間者たち (2)
対ダラジャドとの作戦をルスランが語ったその夜。メイベルはいつものように彼の寝室を訪ね、自分に近寄る夫に短剣を振り下ろした。
夫の言動が原因で腹が立った時、メイベルはしばしば、閨の場でこういったことをしていた。
ルスランももうメイベルのこの反応には慣れっこで、特に驚くこともなく自分を狙う妻の腕をつかんで押さえ込み、すまなかった、と理由も聞かずに謝罪した。
……怒られる心当たりしかないなら、最初からやらないでほしい。
「君に頼るかどうかは、エリアス王の人となりを見てから決めるつもりだったんだ。最初から。硬派で誠実な王と聞いてはいたが、どうしようもないクソ野郎だったら君を巻き込んでる場合じゃないからな」
「ちっともフォローになってない」
ルスランに腕をひねり上げられ、短剣はメイベルの手から滑り落ちていく。そのままベッドの上で自分を抱きしめる夫にそっぽを向き、メイベルはわざとらしく唇を尖らせて拗ねてみせた。
「間者を選ぶなら、君ほどの適任者はいない。君の目を頼るのが確実であり一番信頼できる――もちろん、エリアス王の非難した通り、僕はとんでもなく危険な場所に君を送り込もうとしている。今回だけは、君が本気で拒否するならそれも仕方ない」
そっぽを向くメイベルを背後から抱きしめるルスランは、ご機嫌取りでもするように妻の頬に口付ける。メイベルは、すぐ近くにある夫の顔を恨みがましく睨んだ。
殊勝なことを言ってるように聞こえるが、メイベルが拒否するはずがないとルスランは思っているに違いない。いままでルスランが王として下した決定に、メイベルが逆らったことなんてなかった――今回も、メイベルが折れると思ってる。
悔しいけど、その通りだ。
戦が好きで、いつも戦場に行きたがる夫を、メイベルはいつも心配している。無事に帰ってくることを祈るしかできないのを歯がゆく思っていて。
そんな夫の助けになるなら、メイベルが断るはずがない。
「私よりもずっと、ファルコのほうが危険……」
ダラジャド軍に捕まればいいだけのメイベルと違い、ダラジャド軍に仲間入りしなければならないファルコのほうが、よっぽどリスクも高く、困難な役目だ。メイベルの護衛役としてルスランに頼まれ、ファルコは快諾したそうだが……。
「……君の物分かりの良さに、さすがの僕も胸が痛むな。ダラジャドの男たちに、捕虜となった女性に良識を持って接してくれるような紳士であることを期待できない。エリアス王が僕を軽蔑し、非難してきたが、あれは当然の反応なんだぞ」
「それについては考えたくもないぐらい怖いけど」
もしファルコとうまく合流できなかったら、女のメイベルがどんな目に遭うか。それを考えるのはもちろん恐ろしい。
なんだったらメイベルの想像を飛び越えて、そのまま殺されてしまう可能性だってあるのだ。でも、ルスランがメイベルの能力に頼りたいと言ってくれるなら……。
「精いっぱい頑張る」
メイベルが言うと、自分を抱く腕が力強くなる。
そのまま押し倒してくる夫に逆らうことなく、ベッドに横たわってメイベルも体勢を変え、自分に覆いかぶさるルスランの首に腕を回した。
ノルドグレーン王エリアスは最後まで良い感情――良い顔をしなかったが、ルスラン王の提案した通りに作戦は進められていき、メイベルはこうしてダラジャド軍に潜り込むこととなった。
ただ……メイベルが乗っている馬車を襲撃するのは、先にダラジャド軍に潜入したファルコのはずで。
さり気なくファルコの保護下に入ってダラジャド王のいる本隊に送られるはずが、まったく別の部隊に捕らえられてしまった。作戦は、すでに流れが変わってしまっている……。
「おい」
頑丈な護送馬車の扉が開き、若い軍人のバルシューンが呼びかけてくる。
ダラジャド王のいる本隊へ向かって馬車に揺られること二日半。
バルシューンは最初の印象以上に紳士的で男で、こまめにメイベルに休憩を取らせてくれて、他の兵士たちが邪な感情を抱いて自分たちに近づくことを決して許さなかった。
おかげでメイベルも、考えていたような恐ろしい目に遭うことなく護送されていき、ダラジャド王と対面することとなった。
「王のところに行くぞ。ついて来い」
略奪を主な収入源としているダラジャド軍は、兵士たちが各地へ狩りに赴き、手に入れた獲物はすべて一度ダラジャド王に差し出すことになっているらしい。
そこからダラジャド王が成果に見合った報酬を兵士たちに分配する――というのが、ダラジャド流らしい。要するにダラジャドの王は、財産の管理者なのだ。
兵士が集めてきたもので自分も懐を潤すわけだが、その前に兵士にも気前よく分け与えて寛大さを示すことで、兵士たちも喜んで集めてきたものを王に差し出す。
このバランスが崩れ、王への人望がなくなってしまうと、途端にダラジャド軍は崩壊する。
これがハオ人たちのやり方で、歴代の王たちもこの結束方法の脆さ、危うさは十分理解した上で強く気前のいい主として振る舞うことを心がけてきた。
――ルスランも、その穴を突いてダラジャド軍の結束を崩壊させる気である。
必ず小さな不平不満はくすぶっているもので、それをわざと大きくして、煙のないところに火を点けてやれと……。
「おう、バルシューン。なかなかの成果じゃねえか」
部下の兵士たちに略奪してきた金銀財宝を持たせ、自分はメイベルとカシムを連れて大きな天幕に入ってきたバルシューンに、ダラジャド王は上機嫌で声をかけた。
バルシューンは膝をつき、王に向かって頭を下げる。
ダラジャド王は自分の前に並べられた宝石をざっと見た後、すぐにメイベルに視線を移した。
「たしかに見事な銀髪だ。ヴァローナ王の妻を手に入れたとすでに報告は受けていたが、本物っぽいな」
「道中で少し喋ってみたが、ハルモニア女王メイベルで間違いない」
バルシューンもメイベルを見る。ダラジャド軍では、王が相手であっても敬語は必要ないらしい。それとも、バルシューンという男の地位がそれだけ上なのか。
「ハルモニア、ヴァローナからがっぽり身代金がもらえるな。ヴァローナ王は嫁さんにゾッコンだって話だからな。いくらでも出してくる」
「そいつはどうかな。ルスラン王って言えば、ダラジャド兵士でもすくみあがる勇猛な軍人王だ。腕に覚えがある男が、大人しく金を払うかどうか――実力行使で取り返すほうが手っ取り早いと考えるかもな」
ダラジャド王は不精な感じに蓄えた髭を撫で、ニヤニヤした顔でメイベルを見ながら言った。彼自身は、ルスランの襲撃を恐れてはいないようだ。
バルシューンの感情の色が、少し揺れるのが見えた。
ここまでの旅で彼と接していて分かったのだが、バルシューンという男は、メイベルが不遇な目に遭うことを望んではいないらしい。
いまのもたぶん……多額の身代金を手に入れる代わりに、メイベルのことはさっさと国に帰してやろうと思ってさり気なく主張してくれたのだろう。
粗野な言動に反してとても紳士的な男だ……とメイベルは心から彼のことを感心していたのだが、そのことを話すとカシムが何やら意味深な感情を発しながら愛想笑いを浮かべるので、密かに気になっていた。
「身代金を考えるよりも、その女も褒美にしちまったほうがいいかもしれねえ――おっと、ちょっと待ってな、バルシューン」
何か言いたそうに口を開きかけたバルシューンを手を挙げて制止し、ダラジャド王は天幕の出入り口に視線を向ける。
「もう一人、手柄を報告に来たようだ。入れ」
入って来た男はバルシューンよりも若く、黒い髪に、右の目には眼帯をしていて……美しい顔立ちの……ファルコだ。
金色の髪を染め、左右で異なる瞳も隠している。
ファルコも金銀宝石を抱える兵士をゾロゾロと連れて天幕に入って来、片隅に立つメイベルをちらりと見たが、何の感情も示さずにすぐにダラジャド王に向き合って、彼の前に膝をついていた。
小さい頃から咄嗟のことにも反応しないよう訓練されてきたおかげで、ファルコの登場にもまったく表情の変わることのない自分のくせに感謝しつつ、メイベルも彼を見てしまわないように努めた。
ここでは、メイベルとファルコは初対面の知らない人間同士だ。
「言われた通りの成果は挙げてきたぜ。これで、あんたの期待には十分応えたと思うがね」
「おう、おう……やるじゃねえか。大口叩くだけのことはある」
ダラジャド王は並べられた成果を見て、さらに上機嫌となって豪快に笑う。
ファルコも、ダラジャド軍への潜入には成功していたらしい。まだダラジャド王の信頼を勝ち得るための行動途中で……これで、ようやく王の歓心を得た、というところか。
「いいだろう。腹積もりがどうであれ、有能なやつは大歓迎だ。よし、ファルコ。ワシも約束は守ろう。まずはおまえに、褒美を取らせねばな」
座ったままのダラジャド王は自分の膝を叩き、ファルコに与えるべき褒美に手を伸ばそうとした――ダラジャド王は、恐らく並べられた宝石の中からファルコに分け与えようとしたのだろう。
だが王が言うよりも先に、ファルコがメイベルを見て言った。
「ならその女を寄越しな。いまここにある中で一番の高値はそいつだろう。俺を評価してくれるっていうなら、一番いいものを寄越すのが道理だぜ」
ファルコの指名に、ダラジャド王はわずかに虚を突かれたようだが、悪感情は抱いていない。またニヤニヤ笑いをして、自分の髭を撫でている。
「その女は、ヴァローナ王の女だ。くれてやってもいいが……そうなると、ヴァローナ王からおまえは命を狙われることになるぞ」
「そりゃいい。それを聞いたら、ますます欲しくなった」
ファルコも不敵に笑う。
「この女を俺のものにすれば、手柄まで向こうから俺に寄ってくるんだろ?最高だね」
大笑いするダラジャド王の声が、天幕中に響き渡る。ダラジャド王はファルコの不遜っぷりがたいそう気に入ったようだ。
おかげで、メイベルも無事にファルコのものになれそう……。
「待てよ――王、俺もこいつを褒美に求める」
バルシューンが口を挟み、急いで王に向かって言った。
「こいつを手に入れてきたのは俺だ。なら、俺のほうに優先権はあるはずだぜ」
「……こういうのは早いもの勝ちじゃねえの?」
異議を唱えるバルシューンを、ファルコは冷ややかに見る。とんだ横やりに、ファルコも不快そうだ。
ダラジャド王は、部下同士が火花を散らし合い、対立する様子を面白がっている。こういった揉め事は彼の好むところのようだ。
「血の気が多いのは嫌いじゃねえ。こうなった時の解決方法は、昔から決まってる」
ダラジャド王が、また自分の膝を叩く。
「バルシューン、ファルコ。おまえら二人で決闘しろ。勝ったほうにこの女をくれてやる」