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過ぎた日は戻ることなく (1)


「エリザヴェータたちを、バーベリの城に?」


その夜、自分の部屋を訪ねてきたルスランに、メイベルは宰相から頼まれたことを話した。


王妃は体調が優れず、夕食も取らずに伏せっていると女官が知らせれば、メイベルの予想した通りルスランはすぐに自分を見舞いに来てくれて。

彼の親切心を思いっきり利用したことを申し訳なく感じつつも、伏せていたい気分は本当である。


「ルスランがハンス様を可愛がっていることで、色々といらないお喋りをしている人たちがいることは気付いていると思うのだけど……私も、少ししんどくなってきた」


ルスランがハンスを寵愛することで、王妃メイベルに否定的な感情を抱く連中が増長し、調子に乗り始めていることは当然ルスランも気付いていた。


気付いておきながらメイベルの寛大さに甘えてきた自覚のあるルスランは、妻にはっきりと告げられ、決まり悪く黙ることしかできない。

長椅子で横になる自分のそばにひざまずいているルスランの頬に、メイベルはそっと手を伸ばした。


「……ルスランにそんな顔をさせちゃうのも嫌。ハンス様と一緒にいるルスランはとても楽しそうで、二人の時間を取り上げるのも嫌なの。でも、ハンス様と一緒に過ごすとなると、母親のエリザヴェータ様ともどうしても近くなってしまうでしょう?ルスランが私に精一杯配慮してくれてるのは分かってるんだけど……」


いまさら、ルスランとエリザヴェータの仲を邪推するつもりはない。そのことをちゃんと伝えて、メイベルはルスランに懇願する。


「私の目の届かないところで、二人に会ってほしい。私にとっては、見えないようにしてもらうのが一番有り難い」


メイベルの能力のことを知っているルスランは、その言葉を他の者とは違う意味合いで受け取った。

分かった、と笑顔で頷く。


「君の気遣いに感謝して、君のすすめに従うことにしよう。この城はエリザヴェータにとってもあまり楽しい思い出のある場所ではないだろうから、そちらのほうが彼女たちも落ち着く。反対はしないだろう」


ありがとう、とメイベルが笑顔で言えば、ルスランは横になっているメイベルの額にキスした。




こうして特に揉めることもなく、エリザヴェータ、ハンス母子はバーベリの城に移り住み、ルスランは時々そちらに遊びに行くようになった。


宰相に頼まれての提案だったが、エリザヴェータと顔を合わせることがなくなると、メイベルもずいぶん気楽になった――ルスランを説得するための言葉だったが、見えてしまうメイベルにとっては、見えないようにしてもらうということは予想以上に重要だったみたいだ。


「……お城を与えるだなんて、陛下もちょっとやり過ぎじゃないかしら」


若い女官たちは、相変わらずルスランの対応についてヒソヒソ言い合っている。


ルスランがなぜエリザヴェータたちをバーベリの城に移り住まわせたのか、本当の理由については公にされていない。とても公に話せることではないし。

それについて、ルスランがヒソヒソ言われ、誤解されてしまう点については彼もメイベルも我慢だ。それについては双方納得している。


結局、どんな対応をしても人々は様々な憶測をするのだから。


「いよいよエリザヴェータ様を愛妾になさるつもりだって、そんな噂まで出ちゃってるわよ」

「ハンス様の本当の父親は誰か……だなんて。とんでもないこと言い出す人までいるのに。陛下がそれを増長させるような振る舞いだわ」


若い女官たちがヒソヒソ喋っているのを、オリガが咳払いして黙らせる。

三人娘はメイベルに聞こえてしまわないよう密かにやっていたつもりだったのだろうが、オリガに睨まれ、慌てて姿勢を正した。


メイベルはくすりと笑う。


「心配してくれてありがとう。でも、私はこれで良かったと思ってる」


そう言っても、若い女官たちは不安そうな表情をし、オリガが控えめながらにメイベルに意見した。


「……陛下へのご不満を煽るわけではありませんが、彼女たちの言い分にも一理あります」


オリガも、本当はずっと不満を溜め込んでいたのだろう。エリザヴェータ、ハンス母子が来てから、メイベルに無用の苦労が増えていることを。

一方的にメイベルが耐えるばかりで。メイベルは王の子を宿し、いまは誰よりもこの城で大切にされるべき存在、時期であるというのに……。


「いくら亡き兄君の奥方とその御子息とは言え、彼女たちは王族ではなく、エリザヴェータ様に至ってはとうに他の者に嫁いだ身。生活が成り立たぬというのならまだしも、住まいとして城を与えるというのは過ぎた援助です。そのせいで、さらに余計な憶測を呼び込んでしまっている」


オリガが言葉を切り、一瞬黙った。若い女官たちは、珍しく饒舌なオリガを目を丸くして見て……彼女が黙り込んだので、どうしたのかと互いに顔を見合わせていた。


オリガが小さく唸り、申し訳ありません、と呟く。


「一女官として、出過ぎたことを申しました。陛下への不満ではないと言っておきながら。みな、王妃様にどれだけ甘えるつもりなのかと……つい」

「オリガが私のことを考えてくれてるのは、ちゃんと伝わってる」


女官として冷徹なほど真面目に振る舞いながらも、王妃を取り巻く雑音が日々大きくなっていくことにオリガも腹を立てているのは見えていた。

最初はぎこちない距離があって、壁があったのに。オリガとも、すっかり打ち解けたものだ。


「でも本当に、私はホッとしてるの。もちろん、ルスランがハンス様を可愛がるとなると嫌でもエリザヴェータ様に近づくことになるから、それについてはモヤモヤしてる。だけど……」


メイベルは、大きくため息を吐く。


「直接顔を合わせることもなくなって、気持ちは楽になった。私もこれ以上、あの人と会いたくない。どう対応するか、考えなくちゃならないもの」


顔を合わせれば、エリザヴェータはメイベルに敵愾心むき出しの態度を取ってくる。

そうなると、メイベルは常に王妃として、ルスランの妻としての対応を考えなくてはならないわけで。


実態は異なっているが、ルスランの愛人としょっちゅう顔を合わせることになるのはこれが初めて――ルスランのいままでの浮気は、メイベルに隠れての逢瀬がほとんど。これからも絶対にそうしてくれと、今回のことで思い知った……。


「これで、私もお腹の子のことだけを考えて過ごせる」


横になるように長椅子に腰かけていたメイベルは、自分のお腹にそっと触れる。最近、ここは膨らみ始めて……ようやく、つわりや妊婦特有の不快さが減って来たところであった。


普通ならとうにつわりなど終わっている時期だったのに、メイベルは最近までずっと気分が優れなくて。

エリザヴェータたちのことが、思っていた以上に心の負担となっていたのだろうな、と感じていた。


そうこぼせば、オリガがハッとなり、頭を下げる。


「……私が浅慮でございました。王妃様のご負担を増やすような真似を……どうかお許しください」


短く謝罪した後は、オリガはもうエリザヴェータたちのことは話さなかった。ルスランのことも直接は話さなくなって、意図的に話題を逸らしているようだった。

若い女官たちもオリガにならい、メイベルにとって楽しいこと、良いことだけが耳に入るように努めて。


それでも外野の雑音が消えることのない日々ではあったが、メイベルも聞こえないふりに慣れてきた頃。

ルスランが、ハンスを連れて遠出をしたいとメイベルに話に来た。




「バーベリよりさらに南にある狩場に、ハンスを連れて行ってやりたい。二、三日泊まり込むことになるが、留守を頼まれてくれるか」

「分かった。せっかくだから楽しんできて」


ようやく春が近づいてきて、狩りを楽しむ季節にもなってきた。

冬の間、ルスランはほとんど城に籠りきりで、活発なことが大好きな彼にしては我慢の日々だった。


メイベルとしては、心からの笑顔で彼を見送ったのだが……。


「また余計な憶測が飛び交うことになるじゃん」


飼い猫を連れてメイベルの部屋に遊びに来たファルコが、部屋の長椅子で寛ぎながら言った。

メイベルはファルコが持ってきた猫用のおもちゃで、猫と遊ぶ。


「実際は何もなくてもさ。王妃を城に残して、別の女の住まいに泊まり込む。誤解してくれって言ってるようなもんだろ」

「ファルコは一緒に行かないの?」


泊まり込みの狩りということで、陸軍大将アンドレイ・カルガノフを始め、結構な規模でルスランは遊びに行く予定だ。

銃と馬が得意なファルコなら、狩りも好んで得意そうなのに。


「ただの狩りをするなら同行させてもらうけど、今回はあの子どもとの交流がメインだろ。なら、外国人の俺は無粋なよそ者でしかないよ」


ルスランが自分の身内と交流するとなれば、メイベル以上にファルコは蚊帳の外状態。行っても楽しめないという言い分はよく理解できた。


「じゃあ、ファルコは私とガブリイル様と一緒にお留守番だね。春になったら、私たちもルスランにどこか連れて行ってもらおうかな」


次の機会には自分たちを構うよう、ルスランにねだっておくべきかもしれない。メイベルが言えば、ファルコが意味深に笑った。


「いっそ、ルスラン抜きで俺たちだけで遊びに行こうぜ。宰相にも悪だくみを持ち掛けておくよ」

「たまにはそれもいいかも」


時にはルスランに留守番役をやらせて、メイベルの帰りを待たせてみても良いかもしれない。宰相ガブリイルの仕事も、ルスランに全部押し付けてしまって。


メイベルが笑って頷くと、女官たちも笑顔で同意した。

――ルスランのこの予定が、貴族たちにいらぬ計画を立てさせたことにも気付かぬまま。




「王が王妃様を置いて、あの愛人と過ごすそうだ」

「これは、ついにあの女が王妃様に勝ったということではないか?王妃よりもあの愛人を寵愛することを公言したようなものでは?」

「王の寵愛が他の女に移った――」


浅はかな貴族たちは口々に言い合い、自分たちで勝手な邪推をして、根拠のない憶測を広げていく。


「王妃を排除しよう。いまならば、王も気にも留めまい――女ならば、代わりがいるのだから」


ルスラン王にとってメイベルとの婚姻がどれほど重要なものであるかを理解しない彼らは、いよいよ自らの首を絞め始めようとしていた。

その計画がどれほど愚かしいものか――少しでも理解している者は、とっくに彼らから離反していた。


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