるなんてことを、考えもしなかった……。
ノルドグレーンの国境警備兵が飛び出してきたことで、ルスランが馬を止めるのをメイベルも見ていた。
――国境を越え、ノルドグレーンへと入ってしまった。
メイベルの恐れていたことが、現実になってしまった……。
ルスランを振りきってからもエリアス王はしばらく馬を走らせ、ヴァローナ軍が完全に見えなくなって数分後。
ようやく馬を止めたエリアス王は、メイベルの抵抗など難なく封じ込めて抱きかかえ、改めて馬車へと運んだ。
馬車の中には、ラリサ、ミンカ、そして幼いレオニート……。
「大人しくしていてくれ。貴女が抵抗するなら、私としても彼女たちを利用するしかなくなる」
エリアス王が言った。
彼も、武器を持たぬ女子供を手にかけることには躊躇いがあるようだが、手段を選んでいられなくなったら、という思いは見えた。
口先だけの脅しではないことは、メイベルが一番理解している。
馬車の扉が閉めらると、メイベルは打ちひしがれることしかできなかった。
ミンカは泣き出すのを堪えるのが精いっぱいで、ラリサもかける言葉が見つからずに項垂れている。幼いレオニートだけは状況を理解できず、きょとんとラリサの腕に抱かれて母を見つめていた。
国境を越えてからのほうが、エリアス王は移動を急がせていた。
ノルドグレーン王都への帰還を優先し、こまめにメイベルの様子を確認しにやって来るが、メイベルに触れる様子はない。
国境付近でルスラン王と出くわしたことで、ヴァローナとの戦争のほうが彼の思考を大きく占めているのだろう。
王都へ戻ることを第一とし、メイベルももはやエリアス王の油断や隙を探す余地もなく、ノルドグレーン王城へと到着してしまった――。
「お帰りなさいませ、陛下。ご無事のお戻り、臣下一同心より安堵いたしました」
王城でエリアス王を出迎えたのは、宰相代理を務める年配の女性――ノルドグレーンの宰相は、もとはノルドグレーン王城の女官長だった女性だとメイベルも聞いている。
エリアスの父王の時代から仕えていた女性で、先の宰相が亡くなった後、貴族諸侯の権力闘争を回避するための一時的な人事だったのが、いまも続いているのだとか。
……まだエリアス王と歓談できていた頃に、そんな話を聞かされた。
「陛下にとって重要な御人を連れ帰ると聞き及んではおりましたが……」
宰相代理の女性が、ちらりとメイベルを見る。
すでに彼女も知らせを受け、エリアス王がヴァローナ王妃と王子をさらってきたことは分かっていたのだろう。それでも、改めてメイベルたちを見て複雑な感情の色を発している。
エリアス王は出迎える臣下たちの動揺も一顧だにすることなく、メイベルを連れて行こうとした。
――そんな状況下で、彼女は怯むことなく行動に出た。
駆け込んできたカシムが、メイベルを見つけて一目散にすっ飛んでくる。
「メイベル様!」
メイベルの肩を抱いて片時も彼女を離すまいとするかのようなエリアス王とメイベルの間に割り込み、カシムはメイベルの姿を確認して、涙を浮かべる。
「なんとお労しい……すぐにお着換えを。湯も用意させておりますから、どうぞごちらへ……」
「そのようなこと、私は命じた覚えはない」
自分からメイベルを引き離す者は、誰が相手であろうとエリアス王にとっては敵らしい。
余計な出しゃばりをするなとばかりにエリアス王は険しい声で言ったが、カシムはキッと王を睨み返した。
睨むカシムは、静かだが妙な迫力がある……エリアス王も、睨み返されるとは思わなくてたじろいでいる。
「よろしいですか、陛下」
物分かりの悪い幼子に言い聞かせるかのような口調で、カシムが低い声で言った。
「女の美しさというのは、手間と時間をかけて保たれるものなのです。手入れもされずに放置されれば、どんな女でもボロボロになってしまうもの――着飾ればノルドグレーンはおろか大陸一の美しさを誇るメイベル様にとって、このようなお姿を晒さねばならぬことがどれほど惨めで屈辱的なことか!」
カシムが詰め寄り、エリアス王が後退る。
……たしかに。
エリアス王に捕えられて以来、メイベルの容姿はヴァローナ宮廷にいた時のような手入れが成されず、結構ぼろぼろな状態になってしまったとは思う。そんなことを気にかけている余裕もなかったから、メイベルはまったく気にしていなかったけれど。
いまも、急いで調達してきたドレスを着せられているだけだから、メイベルには不釣り合いの、とても地味な装いで……ルスランだったら、メイベルにこんな姿をさせなかったはずだ。
メイベルを美しく着飾らせることは、夫の義務であり甲斐性の証として率先して女官たちにもやらせていた。
こういうところは、女慣れしてるルスランと、女性の扱いをまったく分かっていないエリアス王で差が出ているのかもしれない。
「例え不敬で王に斬られることになろうとも!私は断固として抗議致します!同じ女として、このような蛮行とても許せません!」
エリアス王が目を泳がせ、宰相代理や将軍たちを見る――男のホーカン将軍やウルリクは気まずそうに目を逸らし、女の宰相代理は救いを求めるようなエリアス王の視線を素知らぬ顔で受け流す。
エリアス王はメイベルのことも何度か見て……観念したように背を丸めた。
「わ、分かった……。君の言う通りだ……長旅でメイベルもすっかり疲れ果ててしまった……。彼女の世話を頼む」
「かしこまりました。では、そちらの方々にも協力して頂きます」
カシムがさり気なく王子を抱くラリサ、ミンカを呼び寄せ、二人もそそくさとカシムのほうへ寄って来る。
仕切るカシムに、エリアス王がおずおずと異議を唱えた――主君は自分のほうなのに、すっかりカシムの迫力におされ、口出しすることに気まずさを感じているようだ。
「彼女たちも必要なのか……?」
「当然です。メイベル様の美しさを引き立てることについては、ヴァローナ女官である彼女たちのほうが私よりもよほど詳しく、キャリアもございますから。それに」
カシムは王の異議をぴしゃりと封じ込める。
「陛下が経費削減のために無用の人員も削減致しましたから、ノルドグレーンは女官がほとんどおりません。王妃様をお世話するにあたって、とても手が足りません」
エリアス王は独身で、彼の母が亡くなった後は、女官たちも長く女主を失っていた。
それで、エリアス王も女官の人員整理をした。いまや、ラリサはおろかミンカですら女官長になれそうなレベルで人員がいないらしい。
メイベルをかつてのノルドグレーン王妃の部屋へ案内する道すがら、カシムがそう説明してくれた。
「ありがとう、カシム。あなたがいてくれて、とても心強い」
エリアス王よりもメイベルに寄るカシムの存在は、本当にありがたい。カシムは微笑み、ラリサとミンカも彼女に感謝していた。




